石部明は2012年10月27日に亡くなったから、本日はちょうど没後5年に当たる。
川柳人の作品は作者がいなくなると同時に風化し、忘れ去られてゆくのが常であるが、石部の作品は没後も読み継がれ、語り継がれるだけの内実をもっている。
石部の作品を読み直すひとつの契機として、八上桐子と私で「THANATOS」というフリーペーパーを発行している。第一号が2015年9月、第二号が2016年9月、第三号が2017年9月にそれぞれ発行されている。石部明の作品50句選と石部語録、あと石部論が二本という簡便なものだが、けっこう準備には手間がかかっている。年一回発行で次の四期に分けて石部明の川柳を読み解こうとしている。
第一期 1977年~1986年(38歳~47歳) 「マスカット」「展望」
第二期 1987年~1995年(48歳~56歳) 「川柳塾」「新思潮」『賑やかな箱』
第三期 1996年~2002年(57歳~63歳) 「川柳大学」「MANO」『現代川柳の精鋭たち』『遊魔系』
第四期 2003年~2012年(64歳~73歳) 「バックストローク」「Field」
資料収集については、たとえば「THANATOS 1/4」(第一期)の「マスカット」は小池が、「展望」については八上が担当し、雑誌掲載作品を調べたうえで、50句を選出している。「マスカット」「川柳塾」の資料は前田一石に提供を仰ぎ、石部の自伝「私の歩んだ道」(「ぜんけんそうれん」連載)については石田柊馬からコピーをいただいた。
雑誌に発表された初出の句を読んでいると、句集における完成形とはまた違った姿を垣間見ることができ、石部の作句のプロセスが納得されたり、いろいろな発見がある。詳しいことは「THANATOS」を読んでいただきたい。
石部明が「死」をモチーフにしたのはなぜだろうと以前から考えていたが、彼に影響を与えた川柳人が存在するように思われる。「THANATOS 1/4」で私は平野みさと行本みなみの名を挙げておいた。最近になって、石部に影響を与えた川柳人として、海地大破の存在が大きいのではないかと思うようになった。大破の川柳に「死」のモチーフが頻出することは、このブログの10月6日の文章で触れておいた。
さて、石部明の川柳活動は作品の発表だけではなくて、川柳をさまざまなイベントと連動させているところが特徴的である。「シンポジウム+大会」という形態は今では特に珍しくはないだろうが、「バックストローク」時代に彼が強力に推し進めたものであり、「バックストロークin ~」と銘打って各地で開催されたのであった。「THANATOS 2/4」では「おかやまの風・6」について、「THANATOS 3/4」では「川柳ジャンクション」について触れている。
「THANATOS 3/4」は「バックストローク」創刊の手前で終っている。来年の「THANATOS 4/4」では石部明をどのようにとらえたらよいだろうか。こういうささやかなフリーペーパーであっても、回を重ねるにつれて書くのが苦しくなる。同じことばかり繰り返しても仕方がないからだ。石部明のことを偲びつつ、ゆっくり考えていきたいと思っている。
最後に石部明の句を30句載せておく。忘れないことが大切だ。
琵琶湖などもってのほかと却下する
チベットへ行くうつくしく髪を結い
月光に臥すいちまいの花かるた
アドリブよ確かに妻をころせたか
バスが来るまでのぼんやりした殺意
穴掘りの名人が来て穴を掘る
梯子にも轢死体にもなれる春
水掻きのある手がふっと春の空
神の国馬の陣痛始りぬ
雑踏のひとり振り向き滝を吐く
軍艦の変なところが濡れている
国境は切手二枚で封鎖せよ
かげろうのなかのいもうと失禁す
性愛はうっすら鳥の匂いせり
男娼にしばらく逢わぬ眼の模型
栓抜きを探しにいって帰らない
鏡から花粉まみれの父帰る
ボクシングジムへ卵を生みにゆく
息絶えて野に強靭な顎一個
舌が出て鏡の舌と見つめあう
オルガンとすすきになって殴りあう
死者の髭すこうし伸びて雪催い
鳥かごを出れば太古の空があり
死ぬということうつくしい連結器
一族が揃って鳥を解体す
どの家も薄目で眠る鶏の村
わが喉を激しく人の出入りせり
轟音はけらくとなりぬ春の駅
入り口のすぐ真後ろがもう出口
