本日は「墨作二郎を偲ぶ会」に126名のご参加をいただき、ありがとうございました。
森中恵美子さんのお心のこもったお話のあと、私の方は墨作二郎の長年に渡る川柳活動をレジュメに従って改めて振り返ってみたいと思います。
墨作二郎さんは大正15年11月、大阪府堺市に生まれました。堺出身の文学者といえば詩人・安西冬衛が有名です。この会場の近くのザビエル公園に冬衛の詩碑「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」が建立されています。作二郎さんは昭和9年、安西冬衛と会いました。作二郎さん九歳のときです。
昭和14年、堺市立商業学校在学中に文芸部に参加。父の兄の友人だった大野翠峰に師事、俳句をはじめました。翠峰は堺で「半夜」を創刊した俳人です。
昭和21年5月、河野春三の誘いを受けて作二郎さんは現代川柳をはじめました。
俳句から川柳への移行について、作二郎さんは「川柳春秋」209号(1972年11月)でこんなふうに書いています。
《翠峰から連絡があって「曲水の宴」を開くから来るようにと云って来たのは二十一年五月。私は遅れて行った。(中略)宴が終り高札の裏にその日の作品を書くことになった。私も求められて
蝶々の黄、身に一片のパン冴ゆる
と書いた。翠峰は「作二郎君、これは俳句ではない、この様な俗臭を私は教えなかった筈だ」と云った。私は瞬間これが俳句でないなら俳句を止めても良いと思った》
また、「バックストローク」7号・8号(2004年7月・10月)の特集「戦後川柳の軌跡を辿る―墨作二郎に聞く―」では私と石田柊馬さんで作二郎さんにインタビューをしました。そのときの録音テープがありますので、しばらくお聞きください。
〈堺に月蔵寺というお寺があって、そこに小山があって川が流れている。京都の城南宮と同じような庭があったんです。翠峰さんに「こんなものは俳句ではない」と言われて、「いいですよ。それでは帰ります」と言って帰ったんです。そのとき和田三元(「番傘」系の川柳人)もいて、あとで河野春三に連絡して、いっしょに私をたずねてきたんです。「おもしろいやないか。いちど思い通りにやってみたらどうか」というのが川柳の出発点になるんじゃないかと思います。
昭和23年に出した『陸橋』というのは俳句の句集ですが、これを持って安西冬衛さんのところに行くと、「こんな短い詩型でこの世の中の移り変わりを書けるはずがない。くよくよせずに、現代詩をやれ」と言われたんです。安西さんも曲水の宴に出ていたんですね。昭和24年に僕が北海道に行くときに北海道の詩人に紹介状を書いてくれました。〉
もっと録音を聞いていたい気がしますし、その方が私も楽なのですが、そういうわけにもまいりません。この会場には俳人の方はおられないと思いますが、もし「半夜」の方がおられたら気を悪くなさらないでくださいね。
作二郎さんの話のポイントは二つあると思います。
ひとつは「俳句から川柳へ」という道筋です。時実新子さんの場合は最初、短歌を作られたようですが、短歌の先生からこんなのは短歌ではないと言われたようです。新子さんは「短歌から川柳へ」という道筋ですが、いずれの場合も、川柳の方に受け入れるだけの自由度があったということですね。
もうひとつは作二郎さんの川柳への現代詩の影響です。川柳というジャンルの内部からの自律的発展ということはなかなか起こりにくく、他ジャンルの影響や刺激を受けて川柳が新たな展開を見せることがあります。川柳というジャンルのなかで詩を書くということになるわけで、詩性というのは常に川柳革新の契機でありました。
けれども、現代詩の影響というものは作二郎さんの場合にもすぐに直接的にあらわれたわけではありませんでした。『凍原の墓標』(昭和29年)は作二郎さんの最初の川柳の句集ですが、興味深いことに定型をきっちり守っています。
凍原の墓標故郷に叛き得ず
その次に「長律の時代」が来ます。ここには、はっきり現代詩への志向が見られます。
埋没される有刺鉄線の呻吟のところどころ。
秩序の上を飛んでゐる虫のきらめく滴化
新鮮なる鍋底がかぶさつてゐるとしたら。砂
上の焚火をかこんでゐる天使の群の憂愁
雨の中に壁がある。スキャンダルのすば
らしい断層なのだろうか
砲門にもたれるアルレキンの口笛は戦い
の命令にうららかな冬日
前の二句は『川柳新書・墨作二郎集』(昭和三十三年四月)から、後の二句は『アルレキンの脇腹』(昭和三十三年七月)からです。行分けはもとの句集そのままにしてあります。
作二郎さんはよく「作二郎の作品が川柳ではないと言われても痛痒を感じない。しかし、作二郎の作品に詩がないと言われるなら問題だ」と言っていました。
あと作二郎さんの言葉としてよく知られているものに「川柳は寛容なる広場」というのがあります。あちこちで語られていますが、『川柳新書』「作者のことば」では「兎もあれ川柳とは(私にとって)『寛容なる広場』」と書かれています。作二郎さんの作品を当時の川柳界全体が認めたわけではありませんが、河野春三をはじめとする周囲の川柳人には作二郎を認めるだけの自由度があったということでしょう。
作二郎さんの作品のうちでもっとも有名なのが次の作品です。
鶴を折るひとりひとりを処刑する
昭和47年、平安川柳社創立15周年記念大会で秀賞を獲得した句です。このとき作二郎さんはもうひとつ「能面の起きあがるとき地の痛み」という句も詠んでいます。
作二郎の円熟期を代表する句集が『尾張一宮在』(昭和56年5月)でしょう。
ばざあるの らくがきの汽車北を指す
蝶沈む 葱畠には私小説
かくれんぼ 誰も探しに来てくれぬ
四月馬鹿 シルクロードを妊りぬ
あきらかに飢餓 水色の相聞歌
平成7年、阪神淡路大震災が起こりました。このとき作二郎は震災句を集中的に詠み、句集にまとめています。
春を待つ鬼を瓦礫に探さねば 『墨作二郎集・第三集』平成7年9月
この句には私は個人的な思い出がありまして、この句を発句として歌仙「鬼を瓦礫に」を巻きました。震災のあとですから鬼というと死者の霊魂と受け取られると思いますが、句集のあとがきには「この場合の鬼は善であって力であって希望であって親しき仲間である」と書かれています。
椿散華こおどり 白鳳音階図 『遊行』 平成8年10月
快晴の森の記憶の阿修羅像 『伎楽面』平成11年6月
