最近読んだネットプリントでは「当たり vol.3」がおもしろかった。
大村咲希の短歌と暮田真名の川柳が掲載されている。ここでは暮田真名の作品を紹介する。
コップの水にひそむ交番 暮田真名
毟っても毟らなくても同じだよ
どこまでも続くつがいの隊商は
七七定型と五七五定型の両方で書かれている。
暮田真名といえば「川柳スパイラル」2号の次の作品が好評だ。
いけにえにフリルがあって恥ずかしい 暮田真名
私はこの句について同誌で次のように書いている。
〈 「いけにえ」というのだから危機的な状況にあるはずだが、そんな時にも女の子は羞恥心を失わないのだ。この句は深刻な状況というより、コミックの一場面として軽くとらえるのが正解かもしれない。恥ずかしがっているのが、いけにえにされる方ではなく、いけにえにする方だと読めば無気味さが出てくる。〉
いま考えてみると、恥ずかしがっているのは生贄を見物している群衆かもしれない。私はかつて「処刑場みんなにこにこしているね」という句を作ったことがあって、倉阪鬼一郎『怖い俳句』(幻冬舎新書)に取り上げていただいているが、暮田の句からは恐怖と羞恥と滑稽とが入り混じった複雑な状況を読み取ることができる。
ネットプリントにもだいぶん慣れてきた。
コンビニの機械で番号を打ち込み、お金を入れるとプリントアウトされる。
番号はツイッターなどで告知されるのを控えておく。
ただ、期間が限定されているので、打ち出そうと思っているうちに終了してしまっていることが多い。また、一枚ないし数枚のプリントなので、散逸してしまい保存には適さない。
瀬戸夏子は「現代詩手帖」2月号の短歌時評で、我妻俊樹のネットプリント「天才歌人ヤマダ・ワタル」を紹介している。歌壇についての諷刺的小説で、解説を平岡直子が書いている。
平岡直子と我妻俊樹のコンビでは「ウマとヒマワリ」というネットプリントがある。1号が2月に、2号は手元にないが、3号が4月に出ている。毎号、平岡の短詩型作品と我妻の掌編小説が掲載されている。平岡は1号には短歌、3号には川柳を発表している。ここでは3号の川柳から。
奥義への道が店内を通る 平岡直子
花粉症なのにベンツがきちゃったよ
蛍すべて占いスクールに集まる
木漏れ日のようね手首をねじりあげ
平岡は「川柳スパイラル」2号のゲスト作品にも川柳を発表している。
我妻や平岡の川柳作品は「歌人が書いた川柳」というのではなくて、「川柳」として魅力的な作品になっている。短歌と川柳の関係については微妙な経緯があって、短歌的なものを川柳に導入した第一人者は時実新子である。その場合の「短歌的なもの」というのは大雑把な言い方になるが「私性」ということになる。けれども、近年、他ジャンルを主なフィールドとする表現者が川柳実作を試みる場合に、「私性」とはまた異なった方向性において短歌の感性を川柳形式で表現するようになってきている。それが従来の川柳にとっても刺激になると思っている。
最後に、初谷むいの「む犬通信」。初谷の所属は北海道短歌会で、第一歌集『花は泡、そこにいたって会いたいよ』(書肆侃侃房)が今月刊行される。自選15首がネプリに掲載されているが、三首ご紹介。
イルカがとぶイルカがおちる何も言ってないのにきみが「ん?」と振り向く 初谷むい
カーテンがふくらむ二次性徴みたい あ 願えば春は永遠なのか
酔いながら君を見つける水中で唾を吐いたらきれいだろうか
ネットプリントは読者にとって数十円という安価で購入することができる発信手段だが、コンビニへ行く機会がないままに期間が過ぎてしまったり、ツイッターなどで告知される番号を控えてゆかないといけないので読者範囲が限定される。1、2枚のペーパーなのでよほどの愛読者でない限り読んだら散逸してしまい保存には向かないが、ネットプリントを資料として保存しようという文学館も出てきているようだ。
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