本日は「墨作二郎を偲ぶ会」に126名のご参加をいただき、ありがとうございました。
森中恵美子さんのお心のこもったお話のあと、私の方は墨作二郎の長年に渡る川柳活動をレジュメに従って改めて振り返ってみたいと思います。
墨作二郎さんは大正15年11月、大阪府堺市に生まれました。堺出身の文学者といえば詩人・安西冬衛が有名です。この会場の近くのザビエル公園に冬衛の詩碑「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」が建立されています。作二郎さんは昭和9年、安西冬衛と会いました。作二郎さん九歳のときです。
昭和14年、堺市立商業学校在学中に文芸部に参加。父の兄の友人だった大野翠峰に師事、俳句をはじめました。翠峰は堺で「半夜」を創刊した俳人です。
昭和21年5月、河野春三の誘いを受けて作二郎さんは現代川柳をはじめました。
俳句から川柳への移行について、作二郎さんは「川柳春秋」209号(1972年11月)でこんなふうに書いています。
《翠峰から連絡があって「曲水の宴」を開くから来るようにと云って来たのは二十一年五月。私は遅れて行った。(中略)宴が終り高札の裏にその日の作品を書くことになった。私も求められて
蝶々の黄、身に一片のパン冴ゆる
と書いた。翠峰は「作二郎君、これは俳句ではない、この様な俗臭を私は教えなかった筈だ」と云った。私は瞬間これが俳句でないなら俳句を止めても良いと思った》
また、「バックストローク」7号・8号(2004年7月・10月)の特集「戦後川柳の軌跡を辿る―墨作二郎に聞く―」では私と石田柊馬さんで作二郎さんにインタビューをしました。そのときの録音テープがありますので、しばらくお聞きください。
〈堺に月蔵寺というお寺があって、そこに小山があって川が流れている。京都の城南宮と同じような庭があったんです。翠峰さんに「こんなものは俳句ではない」と言われて、「いいですよ。それでは帰ります」と言って帰ったんです。そのとき和田三元(「番傘」系の川柳人)もいて、あとで河野春三に連絡して、いっしょに私をたずねてきたんです。「おもしろいやないか。いちど思い通りにやってみたらどうか」というのが川柳の出発点になるんじゃないかと思います。
昭和23年に出した『陸橋』というのは俳句の句集ですが、これを持って安西冬衛さんのところに行くと、「こんな短い詩型でこの世の中の移り変わりを書けるはずがない。くよくよせずに、現代詩をやれ」と言われたんです。安西さんも曲水の宴に出ていたんですね。昭和24年に僕が北海道に行くときに北海道の詩人に紹介状を書いてくれました。〉
もっと録音を聞いていたい気がしますし、その方が私も楽なのですが、そういうわけにもまいりません。この会場には俳人の方はおられないと思いますが、もし「半夜」の方がおられたら気を悪くなさらないでくださいね。
作二郎さんの話のポイントは二つあると思います。
ひとつは「俳句から川柳へ」という道筋です。時実新子さんの場合は最初、短歌を作られたようですが、短歌の先生からこんなのは短歌ではないと言われたようです。新子さんは「短歌から川柳へ」という道筋ですが、いずれの場合も、川柳の方に受け入れるだけの自由度があったということですね。
もうひとつは作二郎さんの川柳への現代詩の影響です。川柳というジャンルの内部からの自律的発展ということはなかなか起こりにくく、他ジャンルの影響や刺激を受けて川柳が新たな展開を見せることがあります。川柳というジャンルのなかで詩を書くということになるわけで、詩性というのは常に川柳革新の契機でありました。
けれども、現代詩の影響というものは作二郎さんの場合にもすぐに直接的にあらわれたわけではありませんでした。『凍原の墓標』(昭和29年)は作二郎さんの最初の川柳の句集ですが、興味深いことに定型をきっちり守っています。
凍原の墓標故郷に叛き得ず
その次に「長律の時代」が来ます。ここには、はっきり現代詩への志向が見られます。
埋没される有刺鉄線の呻吟のところどころ。
秩序の上を飛んでゐる虫のきらめく滴化
新鮮なる鍋底がかぶさつてゐるとしたら。砂
上の焚火をかこんでゐる天使の群の憂愁
雨の中に壁がある。スキャンダルのすば
らしい断層なのだろうか
砲門にもたれるアルレキンの口笛は戦い
の命令にうららかな冬日
前の二句は『川柳新書・墨作二郎集』(昭和三十三年四月)から、後の二句は『アルレキンの脇腹』(昭和三十三年七月)からです。行分けはもとの句集そのままにしてあります。
作二郎さんはよく「作二郎の作品が川柳ではないと言われても痛痒を感じない。しかし、作二郎の作品に詩がないと言われるなら問題だ」と言っていました。
あと作二郎さんの言葉としてよく知られているものに「川柳は寛容なる広場」というのがあります。あちこちで語られていますが、『川柳新書』「作者のことば」では「兎もあれ川柳とは(私にとって)『寛容なる広場』」と書かれています。作二郎さんの作品を当時の川柳界全体が認めたわけではありませんが、河野春三をはじめとする周囲の川柳人には作二郎を認めるだけの自由度があったということでしょう。
作二郎さんの作品のうちでもっとも有名なのが次の作品です。
鶴を折るひとりひとりを処刑する
昭和47年、平安川柳社創立15周年記念大会で秀賞を獲得した句です。このとき作二郎さんはもうひとつ「能面の起きあがるとき地の痛み」という句も詠んでいます。
作二郎の円熟期を代表する句集が『尾張一宮在』(昭和56年5月)でしょう。
ばざあるの らくがきの汽車北を指す
蝶沈む 葱畠には私小説
かくれんぼ 誰も探しに来てくれぬ
四月馬鹿 シルクロードを妊りぬ
あきらかに飢餓 水色の相聞歌
平成7年、阪神淡路大震災が起こりました。このとき作二郎は震災句を集中的に詠み、句集にまとめています。
春を待つ鬼を瓦礫に探さねば 『墨作二郎集・第三集』平成7年9月
この句には私は個人的な思い出がありまして、この句を発句として歌仙「鬼を瓦礫に」を巻きました。震災のあとですから鬼というと死者の霊魂と受け取られると思いますが、句集のあとがきには「この場合の鬼は善であって力であって希望であって親しき仲間である」と書かれています。
椿散華こおどり 白鳳音階図 『遊行』 平成8年10月
快晴の森の記憶の阿修羅像 『伎楽面』平成11年6月
神獣鏡は指切りげんまん 青ぴいまん 『龍灯鬼』平成12年6月
伐折羅大将泰然 雨降るアルバム 『伐折羅』平成13年2月
作二郎さんが常におっしゃっていたのは「これからの川柳」ということです。彼は常に川柳の未来を考えていました。作二郎の行なったことをそのまま継承するのではなくても、彼の川柳精神を新しい時代に即して受け継いでゆくことが私たちの与えられた課題だと思います。作二郎さんはたとえば兵頭全郎などの若い世代の川柳人の作品にも注目していました。本日は若い世代の川柳人にも墨作二郎という川柳人の軌跡を知っておいてほしいという気持ちでお話させていただきました。
ごいっしょに「これからの川柳」を切り開いてゆきたいと思います。
ご清聴ありがとうございました。
(「墨作二郎を偲ぶ会」2017年3月30日、堺市福祉会館大ホール)
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