神獣鏡は指切りげんまん 青ぴいまん 『龍灯鬼』平成12年6月
伐折羅大将泰然 雨降るアルバム 『伐折羅』平成13年2月
作二郎さんが常におっしゃっていたのは「これからの川柳」ということです。彼は常に川柳の未来を考えていました。作二郎の行なったことをそのまま継承するのではなくても、彼の川柳精神を新しい時代に即して受け継いでゆくことが私たちの与えられた課題だと思います。作二郎さんはたとえば兵頭全郎などの若い世代の川柳人の作品にも注目していました。本日は若い世代の川柳人にも墨作二郎という川柳人の軌跡を知っておいてほしいという気持ちでお話させていただきました。
ごいっしょに「これからの川柳」を切り開いてゆきたいと思います。
ご清聴ありがとうございました。
(「墨作二郎を偲ぶ会」2017年3月30日、堺市福祉会館大ホール)
2017年3月24日金曜日
俳句と川柳の取り合わせ―「川柳ねじまき」第3号
名古屋の「ねじまき句会」から「川柳ねじまき」第三号(発行人・なかはられいこ)が発行された。
巻頭、なかはられいこの20句は「ととととと」というタイトルである。
代案は雪で修正案も雪 なかはられいこ
きんかんとぎんなん次男と長男に
電柱と岸辺シローは出会えたか
ふくろうとまめでんきゅうが鳴き交わす
無花果と石榴どちらが夜ですか
一読して「取り合わせ」の句だということが分かる。
ふつう取り合わせは俳句で使われる手法である。
なかはらのページのコメントを担当している二村鉄子はこんなふうに書いている。
「取り合わせは即かず離れずのことばとことばを掛け合わせて、思ってもみない効果を生むことを期待して書かれることが多い。読者に対して祈るような気持ちだ。けれど、なかはらの取り合わせは、確信犯的で、バナナのたたき売り的だ」
代案 ― 雪
修正案 ― 雪
きんかん(金柑) ― 長男(あるいは次男)
ぎんなん(銀杏) ― 次男(あるいは長男)
電柱 ― 岸辺シロー(固有名詞)
ふくろう(梟) ― まめでんきゅう(豆電球)
無花果 ― 夜(または昼)
石榴 ― 夜(または昼)
ひらかな・漢字・俳句の季語に相当する語などを使いながら様々なヴァリエーションを展開している。
俳句に限らず、川柳でも取り合わせの句は存在するが、川柳の場合、それは「取り合わせ」ではなくて「飛躍」だと私は思っている。川柳では題詠が多いから、「題」(発想の起点)からどれだけ飛躍するかが腕のみせどころとなる。
妖精は酢豚に似ている絶対似ている 石田柊馬
たとえばこの句の場合、「妖精と酢豚」の取り合わせではなくて、「妖精」という題から「酢豚」に飛躍したのだ。しかし、「AとBの取り合わせ」と「AからBへの飛躍」は結果的に区別のつかないものになってしまう。
今回のなかはらの作品の場合、俳句の取り合わせを意識しながら、更に手のこんだものになっているように思われる。
「ととととと」というタイトルについて。
「の」とか「は」という助詞から川柳性を説明しようとする文章を見かけることがある。
たとえば「は」は川柳の基本文体である「AはB」という問答構造にしばしば使われる。川柳人にとって使いやすい助詞なのだ。
母親はもったいないがだましよい
なかはらは「と」に川柳性を発見したのかもしれない。
「と」はコラボにつながってゆく助詞である。
そういえば、一昨年大阪で「とととと展」というイベントがあった。
安福望の『食器と食パンとペン』の発行を記念して大阪・中崎町で開催され、岡野大嗣・安福望・柳本々々の鼎談があった。岡野の短歌、安福のイラスト、そこに柳本が漫画やアニメの例を加えながら作品を読んでいった。
言葉に言葉を取り合わせるのではなくて、言葉にイラストや絵を取り合わせているのであって、「と」はリンクの思想と結びついている。
さて、話を「ねじまき」に戻して、なかはらの句にコメントを寄せている二村鉄子の句を紹介しておこう。
まずは資料請求たんぽぽ咲く国へ 二村鉄子
えびせんべいいかせんべいと合併症
ヒメムカシヨモギ気圧の谷にあり
きれいでなければ夜景でないと夜
まるで銀杏まばたきを引き換えに
俳人の二村が取り合わせをあまり使わず、川柳人のなかはらが取り合わせの句を書いているのを面白く思った。
先日、名古屋の「ねじまき句会」にはじめて参加した。
作品は事前に出句しておいて、当日はひたすら句の読みに終始する「読みの句会」である。印象的だったのは、句の言葉を正確に読んでゆこうという雰囲気があったことだ。
川柳の読みでよく経験するのは、句の読みを提示する前に、好き嫌いや自分の思いの開陳が多いということだ。それは句を読んでいることにはならないので、句から触発された自分の思いを読んでいるのだ。
「ねじまき句会」で使われていたことばに「親切な読み」というのがあった。句の言葉に直接ない意味まで忖度して読んでしまう態度を指して批判的に使われていた。それだけ、句の読みは言葉に則して厳密に読まれていることになる。
ちょうど「短詩時評」(3月18日)で柳本々々が「ねじまき紀行」のなかはらの発言を「表現者の覚悟」ととらえた文章を読んだ。これもひとつのシンクロニティだと思った。
巻頭、なかはられいこの20句は「ととととと」というタイトルである。
代案は雪で修正案も雪 なかはられいこ
きんかんとぎんなん次男と長男に
電柱と岸辺シローは出会えたか
ふくろうとまめでんきゅうが鳴き交わす
無花果と石榴どちらが夜ですか
一読して「取り合わせ」の句だということが分かる。
ふつう取り合わせは俳句で使われる手法である。
なかはらのページのコメントを担当している二村鉄子はこんなふうに書いている。
「取り合わせは即かず離れずのことばとことばを掛け合わせて、思ってもみない効果を生むことを期待して書かれることが多い。読者に対して祈るような気持ちだ。けれど、なかはらの取り合わせは、確信犯的で、バナナのたたき売り的だ」
代案 ― 雪
修正案 ― 雪
きんかん(金柑) ― 長男(あるいは次男)
ぎんなん(銀杏) ― 次男(あるいは長男)
電柱 ― 岸辺シロー(固有名詞)
ふくろう(梟) ― まめでんきゅう(豆電球)
無花果 ― 夜(または昼)
石榴 ― 夜(または昼)
ひらかな・漢字・俳句の季語に相当する語などを使いながら様々なヴァリエーションを展開している。
