大阪天満宮における「浪速の芭蕉祭」は平成19年に第1回が開催され、今年で第7回目になる。第2回から募吟を始め、第3回の中断をはさんで第4回から毎回募吟を続けている。今年は93巻の連句作品の応募があった。
大阪天満宮にはいろいろな講があるが、連句講の「鷽の会」があり、「浪速の芭蕉祭」を主催している。鷽は天満宮ゆかりの鳥であり、俳句にも「鷽替え」という季語がある。
応募作品の中から2人の選者によって大賞・次席・三席・佳作が選ばれる。合議制ではなくて、選者がそれぞれの判断によって選ぶから、大賞・次席・三席は2編ずつになる。今回は佳作を含めた27編の作品が「入選作品集」に掲載された。
作品集の発行にこだわっているのは、連句の普及のためにはアンソロジーが必要だと考えているからである。募吟によって良い作品が集まればそれがそのままアンソロジーになる。形式自由の募吟だから連句諸形式の手引きとしても利用することができる。今年は百韻・米字などの長い形式の作品が上位に選ばれた。一方、新形式の応募も盛んで、新旧のバランスの中で刺激を与えあう場になりつつある。
10月6日には入選作品の発表と表彰式が大阪天満宮境内の梅香学院で開催され、連句実作も行なわれた。この時期は例年、古本市が開催されていて境内が賑やかなのだが、今年の古本市は一週間後らしく、落ち着いた雰囲気である。
12時半に本殿に参拝。私は「鷽の会」代表として玉串奉奠をするのだが、一年たつとやり方を忘れてしまうので事前に自分でイメージ・トレーニングをしておく。技芸上達を祈願し、巫女の鈴も神さびた雰囲気である。
梅香学院に戻って表彰式にうつる。
臼杵游児選の大賞・百韻「大綿虫」の巻(棚町未悠捌)、次席・スワンスワン「ががんぼよ」(矢崎硯水捌)の巻、三席・お四国「白衣」(おたくさの会)の巻。佛渕健悟選の大賞・米字「朱を走らせる」(和田ひろ子捌)、次席・【Hiphop RENKU】「MAHOROBA」(Hoo),三席・和漢行半歌仙「たてよこに」(赤田玖實子捌)。
ここでは、佛渕健悟選の次席となった【Hiphop RENKU】を紹介しよう。
MAHOROBA Wakiokori by Hoo.
Started on 130503 finished on 130509
目には青葉 山ほととぎす 初鰹 Sodo
どこまでも 駆けて行こうぜこの夏を Hoo
絵手紙 似顔絵 みんなが笑う
動物園では象さん洗う
ゆらゆらと お精霊さんの舟流し
浦々に 尾を引きながら流れ星
月の庵は草がぼうぼう
方々にある古つっかえ棒
renku renku renku Let's go
心まで CTスキャンじゃ覗けねえ
ちょっと待って 熱燗一杯 ねえお姐
小野小町は見返り美人
妄想のキス胸がジンジン
今日もまた 密かに飛ぶよオスプレイ
国政もゲームも大事さフェアプレイ
いじめ体罰ございませんと
寄付の壜へと出す1セント
renku renku renku Let's go
夜目が利き 晦日に探す杵と臼
嫁が君 ミッキーマウスに物申す
「あしたは来れる?」 答「いいとも!」
持つべきものは やはり良い友
まほろばを 驢馬に揺られて花万朶
甘茶仏 小さく天指すなんまんだ
安達太良山の空は春色
尾張うららか青柳ういろ
renku renku renku Let's go
発句は山口素堂のよく知られた句で、脇起こしであるが、脇句以下はすべて作者Hoo(木村ふう)の独吟である。作者は次のように述べている。
「新聞でヒップホップの歌詞は現代詩という記事(朝日2013年4月6日)を読み、連句でも早速挑戦してみました。ラップ風の韻を踏みやすいように『長長短短 長長短短』の8句をひとまとめとしてそれぞれに季を詠み込み、本巻はそれを三回繰り返しました。最低一花一月。特に定座は決めていません。一番ラップに会いそうな(と思っている)素堂句を発句として脇起りで始めました」
素堂がラップに合うというより、素堂のこの句がラップに合うそうである。
「入選作品集」では選評にもページを割いている。作品を選ぶだけではなくて、その作品のどこがよかったのかを検証することが実作を活性化させることにつながるからである。佛渕健悟は選評で次のように述べている。
「文の最後で韻(ライム)を踏むのがラップの特徴ですが、短詩型の五七五そのものがすでにラップに乗りやすいリズムであることを発見している日本のラッパーたちの実践には、連句の調べに新しい変化を促す契機もあるかも知れません。説教節や阿呆陀羅経的ノンシャランは現代連句のおもくれを砕くのに利きそうです」
もうひとつ、入選はしていないが反歌仙「佳き人」の巻を紹介しておきたい。「半歌仙」ではなく「反歌仙」であって、歌仙に対するアンチなのである。かつて「アンチ・ロマン」が小説の世界で次々と書かれたが、連句の世界にも実験精神が生まれてきたかという感慨をもった。歌仙だから36句あるが、ここではその前半18句だけ紹介しておく。連衆は赤坂恒子・木村ふう・梅村光明。
佳き人と思へば死ぬるまたひとり
菊を掻き分け饅頭配る
首に巻くよくよく見れば秋の蛇
スクランブルの交差点じぇじぇ!