縊死の木か猫かしばらくわからない
2017年10月27日金曜日
2017年10月20日金曜日
『天の川銀河発電所』のことなど
「里」175号の特集「天の川銀河は銀色なのか」は『天の川銀河発電所』について、「里」の同人を中心に取り上げている。
青山ゆりえの総論のあと、「里」の同人で『天の川』に入集している佐藤文香(論者・田中惣一郎)・中山奈々(論者・喪字男)・堀下翔(論者・小鳥遊栄樹)の三人についての作家論が続く。たとえば田中はこんなふうに書いている。
「第一句集出版以後の佐藤の活動は多様であった。現代短歌の、主に同世代の作品に親しみ、その頃は短歌界隈のシンポジウムなどにも観客として、時に登壇者としてしばしば参加していた。また写真表現にも目を向け、写真家との交流も一時は深くあった。そんな日々の中で、なぜ、俳句なのだろうか、と自問しなかったはずはないだろう」
『天の川』の関連イベントはいろいろあるようだが、10月7日、梅田のルクアイーレの蔦屋書店で開催された「トークイベント&サイン会」に出かけた。ゲストの正岡豊の話を聞くのが楽しみだった。
佐藤は以前「里」で「ハイクラブ」という選句欄を担当している(2013年)。その8月号で彼女は正岡の句を選んでいる。
夜よさてみずうみと入れ替わろうか 正岡豊
トークイベントの当日、佐藤が配った「ハイクラブ」のコメントがおもしろいので、紹介してみる。
「前回のつづきのようですが、自分のいいと思う俳句が説明できてしまうことを恐れています。というか、『いい!』と思うものについて、簡単に説明しきれてしまうようなら、それは自分の想定の範囲内のいい句、と思うのです。選評を書くとき、書きやすい句というのがあります。それは単にいいところを指摘しやすい句のことです。でも、自分が上手に言いたいがために、自分の思うすごい句をないがしろにするのは、言うまでもありませんが本末転倒です。自分を超えたところにある驚きに、少しでも自分が近づくために、噛み砕いていくようなことをしていきたいと思っています」(「里」2013年8月号)
正岡は歌集『四月の魚』(まろうど社)で知られているが、この歌集はもう手に入りにくく、「短歌ヴァーサス」6号(2004年12月)に掲載された増補版で読んでいる方も多いだろう。その正岡が第二歌集を準備しているということで、当日〈『白い箱』ショート・エディット〉というプリントが配られた。
一瞬ののちに失われるものがわたしとあなたの間にあった 正岡豊
恋やこの高尾清滝あの鳥はわたしよりあたたかいかも知れない
オオアリクイ ひどいじゃないかわたくしの風穴ごしに餌を取るとは
会場には『天の川』の入集俳人のうち、曾根毅・中山奈々・藤田哲史・中村安伸の姿も見られ、トークでもその作品が取り上げられていた。書店の中のコーナーでこういうイベントができるのはいいものだなと思った。対談終了後、私はサイン会の列に並んで佐藤文香のサインをもらったのだった。
「里」175号に話を戻すと、堀下翔が「俳句雑誌管見」のコーナーで、「そんなふうにして書いているうちに気付いたのは、現俳壇の諸作家の出立にあたる戦後の俳句史、とりわけ1970年代以降の歴史がほとんど記述されておらず、調べものに不便だということであった」と書いている。資料が豊富と思われる俳句においてもそうなのか。対象を限定した俳句著述はあるものの、1970年代以降の包括的な俳句史記述としてはNHKラジオ放送のテキスト『俳句の変革者たち』(青木亮人)くらいだという。
時評というものはむつかしいものである。気になったので、堀下が挙げている筑紫磐井の『21世紀俳句時評』(俳句四季文庫)を開いてみた。平成15年1月から平成25年1月までの10年間にわたる時評である(現在も進行中)。そこにこんなことが書いてある。
「さて、初めの十五年を眺めて、二十一世紀のこれからをどのように予想したらよいか。やはり俳人はつぎつぎに更新されて行く必要があり、新しい世代を呼び込めない文芸ジャンルは滅ぶしかない。その意味で前述のように新しい世代が登場していることは俳句にとって希望である」
何だかギクリとさせられる。
最後に、『天の川銀河発電所』から引用したい句はいくつもあるが、ここでは宮﨑莉々香の作品を書き留めておくことにする。