俳句に限らず、川柳でも取り合わせの句は存在するが、川柳の場合、それは「取り合わせ」ではなくて「飛躍」だと私は思っている。川柳では題詠が多いから、「題」(発想の起点)からどれだけ飛躍するかが腕のみせどころとなる。
妖精は酢豚に似ている絶対似ている 石田柊馬
たとえばこの句の場合、「妖精と酢豚」の取り合わせではなくて、「妖精」という題から「酢豚」に飛躍したのだ。しかし、「AとBの取り合わせ」と「AからBへの飛躍」は結果的に区別のつかないものになってしまう。
今回のなかはらの作品の場合、俳句の取り合わせを意識しながら、更に手のこんだものになっているように思われる。
「ととととと」というタイトルについて。
「の」とか「は」という助詞から川柳性を説明しようとする文章を見かけることがある。
たとえば「は」は川柳の基本文体である「AはB」という問答構造にしばしば使われる。川柳人にとって使いやすい助詞なのだ。
母親はもったいないがだましよい
なかはらは「と」に川柳性を発見したのかもしれない。
「と」はコラボにつながってゆく助詞である。
そういえば、一昨年大阪で「とととと展」というイベントがあった。
安福望の『食器と食パンとペン』の発行を記念して大阪・中崎町で開催され、岡野大嗣・安福望・柳本々々の鼎談があった。岡野の短歌、安福のイラスト、そこに柳本が漫画やアニメの例を加えながら作品を読んでいった。
言葉に言葉を取り合わせるのではなくて、言葉にイラストや絵を取り合わせているのであって、「と」はリンクの思想と結びついている。
さて、話を「ねじまき」に戻して、なかはらの句にコメントを寄せている二村鉄子の句を紹介しておこう。
まずは資料請求たんぽぽ咲く国へ 二村鉄子
えびせんべいいかせんべいと合併症
ヒメムカシヨモギ気圧の谷にあり
きれいでなければ夜景でないと夜
まるで銀杏まばたきを引き換えに
俳人の二村が取り合わせをあまり使わず、川柳人のなかはらが取り合わせの句を書いているのを面白く思った。
先日、名古屋の「ねじまき句会」にはじめて参加した。
作品は事前に出句しておいて、当日はひたすら句の読みに終始する「読みの句会」である。印象的だったのは、句の言葉を正確に読んでゆこうという雰囲気があったことだ。
川柳の読みでよく経験するのは、句の読みを提示する前に、好き嫌いや自分の思いの開陳が多いということだ。それは句を読んでいることにはならないので、句から触発された自分の思いを読んでいるのだ。
「ねじまき句会」で使われていたことばに「親切な読み」というのがあった。句の言葉に直接ない意味まで忖度して読んでしまう態度を指して批判的に使われていた。それだけ、句の読みは言葉に則して厳密に読まれていることになる。
ちょうど「短詩時評」(3月18日)で柳本々々が「ねじまき紀行」のなかはらの発言を「表現者の覚悟」ととらえた文章を読んだ。これもひとつのシンクロニティだと思った。
2017年3月18日土曜日
川柳は「川柳」を問う―『俳誌要覧』2017年版
『俳誌要覧』(東京四季出版)が発行されて、俳句を中心とした短詩型文学の現在を展望するのに便利なものとなっている。【平成28年の俳句界】岸本尚毅、上田真治【俳文学の現在】〈川柳〉柳本々々〈連句〉小池正博〈研究〉安保博史【句集回顧】関悦史、依光陽子【評論回顧】青木亮人、外山一機【いま、短歌が気になる】堀下翔、鴇田智哉【受賞作を読もう】生駒大祐【俳句甲子園をふりかえる】黒岩徳将。これに鼎談と年代別自選句一覧、結社同人誌資料などが付く。
まず、俳句界の現在を知る意味で上田信治の〈「中心」が見えない〉を興味深く読んだ。
上田は「同時代の俳句をいっせいに価値づけるような、中心性や求心力が失われて久しい。いや、そういったものは、もう現れないのかもしれない」という現状認識に立った上で、「かつてあった求心力の消失によって生じた空白を埋めるような、いくつかのモーメント」を挙げている。
「トリックスターの活動」として上田が挙げているのは、テレビ番組プレバトの夏井いつき、「屍派」の北大路翼、『俳句を遊べ!』の佐藤文香、「東京マッハ」の千野帽子・長嶋有などである。「トリックスター」というのは悪い意味ではなく、「従来の境界線を超えて活動する書き手たち」という意味で使われているようだ。
次に上田が挙げるのは「二十代の俳人たち」で、俳句甲子園出身者が多い「群青」、若手が多く入っている「里」などの若手俳人。「彼ら世代が、特定の俳人の指導を受けることなく、作家であろうとする意志は、動向として明確にあらわれている」と述べられている。
さらに、中心性が失われた時代における「個々の俳人による孤独な探求」として、中田剛、堀下翔、澤好摩などの名が挙げられている。俳句史への再接続が個々の探究として試みられていると言うのである。
上田が分析しているような俳句界の現在は、俳句の世界を外から眺めている私にも納得できるものだ。むしろ外部の読者の目には、上田の挙げているような俳人の活動の方が俳句の現在、俳句のセンターとして目にうつってくる。句集回顧で関悦史や依光陽子の挙げている句集のいくつかは、この時評でも紹介したことがある。
ひるがえって、川柳の現在はどうなっているだろうか。
そもそも「川柳界」というものが今でも存在しているかどうかが疑問である。中心とトリックスターどころの話ではない。そもそも中心がなければトリックスターの活動も意味をなさないから、トリックスター的な動きをする川柳人も見られない。孤独な探求にならざるをえないのである。
ブログやツイッターに活路を求めるのもひとつの方法だが、外山一機が「ネット上の評論」に触れているのに注目した。ネットの読者は自分に都合の良いように記事を選り分けて読んでいる。そのような読者の自己愛に耐えてネットに書き続けるには読者の自己愛を超えるほどの書き手の自己愛が必要になると外山は言う。外山は柳本々々の名を挙げている。
「週に数回という猛烈なペースで記事を更新し続けているにもかかわらず、柳本の言葉が示唆に富んでいるのは、柳本が何よりもまず自分のためにこそ書いているからだろう。柳本の言葉が輝くのは、たぶんに躊躇しながら、しかし、はっきりと持論を提示したときだ」
(外山の文章には一か所だけ誤認があり、「おかじょうき」は歌誌ではなくて川柳誌である。)
では、柳本の文章「現代川柳を遠く離れて」を読んでみよう。