スクランブルエッグが旨ひ洋食屋
青い目の妻大阪生まれ
ウラ
色っぽいまいどおおきにチャイナ服
三日月形のイヤリング揺れ
人気無き夜のプールで泳ぐ月
蝋燭灯して百物語
うらめしや回るお寿司が止まらない
アベノミクスに上がる血圧
年金がだんだん下がる国に居て
オスプレイ飛ぶ基地の初空
餅花に残るは母の指の跡
供物を作り奉る涅槃会
白骨が砕けて散るは花吹雪
あなめあなめに悩む小町忌
この作品には次のようなコメントが付けられている。
「句数・体裁から見た形式は歌仙。歌仙を巻く時に適用される式目をことごとく破って歌仙を巻いてみた。歌仙の式目に反するので反歌仙。
進行の条件は前句に付いていることと 前句―付句の関係、もしくは三句の渡りに必ず障りがあること。無季の発句から始まって素秋、素春、二五、四三、新旧仮名混在等々狼藉の限りを尽くして歌仙を巻いてみた。苦労して詠み込んだ「障り」を見ていただきたい」
歌仙の表(オモテ)では神祇・釈教・恋・無常は避けることになっているが、発句はそれに逆らって「死」を詠んでいる。短句(七七句)では「四三(しさん)」と言って「4+3」のリズムを嫌うが、脇句はみごとに四三。秋の句の中では月の句がなければならず、秋三句のうち「月」の句がないものを「素秋」というが、これも敢えて素秋に(ウラに入って急に「月」が出てくるのも変である)。「秋の蛇」とは何なんだというところである。四句目と五句目に「スクランブル」という同じ語が使われていて、同字接着。六句目の「目」と三句目(大打越)の「首」が身体用語の差し合い。
このような調子で「反歌仙」が続いてゆく。
ルールを破るためにはルールを知悉していなければばらない。ルール(式目)を知らないで禁をおかすのではなくて、意図的な営為なのだ。そのことによって式目そのものの意味が改めて問い直される。
もちろん「入選作品集」には伝統的・オーソドックスな句もあり、高く評価されている。ここで敢えて実験的新形式を紹介したのは、それが硬直しがちな精神をブラッシュ・アップし連句の活性化につながると考えるからである。というより私自身とても楽しませてもらったのである。
2013年10月18日金曜日
第2回川柳カード大会
9月28日(土)、大阪・上本町の「たかつガーデン」で「第2回川柳カード大会」が開催された。昨年の第1回大会(創刊記念大会)では、池田澄子をゲストに迎えたが、今回は佐藤文香と樋口由紀子のトークが注目された。
この二人は数年前の初対面のときから気が合ったようで、樋口はその場で「バックストローク岡山大会」(2010年4月)の選者を依頼。佐藤は石田柊馬との共選で「もっと」の選者をつとめた。そのときの選評で佐藤は「自分が選ぶときに大きな基準があることに気づきました。それは、その句がこの社会にどれだけ貢献しないか、ということです。風刺はともすると社会の役に立ってしまう。真面目にでも奔放にでも、遊び上手な作品に魅力を感じる」と書いている。この選評も当時話題になった。
こういう経緯があって、今回も大会第一部のゲストとして佐藤を招いた。二人ともトークには定評があるので、当日の対談も好評だったが、その詳細は「川柳カード」4号(11月25日発行予定)に掲載されることになっている。ここでは、当日の佐藤の発言のなかから、いくつか印象的だったものをピックアップして、私なりの感想を付け加えてみたい。
○「私は俳句甲子園がなかったら、俳句に入っていないタイプの人間」
このように佐藤は言い切る。
俳句甲子園に関わっている高校生は、全国大会に出場できない学校もあるから、毎年数百人単位になる。それだけの母体があるが、その全員が俳人として残るわけではない。
8月の「大阪連句懇話会」で久留島元に「俳句甲子園」の話をしてもらったのだが、久留島は作家として俳句を続けている人間以外に、「俳句甲子園」を裏方として支えている多くの人間がいることを語った。
俳句甲子園というイベントによって、俳句作家として俳句を書き続ける人、俳句は書かないが俳句にかかわってイベントを陰で支える人などが生まれてゆく。このような潜在的な若い世代が川柳には欠けているのだ。
○「川柳では若者を呼び込むような仕掛けを何かしてるんですか」
佐藤は川柳に対していくつかの問いかけをしている。「仕掛け」はそのひとつ。
「俳句甲子園」に相当するようなイベントは残念ながら川柳にはない。ひょっとするとどこかにあるかも知れないが全国的な広がりではないだろう。
川柳の場合、「新聞川柳」から入ることが多い。全国紙・地方紙には川柳の投句コーナーがあって、読者が葉書で投句する。選者はその地方の有力川柳人であって、何度も入選する人に対しては、句会に来ませんかというお誘いがある。そこで興味のある人は句会に出かけてゆき、さらに規模の大きな大会に参加するなどして、川柳の世界に馴染んでゆく。
こういう階梯を踏んでゆくので、自分が本当に出会いたい川柳に出会うためには何年もかかる。川柳の句集も一般書店には並んでいないから、書物を通じて好きな作家に出会うチャンスも少ない。
