今年もあとわずか。例年、印象に残った川柳作品を取り上げて一年を振り返ることにしている。いろいろな出来事があり、おびただしい作品が書かれたことと思うが、川柳の世界全体を見渡すものではなく、極私的なものであることをお断りしておく。
いけにえにフリルがあって恥ずかしい 暮田真名 (「川柳スパイラル」2号)
暮田真名は今年川柳のフィールドに登場した若い作者である。「学生短歌」「学生俳句」に比べて「学生川柳人」というものはあまり存在しないが、暮田は東京の大学生。私は掲出句を読んで驚いたという読者を何人か知っている。
彼女は「川柳スパイラル」だけではなく、ネットプリント「当たり」(暮田の川柳と大村咲希の短歌を掲載する二人誌)でも川柳を発表。「恐ろしくないかヒトデを縦にして」「見晴らしが良くて余罪が増えてゆく」「万力を抱いて眠った七日間」(「当たりvol.5」)「どうしてもエレベーターが顔に出る」「職業柄生き返ってもいいですか」(「当たりvol.6」)などの作品を書いている。
暮田は評論も書いていて、「川柳スパイラル」4号に「吉田奈津論」を発表。暮田の出発点は短歌である。吉田奈津は学生短歌で注目すべき歌人の一人。
ブリ振って投げて走ってOh,yes!Amanohashidate!転がり落ちる 吉田奈津
夢の草原ではタイのみなさんと踊ってちょっと気が遠くなる
従来、短歌的感性の表現者が川柳に入ってくるときに「私性」の安易な持ち込み傾向が見られたが、暮田の作品はそういうものとは違う。来年は活動の場がさらに広がることと思うが、「川柳」の垢に染まらず清新な作品を書き続けてほしいものだ。
そうか川もしずかな獣だったのか 八上桐子(句集『hibi』)
八上桐子の第一句集『hibi』(港の人)が今年の一月に発行され話題になった。
句集は書店にも並べられ、初版はすでに完売して手に入らないというから、川柳句集の流通の仕方としては豪勢な話である。
従来の川柳句集は作品を載せさえすればよいというものが多く、一冊の本として簡素なものが大部分だった。八上は装丁やタイポグラフィにもこだわりがあり、「美しい句集」に仕上がっている。本人は内容より先に装丁を褒められることに不満かもしれないが、これは川柳句集として画期的なことなのだ。
この句集を手にとった人は、作品の静謐なポエジーに惹かれてゆくだろう。従来の川柳は「思いを吐く」というような「私性」の強いものが多く、強烈なアクを存在意義としている傾向があった。八上の川柳はそういうものとは異なる。
けれども八上も川柳人である以上、強い「個」を内に秘めているだろう。それが作品の背後にちらちらと顔をのぞかせる。掲出句の「しずかな獣」という表現は的確だと思う。
壁の染みあるいは逆立ちの蜥蜴 芳賀博子(句集『髷を切る』)
芳賀博子の第二句集『髷を切る』(青磁社)から。
第一句集『移動遊園地』から15年ぶりの句集だという。
芳賀は時実新子に師事して川柳をはじめた。現在、俳誌「船団」に「今日の川柳」を連載。ホームページ「芳賀博子の川柳模様」のうち「はがろぐ」でも川柳作品を紹介するなど、現代川柳の発信につとめている。
句集のタイトル『髷を切る』は一歩先へ踏み出そうという意志表示と受け取れる。それがどの句に端的にあらわれているだろうと考えたときに、私は掲出句を選んでみた。
この句は芳賀の書き方の中では新しいのではないか。「思い」とか「私性」とかいうものとは無縁で、そこには「壁の染み」があるだけである。それが「逆立ちの蜥蜴」に変容するのだ。
なにもない部屋に卵を置いてくる 樋口由紀子(句集『めるくまーる』)
こちらは樋口由紀子の19年ぶりの第三句集。
句集を出すにはエネルギーと決意が必要となる。
句集の「あとがき」に「『めるくまーる』は【作樋口由紀子・演出野間幸恵】で出来上がったものです」と書いてある。装丁はともかく、選句と句の配列についてどの程度、野間の意志が働いているのだろうか。