柳本は《川柳とはいったい何か》という川柳のジャンルそのものを問い返した句集として、兵頭全郎『n≠0 PROTOTYPE』と川合大祐『スロー・リバー』の二冊を挙げている。
おはようございます ※個人の感想です 兵頭全郎
ぐびゃら岳じゅじゅべき壁にびゅびゅ挑む 川合大祐
兵頭の句では「おはようございます」という普遍的・絶対的な言説に「※個人の感想です」という個人的・相対的な注釈が添えられることによって、川柳ジャンルそのものに任意性を持ち込んでいる。川合の場合はもはや意味が成立しないような場所から一句が始まっている。「ぐびゃら/じゅじゅべき/びゅびゅ」という意味のとれない言葉の系列のなかに「岳/壁に/挑む」という意味のとれる言葉の系列が挟みこまれている。柳本はそれを縞馬の縞にたとえ、どちらの縞をとるか、どのようにとるかが問われているのだと言う。
「兵頭全郎と川合大祐、ふたりの川柳作家に共通しているのは、読者を巻き込んでの創作行為としての川柳を提出している点にある。その川柳を読んでしまえば、読者自身が立ち位置を問われることになる。そういう川柳を考える川柳の現場がこの二冊にははっきりとあらわれている」
このほかに柳本は岩田多佳子『ステンレスの木』、『15歳の短歌・俳句・川柳』全3巻、久保田紺『大阪のかたち』、熊谷冬鼓『雨の日は』などを取り上げたあと、「現代川柳にとって2016年は、川柳というジャンルの再吟味の年であったのだということだ」と述べている。(まだ発行されていないので詳しくは言えないが、今月末に刊行予定の「川柳カード」14号でも柳本は兵頭・川合・岩田の三冊の句集を取り上げて論じている。川柳はようやく句集の時代に入ったのである。)
最後に柳本は野沢省悟が川柳誌「触光」で募集した「高田寄生木賞」に触れている。今回、この賞は「川柳に関する論文・エッセイ」を選考の対象としている(発表は5月ごろになるようだ)。そして、柳本はこんなふうに書いている。
「川柳というジャンルのなかでいろんな人間がそれぞれの場所からこれまでとは違った光を灯そうとしている。」「2017年がその光を迎えとるだろう」
私は柳本ほど楽観的にはなれないが、少しは希望をもってもいいのかもしれないと思うのである。
まず、俳句界の現在を知る意味で上田信治の〈「中心」が見えない〉を興味深く読んだ。
上田は「同時代の俳句をいっせいに価値づけるような、中心性や求心力が失われて久しい。いや、そういったものは、もう現れないのかもしれない」という現状認識に立った上で、「かつてあった求心力の消失によって生じた空白を埋めるような、いくつかのモーメント」を挙げている。
「トリックスターの活動」として上田が挙げているのは、テレビ番組プレバトの夏井いつき、「屍派」の北大路翼、『俳句を遊べ!』の佐藤文香、「東京マッハ」の千野帽子・長嶋有などである。「トリックスター」というのは悪い意味ではなく、「従来の境界線を超えて活動する書き手たち」という意味で使われているようだ。
次に上田が挙げるのは「二十代の俳人たち」で、俳句甲子園出身者が多い「群青」、若手が多く入っている「里」などの若手俳人。「彼ら世代が、特定の俳人の指導を受けることなく、作家であろうとする意志は、動向として明確にあらわれている」と述べられている。
さらに、中心性が失われた時代における「個々の俳人による孤独な探求」として、中田剛、堀下翔、澤好摩などの名が挙げられている。俳句史への再接続が個々の探究として試みられていると言うのである。
上田が分析しているような俳句界の現在は、俳句の世界を外から眺めている私にも納得できるものだ。むしろ外部の読者の目には、上田の挙げているような俳人の活動の方が俳句の現在、俳句のセンターとして目にうつってくる。句集回顧で関悦史や依光陽子の挙げている句集のいくつかは、この時評でも紹介したことがある。
ひるがえって、川柳の現在はどうなっているだろうか。
そもそも「川柳界」というものが今でも存在しているかどうかが疑問である。中心とトリックスターどころの話ではない。そもそも中心がなければトリックスターの活動も意味をなさないから、トリックスター的な動きをする川柳人も見られない。孤独な探求にならざるをえないのである。
ブログやツイッターに活路を求めるのもひとつの方法だが、外山一機が「ネット上の評論」に触れているのに注目した。ネットの読者は自分に都合の良いように記事を選り分けて読んでいる。そのような読者の自己愛に耐えてネットに書き続けるには読者の自己愛を超えるほどの書き手の自己愛が必要になると外山は言う。外山は柳本々々の名を挙げている。
「週に数回という猛烈なペースで記事を更新し続けているにもかかわらず、柳本の言葉が示唆に富んでいるのは、柳本が何よりもまず自分のためにこそ書いているからだろう。柳本の言葉が輝くのは、たぶんに躊躇しながら、しかし、はっきりと持論を提示したときだ」
(外山の文章には一か所だけ誤認があり、「おかじょうき」は歌誌ではなくて川柳誌である。)
では、柳本の文章「現代川柳を遠く離れて」を読んでみよう。
柳本は《川柳とはいったい何か》という川柳のジャンルそのものを問い返した句集として、兵頭全郎『n≠0 PROTOTYPE』と川合大祐『スロー・リバー』の二冊を挙げている。
おはようございます ※個人の感想です 兵頭全郎
ぐびゃら岳じゅじゅべき壁にびゅびゅ挑む 川合大祐
兵頭の句では「おはようございます」という普遍的・絶対的な言説に「※個人の感想です」という個人的・相対的な注釈が添えられることによって、川柳ジャンルそのものに任意性を持ち込んでいる。川合の場合はもはや意味が成立しないような場所から一句が始まっている。「ぐびゃら/じゅじゅべき/びゅびゅ」という意味のとれない言葉の系列のなかに「岳/壁に/挑む」という意味のとれる言葉の系列が挟みこまれている。柳本はそれを縞馬の縞にたとえ、どちらの縞をとるか、どのようにとるかが問われているのだと言う。
「兵頭全郎と川合大祐、ふたりの川柳作家に共通しているのは、読者を巻き込んでの創作行為としての川柳を提出している点にある。その川柳を読んでしまえば、読者自身が立ち位置を問われることになる。そういう川柳を考える川柳の現場がこの二冊にははっきりとあらわれている」