私はこういう階梯は必ずしも無意味ではなかったと思っている。本当に求めるものを探しているうちに、自分の川柳が次第に鍛えられ深まっていくからである。こういう過程を踏まない人は、意外にもろく川柳から脱落していったりする。
けれども、現在はそんな悠長なことでは通用しないだろう。新聞川柳から句会・大会へという従来のシステムではすでに時代に対応できなくなっているのだ。
○「世間イメージと文芸ジャンルとしての核が乖離しすぎている」
私の興味は、俳人(特に若い世代の俳人)に川柳がどう受け取られているかということである。佐藤は俳句の友人の「世間イメージと文芸ジャンルとしての核が乖離しすぎている」という発言を紹介した。これが私にとっては、対談の中で最も印象に残る言葉だったのである。
ひとつのジャンルの中で先端的な部分と大衆的な部分とに隔たりがあることは、別に川柳に限らず、どのジャンルでも見られることだろう。「先端的」「大衆的」という表現が適切かどうか分からないが、「前衛的」「伝統的」という表現もぴったりしないので、とりあえずそんなふうに言っておく。「ジャンル内ジャンル」(江田浩司)と言えばいいのだろうか。
「世間イメージ」とはいわゆる「サラリーマン川柳」をさすだろう。川柳が駄洒落や表層的な滑稽をねらうものと思われているなかで、真に文芸的な資質をもった若者が川柳に入ってくるはずはない。
「外から見たときに一番手の届きやすいところにジャンルの中心があればよい」と佐藤は実に適切なアドヴァイスをしてくれたが、それができないので苦労している。
大会の第二部での特選句を次に挙げておこう。
「泣く」(湊圭史選) コンテナの中は泣き損なった人 井上一筒
「方法」(清水かおり選) 舟偏をつけてたゆたうのも一手 徳長怜子
「赤い」(野沢省悟選) 軍隊にまっ赤なウソを売りに行く 石田柊馬
「チョコレート」(筒井祥文選) 板チョコ齧るつけまつげつける 田中峰代
「学校」(新家完司選) 学校を覆う大きな病垂れ 高島啓子
事前投句「カード」(小池正博選) それ以上育つと赤紙が届く くんじろう
大会終了後、短時間だが正岡豊と立ち話をすることができた。
昨年の参加者は百名を越えたが、今年は85名の参加。80名規模の大会でちょうどいいのだ、というような話をした。もちろん参加者が多ければ多いほど嬉しいが、人を集めることを主目的にすると別な部分にエネルギーと時間を取られることになる。「80名でいいのだ」とは石部明が「バックストローク」大会を開催するときに言っていたことで、心の支えになっている。
午後5時からの懇親会は、くんじろうの司会で進行。出席者全員に発言していただいたので、交流の目的は十分果たされた。こういう場では川柳人は素顔をさらけだして楽しむことができる。自意識に悩んだり演技の仮面に隠れる人は少ないようである。
大会翌日は有志で奈良を散策したあと、夕方から「川柳北田辺」句会に乱入した。くんじろうが主催する句会だが、昨日の大会のメンバーと再会して封筒回しを楽しむ。ちょうど「川柳北田辺」の句会報が届いたところなので、紹介する。「俳句は句会が楽しい」と言う人が多いが、川柳人も句会が好きである。
底ぬけに明るい階段は嫌い 榊陽子
そろそろ縞馬になろう 田中博造
戦争に負けて猫など飼っている 田久保亜蘭
砂壁を食べて子供を産みました 竹井紫乙
大阪の蛸は9本足である 滋野さち
急須の蓋にたまったままの「つ」 樋口由紀子
歌まくらをジューサーに入れてから くんじろう
弁慶の耳から流れ出す黄砂 井上一筒
この二人は数年前の初対面のときから気が合ったようで、樋口はその場で「バックストローク岡山大会」(2010年4月)の選者を依頼。佐藤は石田柊馬との共選で「もっと」の選者をつとめた。そのときの選評で佐藤は「自分が選ぶときに大きな基準があることに気づきました。それは、その句がこの社会にどれだけ貢献しないか、ということです。風刺はともすると社会の役に立ってしまう。真面目にでも奔放にでも、遊び上手な作品に魅力を感じる」と書いている。この選評も当時話題になった。
こういう経緯があって、今回も大会第一部のゲストとして佐藤を招いた。二人ともトークには定評があるので、当日の対談も好評だったが、その詳細は「川柳カード」4号(11月25日発行予定)に掲載されることになっている。ここでは、当日の佐藤の発言のなかから、いくつか印象的だったものをピックアップして、私なりの感想を付け加えてみたい。
○「私は俳句甲子園がなかったら、俳句に入っていないタイプの人間」
このように佐藤は言い切る。
俳句甲子園に関わっている高校生は、全国大会に出場できない学校もあるから、毎年数百人単位になる。それだけの母体があるが、その全員が俳人として残るわけではない。
8月の「大阪連句懇話会」で久留島元に「俳句甲子園」の話をしてもらったのだが、久留島は作家として俳句を続けている人間以外に、「俳句甲子園」を裏方として支えている多くの人間がいることを語った。
