2013年8月30日金曜日

川柳とアフォリズム

吉田精一著『随筆入門』(新潮文庫・昭和40年)の「アフォリズム」の章に次のような記述がある。

「私は二十年ほど前、日本の川柳が、ヨオロッパの詩形でいえば、エピグラム Epigram や、エピタッフ Epitaph 、即ち警句詩や碑銘の類に似ているという意味のことを、『三味線草』という大阪から出ている川柳の専門雑誌に書いたことがあった。のちに調べて見ると、小酒井不木が、昭和三年ごろの『柳樽研究』という雑誌で、同じ意味のことを述べている」

吉田は「母が名は父のかひなにしなびてゐ」という古川柳について、阿部次郎が「徳川時代の芸術と思想」の中で、「徳川後期に於ける最も注目に値する短詩川柳」としてこの句を挙げ、「恋愛を突放して滑稽的観照の下に置く」という態度が垢抜けしている点を川柳の独壇場としていることを紹介している。その上で、吉田はさらに次のように述べている。

「しかし川柳の対象とするものはひとり恋愛にかぎらない。人生の諸相を極度に圧縮し、これを皮肉とうがちとを主とする観点から眺めて、警抜でかつユーモラスな観察をするのが川柳のもちまえである」

川柳の表現領域は幅広いから、吉田がここで述べているものだけが川柳だとは思わないが、ある種の川柳がアフォリズム的であることは間違いない。従来から、格言や標語は「穿ち」の要素をもっていると言われてきた。「一銭を笑うものは一銭に泣く」という標語と「母親はもったいないがだましよい」という古川柳の間に発想上の大差は認められない。
アフォリズムの根底にあるのは深い人間観察である。現代川柳におけるモラリスト(人間観察家)としての川柳という点で成功しているのは、私の知るところでは次の二人である。ここには「穿ち」の現代的深化がある。

あおむけになるとみんながのぞきこむ     佐藤みさ子
虫に刺されたところを人は見せたがる     金築雨学

―アフォリズムといえば、ラ・ロシュフコーの『箴言集』は有名である。
数年前、その川柳版を作ってみたことがある。「MANO」の掲示板にも掲載したから、ご覧になった方があるかも知れないが、私自身がすでに忘れていて、たまたま書斎のファイルから出てきたので、次に再掲してみたい。

われわれが川柳と思い込んでいるものは、往々にして、さまざまな「常識」とさまざまな「思い」の寄せ集めに過ぎない。

われわれは皆、退屈な川柳には充分耐えられるだけの強さを持っている。

川柳で目が見えなくなる人があり、川柳で目を開かれる人がある。

人は大会で抜けたことを鼻にかけるが、その功績は偉大な志の賜物ではなく偶然の結果であることが多い。

本当の川柳は幽霊と同じで、誰もがその話をするが、見た人はほとんどいない。

川柳を疑うのは、川柳に欺かれるよりも恥ずかしいことだ。

川柳の付き合いでは、われわれは長所よりも短所によって人の気に入られることが多い。

川柳を愛せば愛すほど憎むのと紙一重になる。

心中得意になることが全くなければ、川柳大会にはほとんど何の楽しみもなくなるだろう。

つまらぬ川柳の滑稽さをはっきり見せる模倣だけがよい模倣である。

川柳の偉大さにも果物と同じように旬がある。

少しも尊敬していない川柳人を愛すのは難しい。しかし自分よりはるかに偉いと思う川柳人を愛することも、それに劣らず難しい。

川柳人どうしがいっしょにいて少しも飽きないのは、ずっと自分のことばかり話しているからである。

川柳をすると、人は自分の最も信じているものまでしばしば疑う。

川柳をもう愛さなくなった時は、川柳と手を切るのも大そう難しい。

人はしばしば川柳から野心に転じるが、野心から川柳に戻ることはほとんどない。

われわれの川柳は、ほとんどの場合、偽装した短詩に過ぎない。

―次に、パスカルに登場していただこう。パスカルの「パンセ」に見られるアフォリズムを「川柳」に置き換えて、いくつかの箴言を作ってみる。パスカルはロシュフコー伯爵よりも表現の位相が深いので、出来上ったアフォリズムもより屈折し毒のあるものになる。

川柳をばかにすることこそ、真に川柳することである。

人は精神が豊かになればなるほど、独特な川柳がいっそう多くあることに気づく。普通の川柳人たちは、川柳のあいだに違いのあることに気づかない。

この川柳形式の無限の可能性は私を恐怖させる。

川柳は俳句でも便所の落書きでもない。そして、不幸なことには、俳句のまねをしようとおもうと、便所の落書きになってしまう。

川柳は川柳を越えている。

川柳が一句のなかで互いに矛盾することを言っているときには、別のことを意味していたのである。

川柳は、相反する章句を一致させる一つの意味を持っている。

―「風刺」や「警句」は川柳における非詩的要素とも考えられるが、深い意味においては、やはりそれは詩の領域に属するものだろうと私は思っている。

「考えない葦」ジグザグとせめられる    石原青竜刀

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