このほかに柳本は岩田多佳子『ステンレスの木』、『15歳の短歌・俳句・川柳』全3巻、久保田紺『大阪のかたち』、熊谷冬鼓『雨の日は』などを取り上げたあと、「現代川柳にとって2016年は、川柳というジャンルの再吟味の年であったのだということだ」と述べている。(まだ発行されていないので詳しくは言えないが、今月末に刊行予定の「川柳カード」14号でも柳本は兵頭・川合・岩田の三冊の句集を取り上げて論じている。川柳はようやく句集の時代に入ったのである。)
最後に柳本は野沢省悟が川柳誌「触光」で募集した「高田寄生木賞」に触れている。今回、この賞は「川柳に関する論文・エッセイ」を選考の対象としている(発表は5月ごろになるようだ)。そして、柳本はこんなふうに書いている。
「川柳というジャンルのなかでいろんな人間がそれぞれの場所からこれまでとは違った光を灯そうとしている。」「2017年がその光を迎えとるだろう」
私は柳本ほど楽観的にはなれないが、少しは希望をもってもいいのかもしれないと思うのである。
2017年3月12日日曜日
「場」と「プレーンテクスト」
先日の「大阪短歌チョップ2」のトークを聞いていて、「場」ということについて改めて意識させられた。
短歌の「場」とは、テクストに読みの方向性を与えるもので、作者・性別・職業・結社など作者に関する情報も「場」である、ということだった。『岩波現代短歌辞典』の加藤治郎の説明が引用されていたが、ここでは『現代短歌ハンドブック』(雄山閣)から引用してみよう。執筆者は栗木京子。
「短歌作品を鑑賞する際の助けとなる、作品に関する情報や背景のことを場と総称する。短歌は一首一首が独立した作品ではあるが、あまりに詩型が短いため内容を把握しきれない場合が多い。そのとき作者名や作者の経歴、歌が作られた場所や時期、歴史的背景や社会状況などが添えられていると、鑑賞の大きな助けになる。こうした情報は、連作の場合は表題や詞書、あるいは前後の作品との関連によってもたらされる。また、歌集ではさらにそこに作者略歴やあとがきが加わって、場の及ぼす力が強まることになる。こうした場の威力が最も発揮されるのは、写実主義の方法においてである。すなわち、作中の〈われ〉が作者のことを指し、詠われた内容が事実に基づくとする作歌理念のもとでは、場は最も有効に機能する。だが、前衛短歌が作者と作品の間に『虚構』を導入して以来、場の影響力は一義的なものではなくなってきている」
長くなったが、このあとの話の前提として上の内容を押さえておきたい。
「大阪短歌チョップ2」ではこのような意味での「場」について直接話し合われたわけではなかったが、私が連想したのは俳誌「オルガン」8号の対談「プレーンテキストってなんだろう」のことだった。生駒大祐と福田若之の対談で、生駒が「プレーンテキスト」好みを表明している。話は「オルガン」6号に遡り、8号の対談でも引用されているが、話の順序として6号の対談部分を紹介しておこう。
生駒 僕は、俳句ってさらりとしたものだと思ってるんです。活字がなかったら、俳句って、もっと、どろどろしたものっていうか、もうちょっと土俗的なものに近づいていく。そうなっていたら僕の好きな俳句は生まれなかった。プレーンテキストに近づいてくれたから僕の好きな俳句が生まれていて、それは重要なことだと思う。
田島 プレーンテキストって?
生駒 俳句がある面白い情報を持っているとして、それがノイズなく仮に伝わったら、という仮定の下での表現形態ですかね。
田島 活字で書かれていようが、書として書かれていようが、どちらでも伝わってくる同じ部分をプレーンテキストと呼んでいるわけだ。
生駒 はい。Wardとかで、コピーして貼り付けるときに「プレーンテキストで貼り付け」っていうのがあります。それを念頭に置いています。
宮本 それは自分の頭のなかにしかないのでは?
生駒 難しいですね。ある面白い発想が生まれたとして、それが言葉に返還される過程で物の面白さに変容する。僕はここの時点の面白さをプレーンテキストと呼んでいて、それが文字として他者にわかる形で書かれた時点で視覚的なノイズが入る。
コンピュータに詳しくないので、私にはよく分からないところもあるが、ウィキペディアでは次のような説明がされている(専門用語が煩雑なのでところどころ省略して引用)。
「プレーンテキスト (plain text) とは、コンピュータ上で文章を扱うための一般的なファイルフォーマット、または文字列の形式である。ワープロで作成した文章とは違い、文字ごとの色や形状、文章に含まれる図などといった情報を含まない。プレーンテキストに対して、文字ごとの色や形状、文章に含まれる図などといった情報を含む文章のことをマルチスタイルテキストと呼ぶ。プレーンテキストには文字情報以外の情報は一切含まず、テキストデータのみで構成されている。格納できる情報が純粋にテキストのみに限定される為、文字の強調や加工や言語情報、フォント情報を持つことが出来ない。これらの情報を格納する場合は、HTMLのような工夫が必要になる」
こういうものがプレーンテキストだとすれば、読者が実際にテキストを読む場合にはそこにさまざまな「ノイズ」が加わることになる。生駒はそのようなノイズとしてフォントや字体、句集・歌集などにおける表紙のあり方、作者の情報、境涯性など、読みに一定の方向性を与える一切のものを挙げている。一冊の句集を編集する場合にはテキストにさまざまな加工をすることになるが、それを生駒は「ノイズ」ととらえていることになる。
そして、興味深かったのは対談者である生駒と福田のプレーンテキストに対するスタンスの違いである。
福田 僕は、外的要因というのは、絶対に切り離せないものだと思っているんです。だから「プレーンテキスト」という考え方を受け入れがたいものに感じていました。でも、到達しえない点でしか実現しえないんだと考えれば、虚の概念としてそれを受け入れられる気がしました。僕にとってそれを目指すことがやりたいことであるかどうかは別として、理解することはできる。
生駒 そういう意味では絶対的なプレーンテキストっていうのはない。むしろ僕はどこかでそれを愛しているのかもしれないです。収束に近づけていく所作そのものを。