俳句甲子園というイベントによって、俳句作家として俳句を書き続ける人、俳句は書かないが俳句にかかわってイベントを陰で支える人などが生まれてゆく。このような潜在的な若い世代が川柳には欠けているのだ。
○「川柳では若者を呼び込むような仕掛けを何かしてるんですか」
佐藤は川柳に対していくつかの問いかけをしている。「仕掛け」はそのひとつ。
「俳句甲子園」に相当するようなイベントは残念ながら川柳にはない。ひょっとするとどこかにあるかも知れないが全国的な広がりではないだろう。
川柳の場合、「新聞川柳」から入ることが多い。全国紙・地方紙には川柳の投句コーナーがあって、読者が葉書で投句する。選者はその地方の有力川柳人であって、何度も入選する人に対しては、句会に来ませんかというお誘いがある。そこで興味のある人は句会に出かけてゆき、さらに規模の大きな大会に参加するなどして、川柳の世界に馴染んでゆく。
こういう階梯を踏んでゆくので、自分が本当に出会いたい川柳に出会うためには何年もかかる。川柳の句集も一般書店には並んでいないから、書物を通じて好きな作家に出会うチャンスも少ない。
私はこういう階梯は必ずしも無意味ではなかったと思っている。本当に求めるものを探しているうちに、自分の川柳が次第に鍛えられ深まっていくからである。こういう過程を踏まない人は、意外にもろく川柳から脱落していったりする。
けれども、現在はそんな悠長なことでは通用しないだろう。新聞川柳から句会・大会へという従来のシステムではすでに時代に対応できなくなっているのだ。
○「世間イメージと文芸ジャンルとしての核が乖離しすぎている」
私の興味は、俳人(特に若い世代の俳人)に川柳がどう受け取られているかということである。佐藤は俳句の友人の「世間イメージと文芸ジャンルとしての核が乖離しすぎている」という発言を紹介した。これが私にとっては、対談の中で最も印象に残る言葉だったのである。
ひとつのジャンルの中で先端的な部分と大衆的な部分とに隔たりがあることは、別に川柳に限らず、どのジャンルでも見られることだろう。「先端的」「大衆的」という表現が適切かどうか分からないが、「前衛的」「伝統的」という表現もぴったりしないので、とりあえずそんなふうに言っておく。「ジャンル内ジャンル」(江田浩司)と言えばいいのだろうか。
「世間イメージ」とはいわゆる「サラリーマン川柳」をさすだろう。川柳が駄洒落や表層的な滑稽をねらうものと思われているなかで、真に文芸的な資質をもった若者が川柳に入ってくるはずはない。
「外から見たときに一番手の届きやすいところにジャンルの中心があればよい」と佐藤は実に適切なアドヴァイスをしてくれたが、それができないので苦労している。
大会の第二部での特選句を次に挙げておこう。
「泣く」(湊圭史選) コンテナの中は泣き損なった人 井上一筒
「方法」(清水かおり選) 舟偏をつけてたゆたうのも一手 徳長怜子
「赤い」(野沢省悟選) 軍隊にまっ赤なウソを売りに行く 石田柊馬
「チョコレート」(筒井祥文選) 板チョコ齧るつけまつげつける 田中峰代
「学校」(新家完司選) 学校を覆う大きな病垂れ 高島啓子
事前投句「カード」(小池正博選) それ以上育つと赤紙が届く くんじろう
大会終了後、短時間だが正岡豊と立ち話をすることができた。
昨年の参加者は百名を越えたが、今年は85名の参加。80名規模の大会でちょうどいいのだ、というような話をした。もちろん参加者が多ければ多いほど嬉しいが、人を集めることを主目的にすると別な部分にエネルギーと時間を取られることになる。「80名でいいのだ」とは石部明が「バックストローク」大会を開催するときに言っていたことで、心の支えになっている。
午後5時からの懇親会は、くんじろうの司会で進行。出席者全員に発言していただいたので、交流の目的は十分果たされた。こういう場では川柳人は素顔をさらけだして楽しむことができる。自意識に悩んだり演技の仮面に隠れる人は少ないようである。
大会翌日は有志で奈良を散策したあと、夕方から「川柳北田辺」句会に乱入した。くんじろうが主催する句会だが、昨日の大会のメンバーと再会して封筒回しを楽しむ。ちょうど「川柳北田辺」の句会報が届いたところなので、紹介する。「俳句は句会が楽しい」と言う人が多いが、川柳人も句会が好きである。
底ぬけに明るい階段は嫌い 榊陽子
そろそろ縞馬になろう 田中博造
戦争に負けて猫など飼っている 田久保亜蘭
砂壁を食べて子供を産みました 竹井紫乙
大阪の蛸は9本足である 滋野さち
急須の蓋にたまったままの「つ」 樋口由紀子
歌まくらをジューサーに入れてから くんじろう
弁慶の耳から流れ出す黄砂 井上一筒
2013年10月11日金曜日
クリエーターとキュレーター
大阪梅田のグランフロントの紀伊国屋で「短歌フェア」が開催されているというので、出かけてみた。グランフロントはオープンしたときに訪れたときの大混雑に辟易して、やっと二度目に足を踏み入れたことになる。