ひきだしに鈴トナカイのその冬の 宮﨑莉々香
桜蕊降る再生がとどこほる
あばらからみはらし花野へのつながり
からくりの手がうきくさの影になる
しんじてもかぜはさくらを書きくだす
青山ゆりえの総論のあと、「里」の同人で『天の川』に入集している佐藤文香(論者・田中惣一郎)・中山奈々(論者・喪字男)・堀下翔(論者・小鳥遊栄樹)の三人についての作家論が続く。たとえば田中はこんなふうに書いている。
「第一句集出版以後の佐藤の活動は多様であった。現代短歌の、主に同世代の作品に親しみ、その頃は短歌界隈のシンポジウムなどにも観客として、時に登壇者としてしばしば参加していた。また写真表現にも目を向け、写真家との交流も一時は深くあった。そんな日々の中で、なぜ、俳句なのだろうか、と自問しなかったはずはないだろう」
『天の川』の関連イベントはいろいろあるようだが、10月7日、梅田のルクアイーレの蔦屋書店で開催された「トークイベント&サイン会」に出かけた。ゲストの正岡豊の話を聞くのが楽しみだった。
佐藤は以前「里」で「ハイクラブ」という選句欄を担当している(2013年)。その8月号で彼女は正岡の句を選んでいる。
夜よさてみずうみと入れ替わろうか 正岡豊
トークイベントの当日、佐藤が配った「ハイクラブ」のコメントがおもしろいので、紹介してみる。
「前回のつづきのようですが、自分のいいと思う俳句が説明できてしまうことを恐れています。というか、『いい!』と思うものについて、簡単に説明しきれてしまうようなら、それは自分の想定の範囲内のいい句、と思うのです。選評を書くとき、書きやすい句というのがあります。それは単にいいところを指摘しやすい句のことです。でも、自分が上手に言いたいがために、自分の思うすごい句をないがしろにするのは、言うまでもありませんが本末転倒です。自分を超えたところにある驚きに、少しでも自分が近づくために、噛み砕いていくようなことをしていきたいと思っています」(「里」2013年8月号)
正岡は歌集『四月の魚』(まろうど社)で知られているが、この歌集はもう手に入りにくく、「短歌ヴァーサス」6号(2004年12月)に掲載された増補版で読んでいる方も多いだろう。その正岡が第二歌集を準備しているということで、当日〈『白い箱』ショート・エディット〉というプリントが配られた。
一瞬ののちに失われるものがわたしとあなたの間にあった 正岡豊
恋やこの高尾清滝あの鳥はわたしよりあたたかいかも知れない
オオアリクイ ひどいじゃないかわたくしの風穴ごしに餌を取るとは
会場には『天の川』の入集俳人のうち、曾根毅・中山奈々・藤田哲史・中村安伸の姿も見られ、トークでもその作品が取り上げられていた。書店の中のコーナーでこういうイベントができるのはいいものだなと思った。対談終了後、私はサイン会の列に並んで佐藤文香のサインをもらったのだった。
「里」175号に話を戻すと、堀下翔が「俳句雑誌管見」のコーナーで、「そんなふうにして書いているうちに気付いたのは、現俳壇の諸作家の出立にあたる戦後の俳句史、とりわけ1970年代以降の歴史がほとんど記述されておらず、調べものに不便だということであった」と書いている。資料が豊富と思われる俳句においてもそうなのか。対象を限定した俳句著述はあるものの、1970年代以降の包括的な俳句史記述としてはNHKラジオ放送のテキスト『俳句の変革者たち』(青木亮人)くらいだという。
時評というものはむつかしいものである。気になったので、堀下が挙げている筑紫磐井の『21世紀俳句時評』(俳句四季文庫)を開いてみた。平成15年1月から平成25年1月までの10年間にわたる時評である(現在も進行中)。そこにこんなことが書いてある。
「さて、初めの十五年を眺めて、二十一世紀のこれからをどのように予想したらよいか。やはり俳人はつぎつぎに更新されて行く必要があり、新しい世代を呼び込めない文芸ジャンルは滅ぶしかない。その意味で前述のように新しい世代が登場していることは俳句にとって希望である」
何だかギクリとさせられる。
最後に、『天の川銀河発電所』から引用したい句はいくつもあるが、ここでは宮﨑莉々香の作品を書き留めておくことにする。