今回は引用に終始して時評になっていないのだが、読みに方向性を与えるものをノイズととらえるのはおもしろいなと思った。生駒のいう「プレーンテキスト性」とはズレるのかもしれないが、私自身の問題意識にひきつけると、最初に引用した「場」の問題と結びついてゆく。作品をどう読むかという場合、短詩型ではむしろそのようなノイズを手がかりとして読んでゆくことが多いのではないだろうか。逆に、作者論的な読みを排除して読者論的に読もうとすると、「読みのアナーキズム」と批判されたりする。
川柳では作者と結びつけて作品を読む読み方が依然として強く、その一方で作者とは直接関係ない言葉の世界で飛躍するテキストも現れてきている。
うまく言語化できないが、作者とテキストをめぐってはそれぞれのジャンルの特殊性をはらみながら、二つの流れがいま短詩型の世界でせめぎ合っているように感じる。
短歌の「場」とは、テクストに読みの方向性を与えるもので、作者・性別・職業・結社など作者に関する情報も「場」である、ということだった。『岩波現代短歌辞典』の加藤治郎の説明が引用されていたが、ここでは『現代短歌ハンドブック』(雄山閣)から引用してみよう。執筆者は栗木京子。
「短歌作品を鑑賞する際の助けとなる、作品に関する情報や背景のことを場と総称する。短歌は一首一首が独立した作品ではあるが、あまりに詩型が短いため内容を把握しきれない場合が多い。そのとき作者名や作者の経歴、歌が作られた場所や時期、歴史的背景や社会状況などが添えられていると、鑑賞の大きな助けになる。こうした情報は、連作の場合は表題や詞書、あるいは前後の作品との関連によってもたらされる。また、歌集ではさらにそこに作者略歴やあとがきが加わって、場の及ぼす力が強まることになる。こうした場の威力が最も発揮されるのは、写実主義の方法においてである。すなわち、作中の〈われ〉が作者のことを指し、詠われた内容が事実に基づくとする作歌理念のもとでは、場は最も有効に機能する。だが、前衛短歌が作者と作品の間に『虚構』を導入して以来、場の影響力は一義的なものではなくなってきている」
長くなったが、このあとの話の前提として上の内容を押さえておきたい。
「大阪短歌チョップ2」ではこのような意味での「場」について直接話し合われたわけではなかったが、私が連想したのは俳誌「オルガン」8号の対談「プレーンテキストってなんだろう」のことだった。生駒大祐と福田若之の対談で、生駒が「プレーンテキスト」好みを表明している。話は「オルガン」6号に遡り、8号の対談でも引用されているが、話の順序として6号の対談部分を紹介しておこう。
生駒 僕は、俳句ってさらりとしたものだと思ってるんです。活字がなかったら、俳句って、もっと、どろどろしたものっていうか、もうちょっと土俗的なものに近づいていく。そうなっていたら僕の好きな俳句は生まれなかった。プレーンテキストに近づいてくれたから僕の好きな俳句が生まれていて、それは重要なことだと思う。
田島 プレーンテキストって?
生駒 俳句がある面白い情報を持っているとして、それがノイズなく仮に伝わったら、という仮定の下での表現形態ですかね。
田島 活字で書かれていようが、書として書かれていようが、どちらでも伝わってくる同じ部分をプレーンテキストと呼んでいるわけだ。
生駒 はい。Wardとかで、コピーして貼り付けるときに「プレーンテキストで貼り付け」っていうのがあります。それを念頭に置いています。
宮本 それは自分の頭のなかにしかないのでは?
生駒 難しいですね。ある面白い発想が生まれたとして、それが言葉に返還される過程で物の面白さに変容する。僕はここの時点の面白さをプレーンテキストと呼んでいて、それが文字として他者にわかる形で書かれた時点で視覚的なノイズが入る。
コンピュータに詳しくないので、私にはよく分からないところもあるが、ウィキペディアでは次のような説明がされている(専門用語が煩雑なのでところどころ省略して引用)。
「プレーンテキスト (plain text) とは、コンピュータ上で文章を扱うための一般的なファイルフォーマット、または文字列の形式である。ワープロで作成した文章とは違い、文字ごとの色や形状、文章に含まれる図などといった情報を含まない。プレーンテキストに対して、文字ごとの色や形状、文章に含まれる図などといった情報を含む文章のことをマルチスタイルテキストと呼ぶ。プレーンテキストには文字情報以外の情報は一切含まず、テキストデータのみで構成されている。格納できる情報が純粋にテキストのみに限定される為、文字の強調や加工や言語情報、フォント情報を持つことが出来ない。これらの情報を格納する場合は、HTMLのような工夫が必要になる」
こういうものがプレーンテキストだとすれば、読者が実際にテキストを読む場合にはそこにさまざまな「ノイズ」が加わることになる。生駒はそのようなノイズとしてフォントや字体、句集・歌集などにおける表紙のあり方、作者の情報、境涯性など、読みに一定の方向性を与える一切のものを挙げている。一冊の句集を編集する場合にはテキストにさまざまな加工をすることになるが、それを生駒は「ノイズ」ととらえていることになる。
そして、興味深かったのは対談者である生駒と福田のプレーンテキストに対するスタンスの違いである。
福田 僕は、外的要因というのは、絶対に切り離せないものだと思っているんです。だから「プレーンテキスト」という考え方を受け入れがたいものに感じていました。でも、到達しえない点でしか実現しえないんだと考えれば、虚の概念としてそれを受け入れられる気がしました。僕にとってそれを目指すことがやりたいことであるかどうかは別として、理解することはできる。
生駒 そういう意味では絶対的なプレーンテキストっていうのはない。むしろ僕はどこかでそれを愛しているのかもしれないです。収束に近づけていく所作そのものを。
今回は引用に終始して時評になっていないのだが、読みに方向性を与えるものをノイズととらえるのはおもしろいなと思った。生駒のいう「プレーンテキスト性」とはズレるのかもしれないが、私自身の問題意識にひきつけると、最初に引用した「場」の問題と結びついてゆく。作品をどう読むかという場合、短詩型ではむしろそのようなノイズを手がかりとして読んでゆくことが多いのではないだろうか。逆に、作者論的な読みを排除して読者論的に読もうとすると、「読みのアナーキズム」と批判されたりする。
