2019年1月26日土曜日

「川柳スパイラル」大阪句会 (付)短句の四三について

1月19日、大阪・天満橋のスピン・オフで「川柳スパイラル」大阪句会が開催された。
スピン・オフは歌人の岡野大嗣が運営しているスペースで、歌会・句会・落語のイベントなどに利用されている。20数名が入れる快適な空間である。
この日は24名の参加者があったが、川柳人だけでなく、川柳に関心のある他ジャンルの表現者も集まった。川柳人が半分くらいで、川柳と連句を兼ねている者が3名、俳人が3名、歌人が2名のほか詩人や短歌と川柳を兼ねている者などであった。けれども、こういう分け方そのものがあまり意味のないことだと、いま書きながら思った。ジャンルはともかく、川柳に関心のある人々が川柳の読みと実作のために集まったということだ。
最初にゲストの瀬戸夏子に話を聞いたが、瀬戸の「現代詩と川柳が近い」という発言にはびっくりした。この発言については、八上桐子も自分のブログで触れている。
従来、川柳は「私性の表現」という点で短歌に近いと言われてきた。川柳と俳句は同じ五七五定型なのでその区別がやかましいが、短歌と川柳は形式が違うので安心して内容の共通性を言うことができる。詩性を追求するなら川柳ではなくて俳句だろうという意見も飛び交っている。かつて柳俳異同論の際に、川柳が俳句に近づいているという言説に対して、そうではなくて俳句が川柳に近づいているので、川柳は詩に近づくのだという反論があった。その場合、「詩」こそが上位のジャンルであるというヒエラルキー意識(あるいは「詩」に対するコンプレックス)がなかったとは言えない。瀬戸の発言はそういうヒエラルキー意識とは無縁だろうが、他ジャンルの読者にとって川柳が一行の詩として読まれることがようやく可能になってきたのだ。こういう議論はめんどうくさいね。これまでの経緯があるので、ついそんなことを思ってしまう。
さて、会場にはウェブ川柳に投句している人も何人か参加していたので、森山文切に話を聞いてみた。森山の運営している「毎週web句会」では毎回約50名の投句があり、そのうち約30名は短歌も作っている人だそうだ。森山は「川柳にはプレーヤーがいる」「川柳は簡単にプレーヤーになれる」と語り、川柳に欠けているのはセールスだという。
川柳人は従来、「流通」ということにあまり熱心ではなかったが、川柳句集の数が増えてきた現在、流通の手立てを開拓することも必要となってきている。サラリーマン川柳などを除けば、川柳のマーケットはそれほど大きくはないので、個々の川柳人の地味な努力が必要だろう。クリエーター、エディター、プロデューサー、キューレーターなどの役割分担ができれば、安心して作品を作ることに専念できるのである。
川柳の句会にはいろいろなやり方があるが、当日は互選。一人一句出句で雑詠と兼題「滲む」が各24句ずつ。それぞれ4句ずつ選び、高得点順に句の読みを語り合った。無点の作品については作者名を明らかにしない。短歌の歌会にはあまり行ったことがないが、点は入れても高得点順に取り上げるというのではなく、無点の作品も全部作者名を開いて語り合うようだ。
川柳の句会で参加人数が多くなれば一句について話し合う時間は短くなる。明治のはじめごろは川柳でも互選句会が多かったようだが、時間がかかりすぎるので任意選者制に変った。互選から任意選者制への移行については尾藤三柳『選者考』(新葉館)にくわしい記述がある。
今回は時間の制限もあり、それぞれの句について十分話し合うことができなかった。句会は生き物であり、そのときのメンバーや条件にも左右される。完璧な句会というものはありえず、参加者のそれぞれが何らかの収穫を得て帰ってもらうことができれば満足するべきだろう。句の読みについて、リアルに読むのか言葉から読むのか、スタンスの違いが感じられ、句会に出す作品についても、動かない完成作品として出すのか、出席者の反応を見るための実験として出すのかで、若干の認識の違いがあった。
当日の作品は「川柳スパイラル」の掲示板に掲載してあるのでご覧いただきたいが、最高点の二句だけ紹介しておく。

雑詠   ホチキスが知らない住所から届く    鳥居大嗣
「滲む」 にじみながら海は七つと決められる   兵頭全郎

(付)短句の四三について

短句の四三問題というのは、連句の短句(七七句)における四三調の結句を良くないものとして禁じることで、日本語の基本的リズムが四拍子であるため、三音で終わるのが不安定であることを根拠とする。芭蕉連句において短句に四三調が一句も見られないことも有力な理由とされる。
日本語の韻律については別宮貞徳『日本語のリズム』(講談社現代新書)、菅谷規矩雄『詩的リズム』(大和書房)、坂野信彦『七五調の謎をとく』(大修館書店)、松林尚志『日本の韻律』(花神社)などの研究があり、すでに語り尽くされている。
短歌においては斎藤茂吉が「短歌における四三調の結句」(岩波文庫『斎藤茂吉歌論集』)という歌論を書いて、近代短歌では四三調の使用は何ら問題がないことを論じて以来、四三の禁をとなえるものはいない。
四三がいけないというのは連句界だけであり、最近は一部の川柳人が連句の知識を教条的に仕入れて十四字(七七句)における四三の禁を唱えている。
現代日本語において四三のリズムを一律に禁じるのは無理があり、連句の短句でも四三のリズムは可能なら避ければよいが、無理に三四などのリズムに直すのは逆に不自然である。たとえば不安定な心情を表現するには四三の方がぴったりする場合もある。芭蕉連句のリズムをそのまま現代連句に当てはめるのは無理であり、ましてや現代川柳のルールとすることには疑問がある。
自由律俳句においても山頭火の七七句などには四三調が見られる(「うしろすがたのしぐれてゆくか」など)。「一句一律」の自由律で四三がだめだというのは無茶な話である。
連句における短句の韻律についてはもっと丁寧な議論が必要だが、ネットなどで七七句が発信されるようになってきたので、取り急ぎ私見を書きとめてみた。

0 件のコメント:

コメントを投稿