4月20日(土)、岡山県天神山プラザで「石部明追悼川柳大会」が開催された。
昨年10月27日に逝去した石部明は現代川柳の有力な実作者であるだけでなく、「バックストローク」などを通じて後進を牽引してゆくリーダーでもあった。「バックストローク」終刊後、石部は「BSField」誌の編集に力を注いでいたが、今回の追悼会はその「BSおかやま句会Field」の主催によるものである。
第一部では、まず草地豊子が挨拶に立ち、石部明さんのご遺族からの手紙を代読した。また、BSField会員と有志によって『セレクション柳人・石部明集』から句が朗読され、北川拓治が石部明に宛てた追悼の手紙を読んだ。BGMは石部が入院中によく聞いていたという一青窈のCD「歌窈曲」だった。ちあきなおみの「喝采」のカバー曲が流れたとき、明さんはこの曲が好きだったのかと感慨深かった。
続いて「石部明を語る」と題して、小池正博と石田柊馬がそれぞれ15分ずつ語った。小池は現代川柳における石部明の位置を、俳句における水原秋桜子の位置にたとえた。秋桜子の「『自然の真』と『文芸上の真』」を応用して、石部明は「書くことによってあらわれる真」ということをよく言っていたからである。
石田は石部明が映画好きであったことを踏まえて、時代劇(チャンバラ映画)に対する石部明と石田自身の見方の違いについて語った。かつてのチャンバラ映画の主人公たちが腰のひけた立ちまわりをしていたことについて石田が否定的だったのに対して、石部はチャンバラ映画の主役は「白塗りの美青年」でよいのだという意見だった。このエピソードから、「リアリズム」と「勧善懲悪」は必ずずれる、石部明は現実と作り物との違いを常にわきまえて作品を書いていたのだ、と石田は述べる。この映画についての二人のやり取りは確か「バックストローク」の伝言板でも読んだことがあるように思う。
第二部は句会で、「握る」(柴田夕起子選)、「湾」(前田一石選)、「山羊」(松永千秋選)、「顎」(徳永政二選)、「にやり」(広瀬ちえみ選)、「妖怪」(筒井祥文選)、イメージ吟「石部明」(樋口由紀子選)。入選句はいずれ発表誌に掲載されるだろう。
大会が終わって改めて感じたのは、石部の選者としての存在感の大きさである。私自身も石部の選を受けることによって自句に自信をもち、前に進むことができた経験が何度もある。石部がもういないということは、選者層が薄くなることにつながってゆく。
当日、石田柊馬が述べたように、石部明の業績は繰り返し語り継ぐべきものである。川柳人は忘れっぽいから、在世中は大きな存在であっても、直接会ったことのない世代の人たちにまで継承されることは少ない。私の限られた経験の中でも、そのような事態を何度も見てきた。追悼会が終わったからといって、忘れ去られては困るのである。
「川柳カード」第2号では「川柳人・石部明の軌跡」を特集したが、改めて石部明の凄さを認識する契機になればありがたい。初期の石部明についても私には分からないことが多い。石部は人によって異なる姿を見せる複雑な存在だったから、語る人によってさまざまな石部像がありうるだろう。それぞれが文章化しておくことが望まれる。
大会翌日は有志で京都を散策した。
詩仙堂は新緑が美しく、風に揺れる木々はまるで言葉を発しているようだった。サツキにはまだ早かったが、そのため人が少なく庭園風景を満喫することができた。
東寺はちょうど毎月21日の弘法市が立ち、露店でにぎわっていた。ちょうど一年前のこの日、正岡豊と二人で東寺吟行をしたことを思い出した。講堂諸仏のうち、憤怒像もすばらしいが、私のご贔屓は帝釈天である。いつも堂内は暗いのだが、午後の陽光が仏像の姿をくっきりと浮かび上がらせている。阿修羅との永遠の闘争を続ける帝釈天の姿は、端正でありながらニヒルだ。
帰宅すると「垂人」19号が届いていた。
椅子がある千里歩いて来るひとの 広瀬ちえみ
2013年4月19日金曜日
「文学フリマ」と「川柳カード」合評会
4月14日(日)に堺市で「第16回文学フリマin大阪」が開催された。
当日、会場で配布されたパンフレットの巻頭言には次のように書かれている。
「ついに大阪でも文学フリマを開催することができました。
2006年の『文学フリマinなごや』から数えて実に7年ぶりの地方開催であり、関西圏では初めての文学フリマです。また、今回はスピンアウト扱いではなく、ナンバリングタイトルとしての開催であり、これも東京以外ではじめてということになります。
