2014年10月3日金曜日

台所で言葉の調理がはじまった

加藤久子の作品が掲載されている川柳誌は「MANO」と「杜人」の二誌である。
今回は「MANO」19号、加藤久子の「トルコの空」20句を読んでみたい。

水っぽい体になって箱を出る

主語が省略されているので、誰が、または何が箱を出たのかわからない。
分からなくても「私が」と補って読んでおく。
「箱」もどんな箱か分からないが、部屋とか家のことを言っているような感じがする。
感覚的だけれども、何となく感じは伝わるのだ。
箱の中にいるあいだに、体が水っぽくなってしまった、外に出てみようか、という気分だろう。箱の中にいるのが嫌ということもないのだが、少し違う空気も吸ってみたいのだろう。

蔦の蔓伸びる新聞店の昼

早朝や夕方の配達時間とは異なり、昼の新聞店はのんびりしていることだろう。
無為の時間が流れ、蔦の蔓が伸びていく。

色とりどりの毒を抱えて台所

舞台は台所である。
そこは料理を作る狭い空間であって、ニンジンやキュウリやナスなど色とりどりの食材が並んでいる。それを久子は「毒」に見立てる。毒殺を得意としたボルジア家のように、嫌いなヒトに毒を食べさせる…という空想である。
今回の久子の作品は基本的には「台所川柳」なのではないかと思った。
けれども、久子の台所川柳は世間で書かれている作品と何と異なった姿をしていることだろう。
台所で調理をするというのは日常生活のひとこまに過ぎない。日々繰り返される個人的で狭い体験である。それを事実として書く書き方もあるが、事実以外の何も考えない人は日常の牢獄に住んでいるようなものだ。久子がそこに言葉を加えると、食材の姿は一変する。
こういうことを思うのは、久子の次の句が念頭にあるからかもしれない。
「レタス裂く窓いっぱいの異人船」
台所にいても、久子の眼には別の風景が見えている。たとえば、こんなふうに。

自白はじまっているキャベツの芯
水耕レタス 酸っぱい空を噛む
法話集ぬかに漬け込む茄子胡瓜
梅干しは甕に納まり無音

台所の光景でありながら、何やら異質な世界の予感がする。
世界は「ここ」でありながら別の「どこか」とつながっている。

義母も母も店頭から消える

無為な日常的時間の流れ。
けれども、ふと気づくと親しい人びとはもういない。

ひとりごと軍服少年見え隠れ

日常時間の中に、ふと過去の時間が紛れ込む。
たとえば、戦争。
日常の背後に戦前の軍国少年の姿が彷彿とするのだ。
かつてドストエフスキーを愛読していたころ、革命運動を体験し、逮捕されて銃殺刑寸前に皇帝の恩赦をえてシベリア流刑、やがて聖なるロシアに回帰してゆく、その体験の振幅の激しさに舌を巻いたことがあった。普通の人間にこのような体験ができるわけもなく、私たちは平凡な人生を歩んでいるのである。川柳に書くべき題材といっても特に持ち合わせているわけではない。では、どうすればよいのか。
久子は「MANO」19号のエッセイでこんなことを書いている。

〈 東京行きの新幹線が仙台を発車する寸前だった。三月、冷たい雨の午後、乗車してきた長身の女性が立ち止まって、言った。「おとなりのお席、座らせて頂いてよろしいでしょうか?」
うとうとしていた所へ、あまりにご丁寧なご挨拶に思わず座りなおして、「どうぞ」と。裾の長い黒いコートに、頭からすっぽり目深くフードを被っている。 〉

ミステリアスな雰囲気の女性だったという。うとうとしているところに現れたのだから、白昼夢のたぐいだったのかもしれない。

〈 福島駅に近づいた時、車窓がいきなり雪に変わった。「新しい雪ですね」と言って立ち上がった彼女、「ご道中どうぞお気をつけなさいませ」と降りていった。その時ちらっと見えたフードの中の顔は真っ白で、唇は真っ赤。でも不快ではなくむしろ美しく、それが少し怖かった。 〉

彼女は二言・三言で周囲の雰囲気を変えてしまった。言葉の力をもっていたのだ。
久子の句に戻ろう。

トルコの空ですここへ来てごらん

作者が本当にトルコへ行ったのかどうかは知らない。
トルコは親日的な国で、日本からの観光客もよく訪れるから本当に行ったのかも知れない。
現実の場所であろうと架空の場所であろうと、トルコの空というものがあり、作者は「ここへ来てごらん」と誘うのだ。

図書館のにおいになって帰宅する

出かけていって、帰って来る。
他に帰るべき場所などあるはずもない。
けれども、隣に座った見知らぬ人がふと言うかもしれない。「新しい雪ですね」と。

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