2017年10月20日金曜日

『天の川銀河発電所』のことなど

「里」175号の特集「天の川銀河は銀色なのか」は『天の川銀河発電所』について、「里」の同人を中心に取り上げている。
青山ゆりえの総論のあと、「里」の同人で『天の川』に入集している佐藤文香(論者・田中惣一郎)・中山奈々(論者・喪字男)・堀下翔(論者・小鳥遊栄樹)の三人についての作家論が続く。たとえば田中はこんなふうに書いている。

「第一句集出版以後の佐藤の活動は多様であった。現代短歌の、主に同世代の作品に親しみ、その頃は短歌界隈のシンポジウムなどにも観客として、時に登壇者としてしばしば参加していた。また写真表現にも目を向け、写真家との交流も一時は深くあった。そんな日々の中で、なぜ、俳句なのだろうか、と自問しなかったはずはないだろう」

『天の川』の関連イベントはいろいろあるようだが、10月7日、梅田のルクアイーレの蔦屋書店で開催された「トークイベント&サイン会」に出かけた。ゲストの正岡豊の話を聞くのが楽しみだった。
佐藤は以前「里」で「ハイクラブ」という選句欄を担当している(2013年)。その8月号で彼女は正岡の句を選んでいる。

夜よさてみずうみと入れ替わろうか   正岡豊

トークイベントの当日、佐藤が配った「ハイクラブ」のコメントがおもしろいので、紹介してみる。

「前回のつづきのようですが、自分のいいと思う俳句が説明できてしまうことを恐れています。というか、『いい!』と思うものについて、簡単に説明しきれてしまうようなら、それは自分の想定の範囲内のいい句、と思うのです。選評を書くとき、書きやすい句というのがあります。それは単にいいところを指摘しやすい句のことです。でも、自分が上手に言いたいがために、自分の思うすごい句をないがしろにするのは、言うまでもありませんが本末転倒です。自分を超えたところにある驚きに、少しでも自分が近づくために、噛み砕いていくようなことをしていきたいと思っています」(「里」2013年8月号)

正岡は歌集『四月の魚』(まろうど社)で知られているが、この歌集はもう手に入りにくく、「短歌ヴァーサス」6号(2004年12月)に掲載された増補版で読んでいる方も多いだろう。その正岡が第二歌集を準備しているということで、当日〈『白い箱』ショート・エディット〉というプリントが配られた。

一瞬ののちに失われるものがわたしとあなたの間にあった   正岡豊
恋やこの高尾清滝あの鳥はわたしよりあたたかいかも知れない
オオアリクイ ひどいじゃないかわたくしの風穴ごしに餌を取るとは

会場には『天の川』の入集俳人のうち、曾根毅・中山奈々・藤田哲史・中村安伸の姿も見られ、トークでもその作品が取り上げられていた。書店の中のコーナーでこういうイベントができるのはいいものだなと思った。対談終了後、私はサイン会の列に並んで佐藤文香のサインをもらったのだった。

「里」175号に話を戻すと、堀下翔が「俳句雑誌管見」のコーナーで、「そんなふうにして書いているうちに気付いたのは、現俳壇の諸作家の出立にあたる戦後の俳句史、とりわけ1970年代以降の歴史がほとんど記述されておらず、調べものに不便だということであった」と書いている。資料が豊富と思われる俳句においてもそうなのか。対象を限定した俳句著述はあるものの、1970年代以降の包括的な俳句史記述としてはNHKラジオ放送のテキスト『俳句の変革者たち』(青木亮人)くらいだという。
時評というものはむつかしいものである。気になったので、堀下が挙げている筑紫磐井の『21世紀俳句時評』(俳句四季文庫)を開いてみた。平成15年1月から平成25年1月までの10年間にわたる時評である(現在も進行中)。そこにこんなことが書いてある。
「さて、初めの十五年を眺めて、二十一世紀のこれからをどのように予想したらよいか。やはり俳人はつぎつぎに更新されて行く必要があり、新しい世代を呼び込めない文芸ジャンルは滅ぶしかない。その意味で前述のように新しい世代が登場していることは俳句にとって希望である」
何だかギクリとさせられる。

最後に、『天の川銀河発電所』から引用したい句はいくつもあるが、ここでは宮﨑莉々香の作品を書き留めておくことにする。

ひきだしに鈴トナカイのその冬の   宮﨑莉々香
桜蕊降る再生がとどこほる
あばらからみはらし花野へのつながり
からくりの手がうきくさの影になる
しんじてもかぜはさくらを書きくだす

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