文学フリマの立ち上げ当初から、地方へその種をまき、活動を広げていくことは構想されていました。長い時期をかけ、また一歩、前へ進むことができます」
「だからこそ、あらためて書きますが、東京の文学フリマ事務局主催による大阪開催はこの一回限りです。第二回は地元有志の手によって開催されるものと信じています。
今回の大阪開催はゴールではなく、はじまりです」
この「ゴールではなく、はじまり」という感覚は私にはとてもよく分かる。先月、「連句協会全国大会in大阪」の開催を終えたばかりだからである。
さて、文学フリマとは何か。
大塚英志が「群像」2002号6月号に発表した「不良債権としての『文学』」の中で行なった呼びかけを発端として生まれた同人誌即売会である。「自分が『文学』だと信じるもの」を売るイベントで、古書は含まれない。
当日は会場に310のブースが並び、開場前にはすでに百人ほどの若者たちが並んでいた。大学生や20代の人が中心のようだった。事後の発表では総来場者数は約1600人。
短詩型では短歌が中心で、川柳は一点もなかった。
「京大短歌」と「率」をゲットする。
会場には15分しかいなかったので、全体的な印象にすぎないが、どの同人誌がどこに出ているかもすぐには分からない盛況ぶりで、ネット全盛の現在で紙媒体の「文学と信じる」同人誌を売ろうとする人がいて、またそれを求める人がこんなにも大勢いるということは感動的であった。
次の機会にはぜひ川柳も出店してほしい。
「文学フリマ」会場を出て、すぐに大阪・上本町に向かう。
1時から「川柳カード」第2号の合評句会を開催。
同人作品を中心とした合評を約2時間、句会(雑詠1句、兼題「管」1句、互選)を約1時間半。ここでは、「川柳カード」第2号の同人の句を各1句ずつ、( 1行コメント)を付けて紹介する。
変なところに葱や葡萄をそよがせて 石田柊馬
(石部明追悼十句のひとつ。「軍艦の変なところが濡れている(石部明)」)
あやとりは終わり余った手が二本 草地豊子
(あやとりは一人でもできるが、二人でする場合は手が四本。二本は石部明の手とも。)
雪の日の君を包んでいるりんご 畑美樹
( 短歌的抒情。雪に林檎とくれば北原白秋か。)
天は天だけど天にはない安堵 前田一石
( 一石さん、新機軸を出していると好評。)
咽喉の奥に覗いているトマスの指 湊圭史
( どちらのトマスさんでしょうか。)
音姫に助けてもらうものおとす 一戸涼子
( 乙姫ではなく、音姫はトイレで使う流水音アプリなんだって…)
おばあさんやらひいおばあさんやら来て唄う 松永千秋
(おばあさんたちはどこから来たのか。唄っているのは保育園? )
疼痛に込み合う梵字精錬所 きゅういち
(「やりすぎ」という意見と「ここまでするなら、もっとやらないと」という意見と。)
ウクレレおじさん高野豆腐に不時着す 榊陽子
( キャラクターがおもしろいね。)
死んだふりしても鷗は漫才師 くんじろう
(「鳥」シリーズの一句。鷗は漫才師。さすらいの醜鳥。)
だから鎖骨を一本くらいください 清水かおり
( はい、あげましょう。)
和風しそ味ドレッシングみの虫 井上一筒
(「食べ物」シリーズの一句。みの虫は食べられません。)
仏壇を開けると止まる靴の音 浪越靖政
( 死者の靴の音だろうか。)
真夜中のたましいきゅるきゅると巻き戻し 山田ゆみ葉
( 巻いたじゅうたんを広げてみると、卵をころがすのにちょうどよい。)
おごそかに両便が去りたまふなり 野沢省悟
( 大便・小便を排泄してヒトは生きていくという作者の人間観。)
暁斎も割り込む人もいて夕辺 筒井祥文
( 江戸の奇想派の画家・河鍋暁斎。行列の中にこんな人も混じっている。)
冬鳥がいるいる痛くなるほどに 広瀬ちえみ
( イタタタタ…冬鳥のせいにする。)
土地鑑は丸い豆腐のあるあたり 小池正博
( 土地勘ではなくて土地鑑。高村薫の読みすぎか。)
霜焼けの指を納める桐の函 平賀胤壽
( 作品の完成度が高い。)
凌雲閣潰えたのちの九秒台 飯島章友
( 十秒の壁と言わなくなった。)
万物の光たばねて不戦勝 兵頭全郎
(「幾つかの銀河をつくる不戦敗」と対応。ゲームかな、スペース・オペラかな。)
罰としてクリオネ三年ヘビ五年 丸山進
( セミの馬鹿めが十八年。)
布団から人が出てきて集まった 樋口由紀子
( そう言われれば、人の世はこの通りだなあ。)