売り場面積が広くどこに短歌の本が置いてあるのかも分からないので、店員さんに訊いて案内してもらった。短歌フェアは隅の方に円形書棚を取りまく形で開催されていた。それほど広いスペースではないが、ふだん書店で目にすることのない歌集・短歌誌などが置いてある。そう言えば斉藤斎藤の『渡辺のわたし』はまだ持っていなかったな。永井祐の『日本の中でたのしく暮らす』もほしい。あっ、瀬戸夏子の『そのなかに心臓をつくって住みなさい』があった!というわけで3冊買い求めた。「短歌ヴァーサス」のバックナンバーもあったが、確か私も2ページ執筆したことのある10号だけなかった。誰かが購入したのだとすれば、それはそれでよいのだろう。
短歌の門外漢にとってもこういうフェアが開催されるのは嬉しい。店長が笹井宏之のファンらしい。川柳にとってもこういうサポーターが現れないものか。
今年4月に「文学フリマ」が大阪府の堺市で開催されたときに、川柳の出店は一軒もなかった。機会があれば「川柳カード」で出店してみたいものだが、短歌・俳句・アニメなどの大量の出店の陰に埋没してしまうことだろう。川柳がどのような流通過程にも乗らないのはマーケットが成立しないからである。
マーケットと無関係なところで営まれている文学ジャンルとして、川柳と同様の状況に置かれているものに連句がある。「連句協会報」(2013年4月)に書いた「関西連句の可能性」という拙文の一節を引用する。
「『関西連句を楽しむ会』が2006年に終了したあと、関西での大規模な連句会はあまり開催されなくなった。連句だけの話ではないが、関西の地盤沈下が文芸全般に生じているようだ。俳句でも関西前衛俳句の作家たちが亡くなって、過渡期の状況が続いている。そんな中で、一昨年の国民文化祭・京都において北野天満宮や百万遍知恩寺でイベントが開催されたのは元気の出ることだった。
関西地方には連句の拠点となるような場が多い。私が関わっているものについて言うと、大阪天満宮で毎秋開催される『浪速の芭蕉祭』は2007年にスタートし、形式自由の募吟を続けている。また、『大阪連句懇話会』では毎回テーマを決めて連句の諸問題を考え、実作会を行っている。奈良県に目を転じると、蹴鞠祭で有名な桜井市の談山神社では『多武峰連歌ルネサンス』が数回開催された。長谷寺近くの與喜天満宮は能阿弥など連歌にゆかりが深く、連句にとっても重要な場である。
古来、神社や寺院は芸能の発祥と密接な関係をもっている。人が集まるところには混沌としたエネルギーが生まれ、文芸の場として活性化する。いわば連句のパワースポットなのである。
昨年の十二月に神戸の生田神社で『俳句ギャザリング』というイベントが開催された。これは連句とは無関係な催しだが、天狗俳諧とか俳句相撲、地元のアイドルグループを呼んで俳句甲子園形式で参加者と対戦させるなど、俳句を一般参加者にどのように見せるかというショー的要素を取り込んだものであった。パソコンやツイッターの使用が日常化する中で、『いかに見せるか』という視点も重要だと感じている」
川柳・連句ではほとんど聞かないが、他ジャンルの方々がよく口にする「戦略」という言葉がある。いったいどのような「戦略」によって自己の作品を発信しようとしているのか、自分が関わっているジャンルを推し進めようとしているのかが問われるのである。私は川柳・連句の世界の中では比較的「戦略」を持っている人間のように自分では思っているが、俳句や短歌の世界から見ればそんな戦略など児戯に等しいものだろう。
川柳の世界で「いかに見せるか」という方法論が語られたことは寡聞にして聞かないし、ノウハウの蓄積もない。連句においては「国民文化祭」の開催に関して行政とどう結びつくかが連句協会の理事会で毎回語られているが、これも夢のない話である。
さて、いささか古い本だが、外山滋比古の著作に『エディターシップ』(みすず書房)がある。編集が創造的な作業であることを力説するもので、クリエーターとエディターの分業が確立していない川柳の世界の現状を省みるときに考えさせられることが多い。さらに、最近よく耳にするものにキュレーターという仕事がある。今まで私が知らなかっただけだろうが、美術館の学芸員などを指すらしい。展覧会の企画などにおいて、どの作品とどの作品を並べてどのようなコンセプトで観衆に見せるかというプロなのであろう。常識的な見方で展示するのではなくて、今まで思いもよらなかった作品をつなげることによって新しい表現の地平を提示して見せる。自ら作品を作るのではないけれど、それもひとつの創造的な作業なのだろう。
こういうことに習熟した人材が川柳界には少ないから、川柳人は創作の傍ら編集したり、雑務を義務的にこなしたりしなければならない。そういうことに時間をとられているうちに、クリエーターとしての創作力が次第に衰えてゆく。
そんなことを考えると、やはりクリエーターとしての原点に戻りたくなる。「戦略」など本当は考えなくてすませたいのが川柳人の本音かも知れない。川柳島から投壜通信を送りつづける。読んでくれる人がいなくても、読者に届かなくても、いつかそれがどこかの岸辺に届くかもしれない可能性を夢見て書き続ける。そして、川柳島は無人島になる?