ひきだしに鈴トナカイのその冬の 宮﨑莉々香
桜蕊降る再生がとどこほる
あばらからみはらし花野へのつながり
からくりの手がうきくさの影になる
しんじてもかぜはさくらを書きくだす
2017年10月6日金曜日
海地大破伝
海地大破(うみじ・たいは)は昭和11年5月22日、福岡県戸畑市(現北九州市)に生れた。本名、力(つとむ)。高知で生まれたのかと思っていたが、出生地は北九州市である。小学生のとき戦争の激化に伴って土佐市へ疎開。両親が高知県の出身で、大破は森沢家の三男として生まれたが、母の姓である海地家を継ぐ予定だった次男が幼少で死亡したため、大破が海地姓を名乗ることになった。独身のころ大破には放浪癖があったというが、北村泰章によると「生地に身を置くことの出来ない放浪という宿命が、すでにこのとき生じていたと思われる。何度か職を変え、転々とするなかで安住できるようになったのは、妻となる女性とめぐり遇い、公務員という職を得たときからである」。(「海地大破の人と作品」、「川柳木馬」80号)。
昭和29年12月、川柳に入門。入江川柳会に入会。高知新聞柳壇、「帆傘」へ投句を始める。高知には帆傘船というものがあり、大型の蛇の目傘のようなものを船に取り付けて、帆の代りにしたり、日よけにしたりしたらしい。「帆傘」は戦前から発行されていたようだが、昭和24年7月に復刊した。
昭和40年「ふあうすと」同人。「帆傘」の同人にもなるが、こちらは昭和49年に退会。
昭和47年1月に大破のほか小笠原望・古谷恭一・北村泰章の四人が「百句会」という集まりをもったそうである。その夜のうちに百句つくらなければ寝てはいけないというルールである。大破は三時間ほどで百句を作った。
大破の多作ぶりは有名であるが、彼がしばしば語ったエピソードに「川柳の鬼」といわれた定金冬二の思い出がある。冬二と大原美術館に行ったとき、大破は手帳に何かを書き込んでいる冬二の姿を見た。あとで同室になったとき、冬二に見せてもらった手帳には百句あまりの川柳がびっしりと書き込まれていたという。
昭和50年「川柳展望」創立会員。
昭和54年「木馬ぐるーぷ」創立。会誌「川柳木馬」は発行人・海地大破、編集人・北村泰章。創立同人は他に古谷恭一・西川富恵・村長虹子・土井富美子。
若手川柳人のグループ「四季の会」を母胎とし、高知を訪れた田中好啓・橘高薫風の「高知から新しい柳誌を出してはどうか」という勧めに応じて創刊されたという。
昭和56年、「川柳展望」38号に大破の川柳作品100句が発表される。
火の中にまどろんでいる涅槃かな
老残を晒す男の岸づたい
産み継いで地上に残る魚の骨
雨が来て隊伍崩れる壜の中
縄抜けの縄がいっぽん灰になる
平成元年、句集『満月の猫』が上梓される。
第五回川柳Z賞を受賞したあと、「かもしか川柳文庫」の一冊として発行されたものである。
「あとがき」にはこんなことが書いてある。
「句業三十年。現在に至るも納得のいく作品を書けない自分に不満を感じている」
「今までに書き溜めてきた作品を、一冊の句集にまとめることは、うれしいというよりも侘しいという思いが先行する。自分の努力の結果が、質量ともに今一歩という作品に直面すると、自分の非力さに打ちのめされる思いがするからである」
太鼓打つ血の繋がりを意識して
箸を作らんと一本の樹を削る
八月の怒りで魚の内臓を抜く
ふるさとへゆるりゆるりと腸が伸び
衰弱のはじまる縄が横たわる
猫消えた日から残尿感がある
真剣な顔で詐欺師が木を植える
しいたけ村の曇天をゆく老婆たち
つぎつぎと女が消える一揆の村
満月の猫はひらりとあの世まで
月を引くかたちで骨になっている
平成11年4月の「川柳木馬」80号「昭和2桁生れの作家群像」に60句が掲載。
作家論を堀本吟と北村泰章が書いている。
大破は師系として西森青雨の名を挙げ、愛誦句として青雨の「子よりなお妻はわがもの共に老ゆ」を挙げている。青雨について大破はかつて次のように語ったことがある。
