いま大阪の国立国際美術館で「貴婦人と一角獣」展が開催されている。
東京ではすでに4月から7月まで国立新美術館で開催されたものである。
「貴婦人と一角獣」のタピスリーは有名なものであるが、フランスのクリュニー中世美術館の改装にともなって、その間、東京・大阪を巡回しており、じっくり見る機会ができたのはありがたい。
そもそもこのタピスリーが日本で人気があるのは、文学的イメージとともに受容されているからだ。たとえば、リルケの『マルテの手記』の第二部は次のように始まっている。
「これは『女と一角獣』の壁掛けと呼ばれたゴブラン織りである。しかし、これも今はブウサックの城から持ち出されてしまった。すべてのものが由緒ある家から持ち出される悲惨な時代なのだ。古い家はもう何一つ保存していることができない。今では信頼よりも危険が真実になってしまったのだ。デル・ヴィストの血統をついだ人間などただの一人も現代には残っていないし、その系譜をひそかに血の中に持っている者すら見当たらぬ。みんな遠い過去の人になってしまっている。ピエール・ドオブソンよ、古い家系が生んだ偉大な人物よ、もはや誰一人おまえの名まえを口にする人がないのだ。おそらくこれらの織物はおまえの意志によって作られたのだろう。そして、六枚のゴブランはあらゆるものを美しく賛美しているのだ」(大山定一訳)
1500年ごろに製作されたこのタピスリーは、リルケが書いているように、ヴィスト家のもので、ジョルジュ・サンドもこの作品について書いている。保存の必要性を唱えるメリメなどの具申によって、フランス政府が買い上げることになった経緯がある。
不思議な図案である。一角獣と獅子の表情がそれぞれおもしろいし、貴婦人と侍女も美しく描かれている。そこに込められている意味はよくわからなくても、眺めていると飽きない。
解説のパネルを読むと6枚はそれぞれ「触覚」「味覚」「嗅覚」「聴覚」「視覚」の寓意であるという。6枚目の「我が唯一の望み」だけが何を寓意しているのかわからないという。これを読んでからもういちどタピスリーを見ると、とたんにつまらなくなった。
解説を頭から振り払い、見ることに専念する。
魅力的なのはやはり一角獣である。「視覚」では貴婦人が一角獣に鏡を見せているが、一角獣は鏡に映った自分の姿を見ているというより、貴婦人を見つめているように見える。アレゴリーと言うならば、愛のアレゴリーなのではないか。
6枚のうち貴婦人と侍女の二人が描かれているのが4枚、貴婦人だけなのが2枚。獅子と一角獣はすべての図に登場する。
草花の模様も好ましい。千花文様(ミルフルール)というらしい。このような図案は琳派を産みだした日本人の感性にも強くアピールしてくる。
「貴婦人と一角獣」をながめながら、私は川柳をアレゴリーとしてとらえる見方があることを思い出していた。
現代川柳を「寓意」という視点からとらえたのが荻原裕幸である。
現代川柳を「メタファー」からとらえるのは常套的だが、「寓意」「アレゴリー」からとらえるのは独自の視点である。
(「寓意のパラダイス」http://ogihara.cocolog-nifty.com/biscuit/2011/03/post-7d7c.html)
『川柳総合大事典』第3巻「用語編」の「寓意法」の項目を参照すると、次のような例が出てくる。
老酒にキムチほどよい酔い心地
「老酒」が中国、「キムチ」が韓国の寓意であるという。
けれども、荻原のいう「寓意」はこのようなものではない。荻原はこんなふうに述べている。
「具体的なモデルがあろうとなかろうと、書かれたことばが、近代以降のリアリズムの枠をはみ出てしまって、別の意味に転じてしまうような文体のことである。寓意の骨格が見えるのに、それが何だとは特定できない、しかし何かがたしかにたちあがることばの感触のことである」
荻原が例に挙げているのは次の句。
妖精は酢豚に似ている絶対似ている 石田柊馬
「読んでいるうちに、これは単にあの妖精のことだけを言っているわけではないのかも知れないという感覚も生じてくる」と荻原は言う。事実でもなく、象徴でもなく、寓意の様相を帯びているというのだ。私はこの句を「妖精」のことだけを詠んでいるものととらえていて、寓意とは思わないが、この句が一句全体で何かほかのことを言おうとしているという読みかたはありうると思う。
「このような寓意という視点に立つと、現在の川柳の或る領域の作品群が、寓意のパラダイスにも似た状態を見せているのかがわかる。短歌や俳句のリアリズムがそれを拒めば拒むほど、寓意は、川柳の大きな特徴として浮かびあがることだろう。共感でも思いでもない川柳のありようを、私はしばらく、こうした寓意のなかに見てみたいと考えている」
こう述べたあと、荻原は「私の好む寓意的な川柳」として次のような作品を挙げている。
いもうとは水になるため化粧する 石部明
この世からはがれた膝がうつくしい 倉本朝世
立ち入ったことを餃子のタレに聞く 筒井祥文
よろしくね これが廃船これが楡 なかはられいこ
永遠に母と並んでジャムを煮る 樋口由紀子
そこそこの幽霊になりそこいらに 広瀬ちえみ
空き瓶を持ち上げ雌雄確かめる 丸山進
私の感覚では、別に寓意ととらえなくても、書かれていることそのままと受け取って差支えない句が混じっているように思われる。
ある種の現代川柳が「寓意」と受け取られるということに興味をひかれるのは、「ではそれが何を意味しているのか」という方向に読みが進むのではないという点にある。
何かの寓意のように感じられる。しかし、それが何を寓意しているのかはっきり言い当てることができないということ。というより、それを言い当てるような読みが、句をつまらなくしてしまうということ。作者は別に寓意をこめているわけではないのに、出来上った一句が何か別のことを表現しようとしているように受け取られるという、その感覚。
いまは私の手にはあまるが、「アレゴリー」「シンボル」「メタファー」などの言葉はきちんと整理される必要がありそうだ。
20年以上前のことだ。クリュニー美術館を訪れたことがある。いまは当時とは展示の仕方が変っているのかもしれないが、静かな館内でタピスリーの前にある石の階段に座り込んで長いあいだ「貴婦人と一角獣」をながめていた。とても充実した時間だったが、タピスリーの細部はあまり覚えていない。そのときの私は『マルテの手記』で頭をいっぱいにしていたので、たぶんリルケが純粋に図を見るじゃまをしていたのだろう。
今度の展覧会では一角獣のほか貴婦人や侍女、草花や動物たちなどが映像によって細部の比較がされていて、ずいぶん楽しかった。
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