川柳では作者と結びつけて作品を読む読み方が依然として強く、その一方で作者とは直接関係ない言葉の世界で飛躍するテキストも現れてきている。
うまく言語化できないが、作者とテキストをめぐってはそれぞれのジャンルの特殊性をはらみながら、二つの流れがいま短詩型の世界でせめぎ合っているように感じる。
2017年3月3日金曜日
「大阪短歌チョップ2」という場
2月25日、大阪難波の「まちライブラリー」で「大阪短歌チョップ2」が開催された。2014年7月の第一回にも私は参加して、この時評でもレポートを書いているが(2014年7月26日)、今回もたいへん刺激的なイベントだったので報告しておきたい。
大会パンフの「ご挨拶」には次のように書かれている。
「この三年でどれだけのことが起こり、そして何が変わったのか。たとえば、大阪・中崎町に詩歌を主に扱う古書店『葉ね文庫』がオープンし、多くのお客さんで賑わっています。たとえば、安福望『食器と食パンとペン わたしの好きな短歌』(キノブックス)が発売され、多くの読者が安福さんの絵と、安福さんが選んだ短歌に魅了されました。どちらも前回の大阪短歌チョップのときにはなかったもので、三年前には想像できなかったことが今、起こっています」
「葉ね文庫」には川柳の句集や同人誌を置いてもらっているし、安福さんのイラストには最近では川柳作品も登場するようになった。短歌中心のイベントではあるが、川柳もその恩恵を受けていることがわかる。
会場には午後に着いたが、天野慶のかるた体験コーナーがはじまっていた。天野慶には一昨年の「川柳フリマ」のときにゲストに来てもらったことがある。
13時30分からのトークセッションは「あつまる、ひろがる~短歌の「場」の現場~」というテーマ。司会の土岐友浩は事情により欠席だったので光森裕樹が司会をつとめた。パネリストは荻原裕幸・田中ましろ・石井僚一。
まず石井僚一が若いのにびっくりする。石井は「短歌研究新人賞」を受賞したあと虚構論争が巻き起こったことで著名である。昨年の「川柳フリマ」で山田消児をゲストに迎えたときにも石井の短歌が話題になった。また、石井僚一短歌賞を自ら創設したことも波紋をよんだ。短歌賞に名前を冠しているので、「もう死んだ人かと思った」と言われたこともあるそうだ。北大短歌会で活躍しているというから若いはずだ。こんな人が川柳にも五、六人ほしいと思った。
司会の光森はテーマである「場」の説明からはじめた。『岩波現代短歌辞典』によれば、短歌の「場」とは、読み方に方向性を与えるもの、作者・性別・職業・結社など作者に関する情報も「場」である。「場」は一般にはメディアとか媒体という意味でも使われる。それらを含めて「場」の問題を考えてゆくということらしい。
まず、荻原について。光森はキイワードとして①インターネット②歌葉新人賞③短歌ヴァーサスの三点を挙げた。以下は、荻原自身の発言から。
荻原が同人誌「フォルテ」を立ち上げたのは、短歌研究新人賞を受賞したあと、総合誌に発表の場がないなら自分たちで同人誌を作ろうということだったらしい。ところが80年代後半、総合誌が彼らに発表の場所を提供しはじめる。既存の場ではできないと思っていたことが、歌壇に取り込まれていくという話だった。
次に、田中ましろについて。光森の上げたキイ・ワードは①うたらば②かたすみさがし③短歌男子。以下、田中の発言から。
「うたらば」は作品をネットで募集して選んだ歌に写真をつけてフリーペーパーを発行する。「短歌を知らない人に、短歌の面白さを伝えたい」ということで始めた。「フリーペーパーうたらば」のほかに「ブログパーツ短歌」も募集していて、その特徴として田中は次の5点を挙げた。①共通認識をフックにして読者を納得させる②読者の脳内に想起させるイメージが魅力的③切り取られた31文字の前後にある物語を考えさせる力がある④作中主体がどうしようもないほど人間らしくて好感が持てる⑤面白い。
フリペの場合はもう少し世界観を入れてゆくが、とにかくどう話題を作ってゆくか、イベント化するかを考えているということだった。
三人目、石井僚一について。光森のキイ・ワードは①短歌研究新人賞②石井僚一短歌賞③毎月歌壇。以下、石井の発言から。
2014年4月に「北海道大学短歌会」に入会。「父親のような雨に打たれて」で短歌研究新人賞を受賞。「石井は生きている歌会」を各地で開催。ネットプリント「毎月歌壇」の選者を谷川電話とつとめる。石井僚一短歌賞をはじめた理由をいろいろ言ったのは後づけで、「できるだけやれることはやっておこう」という気持ちからだったという。
ここで私はトーク会場から中座して、二階の「葉ねのはなし」に移動した。池上規公子の話を聞きたかったからだ。葉ね文庫は人気があるので、けっこう人が集まっていた。葉ね文庫を開店した経緯、なぜ中崎町を選んだか、理想とする本屋のイメージ、影響を受けた書店などについて語られた。これまで断片的にしか知らなかったことを、改めて彼女自身の口から聞くことができてよかった。
再びトーク会場に戻ると、石井が「歌会」をイチ押ししていることをめぐって話が進んでいた。なぜそんなに「歌会」がいいのかという疑義に対して、石井は自分にとってネットはすでに前提として最初から存在していたので、そこから「歌会」の方へ向かったと答えた。荻原にとっては「歌会」の方が前提としてあって、そこからネットの可能性の方に向かったという点が対照的だ。
田中ましろはツイッターなどで歌を発表するのは以前に比べて減る傾向にあり、ツールの使い方が変化してきているのではないかと述べていた。
あと、私が席を外していたあいだに、自分の名前を冠する短歌賞を自分で創設することの是非をめぐって応酬があったようだ。
最後に、光森によるまとめ。
光森はいま沖縄に住んでいて、沖縄のひとは「本土」「内地」という呼び方をするが、光森自身は「本土」という言い方は好きではなく、「内地」という言い方をする。沖縄は「内」に対して「外」に位置するが、「外」はさらに外延に位置するものからは「内」への通路になるわけで、短詩型の場合も同じように考えることができるのではないか、ということだった。