「私は20年余、断続的に川柳をやってきたが、県柳界では真の作品批評がなかった。それは、人間の和を尊重するあまり、作品を批評することに遠慮があったように思われる。私の場合は、青雨さんからワンツーマンで厳しい指導を仰ぐことができたので、現在の自分があると感謝している」「私は、青雨さんの指導を仰いだが、青雨さんを踏襲しようとは考えていない。むしろ違ったものを志向している。それが個性ではないか。青雨さんから学びたいのは、批評精神や作品に打ち込む真摯な姿勢である。そこに青雨さんの偉大さを感じる。青雨作品を模倣せよというのではなく、心を学べと言いたい。そして、先達を乗り越えていく気概を持たなければ川柳の明日はない」(「川柳木馬」5号「座談会」)
「昭和2桁生れの作家群像」の「作者のことば」では病気について触れている。
「私は、子供の頃から病弱であった。中学三年のとき、健康診断で、身体に十分注意しないと三十歳までのいのちだと医師から宣告された。それからの私は、胃潰瘍、心臓病、脳梗塞、その他の病気で、毎年、入退院を繰り返してきた。従って、私は『生と死』のこの不可思議なテーマと永遠に向かい合うようになったが、未だ完成された作品に恵まれず忸怩たる思いにかられている」
改めて発表作品を読み直してみると、石部明の作品ともつながるような「死」のテーマが詠まれていることに気づく。
木が消えて風のむこうのかたつむり
累々と死に果て青い産卵期
一族が逃げ込んでゆく埴輪の目
死ぬときのジョークが未だ决まらない
女系家族の明るく魚の首をはね
表札に蝶が止まっている祭り
音楽が降る鳥籠に鳥の糞
さらに『現代川柳の精鋭たち』(平成12年)に大破は「喪失感」というタイトルで100句を発表。
鞄のなかの笑劇場を開演す
作り話がとても上手な鴉たち
夜桜に点々と血をこぼしけり
抱き締めた女が放つ魚臭かな
行き過ぎてあれは確かに鳥の顔
鏡のなかが賑やかすぎて眠れない
休戦のタオルを投げたのは男
蔑みの目がいつまでも壁にある
ゆっくりと紐をほどいて放浪へ
恐ろしい幻想がある消火栓
大破は「川柳定年説」を唱えたことがある。
「私のような凡人は五十歳に達したら川柳の第一線から身を退いて、新鮮で若い世代の人達にその場を譲りたいと考え続けてきましたが、その五十歳が目の前にぶらさがって来た現在も、この考えに変わりはありません」
「才能は好むと好まざるとにかかわらず必ず衰えていくものなのです。衰えと気づいたときには、スムーズに世代交替を図っていくことが川柳の発展に繋っていくのではないでしょうか」(「創」14号、昭和61年3月)
大破はこの言葉通り後進に道を譲り、木馬グループの次世代川柳人を育てることに力を注いだ。
2017年9月12日、海地大破、逝去。
大破のようなカリスマ的な川柳人が少なくなったいま、残された私たちは次のステージに進んでいかなければならないだろう。
昭和29年12月、川柳に入門。入江川柳会に入会。高知新聞柳壇、「帆傘」へ投句を始める。高知には帆傘船というものがあり、大型の蛇の目傘のようなものを船に取り付けて、帆の代りにしたり、日よけにしたりしたらしい。「帆傘」は戦前から発行されていたようだが、昭和24年7月に復刊した。
昭和40年「ふあうすと」同人。「帆傘」の同人にもなるが、こちらは昭和49年に退会。
昭和47年1月に大破のほか小笠原望・古谷恭一・北村泰章の四人が「百句会」という集まりをもったそうである。その夜のうちに百句つくらなければ寝てはいけないというルールである。大破は三時間ほどで百句を作った。
大破の多作ぶりは有名であるが、彼がしばしば語ったエピソードに「川柳の鬼」といわれた定金冬二の思い出がある。冬二と大原美術館に行ったとき、大破は手帳に何かを書き込んでいる冬二の姿を見た。あとで同室になったとき、冬二に見せてもらった手帳には百句あまりの川柳がびっしりと書き込まれていたという。
昭和50年「川柳展望」創立会員。
昭和54年「木馬ぐるーぷ」創立。会誌「川柳木馬」は発行人・海地大破、編集人・北村泰章。創立同人は他に古谷恭一・西川富恵・村長虹子・土井富美子。
若手川柳人のグループ「四季の会」を母胎とし、高知を訪れた田中好啓・橘高薫風の「高知から新しい柳誌を出してはどうか」という勧めに応じて創刊されたという。
昭和56年、「川柳展望」38号に大破の川柳作品100句が発表される。
火の中にまどろんでいる涅槃かな
老残を晒す男の岸づたい
産み継いで地上に残る魚の骨
