9月13日(土)、青森で「川柳ステーション2014」が開催され、その第2部のトークセッション「破調の品格」は司会・Sin、パネラー・榊陽子・德田ひろ子・奈良一艘・むさしという顔ぶれで行われた。詳細はいずれ「おかじょうき」誌に発表されるだろう。
さて、「おかじょうき川柳社」の代表・むさしから句集『亀裂』(東奥日報社)が届いたので、今回はこの句集を紹介したい。1頁3句、全360句が章立てなしにずらりと並んでいる。
踊り場で出会えば殺し合ってたなあ
まず、こういう句から取り上げてみようか。
無頼の男たちの述懐である。
階段を上がってゆく者と階段を下りてくる者とが踊り場ですれ違う。
黙ってすれ違えばいいものを、必ずそこで蝮の絡み合いが生まれる。
「むさし」という柳号の由来は宮本武蔵だろう。
おかじょうき川柳社の前代表が北野岸柳。ガンリュウ即ち佐々木小次郎だから、むさしが登場しても不思議ではない。
掲出句は別にこの二人の決闘を詠んだものではないが、若い頃を振り返って、かつては暴れたものだったという作中主体の述懐が感じられる。
まだ5分あります僕を騙せます
5分あれば何かができるだろうか。
うまく僕を騙してごらん、という余裕もある。
騙されてみたいのだろう。
ストローが首に一本刺さってる
何でそんなところにと思ったり、痛くないだろうかと想像したりする。
ストローは液体を吸うためのものだから、このストローから何かを吸い上げるものが存在するとしたら無気味だ。
うらおもてないはずだがと裏返す
裏返してみるとやはり裏があった、というのは理に落ちる。
裏がえしてみてもやはり裏はなかった、というのもきれいごとである。
裏返してみる中途半端で宙吊りの行為の中に現実味がある。
弥勒菩薩の右の小指にぶら下がる
先日、奈良国立博物館の「醍醐寺展」で快慶作の弥勒菩薩像を見た。
快慶はあまり端正すぎてそれほど好きではなかったのだが、この弥勒菩薩像を見て快慶に心酔した。
弥勒は気の遠くなるような遥かな未来に出現する仏である。
そういう存在を信じなければ、川柳などやっていられないように思ったのだ。
どうしても省略できぬ鼻の穴
ほかのものは省略できても、鼻の穴だけは無理だという。
何となくわかるような、わからないようなあんばいである。
鼻は顔の真ん中にあって、堂々と自己主張をしている。
しかも、鼻の穴だなんて。
遊ぶ金ないのでずっと見てる空
お金がないので仕方ないから空を見ている人がいる。
空の表情は刻々と変化するし、雲や風などの有名なものたちがいるから見ていても飽きない。最近はクラウド・ウッチングといって雲を見ることを趣味にする人もいるそうだ。
掲出句の作中主体は、金があろうとなかろうと空を見るのが好きな人なのだろう。
バックしますもめごとがあるようですが
何やら後ろの方でもめているようですが、バックしますよ。
そんなことでもめごとが中断するのならいいのだが。
句集のあとがきでむさしは川柳をはじめたきっかけについてこんなふうに書いている。
〈 1994年12月、友人に「千円で飲み放題の会がある」と誘われ、隣の蟹田町へのこのこ出かけた。
連れて行かれたところはなぜか薬屋。
二階奥の間へ案内されてから「実は川柳の会です」と言われあっと驚く。
そこは杉野草兵さんのお宅で、おかじょうき川柳社忘年句会の席だった。 〉
以後二十年、題詠作品を集めてこの句集が成った。「並べ方はランダムである」というが、この点に関して私には異論がある。360句ただ並んでいるのは読者にとって少々読みづらい。
「無作為に並べた方が私ごときが作為を持って妙な並べ方をするよりずっといい」とむさしは書いている。
いつだったか川柳大会の翌日、ホテルで朝食をとりながらむさしと話したことがある。彼は柳宗悦の民芸運動のことなどを語った。民芸にあらわれる雑器の美。そういうものと一脈通じるものがあるとすれば、たいへん彼らしい句集が出来上がったと思うのである。
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