句集の内容については「週刊川柳時評」の12月14日ですでに紹介している。
じんべい鮫泳ぐ半分はけむり 普川素床(川柳作家ベストコレクション『普川素床』)
新葉館から川柳作家シリーズがたくさん出ているが、その中の一冊として普川素床の句集を選んだ。
普川の川柳歴は長い。「川柳公論」で活躍したほか、「連衆」や「ぶるうまりん」などの俳誌・短詩型文学誌も発表の舞台としている。この句集でも「川柳の部」「短詩型作品の部」「俳句の部」の三章に分かれていて、川柳が短詩との交流が深かった時代があったことを改めて思い出させてくれる。
「楽しみは意味から音へパンの耳」「短詩が一本のマッチだった頃」のように「川柳」「短詩」そのものをテーマにした句もある。「AはAならず煮凝りの中から声」「梅雨の蝶は感覚の束だ」など、作風は多彩である。
沿線のところどころにある気絶 我妻俊樹(『眩しすぎる星を減らしてくれ』)
我妻俊樹は歌人として知られていて、たとえば「率」10号では我妻の誌上歌集『足の踏み場、象の墓場』が特集されている。「歌葉」新人賞からは時が流れたが、たとえば平岡直子の「日々のクオリア」(2018年12月26日)でも我妻の「水の泡たち」という連作から次の短歌が紹介されている。
「先生、吉田君が風船です」椅子の背中にむすばれている
今年の5月の「川柳スパイラル」東京句会では我妻をゲストに瀬戸夏子と私で鼎談を実施した。それに合わせて、我妻には川柳作品集をまとめてもらい、「眩しすぎる星を減らしてくれ」という冊子を当日の参加者に配布した。掲出句はその中の一句。他に「くす玉のあるところまで引き返す」「弟と別れて苔の中華街」「おにいさん絶滅前に光ろうか」など、「歌人が書いた川柳」というのではなく、正真正銘の川柳になっている。「短歌も引き返すし、俳句も引き返すけれど、川柳は引き返さないで通り抜ける」という我妻の発言も印象的である。
迎えに行くよ梨よりあたたかい身体 服部真里子(「川柳スープレックス」2月1日)
服部真里子の第二歌集『遠くの敵や硝子を』(書肆侃侃房)が上梓されたが、服部も現代川柳に関心をもつ歌人のひとりだ。掲出句は「川柳スープレックス」に掲載されたものだが、川柳作品としての完成度は高い。
掲出句は「レモンと可能性」というタイトルの8句から。身体性の表現は短歌でも川柳でも見られるが、「梨よりあたたかい身体」という表現は魅力的だ。
「蝶よりもペーパードライバーだった」「個人的水鳥を個人的に呼ぶ」「驚いて君のレモンが灰になる」など。
「川柳スープレックス」は掲載された作品について後日メンバーの誰かが句評を掲載するのが通例で、服部の作品に対して柳本々々は「レモンの可能性ではなく、レモンと可能性。ここにちゅういをしてみたいとおもう」と述べている。
湯葉すくう「ほら概念は襲うだろ」 清水かおり (「川柳スパイラル」2号)
「湯葉をすくう」という日常性と「概念は襲う」という抽象的思考が一句のなかで結びついている。人は衣食住の日常生活だけで生きているわけではない。存在の意味を問い、心の深部のざわめきに耳を傾けながら生活とのバランスをとっているのだ。「概念」がやってくる。それも突然に。「概念が浮かぶ」のではなく、「概念は襲う」のだ。この一句を川柳として成立させているものは、「 」の使用という技巧だろう。
寒くない?プレパラートは革命残渣 (『川柳サイドSpiral Wave』3号)
清水にはこんな句もある。今どき「革命」などという言葉を使う川柳人はいないが、清水はあえて使っている。「残渣(ざんさ)」は濾過したあとの残りかす。
川柳がポエジカルなサタイアだとすれば、清水かおりはポエジーとサタイア(諷刺)をあわせもつ少数の川柳人である。
では、よいお年をお迎えください。
来年もよろしくお願いします。
0 件のコメント:
コメントを投稿