当日、本多洋子さんから『川柳サロン・洋子の部屋 Part2』をいただいた。Part1以後の3年間のゲスト作品などを集めたもの。
私も百鬼夜行の列にいる 本多洋子
オイスターソースで私を変える
当日、会場で配布されたパンフレットの巻頭言には次のように書かれている。
「ついに大阪でも文学フリマを開催することができました。
2006年の『文学フリマinなごや』から数えて実に7年ぶりの地方開催であり、関西圏では初めての文学フリマです。また、今回はスピンアウト扱いではなく、ナンバリングタイトルとしての開催であり、これも東京以外ではじめてということになります。
文学フリマの立ち上げ当初から、地方へその種をまき、活動を広げていくことは構想されていました。長い時期をかけ、また一歩、前へ進むことができます」
「だからこそ、あらためて書きますが、東京の文学フリマ事務局主催による大阪開催はこの一回限りです。第二回は地元有志の手によって開催されるものと信じています。
今回の大阪開催はゴールではなく、はじまりです」
この「ゴールではなく、はじまり」という感覚は私にはとてもよく分かる。先月、「連句協会全国大会in大阪」の開催を終えたばかりだからである。
さて、文学フリマとは何か。
大塚英志が「群像」2002号6月号に発表した「不良債権としての『文学』」の中で行なった呼びかけを発端として生まれた同人誌即売会である。「自分が『文学』だと信じるもの」を売るイベントで、古書は含まれない。
当日は会場に310のブースが並び、開場前にはすでに百人ほどの若者たちが並んでいた。大学生や20代の人が中心のようだった。事後の発表では総来場者数は約1600人。
短詩型では短歌が中心で、川柳は一点もなかった。
「京大短歌」と「率」をゲットする。
会場には15分しかいなかったので、全体的な印象にすぎないが、どの同人誌がどこに出ているかもすぐには分からない盛況ぶりで、ネット全盛の現在で紙媒体の「文学と信じる」同人誌を売ろうとする人がいて、またそれを求める人がこんなにも大勢いるということは感動的であった。
次の機会にはぜひ川柳も出店してほしい。
「文学フリマ」会場を出て、すぐに大阪・上本町に向かう。
1時から「川柳カード」第2号の合評句会を開催。
同人作品を中心とした合評を約2時間、句会(雑詠1句、兼題「管」1句、互選)を約1時間半。ここでは、「川柳カード」第2号の同人の句を各1句ずつ、( 1行コメント)を付けて紹介する。
変なところに葱や葡萄をそよがせて 石田柊馬
(石部明追悼十句のひとつ。「軍艦の変なところが濡れている(石部明)」)
あやとりは終わり余った手が二本 草地豊子
(あやとりは一人でもできるが、二人でする場合は手が四本。二本は石部明の手とも。)
雪の日の君を包んでいるりんご 畑美樹
( 短歌的抒情。雪に林檎とくれば北原白秋か。)
天は天だけど天にはない安堵 前田一石
( 一石さん、新機軸を出していると好評。)
咽喉の奥に覗いているトマスの指 湊圭史
( どちらのトマスさんでしょうか。)
音姫に助けてもらうものおとす 一戸涼子
( 乙姫ではなく、音姫はトイレで使う流水音アプリなんだって…)
おばあさんやらひいおばあさんやら来て唄う 松永千秋
(おばあさんたちはどこから来たのか。唄っているのは保育園? )
疼痛に込み合う梵字精錬所 きゅういち
(「やりすぎ」という意見と「ここまでするなら、もっとやらないと」という意見と。)
ウクレレおじさん高野豆腐に不時着す 榊陽子
( キャラクターがおもしろいね。)
死んだふりしても鷗は漫才師 くんじろう
(「鳥」シリーズの一句。鷗は漫才師。さすらいの醜鳥。)
だから鎖骨を一本くらいください 清水かおり
( はい、あげましょう。)
和風しそ味ドレッシングみの虫 井上一筒
(「食べ物」シリーズの一句。みの虫は食べられません。)
仏壇を開けると止まる靴の音 浪越靖政
( 死者の靴の音だろうか。)
真夜中のたましいきゅるきゅると巻き戻し 山田ゆみ葉
( 巻いたじゅうたんを広げてみると、卵をころがすのにちょうどよい。)
おごそかに両便が去りたまふなり 野沢省悟
( 大便・小便を排泄してヒトは生きていくという作者の人間観。)
暁斎も割り込む人もいて夕辺 筒井祥文
( 江戸の奇想派の画家・河鍋暁斎。行列の中にこんな人も混じっている。)
冬鳥がいるいる痛くなるほどに 広瀬ちえみ
( イタタタタ…冬鳥のせいにする。)