雨が来て隊伍崩れる壜の中
縄抜けの縄がいっぽん灰になる
平成元年、句集『満月の猫』が上梓される。
第五回川柳Z賞を受賞したあと、「かもしか川柳文庫」の一冊として発行されたものである。
「あとがき」にはこんなことが書いてある。
「句業三十年。現在に至るも納得のいく作品を書けない自分に不満を感じている」
「今までに書き溜めてきた作品を、一冊の句集にまとめることは、うれしいというよりも侘しいという思いが先行する。自分の努力の結果が、質量ともに今一歩という作品に直面すると、自分の非力さに打ちのめされる思いがするからである」
太鼓打つ血の繋がりを意識して
箸を作らんと一本の樹を削る
八月の怒りで魚の内臓を抜く
ふるさとへゆるりゆるりと腸が伸び
衰弱のはじまる縄が横たわる
猫消えた日から残尿感がある
真剣な顔で詐欺師が木を植える
しいたけ村の曇天をゆく老婆たち
つぎつぎと女が消える一揆の村
満月の猫はひらりとあの世まで
月を引くかたちで骨になっている
平成11年4月の「川柳木馬」80号「昭和2桁生れの作家群像」に60句が掲載。
作家論を堀本吟と北村泰章が書いている。
大破は師系として西森青雨の名を挙げ、愛誦句として青雨の「子よりなお妻はわがもの共に老ゆ」を挙げている。青雨について大破はかつて次のように語ったことがある。
「私は20年余、断続的に川柳をやってきたが、県柳界では真の作品批評がなかった。それは、人間の和を尊重するあまり、作品を批評することに遠慮があったように思われる。私の場合は、青雨さんからワンツーマンで厳しい指導を仰ぐことができたので、現在の自分があると感謝している」「私は、青雨さんの指導を仰いだが、青雨さんを踏襲しようとは考えていない。むしろ違ったものを志向している。それが個性ではないか。青雨さんから学びたいのは、批評精神や作品に打ち込む真摯な姿勢である。そこに青雨さんの偉大さを感じる。青雨作品を模倣せよというのではなく、心を学べと言いたい。そして、先達を乗り越えていく気概を持たなければ川柳の明日はない」(「川柳木馬」5号「座談会」)
「昭和2桁生れの作家群像」の「作者のことば」では病気について触れている。
「私は、子供の頃から病弱であった。中学三年のとき、健康診断で、身体に十分注意しないと三十歳までのいのちだと医師から宣告された。それからの私は、胃潰瘍、心臓病、脳梗塞、その他の病気で、毎年、入退院を繰り返してきた。従って、私は『生と死』のこの不可思議なテーマと永遠に向かい合うようになったが、未だ完成された作品に恵まれず忸怩たる思いにかられている」
改めて発表作品を読み直してみると、石部明の作品ともつながるような「死」のテーマが詠まれていることに気づく。
木が消えて風のむこうのかたつむり
累々と死に果て青い産卵期
一族が逃げ込んでゆく埴輪の目
死ぬときのジョークが未だ决まらない
女系家族の明るく魚の首をはね
表札に蝶が止まっている祭り
音楽が降る鳥籠に鳥の糞
さらに『現代川柳の精鋭たち』(平成12年)に大破は「喪失感」というタイトルで100句を発表。
鞄のなかの笑劇場を開演す
作り話がとても上手な鴉たち
夜桜に点々と血をこぼしけり
抱き締めた女が放つ魚臭かな
行き過ぎてあれは確かに鳥の顔
鏡のなかが賑やかすぎて眠れない
休戦のタオルを投げたのは男
蔑みの目がいつまでも壁にある
ゆっくりと紐をほどいて放浪へ
恐ろしい幻想がある消火栓
大破は「川柳定年説」を唱えたことがある。
「私のような凡人は五十歳に達したら川柳の第一線から身を退いて、新鮮で若い世代の人達にその場を譲りたいと考え続けてきましたが、その五十歳が目の前にぶらさがって来た現在も、この考えに変わりはありません」
「才能は好むと好まざるとにかかわらず必ず衰えていくものなのです。衰えと気づいたときには、スムーズに世代交替を図っていくことが川柳の発展に繋っていくのではないでしょうか」(「創」14号、昭和61年3月)
大破はこの言葉通り後進に道を譲り、木馬グループの次世代川柳人を育てることに力を注いだ。
2017年9月12日、海地大破、逝去。
大破のようなカリスマ的な川柳人が少なくなったいま、残された私たちは次のステージに進んでいかなければならないだろう。