あと、もうひとつのトークセッション「ムシトーク!~新しい短歌こっちにもあります~」や「安福望のライブドローイング」などを見て、最後に飯田和馬と岡野大嗣の朗読を聞いてから会場を後にした。前回は俳人の姿も見かけたのに、今回は俳人・川柳人の参加がほとんどなかったのが残念な気がした。いまどこでどんなことが起こっているかを知っておくことが重要なのだ。イベントをかげで支えた牛隆佑をはじめとするスタッフのみなさんにも敬意を表しておきたい。
大会パンフの「ご挨拶」には次のように書かれている。
「この三年でどれだけのことが起こり、そして何が変わったのか。たとえば、大阪・中崎町に詩歌を主に扱う古書店『葉ね文庫』がオープンし、多くのお客さんで賑わっています。たとえば、安福望『食器と食パンとペン わたしの好きな短歌』(キノブックス)が発売され、多くの読者が安福さんの絵と、安福さんが選んだ短歌に魅了されました。どちらも前回の大阪短歌チョップのときにはなかったもので、三年前には想像できなかったことが今、起こっています」
「葉ね文庫」には川柳の句集や同人誌を置いてもらっているし、安福さんのイラストには最近では川柳作品も登場するようになった。短歌中心のイベントではあるが、川柳もその恩恵を受けていることがわかる。
会場には午後に着いたが、天野慶のかるた体験コーナーがはじまっていた。天野慶には一昨年の「川柳フリマ」のときにゲストに来てもらったことがある。
13時30分からのトークセッションは「あつまる、ひろがる~短歌の「場」の現場~」というテーマ。司会の土岐友浩は事情により欠席だったので光森裕樹が司会をつとめた。パネリストは荻原裕幸・田中ましろ・石井僚一。
まず石井僚一が若いのにびっくりする。石井は「短歌研究新人賞」を受賞したあと虚構論争が巻き起こったことで著名である。昨年の「川柳フリマ」で山田消児をゲストに迎えたときにも石井の短歌が話題になった。また、石井僚一短歌賞を自ら創設したことも波紋をよんだ。短歌賞に名前を冠しているので、「もう死んだ人かと思った」と言われたこともあるそうだ。北大短歌会で活躍しているというから若いはずだ。こんな人が川柳にも五、六人ほしいと思った。
司会の光森はテーマである「場」の説明からはじめた。『岩波現代短歌辞典』によれば、短歌の「場」とは、読み方に方向性を与えるもの、作者・性別・職業・結社など作者に関する情報も「場」である。「場」は一般にはメディアとか媒体という意味でも使われる。それらを含めて「場」の問題を考えてゆくということらしい。
まず、荻原について。光森はキイワードとして①インターネット②歌葉新人賞③短歌ヴァーサスの三点を挙げた。以下は、荻原自身の発言から。
荻原が同人誌「フォルテ」を立ち上げたのは、短歌研究新人賞を受賞したあと、総合誌に発表の場がないなら自分たちで同人誌を作ろうということだったらしい。ところが80年代後半、総合誌が彼らに発表の場所を提供しはじめる。既存の場ではできないと思っていたことが、歌壇に取り込まれていくという話だった。
次に、田中ましろについて。光森の上げたキイ・ワードは①うたらば②かたすみさがし③短歌男子。以下、田中の発言から。
「うたらば」は作品をネットで募集して選んだ歌に写真をつけてフリーペーパーを発行する。「短歌を知らない人に、短歌の面白さを伝えたい」ということで始めた。「フリーペーパーうたらば」のほかに「ブログパーツ短歌」も募集していて、その特徴として田中は次の5点を挙げた。①共通認識をフックにして読者を納得させる②読者の脳内に想起させるイメージが魅力的③切り取られた31文字の前後にある物語を考えさせる力がある④作中主体がどうしようもないほど人間らしくて好感が持てる⑤面白い。
フリペの場合はもう少し世界観を入れてゆくが、とにかくどう話題を作ってゆくか、イベント化するかを考えているということだった。
三人目、石井僚一について。光森のキイ・ワードは①短歌研究新人賞②石井僚一短歌賞③毎月歌壇。以下、石井の発言から。
2014年4月に「北海道大学短歌会」に入会。「父親のような雨に打たれて」で短歌研究新人賞を受賞。「石井は生きている歌会」を各地で開催。ネットプリント「毎月歌壇」の選者を谷川電話とつとめる。石井僚一短歌賞をはじめた理由をいろいろ言ったのは後づけで、「できるだけやれることはやっておこう」という気持ちからだったという。
ここで私はトーク会場から中座して、二階の「葉ねのはなし」に移動した。池上規公子の話を聞きたかったからだ。葉ね文庫は人気があるので、けっこう人が集まっていた。葉ね文庫を開店した経緯、なぜ中崎町を選んだか、理想とする本屋のイメージ、影響を受けた書店などについて語られた。これまで断片的にしか知らなかったことを、改めて彼女自身の口から聞くことができてよかった。
再びトーク会場に戻ると、石井が「歌会」をイチ押ししていることをめぐって話が進んでいた。なぜそんなに「歌会」がいいのかという疑義に対して、石井は自分にとってネットはすでに前提として最初から存在していたので、そこから「歌会」の方へ向かったと答えた。荻原にとっては「歌会」の方が前提としてあって、そこからネットの可能性の方に向かったという点が対照的だ。
田中ましろはツイッターなどで歌を発表するのは以前に比べて減る傾向にあり、ツールの使い方が変化してきているのではないかと述べていた。
あと、私が席を外していたあいだに、自分の名前を冠する短歌賞を自分で創設することの是非をめぐって応酬があったようだ。
最後に、光森によるまとめ。
光森はいま沖縄に住んでいて、沖縄のひとは「本土」「内地」という呼び方をするが、光森自身は「本土」という言い方は好きではなく、「内地」という言い方をする。沖縄は「内」に対して「外」に位置するが、「外」はさらに外延に位置するものからは「内」への通路になるわけで、短詩型の場合も同じように考えることができるのではないか、ということだった。
あと、もうひとつのトークセッション「ムシトーク!~新しい短歌こっちにもあります~」や「安福望のライブドローイング」などを見て、最後に飯田和馬と岡野大嗣の朗読を聞いてから会場を後にした。前回は俳人の姿も見かけたのに、今回は俳人・川柳人の参加がほとんどなかったのが残念な気がした。いまどこでどんなことが起こっているかを知っておくことが重要なのだ。イベントをかげで支えた牛隆佑をはじめとするスタッフのみなさんにも敬意を表しておきたい。