土地鑑は丸い豆腐のあるあたり 小池正博
( 土地勘ではなくて土地鑑。高村薫の読みすぎか。)
霜焼けの指を納める桐の函 平賀胤壽
( 作品の完成度が高い。)
凌雲閣潰えたのちの九秒台 飯島章友
( 十秒の壁と言わなくなった。)
万物の光たばねて不戦勝 兵頭全郎
(「幾つかの銀河をつくる不戦敗」と対応。ゲームかな、スペース・オペラかな。)
罰としてクリオネ三年ヘビ五年 丸山進
( セミの馬鹿めが十八年。)
布団から人が出てきて集まった 樋口由紀子
( そう言われれば、人の世はこの通りだなあ。)
当日、本多洋子さんから『川柳サロン・洋子の部屋 Part2』をいただいた。Part1以後の3年間のゲスト作品などを集めたもの。
私も百鬼夜行の列にいる 本多洋子
オイスターソースで私を変える
2013年4月12日金曜日
あなたにとって川柳性とは何か
俳誌「翔臨」(編集発行人・竹中宏)では66号から74号まで「わたしにとって『有季定型』とは」の連載特集が組まれてきたが、今回の76号は中岡毅雄の〈「わたしにとって『有季定型』とは」総括〉を掲載している。このテーマ、ひとまずは締めくくりということだろう。
中岡はこれまでの論者のうち、岩城久治「祖父の反故」における有季定型とは「わたくしをして担うにたる大きくて重い存在としての不条理」という捉え方と、加藤かな文「『私から最も遠い私』から遠く」を近い考え方とする。これに対し、有季に積極的な意味を見出そうとしている論者として横澤放川と中田剛を挙げている。また、中村雅樹「世界は言葉とともに立ち現われる」、榎本好宏「積み重ねの到達点」を「有季」の世界に対する融和・親和を示すもの、瀧澤和治「心の姿勢」を俳句のレトリック面として「有季定型」に注目したもの、岸本尚毅「有季定型に関する実験」を「有季定型」を最もテクニカルな側面から捉えたもの、というように整理している。
以上は中岡の整理をさらに短絡的に要約したものなので、詳しくはもとの文章を参照されたい。中岡自身は「私が不思議に思ったのは『有季定型』を所与のものとして、肯定的に受容する主張が皆無だったことである」と述べ、「有季定型」は俳句の前提であり、「有季」「定型」という二つの枷がある文芸を俳句と呼ぶ、それでかまわない、という立場である。
竹中宏は編集後記(「地水火風」)で次のように書いている。
「俳人のあいだで、俳句についての根本的な問いをかわしあうことが、あまり見かけられなくなったようだ。あたりまえに過ごしていることも、かんがえなおしてみると、簡単に結論の出ないもので、あるいは、安易に一致点の見いだせないもので、そんな泥沼へ踏みこむことは、スマートといえないのだろう。しかし、問うてよいこと、問うべきことは依然として存在する。そこで本誌は『あなたにとって有季定型とは』という問いを発してみた」「つまり、『有季定型』の教科書的定義から出発するのでは問題はかたづかず、個々の内的決断としての選択のありようにこそ核心があるというのが、発問のふくみであった。同じ問いを、読者にも呈したい」
竹中らしいものの言い方である。
一般論に逃げるのではなくて、「あなた自身はどうなのだ」という問いを竹中は突きつけてくる。俳句については対岸のことですませられるが、では川柳で同じように問うことはできるだろうか。
俳句では「有季定型」という核があるが、川柳にはそのようなものはない。もし問うとすれば、「あなたにとって川柳性とは何か」という問いになる。これが川柳人にとっては悩ましいのである。
「面」(発行人・高橋龍)115号は創刊50周年記念号である。
創刊号は1963年4月1日発行。
今回の内扉には西東三鬼の「俳愚伝」の一節が掲載されている。
「昭和九年の十月のある朝、私は勤先の外神田の病院に行くために、秋葉原の高架駅をあるいていた。歩廊の窓からは北は上野、本郷がみえ、南は日本橋、京橋の家々がみえた。いつも見慣れた俯瞰風景であるが、私は明けても暮れても、新しい俳句とそれを作る人々の事ばかり考えていたので、屋根屋根をつらねたその朝の大都市を眺めた時、同じ東京の屋根の下に住みながら、そして同じ革新的志向を俳句に持ちながら、お互いに名前と作品を知りながら、一度も顔を合わせたことがない俳人達を思い浮かべた」
老年や月下の森に面の舞 西東三鬼
川柳誌に目を転じて見よう。
「水脈」33号、巻頭に浪越靖政の「川柳の可能性」を掲載。
