2014年6月13日金曜日

「ES」27号―佐村河内事件と短歌

今回は短歌誌の話題になるが、「ES」27号が発行された。
誌名には毎回「ES」の次にタイトルが付く。今号には「崖線」が付いて「ES崖線」という具合だ。編集後記に曰く。
〈 河岸段丘の片岸に形成される崖地形を「はけ」と呼び、学術的には崖線という。「土地の人はなぜそこが『はけ』と呼ばれるかを知らない」とは大岡昇平の『武蔵野夫人』の書き出しであった。崖線の下には多くの湧水がみられる。土中で濾過された清流の冷たさが周囲に自生する雑木林の緑を繁らせても来たのだ 〉
特集も組まれていて、今回のテーマは「プロパガンダ」。まず同人作品を紹介しておこう。

ねがわくは花の下にて大輪の大義のためにうっとりと死ね    松野志保
情報を嚥下しているこの苦さ酒と思えばさぶしゆうかげ     桜井健司
たましひのバリケードとは何だらうマヤコフスキー通りの夕陽  天草季紅
友に告ぐアドルフに告ぐ集団の催眠術をわれ知るのみと     大津仁昭
伝統は苦しむものか雨の夜にたへがたきまで嘔吐つづけむ    江田浩司
植民地史父の蔵書に見出して読みふけりしよ十三の夏      崔龍源
やはらかく霧雨けぶる一億は信じやすく寄りやすき岸辺に    加藤英彦
地震国にも輸出したから原発で異人さんたち死ぬ おら知らね  山田消児

それぞれ十首の連作でタイトルも付いているから、一首だけ抜き出しても分かりにくいかも知れない。たとえば、最後の山田消児の作品には「おら知っちょる」というタイトルがあって、その次のページにマヤコフスキーの次の一節が引用されている。

〈ぼくは知ってる、ことばの力を、ぼくは知ってる、ことばの早鐘を。
 それらのことばは、桟敷が拍手喝采するあの音ではない。
 それらのことばに、棺桶はむっくり起き上がり、
 樫づくりの四つ足で堂々と歩き出すのだ。
 活字にも本にもならずに、ことばが捨てられる―それは毎度のこと。
 だが、言葉は走る、腹帯をひきしめ、
 何世紀も鳴りつづける、そして列車は這い寄ってくる、
 ポエジイのまめだらけの手を舐めに。〉

マヤコフスキー「遺稿」1930年よりの引用で、このメッセージは特集全体を照射しているのかもしれないが、山田の短歌に限定して言えば、「ぼくは知ってる」→「おら知っちょる」→「おら知らね」というきわめて反語的なものになる。
そういえば「マヤコフスキー事件」について小笠原豊樹の本が出版されている。

評論も何本か掲載されているが、まず注目したのは山田消児の「佐村河内になりたくて―物語の中の作品と作者―」。佐村河内の代作問題について、短歌にひきつけて論じたものである。山田はこんなふうに書いている。

「今回の事件において世間でいちばん大きな関心を集めたのは、佐村河内が自ら作りあげてきた虚像のスケールの大きさであったろう。単に嘘をついて世の中を騙すのではなく、嘘と本当を混ぜ合わせて新たな一個の〈現実〉を生みだしていったプロデュース力、演出力、演技力。それらを目の当たりにして、観客である私たちは、ときにバッシングの矢を放ったりしながら、興味津々で事の成り行きを見守ったのである」

山田はこの事件についての二つの代表的な見方を紹介している。
ひとつは〈音楽の価値は作品だけで決まるものではなく、作品に付属する付加価値とは独立して純粋な作品だけの価値が存在すると思うのは、あまりにもおめでたい見方である。作品の価値はそれが置かれている場、文脈、環境とセットで決まる〉という佐倉統の考え方。
もうひとつは〈作曲家がどういう生いたちであるか、年齢とか、ハンディキャップがあるとか…そんなことはどうでもいい。確かにパーソナリティと作品は切り離せないけれど、パーソナリティにあまりに依存するのはよくない〉という千住明の考え方。
山田は基本的には千住の考え方を支持しつつ、短歌の場合、千住のように言い切るのは難しいとも述べている。なぜだろうか。
〈今の短歌の主流は、作者自身の体験や境遇とそれに伴う心情を詠ったいわゆる自分語りの歌である。そこにははじめから千住言うところの「パーソナリティ」が多分に入っており、しかもそれが言語で表現されているため、読者にも明示的に伝わりやすい。短さゆえに一首だけで伝えられる情報には限りがあるにせよ、複数の歌を連作形式で並べたり、歌集にまとめたりすることにより、自ずから作歌の背景が浮かび上ってくる場合も少なくない。つまり、付加的な情報がなくても、作品自体がある程度のパーソナル性を具えているのが短歌という詩型の大きな特徴なのである〉
山田のいう「作品と作者とがセットになって提示され、読む側もそのようなものとして特に疑問もなく受け止める短歌のあり方」は川柳にも共通した問題である。評論集『短歌が人を騙すとき』(彩流社)以来、私が山田の書くものに関心をもつ理由もそこにある。
テクスト論だけで片がつけば楽なのだが、川柳の場合も「作者」の問題にまで踏みこまなければ本当の川柳論にはならない。その前提として川柳におけるテクスト論の確立が必要であり、前提を確立してからそれを批判するという二重の作業が迫られるのが川柳の状況である。

そのほか、江田浩司の「岡井隆のソネットを読む。補記2―詩における私性の問題―」など本誌には興味深い論考が掲載されている。江田の歌集『逝きし者のやうに』(北冬舎)がこの秋に刊行予定というのも楽しみである。
谷村はるかが「ES」を退会したという。私は谷村の文章もけっこう愛読していたので残念だ。一度しか会ったことはないが、大橋麻衣子歌集『Joker』の歌評会で谷村は仮借のない意見を述べていた。なるほど表現者とは厳しいものだと思ったことを覚えている。

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