先週は「川柳における新しさ」について書いたが、その中で紹介した堺利彦の文章の中に「これまでのように一句の中で見事に完結しているのとは違って『未了性』に満ちた『読者』に具体的なその解釈が預けられた句」という表現があった。
「未了性」とか「読者に預ける書き方」などの表現は石田柊馬もよく使用するし、倉橋健一には『未了性としての人間』という有名な本がある。カフカの作品はその未了性のゆえに魅力的である、などと言われる。
作品は完結していなければならないというのは当然のことのように思われるが、未完成であったり、作者が意識的に未了のまま作品を読者に提示することによって、逆に作品が魅力的になることがあるとすれば、それはどのような場合だろうか。そして、未了性をもつ作品と読者参加型の作品とはどのように対応するのか。
たまたま中村真一郎の『王朝小説』を読んでいると、『夜半の寝覚』についての次のような記述に出会った(『夜半の寝覚』は途中の部分と終わりの部分が大幅に失われていることで知られる)。
「こうした大きな抜けた部分のある作品を読むという仕事は、大変にまだるこしいものであるが、しかし、これも考えようで、中世の『無名草子』や『風葉和歌集』などの記述や引用などから、わずかのヒントを与えられて、その空隙を、読者のなかで自由に埋めるという、ジグソー・パズルに似た遊びを試みることも、こうした欠巻のある物語の読み方のひとつである」
「そして、それが図らずも、今世紀になって、西欧にはじまった二十世紀小説の特徴である『読者参加』の要素と一致しているのは、まことに興味深い」
たとえば、コルターサルの『石蹴り遊び』は、「小説を多くの断片に分解し、それを読者が自由に配列し直して、それぞれに自分の小説を作る読み方」を提示している。かつてこの小説を読んだときに、私は配列されている順序に忠実に読んでゆき、それをバラバラに読む読み方をする元気を持たなかった。せっかくの読者参加型の小説なのに、つまらない読み方をしたものである。
作者論から読者論への転換ということが言われた時期があった。「作者が何を言おうとしたのか」という視点から「読者がどのように読むのか」という視点への変化である。「作品」から「テクスト」という呼び方に変化したのもこれに対応する。夏目漱石の『こころ』の「私」(大学生)がその後どうなるのかが真剣に論じられたのもこの流れの中においてである。
本来、全部で八巻の物語のうち、一部が失われて第一巻・第二巻・第五巻・第六巻だけが現存しているとする。読者は失われた第三巻・第四巻を想像によって埋めてゆく。そして、第七巻以降の物語を自由に作りあげることになる。この場合、〈読むこと〉〈書くこと〉はすでに同一の精神の作業になる。
そろそろ川柳の読みに話を戻そうか。
「川柳カード」第3号から数句を選んでみる。
女教授のいぢめちゃうぞをかたつむり きゅういち
りかちゃんに湯船に満ちる生卵
一句目、「女教授」「いぢめちゃうぞ」「かたつむり」の三つのパーツを「の」「を」という助詞で強引につないでいる。これを二つのパーツに分けると〈「女教授のいぢめちゃうぞ」を「かたつむり」〉となるだろう。「女教授を」ではなくて「女教授の」だから、女教授はいじめられるのではなくて、いじめる側の一種のサディスティックな存在となる。「いぢめちゃうぞ」という旧かなづかいを敢えて採用しているのは、たとえば谷崎潤一郎などの大正文学のような効果をねらったものだろう。男はいじめられる側の存在である。もっとも、〈いじめる〉〈いじめられる〉という関係も双方向的だから、男女の遊戯的関係とも受け取れるが、「女教授」の「助手」に対する権力関係まで深読みするとパワハラの情景が思い浮かぶ。「かたつむり」が這ったあとには白い筋がのこされる。文学作品ではしばしば性的比喩として使われるようだ。
二句目、「りかちゃん」とくれば、ロリータである。「りかちゃん」「湯船」「生卵」の三語をつないでゆく構造は一句目と同じ。湯船に満ちているのは生卵であり、りかちゃん人形が湯船にみちていると読むのは文体的に無理がある。
全集をそろえて兄の耳を噛む 清水かおり
眉剃って水琴窟になっている
一句目、誰の全集なのだろう。バルザック全集であれば、猥雑な人間の情熱と欲望が渦巻く人間喜劇の世界になり、ドストエフスキー全集であれば、聖なる神と悪魔的人間とに引き裂かれた矛盾にみちた世界となり、フロイト全集であれば無意識とリビドーの世界となる。「兄の耳を噛む」作中主体は、「弟」ではなくて「妹」だと私は読む。兄と妹が書架の全集をいっしょに並べ直している。妹はそっと兄の耳を甘噛みする。
二句目、王朝の貴族女性は眉を剃ったが、ひとり変った女性がいて、『堤中納言物語』の「虫愛づる姫君」は何ごとも自然のままがよいと言って眉を剃らなかった。この句では、作中主体の女性は眉を剃って「待ち」の姿勢になっているのである。
銅像になっても笛を吹いている 久保田紺
帰れないなあもう少し溶けないと
会員投句欄から。
一句目、銅像になったのがどのような人物なのかによってイメージが変わってくる。
銅像になりたがっているような世俗的人物である場合は、銅像になったあとも笛を吹いているという揶揄や批判がこめられていることになる。「笛を吹く」という言い回しには「笛吹けど踊らず」のように扇動的なニュアンスがある。その場合でも、そんな人間は俗物だと批判して片づけるのではなく、人間とはそのような存在なのだというペーソスが感じられる。
銅像になることに羞恥を感じるような人物がたまたま銅像にされてしまったという場合。その人は実際に笛を吹くことが好きであって、いつも笛を手放さなかった。彼は銅像になっても直立姿勢をとらず、笛を吹き続けているのだ、ということになる。
いずれの場合にしても、作者の人間観察者としての目が働いている。
二句目、「もう少し溶けないと」を現実的にとらえると、たとえば積雪に閉じ込められた世界で雪が溶けないと帰れないというような情景が思い浮かぶ。しかし、もう少し心象的な表現と受け取ると、「溶けないもの」は自己の内面にあるので、それが少し溶けて何とかならないと自由な行動に移れないというふうにも読める。人間や世界はさまざまなレベルでとらえられるものであり、どの次元で切り取るか、あるいはどの次元で読みとるかということが問題となる。
さめざめと濡れて叶ったのだと言う 阪本きりり
喃語あわめく獣の毛の匂い
一句目、一篇の王朝物語のような作品である。
主語が省略されているし、何が叶ったのかも書かれていないが、そのことによって逆に、夢の中のできごとのような、ある「叶った」という実感だけが伝わってくる。読者はそれぞれの想像を代入することができる。
簡単に手に入るようなものであれば「叶った」とは言わないだろう。まして「さめざめと濡れて」だから、よほど強い禁忌が働いているにもかかわらず叶ったのである。物語で言えば、源氏の藤壺に対する恋とか、柏木の女三宮に対する恋などが思い浮かぶ。
二句目は、一句目と似たような情景であるが、表現が具体的であるだけに、読者の想像が限定的になる。一句目が王朝的だとすれば、二句目は反王朝的である。
これらの川柳を読みながら改めて感じるのは、事実を詠んでいるのではなくて真実を詠もうとしていることである。私たちは現実の中で生きているが、現実社会の中でだけ生きているのではなく、夢や妄想や無意識も含めた多層的な認識の中で生きているのである。
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