第17回杉野土佐一賞の榊陽子作品、第2回高田寄生木賞の山川舞句作品を取り上げたあと、浪越は次のように書いている。
「川柳は250年以上の歴史を持つ伝統文芸である。ということで、川柳を枠の中に閉じ込めてしまおうという考えの指導者も多い。しかし、伝統というものは日々進化していくものである。これは他の文芸や芸能をみても明らかなことである。川柳の良さと強みは季題や切れなどという制約がないことであり、この無限の可能性を否定しては進歩も発展も考えられない」
これに付け加えて浪越自身は「川柳の面白さ」を追求してゆきたいと述べている。「川柳の面白さ」にもいろいろな種類が考えられるだろうが、言葉の面白さであれ内容の面白さであれ、川柳にはまだまだ表現領域を拡大する余地があるだろう。
ふたりしてかゆいところがわからない 一戸涼子
深海をめぐるおまけがつくという 酒井麗水
とりあえずダミーを送る検査室 浪越靖政
「ふらすこてん」26号。この川柳誌も5年目に入り、試行を続けている。
同人稿として蟹口和枝が「アスリート的読みの練習」、富山やよいが「夢で逢えたら笑いましょう」を書いている。富山の文章は飯田良祐の川柳を取り上げたもの。
筒井祥文は「番傘この一句」という連載を続けており、本号では2012年11月号・12月号について選評している。
領海に十三億の胃袋が 西久保隆三
無視されて左まわりをしてみせる 大西将文
「杜人」237号。東日本大震災から二年が経過し、仙台から発行されている本誌には震災を意識した作品が散見される。
他人様の更地を踏んで海を見に 山川舞句
人はようやく育ちはじめる死んでから 佐藤みさ子
また、草地豊子の「三月の船よ」という自筆の詩が掲載されているのも目をひく。震災の津波で岩手県大槌町の民宿の屋上に、釜石市の遊覧船「はまゆり」が乗り上げた様子を「迷子の船よ」と表現したものである。
中岡はこれまでの論者のうち、岩城久治「祖父の反故」における有季定型とは「わたくしをして担うにたる大きくて重い存在としての不条理」という捉え方と、加藤かな文「『私から最も遠い私』から遠く」を近い考え方とする。これに対し、有季に積極的な意味を見出そうとしている論者として横澤放川と中田剛を挙げている。また、中村雅樹「世界は言葉とともに立ち現われる」、榎本好宏「積み重ねの到達点」を「有季」の世界に対する融和・親和を示すもの、瀧澤和治「心の姿勢」を俳句のレトリック面として「有季定型」に注目したもの、岸本尚毅「有季定型に関する実験」を「有季定型」を最もテクニカルな側面から捉えたもの、というように整理している。
以上は中岡の整理をさらに短絡的に要約したものなので、詳しくはもとの文章を参照されたい。中岡自身は「私が不思議に思ったのは『有季定型』を所与のものとして、肯定的に受容する主張が皆無だったことである」と述べ、「有季定型」は俳句の前提であり、「有季」「定型」という二つの枷がある文芸を俳句と呼ぶ、それでかまわない、という立場である。
竹中宏は編集後記(「地水火風」)で次のように書いている。
「俳人のあいだで、俳句についての根本的な問いをかわしあうことが、あまり見かけられなくなったようだ。あたりまえに過ごしていることも、かんがえなおしてみると、簡単に結論の出ないもので、あるいは、安易に一致点の見いだせないもので、そんな泥沼へ踏みこむことは、スマートといえないのだろう。しかし、問うてよいこと、問うべきことは依然として存在する。そこで本誌は『あなたにとって有季定型とは』という問いを発してみた」「つまり、『有季定型』の教科書的定義から出発するのでは問題はかたづかず、個々の内的決断としての選択のありようにこそ核心があるというのが、発問のふくみであった。同じ問いを、読者にも呈したい」
竹中らしいものの言い方である。
一般論に逃げるのではなくて、「あなた自身はどうなのだ」という問いを竹中は突きつけてくる。俳句については対岸のことですませられるが、では川柳で同じように問うことはできるだろうか。
俳句では「有季定型」という核があるが、川柳にはそのようなものはない。もし問うとすれば、「あなたにとって川柳性とは何か」という問いになる。これが川柳人にとっては悩ましいのである。
「面」(発行人・高橋龍)115号は創刊50周年記念号である。
創刊号は1963年4月1日発行。
今回の内扉には西東三鬼の「俳愚伝」の一節が掲載されている。