売り場面積が広くどこに短歌の本が置いてあるのかも分からないので、店員さんに訊いて案内してもらった。短歌フェアは隅の方に円形書棚を取りまく形で開催されていた。それほど広いスペースではないが、ふだん書店で目にすることのない歌集・短歌誌などが置いてある。そう言えば斉藤斎藤の『渡辺のわたし』はまだ持っていなかったな。永井祐の『日本の中でたのしく暮らす』もほしい。あっ、瀬戸夏子の『そのなかに心臓をつくって住みなさい』があった!というわけで3冊買い求めた。「短歌ヴァーサス」のバックナンバーもあったが、確か私も2ページ執筆したことのある10号だけなかった。誰かが購入したのだとすれば、それはそれでよいのだろう。
短歌の門外漢にとってもこういうフェアが開催されるのは嬉しい。店長が笹井宏之のファンらしい。川柳にとってもこういうサポーターが現れないものか。
今年4月に「文学フリマ」が大阪府の堺市で開催されたときに、川柳の出店は一軒もなかった。機会があれば「川柳カード」で出店してみたいものだが、短歌・俳句・アニメなどの大量の出店の陰に埋没してしまうことだろう。川柳がどのような流通過程にも乗らないのはマーケットが成立しないからである。
マーケットと無関係なところで営まれている文学ジャンルとして、川柳と同様の状況に置かれているものに連句がある。「連句協会報」(2013年4月)に書いた「関西連句の可能性」という拙文の一節を引用する。
「『関西連句を楽しむ会』が2006年に終了したあと、関西での大規模な連句会はあまり開催されなくなった。連句だけの話ではないが、関西の地盤沈下が文芸全般に生じているようだ。俳句でも関西前衛俳句の作家たちが亡くなって、過渡期の状況が続いている。そんな中で、一昨年の国民文化祭・京都において北野天満宮や百万遍知恩寺でイベントが開催されたのは元気の出ることだった。
関西地方には連句の拠点となるような場が多い。私が関わっているものについて言うと、大阪天満宮で毎秋開催される『浪速の芭蕉祭』は2007年にスタートし、形式自由の募吟を続けている。また、『大阪連句懇話会』では毎回テーマを決めて連句の諸問題を考え、実作会を行っている。奈良県に目を転じると、蹴鞠祭で有名な桜井市の談山神社では『多武峰連歌ルネサンス』が数回開催された。長谷寺近くの與喜天満宮は能阿弥など連歌にゆかりが深く、連句にとっても重要な場である。
古来、神社や寺院は芸能の発祥と密接な関係をもっている。人が集まるところには混沌としたエネルギーが生まれ、文芸の場として活性化する。いわば連句のパワースポットなのである。
昨年の十二月に神戸の生田神社で『俳句ギャザリング』というイベントが開催された。これは連句とは無関係な催しだが、天狗俳諧とか俳句相撲、地元のアイドルグループを呼んで俳句甲子園形式で参加者と対戦させるなど、俳句を一般参加者にどのように見せるかというショー的要素を取り込んだものであった。パソコンやツイッターの使用が日常化する中で、『いかに見せるか』という視点も重要だと感じている」
川柳・連句ではほとんど聞かないが、他ジャンルの方々がよく口にする「戦略」という言葉がある。いったいどのような「戦略」によって自己の作品を発信しようとしているのか、自分が関わっているジャンルを推し進めようとしているのかが問われるのである。私は川柳・連句の世界の中では比較的「戦略」を持っている人間のように自分では思っているが、俳句や短歌の世界から見ればそんな戦略など児戯に等しいものだろう。
川柳の世界で「いかに見せるか」という方法論が語られたことは寡聞にして聞かないし、ノウハウの蓄積もない。連句においては「国民文化祭」の開催に関して行政とどう結びつくかが連句協会の理事会で毎回語られているが、これも夢のない話である。
さて、いささか古い本だが、外山滋比古の著作に『エディターシップ』(みすず書房)がある。編集が創造的な作業であることを力説するもので、クリエーターとエディターの分業が確立していない川柳の世界の現状を省みるときに考えさせられることが多い。さらに、最近よく耳にするものにキュレーターという仕事がある。今まで私が知らなかっただけだろうが、美術館の学芸員などを指すらしい。展覧会の企画などにおいて、どの作品とどの作品を並べてどのようなコンセプトで観衆に見せるかというプロなのであろう。常識的な見方で展示するのではなくて、今まで思いもよらなかった作品をつなげることによって新しい表現の地平を提示して見せる。自ら作品を作るのではないけれど、それもひとつの創造的な作業なのだろう。
こういうことに習熟した人材が川柳界には少ないから、川柳人は創作の傍ら編集したり、雑務を義務的にこなしたりしなければならない。そういうことに時間をとられているうちに、クリエーターとしての創作力が次第に衰えてゆく。
そんなことを考えると、やはりクリエーターとしての原点に戻りたくなる。「戦略」など本当は考えなくてすませたいのが川柳人の本音かも知れない。川柳島から投壜通信を送りつづける。読んでくれる人がいなくても、読者に届かなくても、いつかそれがどこかの岸辺に届くかもしれない可能性を夢見て書き続ける。そして、川柳島は無人島になる?
