2017年3月24日金曜日

俳句と川柳の取り合わせ―「川柳ねじまき」第3号

名古屋の「ねじまき句会」から「川柳ねじまき」第三号(発行人・なかはられいこ)が発行された。
巻頭、なかはられいこの20句は「ととととと」というタイトルである。

代案は雪で修正案も雪        なかはられいこ
きんかんとぎんなん次男と長男に  
電柱と岸辺シローは出会えたか
ふくろうとまめでんきゅうが鳴き交わす
無花果と石榴どちらが夜ですか

一読して「取り合わせ」の句だということが分かる。
ふつう取り合わせは俳句で使われる手法である。
なかはらのページのコメントを担当している二村鉄子はこんなふうに書いている。
「取り合わせは即かず離れずのことばとことばを掛け合わせて、思ってもみない効果を生むことを期待して書かれることが多い。読者に対して祈るような気持ちだ。けれど、なかはらの取り合わせは、確信犯的で、バナナのたたき売り的だ」

代案  ― 雪
修正案 ― 雪

きんかん(金柑) ― 長男(あるいは次男)
ぎんなん(銀杏) ― 次男(あるいは長男)

電柱 ― 岸辺シロー(固有名詞)

ふくろう(梟) ― まめでんきゅう(豆電球)

無花果 ― 夜(または昼)
石榴  ― 夜(または昼)

ひらかな・漢字・俳句の季語に相当する語などを使いながら様々なヴァリエーションを展開している。
俳句に限らず、川柳でも取り合わせの句は存在するが、川柳の場合、それは「取り合わせ」ではなくて「飛躍」だと私は思っている。川柳では題詠が多いから、「題」(発想の起点)からどれだけ飛躍するかが腕のみせどころとなる。

妖精は酢豚に似ている絶対似ている   石田柊馬

たとえばこの句の場合、「妖精と酢豚」の取り合わせではなくて、「妖精」という題から「酢豚」に飛躍したのだ。しかし、「AとBの取り合わせ」と「AからBへの飛躍」は結果的に区別のつかないものになってしまう。
今回のなかはらの作品の場合、俳句の取り合わせを意識しながら、更に手のこんだものになっているように思われる。

「ととととと」というタイトルについて。
「の」とか「は」という助詞から川柳性を説明しようとする文章を見かけることがある。
たとえば「は」は川柳の基本文体である「AはB」という問答構造にしばしば使われる。川柳人にとって使いやすい助詞なのだ。

母親はもったいないがだましよい

なかはらは「と」に川柳性を発見したのかもしれない。
「と」はコラボにつながってゆく助詞である。
そういえば、一昨年大阪で「とととと展」というイベントがあった。
安福望の『食器と食パンとペン』の発行を記念して大阪・中崎町で開催され、岡野大嗣・安福望・柳本々々の鼎談があった。岡野の短歌、安福のイラスト、そこに柳本が漫画やアニメの例を加えながら作品を読んでいった。
言葉に言葉を取り合わせるのではなくて、言葉にイラストや絵を取り合わせているのであって、「と」はリンクの思想と結びついている。

さて、話を「ねじまき」に戻して、なかはらの句にコメントを寄せている二村鉄子の句を紹介しておこう。

まずは資料請求たんぽぽ咲く国へ    二村鉄子
えびせんべいいかせんべいと合併症
ヒメムカシヨモギ気圧の谷にあり
きれいでなければ夜景でないと夜
まるで銀杏まばたきを引き換えに

俳人の二村が取り合わせをあまり使わず、川柳人のなかはらが取り合わせの句を書いているのを面白く思った。

先日、名古屋の「ねじまき句会」にはじめて参加した。
作品は事前に出句しておいて、当日はひたすら句の読みに終始する「読みの句会」である。印象的だったのは、句の言葉を正確に読んでゆこうという雰囲気があったことだ。
川柳の読みでよく経験するのは、句の読みを提示する前に、好き嫌いや自分の思いの開陳が多いということだ。それは句を読んでいることにはならないので、句から触発された自分の思いを読んでいるのだ。
「ねじまき句会」で使われていたことばに「親切な読み」というのがあった。句の言葉に直接ない意味まで忖度して読んでしまう態度を指して批判的に使われていた。それだけ、句の読みは言葉に則して厳密に読まれていることになる。
ちょうど「短詩時評」(3月18日)で柳本々々が「ねじまき紀行」のなかはらの発言を「表現者の覚悟」ととらえた文章を読んだ。これもひとつのシンクロニティだと思った。

0 件のコメント:

コメントを投稿