「昭和九年の十月のある朝、私は勤先の外神田の病院に行くために、秋葉原の高架駅をあるいていた。歩廊の窓からは北は上野、本郷がみえ、南は日本橋、京橋の家々がみえた。いつも見慣れた俯瞰風景であるが、私は明けても暮れても、新しい俳句とそれを作る人々の事ばかり考えていたので、屋根屋根をつらねたその朝の大都市を眺めた時、同じ東京の屋根の下に住みながら、そして同じ革新的志向を俳句に持ちながら、お互いに名前と作品を知りながら、一度も顔を合わせたことがない俳人達を思い浮かべた」
老年や月下の森に面の舞 西東三鬼
川柳誌に目を転じて見よう。
「水脈」33号、巻頭に浪越靖政の「川柳の可能性」を掲載。
第17回杉野土佐一賞の榊陽子作品、第2回高田寄生木賞の山川舞句作品を取り上げたあと、浪越は次のように書いている。
「川柳は250年以上の歴史を持つ伝統文芸である。ということで、川柳を枠の中に閉じ込めてしまおうという考えの指導者も多い。しかし、伝統というものは日々進化していくものである。これは他の文芸や芸能をみても明らかなことである。川柳の良さと強みは季題や切れなどという制約がないことであり、この無限の可能性を否定しては進歩も発展も考えられない」
これに付け加えて浪越自身は「川柳の面白さ」を追求してゆきたいと述べている。「川柳の面白さ」にもいろいろな種類が考えられるだろうが、言葉の面白さであれ内容の面白さであれ、川柳にはまだまだ表現領域を拡大する余地があるだろう。
ふたりしてかゆいところがわからない 一戸涼子
深海をめぐるおまけがつくという 酒井麗水
とりあえずダミーを送る検査室 浪越靖政
「ふらすこてん」26号。この川柳誌も5年目に入り、試行を続けている。
同人稿として蟹口和枝が「アスリート的読みの練習」、富山やよいが「夢で逢えたら笑いましょう」を書いている。富山の文章は飯田良祐の川柳を取り上げたもの。
筒井祥文は「番傘この一句」という連載を続けており、本号では2012年11月号・12月号について選評している。
領海に十三億の胃袋が 西久保隆三
無視されて左まわりをしてみせる 大西将文
「杜人」237号。東日本大震災から二年が経過し、仙台から発行されている本誌には震災を意識した作品が散見される。
他人様の更地を踏んで海を見に 山川舞句
人はようやく育ちはじめる死んでから 佐藤みさ子
また、草地豊子の「三月の船よ」という自筆の詩が掲載されているのも目をひく。震災の津波で岩手県大槌町の民宿の屋上に、釜石市の遊覧船「はまゆり」が乗り上げた様子を「迷子の船よ」と表現したものである。
2013年4月6日土曜日
中西ひろ美と俳諧の国
中西ひろ美の第三句集『haikainokuni@』(文学の森)が上梓された。
作品は「俳句のような集」「俳句じゃないような集」に分かれ、これに広瀬ちえみの解説と中西のあとがきが付く。
まず、「俳句のような集」から。
葦の角ざわざわと独りがくるぞ
佐保姫は松を一頭連れあるく
そこで煙出てくる梅の三分咲き
考えにまたしても鵜があらわれる
ががんぼやふしぎなものはおらんだと
さくらんぼ容れて冷蔵庫が鳴るよ
梅雨しずかあのねを聞いていた頃も
夏風邪に天竜川を引いてこよ
ひぐらしの余呉湖にそっと戻ろうよ
雀化して蛤となる風のポッキー
極月の鴉に空があってよかった
疲れた 鷹を呼ぼう雪を呼ぼう
んの崖から呼び戻す 笛
帯で広瀬ちえみが選出した句とは異なるものを中心に選んだ。
季語があり四季の順に配列されていて、俳句らしい俳句であるが、中西の個性もうかがえる。「ふしぎなものはおらんだと」の句は、談林派の西鶴が「阿蘭陀流」と呼ばれたことを連想させ(「生玉万句」序)、中西が俳諧を意識していることがわかる。
「俳句じゃないような集」には短歌・俳句・連句などが収録されているが、それぞれ「歌のような十三首と連作一組」「詩のような一篇」「連句のような二篇」「雑(ぞう) 四組と一篇と二作品」というタイトルになっている。「~のような」という部分が読者にしてみれば煩雑にも感じられるが、ジャンルの越境を意識しているからこういう表現をとっているのだろう。このうち、私にとって興味があるのは、やはり連句の部分である。
木枯のなまじやみをる月明かり 阿部青鞋
ふるふる金のふるーとふふる 中西ひろ美(以下の句すべて)
ひらく掌の指が五方をさしていて
阿部一族へ報せがはしる
わが町となれば時間を惜しみなく
ぽぷらユーカリ楡プラタナス