2013年10月4日金曜日
夢精するオスプレイ―滋野さちの川柳
9月28日に「第2回川柳カード大会」が大阪・上本町で開催され、北は北海道・青森から南は高知・熊本まで、各地の川柳人が集まった。大会はふだん誌上でしかお目にかかれない方々と出会う貴重な機会である。
青森に滋野さちという川柳人がいる。「おかじょうき」「触光」「川柳カード」の会員で、社会性川柳の書き手である。私自身は社会性川柳を書かないが、滋野の作品にはときどき目を奪われることがある。
「触光」34号の会員自選欄に次の句が掲載されている。
着地するたび夢精するオスプレイ 滋野さち
時事川柳は「消える川柳」とも呼ばれ、時間の経過とともに人々の記憶から消えてしまう。その中で、真の批評性をもった力のある句は少ない。オスプレイの句は山ほどあるが、表層的な表現にとどまっているものが多い。そんな中でこの句には読者を立ち止まらせるものがある。
オスプレイはエロティックな夢を見ているのであろうか。着地するたびに大地は犯される。この句は一見するとオスプレイの視点で書かれているように見えるが、オスプレイの姿を冷徹にとらえることによって凌辱される側の感性を表現しているのである。この戦場を飛ぶ機械がオスという名をもっているのは象徴的である。イメージは二重となり、「オスプレイ反対」を唱えるスローガンを越えた表現の高みに達している。
こういう句を読むと社会批評が文学でもあることを信じたくなる。
同号には次のような句もある。
イプシロンこける鳥獣戯画の真ん中で
空爆のアメリカ シリアのねこだまし
垂れ流しですがゲンパツ買いませんか
「鳥獣戯画」「ねこだまし」という語は川柳ではよく使われ、一句の衝撃力は「夢精するオスプレイ」に及ばない。視線は第三者の位置に後退し、批評性は現象の表面を撃つにとどまっている。
滋野は「杜人」239号に「空を飛んだ鯨―石部明のことば―」という文章を発表している。
そこで滋野は自ら疑問とするいくつかの問題を投げかけている。それは「母もの」「時事吟」「思い」「難解句」をめぐる四つの疑問である。滋野の表現そのままではないが、それらは次のようなことになるだろう。
①母を詠んだ句は甘くなるからとらないという選者もいるが、母という題材そのものがダメなのだろうか。むしろどう書くかが問われる題材なのではないだろうか。
②時事吟や社会詠は私たちが生活を詠もうとするかぎり必然的にゆきつくものではないか。
③「思いなんて必要ない」という人もいるが、「思い」がなければ川柳は書けないのではないか。
④「わからない句」には読者が作者とつながる手だてがなく、読者は置き去りにされているのではないか。
一点目、「『「母ものは三文安』」か」では「母の句」について述べている。父や母を書いた句が孫川柳と同様に甘くなるのは避けられないことだろう。
「私も初期のころ母の句をたくさん書いた。長すぎる母への反発に時間を過ぎて、ようやく心が寄り添えるようになったとき死んだから、なおさらであった」とあるのを読むと、「滋野さちよ、おまえもか」と言いたくなる。母の句を書いたことに対してではない。「母への反発」に関してである。
滋野は「母もの」は果たして書くに値しないのかを問う。
「父母を詠むから古臭いのではない。私たちは新しい表現を模索しなければならない」
間違っているところはどこにもない。けれども、古い革袋に新しい酒を入れるのはとてもむつかしいことだ。
二点目、「時を詠む」では石部明の次の句を取り上げている。
あかんべいをしてするすると脱ぐ国家 石部明
滋野は小林多喜二や鶴彬の例を挙げて、「ものを書くことに覚悟が必要だった時代」のことに触れている。
「今、自由にものを言い、行動したり、書いたりしているが、時流に乗って、上澄みを掬って書いていないか、物事の本質を見極めようという気構えを放棄していないかと、自戒している」
こういうところから、滋野の社会性川柳が生まれてくる。
三点目、私が違和感をいだくのは、滋野の「社会性」が「思い」と強く結びついていることである。川柳の読みにおいては、これまで「思い」の強度が評価軸とされることが多く、言葉によって作り出されたテクストとして読まれることが少なかったという経緯がある。作品を書くときの起動力を「思い」と呼んでしまうと、川柳のカバーする世界をずいぶん狭めることになってしまう。
「『思い』とは、句を書く時の起爆剤でもある」と滋野は述べている。
ここにも石部明が登場して、滋野に次のようなアドヴァイスをしたという。
「『思い』がなければ句は書けません。しかし、それ以前に『思いとは何か』を考えなければなりません」
四点目、滋野によれば難解と言われた「バックストローク」の作品に対して、次のようなことが言われたそうだ。
「わからなくても感じればいい」
「わかるように書かない作者が悪い」
「わからない句など、かまうな」
この整理の仕方はある意味でたいへん興味深い。多くの川柳人の本心が率直にうかがえるからだ。
「川柳を始めてたかだか10年ほどの間に『川柳大衆論』『難解句』『言葉派』『意味派』などという言葉を聞くのだが、川柳論は一方的に発表されるだけで、なかなか切り結ぶ事がないように感じている」
率直な感想だろう。批評が実作をリードするというような状況は川柳界にはない。私は現在が過渡期だと思っているから、さまざまな混乱や迷いが生じるのはむしろ当然のことだと考える。曲がりなりにも社会性を書いていた渡辺隆夫が万法を尽し終えて第一線を退いたあと、滋野さちの川柳は社会性のひとつの可能性を感じさせる。隆夫の川柳が第三者の立場からの風刺に終始したのに対して、滋野は少し違うところから川柳を書いているからだ。私は滋野の「思い」には別段興味はないが、滋野が川柳におけるどのような「批評性」を実現するかを見ていたいと思っている。