以下は省略するが、三句の渡りを二組続けたあと7行のフリースペースを設け、終わりに再び三句のセットを配する形式(一花一月)で、「俳諧の漣」と命名している。
中西は「あとがき」の中で「私と俳諧について」述べている。俳諧には多くの入口があり、「連句=俳諧」だと思っているわけではないが、自分の場合は連句という入口から入った、と断ったあと、中西はこんなふうに述べている。
「私が俳句を始めて十年目の頃、どこからともなく吹き寄せられたように同世代が集まりました。その中の一人が連句人でした。俳句の世界で同世代が出会った熱のような時間の中で連句が始まりました。一人の連句人以外に連句を知る者はいませんでした。でも、血気盛んな三十代で俳歴もさほど変わらない同世代の仲間同士です。教える方と教わる方に上下関係はなく対等でした。一巻の連句を巻くなかでの議論。芭蕉について、連句について、聞いたり聞かれたり、ああだこうだと言い合っていたことがどれだけ勉強になったか知れません。俳句と俳諧を考えるうえで避けて通れない芭蕉にも、連句を通じて出会えたことは幸せだったと思います」
こういう経験から、中西は俳句仲間にも「俳句」をするのと変わらない気分で参加してもらえる「俳諧」はないだろうかと考える。そこから中西はさまざまな趣向を凝らした句会や吟行を考える。吟行旅行もよく行っているようだ。その実践の場が中西ひろ美と広瀬ちえみが編集・発行している「垂人」だろう。その雰囲気を「垂人」18号(2012年12月発行)の巻頭文から紹介する。
「旅の初日、最初は一人。新幹線が東京を出発。次駅上野から乗る一人と会う。同じ列車内にもう一人いた。仙台からも一人乗る。弘前駅の改札口で迎えてくれた一人。夕方ホテルのロビーであと二人合流。夕食後ホテルに戻ったところでさらに一人。この八人で三泊四日の旅をする。二日目、レンタカー二台で海岸線をゆく。晴れと雨が来ては去る。よさそうな所に停車して海を見る。雨の中岩場で遊ぶ。誰かが温泉に入りたいと言う。不老ふ死温泉に寄り道。岩木山神社に参拝したのは帰り道を間違えたおかげ。夜は句会。三日目は列車とレンタカーで下北半島へ。岬の突端、青空と海の色に言葉なし。埋没林への道に『熊出没』の立札。臆病な一人は鈴を振り続けた。その音は熊を呼ぶよと他の七人大笑い。夜はまた句会」
こんな調子で旅と句会を続けてゆくのだ。
句集の帯に「俳諧は読むものではなく、たぶん、するものである」という中西ひろ美の言葉がある。句集を「読む」ということからはみ出す部分が中西の俳諧にはあるのだ。そして、このことが句集『haikainokuni@』の魅力でもあり弱点でもある。一冊のテクストとして世に問うならば、この句集の第一部だけでよかっただろう。しかし、作者はそれでは満足できなかったのだろう。
連句人が外部の人々からよく受ける批判のひとつに「連句人は秘密結社的な楽しみにふけっている」というものがある。自分たちだけで楽しそうにやっているが、連句外の人はそこに入っていけない。連句人としては決してそういうつもりはないのだが、外側からはそんなふうに見えるらしい。ここにあるのは「座」の問題である。ある意味で「座」は人を選ぶのだ。
中西が「俳句」ではなくて「俳諧」をめざすということは、テクストとしてこの句集を読もうとする読者に一種の疎外感をもたらすかも知れない。「弱点」と言ったのはそういう意味である。けれども、中西はそんなことは問題にしないだろう。スタンダールは『赤と黒』の読者としてhappy few (幸福な少数者)を想定した。この句集はhappy fewに届くだろうか。
作品は「俳句のような集」「俳句じゃないような集」に分かれ、これに広瀬ちえみの解説と中西のあとがきが付く。
まず、「俳句のような集」から。
葦の角ざわざわと独りがくるぞ
佐保姫は松を一頭連れあるく
そこで煙出てくる梅の三分咲き
考えにまたしても鵜があらわれる
ががんぼやふしぎなものはおらんだと
さくらんぼ容れて冷蔵庫が鳴るよ
梅雨しずかあのねを聞いていた頃も
夏風邪に天竜川を引いてこよ
ひぐらしの余呉湖にそっと戻ろうよ
雀化して蛤となる風のポッキー
極月の鴉に空があってよかった
疲れた 鷹を呼ぼう雪を呼ぼう
んの崖から呼び戻す 笛
帯で広瀬ちえみが選出した句とは異なるものを中心に選んだ。
季語があり四季の順に配列されていて、俳句らしい俳句であるが、中西の個性もうかがえる。「ふしぎなものはおらんだと」の句は、談林派の西鶴が「阿蘭陀流」と呼ばれたことを連想させ(「生玉万句」序)、中西が俳諧を意識していることがわかる。
「俳句じゃないような集」には短歌・俳句・連句などが収録されているが、それぞれ「歌のような十三首と連作一組」「詩のような一篇」「連句のような二篇」「雑(ぞう) 四組と一篇と二作品」というタイトルになっている。「~のような」という部分が読者にしてみれば煩雑にも感じられるが、ジャンルの越境を意識しているからこういう表現をとっているのだろう。このうち、私にとって興味があるのは、やはり連句の部分である。
木枯のなまじやみをる月明かり 阿部青鞋
ふるふる金のふるーとふふる 中西ひろ美(以下の句すべて)
ひらく掌の指が五方をさしていて
阿部一族へ報せがはしる
わが町となれば時間を惜しみなく
ぽぷらユーカリ楡プラタナス
以下は省略するが、三句の渡りを二組続けたあと7行のフリースペースを設け、終わりに再び三句のセットを配する形式(一花一月)で、「俳諧の漣」と命名している。
中西は「あとがき」の中で「私と俳諧について」述べている。俳諧には多くの入口があり、「連句=俳諧」だと思っているわけではないが、自分の場合は連句という入口から入った、と断ったあと、中西はこんなふうに述べている。
「私が俳句を始めて十年目の頃、どこからともなく吹き寄せられたように同世代が集まりました。その中の一人が連句人でした。俳句の世界で同世代が出会った熱のような時間の中で連句が始まりました。一人の連句人以外に連句を知る者はいませんでした。でも、血気盛んな三十代で俳歴もさほど変わらない同世代の仲間同士です。教える方と教わる方に上下関係はなく対等でした。一巻の連句を巻くなかでの議論。芭蕉について、連句について、聞いたり聞かれたり、ああだこうだと言い合っていたことがどれだけ勉強になったか知れません。俳句と俳諧を考えるうえで避けて通れない芭蕉にも、連句を通じて出会えたことは幸せだったと思います」
こういう経験から、中西は俳句仲間にも「俳句」をするのと変わらない気分で参加してもらえる「俳諧」はないだろうかと考える。そこから中西はさまざまな趣向を凝らした句会や吟行を考える。吟行旅行もよく行っているようだ。その実践の場が中西ひろ美と広瀬ちえみが編集・発行している「垂人」だろう。その雰囲気を「垂人」18号(2012年12月発行)の巻頭文から紹介する。
「旅の初日、最初は一人。新幹線が東京を出発。次駅上野から乗る一人と会う。同じ列車内にもう一人いた。仙台からも一人乗る。弘前駅の改札口で迎えてくれた一人。夕方ホテルのロビーであと二人合流。夕食後ホテルに戻ったところでさらに一人。この八人で三泊四日の旅をする。二日目、レンタカー二台で海岸線をゆく。晴れと雨が来ては去る。よさそうな所に停車して海を見る。雨の中岩場で遊ぶ。誰かが温泉に入りたいと言う。不老ふ死温泉に寄り道。岩木山神社に参拝したのは帰り道を間違えたおかげ。夜は句会。三日目は列車とレンタカーで下北半島へ。岬の突端、青空と海の色に言葉なし。埋没林への道に『熊出没』の立札。臆病な一人は鈴を振り続けた。その音は熊を呼ぶよと他の七人大笑い。夜はまた句会」
こんな調子で旅と句会を続けてゆくのだ。
句集の帯に「俳諧は読むものではなく、たぶん、するものである」という中西ひろ美の言葉がある。句集を「読む」ということからはみ出す部分が中西の俳諧にはあるのだ。そして、このことが句集『haikainokuni@』の魅力でもあり弱点でもある。一冊のテクストとして世に問うならば、この句集の第一部だけでよかっただろう。しかし、作者はそれでは満足できなかったのだろう。
連句人が外部の人々からよく受ける批判のひとつに「連句人は秘密結社的な楽しみにふけっている」というものがある。自分たちだけで楽しそうにやっているが、連句外の人はそこに入っていけない。連句人としては決してそういうつもりはないのだが、外側からはそんなふうに見えるらしい。ここにあるのは「座」の問題である。ある意味で「座」は人を選ぶのだ。
中西が「俳句」ではなくて「俳諧」をめざすということは、テクストとしてこの句集を読もうとする読者に一種の疎外感をもたらすかも知れない。「弱点」と言ったのはそういう意味である。けれども、中西はそんなことは問題にしないだろう。スタンダールは『赤と黒』の読者としてhappy few (幸福な少数者)を想定した。この句集はhappy fewに届くだろうか。