青森に滋野さちという川柳人がいる。「おかじょうき」「触光」「川柳カード」の会員で、社会性川柳の書き手である。私自身は社会性川柳を書かないが、滋野の作品にはときどき目を奪われることがある。
「触光」34号の会員自選欄に次の句が掲載されている。
着地するたび夢精するオスプレイ 滋野さち
時事川柳は「消える川柳」とも呼ばれ、時間の経過とともに人々の記憶から消えてしまう。その中で、真の批評性をもった力のある句は少ない。オスプレイの句は山ほどあるが、表層的な表現にとどまっているものが多い。そんな中でこの句には読者を立ち止まらせるものがある。
オスプレイはエロティックな夢を見ているのであろうか。着地するたびに大地は犯される。この句は一見するとオスプレイの視点で書かれているように見えるが、オスプレイの姿を冷徹にとらえることによって凌辱される側の感性を表現しているのである。この戦場を飛ぶ機械がオスという名をもっているのは象徴的である。イメージは二重となり、「オスプレイ反対」を唱えるスローガンを越えた表現の高みに達している。
こういう句を読むと社会批評が文学でもあることを信じたくなる。
同号には次のような句もある。
イプシロンこける鳥獣戯画の真ん中で
空爆のアメリカ シリアのねこだまし
垂れ流しですがゲンパツ買いませんか
「鳥獣戯画」「ねこだまし」という語は川柳ではよく使われ、一句の衝撃力は「夢精するオスプレイ」に及ばない。視線は第三者の位置に後退し、批評性は現象の表面を撃つにとどまっている。
滋野は「杜人」239号に「空を飛んだ鯨―石部明のことば―」という文章を発表している。
そこで滋野は自ら疑問とするいくつかの問題を投げかけている。それは「母もの」「時事吟」「思い」「難解句」をめぐる四つの疑問である。滋野の表現そのままではないが、それらは次のようなことになるだろう。
①母を詠んだ句は甘くなるからとらないという選者もいるが、母という題材そのものがダメなのだろうか。むしろどう書くかが問われる題材なのではないだろうか。
②時事吟や社会詠は私たちが生活を詠もうとするかぎり必然的にゆきつくものではないか。
③「思いなんて必要ない」という人もいるが、「思い」がなければ川柳は書けないのではないか。
④「わからない句」には読者が作者とつながる手だてがなく、読者は置き去りにされているのではないか。
一点目、「『「母ものは三文安』」か」では「母の句」について述べている。父や母を書いた句が孫川柳と同様に甘くなるのは避けられないことだろう。
「私も初期のころ母の句をたくさん書いた。長すぎる母への反発に時間を過ぎて、ようやく心が寄り添えるようになったとき死んだから、なおさらであった」とあるのを読むと、「滋野さちよ、おまえもか」と言いたくなる。母の句を書いたことに対してではない。「母への反発」に関してである。
滋野は「母もの」は果たして書くに値しないのかを問う。
「父母を詠むから古臭いのではない。私たちは新しい表現を模索しなければならない」
間違っているところはどこにもない。けれども、古い革袋に新しい酒を入れるのはとてもむつかしいことだ。
二点目、「時を詠む」では石部明の次の句を取り上げている。
あかんべいをしてするすると脱ぐ国家 石部明
滋野は小林多喜二や鶴彬の例を挙げて、「ものを書くことに覚悟が必要だった時代」のことに触れている。
「今、自由にものを言い、行動したり、書いたりしているが、時流に乗って、上澄みを掬って書いていないか、物事の本質を見極めようという気構えを放棄していないかと、自戒している」
こういうところから、滋野の社会性川柳が生まれてくる。
三点目、私が違和感をいだくのは、滋野の「社会性」が「思い」と強く結びついていることである。川柳の読みにおいては、これまで「思い」の強度が評価軸とされることが多く、言葉によって作り出されたテクストとして読まれることが少なかったという経緯がある。作品を書くときの起動力を「思い」と呼んでしまうと、川柳のカバーする世界をずいぶん狭めることになってしまう。
「『思い』とは、句を書く時の起爆剤でもある」と滋野は述べている。
ここにも石部明が登場して、滋野に次のようなアドヴァイスをしたという。
「『思い』がなければ句は書けません。しかし、それ以前に『思いとは何か』を考えなければなりません」
四点目、滋野によれば難解と言われた「バックストローク」の作品に対して、次のようなことが言われたそうだ。
「わからなくても感じればいい」
「わかるように書かない作者が悪い」
「わからない句など、かまうな」
この整理の仕方はある意味でたいへん興味深い。多くの川柳人の本心が率直にうかがえるからだ。
「川柳を始めてたかだか10年ほどの間に『川柳大衆論』『難解句』『言葉派』『意味派』などという言葉を聞くのだが、川柳論は一方的に発表されるだけで、なかなか切り結ぶ事がないように感じている」
率直な感想だろう。批評が実作をリードするというような状況は川柳界にはない。私は現在が過渡期だと思っているから、さまざまな混乱や迷いが生じるのはむしろ当然のことだと考える。曲がりなりにも社会性を書いていた渡辺隆夫が万法を尽し終えて第一線を退いたあと、滋野さちの川柳は社会性のひとつの可能性を感じさせる。隆夫の川柳が第三者の立場からの風刺に終始したのに対して、滋野は少し違うところから川柳を書いているからだ。私は滋野の「思い」には別段興味はないが、滋野が川柳におけるどのような「批評性」を実現するかを見ていたいと思っている。