中西ひろ美の第三句集『haikainokuni@』(文学の森)が上梓された。
作品は「俳句のような集」「俳句じゃないような集」に分かれ、これに広瀬ちえみの解説と中西のあとがきが付く。
まず、「俳句のような集」から。
葦の角ざわざわと独りがくるぞ
佐保姫は松を一頭連れあるく
そこで煙出てくる梅の三分咲き
考えにまたしても鵜があらわれる
ががんぼやふしぎなものはおらんだと
さくらんぼ容れて冷蔵庫が鳴るよ
梅雨しずかあのねを聞いていた頃も
夏風邪に天竜川を引いてこよ
ひぐらしの余呉湖にそっと戻ろうよ
雀化して蛤となる風のポッキー
極月の鴉に空があってよかった
疲れた 鷹を呼ぼう雪を呼ぼう
んの崖から呼び戻す 笛
帯で広瀬ちえみが選出した句とは異なるものを中心に選んだ。
季語があり四季の順に配列されていて、俳句らしい俳句であるが、中西の個性もうかがえる。「ふしぎなものはおらんだと」の句は、談林派の西鶴が「阿蘭陀流」と呼ばれたことを連想させ(「生玉万句」序)、中西が俳諧を意識していることがわかる。
「俳句じゃないような集」には短歌・俳句・連句などが収録されているが、それぞれ「歌のような十三首と連作一組」「詩のような一篇」「連句のような二篇」「雑(ぞう) 四組と一篇と二作品」というタイトルになっている。「~のような」という部分が読者にしてみれば煩雑にも感じられるが、ジャンルの越境を意識しているからこういう表現をとっているのだろう。このうち、私にとって興味があるのは、やはり連句の部分である。
木枯のなまじやみをる月明かり 阿部青鞋
ふるふる金のふるーとふふる 中西ひろ美(以下の句すべて)
ひらく掌の指が五方をさしていて
阿部一族へ報せがはしる
わが町となれば時間を惜しみなく
ぽぷらユーカリ楡プラタナス
以下は省略するが、三句の渡りを二組続けたあと7行のフリースペースを設け、終わりに再び三句のセットを配する形式(一花一月)で、「俳諧の漣」と命名している。
中西は「あとがき」の中で「私と俳諧について」述べている。俳諧には多くの入口があり、「連句=俳諧」だと思っているわけではないが、自分の場合は連句という入口から入った、と断ったあと、中西はこんなふうに述べている。
「私が俳句を始めて十年目の頃、どこからともなく吹き寄せられたように同世代が集まりました。その中の一人が連句人でした。俳句の世界で同世代が出会った熱のような時間の中で連句が始まりました。一人の連句人以外に連句を知る者はいませんでした。でも、血気盛んな三十代で俳歴もさほど変わらない同世代の仲間同士です。教える方と教わる方に上下関係はなく対等でした。一巻の連句を巻くなかでの議論。芭蕉について、連句について、聞いたり聞かれたり、ああだこうだと言い合っていたことがどれだけ勉強になったか知れません。俳句と俳諧を考えるうえで避けて通れない芭蕉にも、連句を通じて出会えたことは幸せだったと思います」
こういう経験から、中西は俳句仲間にも「俳句」をするのと変わらない気分で参加してもらえる「俳諧」はないだろうかと考える。そこから中西はさまざまな趣向を凝らした句会や吟行を考える。吟行旅行もよく行っているようだ。その実践の場が中西ひろ美と広瀬ちえみが編集・発行している「垂人」だろう。その雰囲気を「垂人」18号(2012年12月発行)の巻頭文から紹介する。
「旅の初日、最初は一人。新幹線が東京を出発。次駅上野から乗る一人と会う。同じ列車内にもう一人いた。仙台からも一人乗る。弘前駅の改札口で迎えてくれた一人。夕方ホテルのロビーであと二人合流。夕食後ホテルに戻ったところでさらに一人。この八人で三泊四日の旅をする。二日目、レンタカー二台で海岸線をゆく。晴れと雨が来ては去る。よさそうな所に停車して海を見る。雨の中岩場で遊ぶ。誰かが温泉に入りたいと言う。不老ふ死温泉に寄り道。岩木山神社に参拝したのは帰り道を間違えたおかげ。夜は句会。三日目は列車とレンタカーで下北半島へ。岬の突端、青空と海の色に言葉なし。埋没林への道に『熊出没』の立札。臆病な一人は鈴を振り続けた。その音は熊を呼ぶよと他の七人大笑い。夜はまた句会」
こんな調子で旅と句会を続けてゆくのだ。
句集の帯に「俳諧は読むものではなく、たぶん、するものである」という中西ひろ美の言葉がある。句集を「読む」ということからはみ出す部分が中西の俳諧にはあるのだ。そして、このことが句集『haikainokuni@』の魅力でもあり弱点でもある。一冊のテクストとして世に問うならば、この句集の第一部だけでよかっただろう。しかし、作者はそれでは満足できなかったのだろう。
連句人が外部の人々からよく受ける批判のひとつに「連句人は秘密結社的な楽しみにふけっている」というものがある。自分たちだけで楽しそうにやっているが、連句外の人はそこに入っていけない。連句人としては決してそういうつもりはないのだが、外側からはそんなふうに見えるらしい。ここにあるのは「座」の問題である。ある意味で「座」は人を選ぶのだ。
中西が「俳句」ではなくて「俳諧」をめざすということは、テクストとしてこの句集を読もうとする読者に一種の疎外感をもたらすかも知れない。「弱点」と言ったのはそういう意味である。けれども、中西はそんなことは問題にしないだろう。スタンダールは『赤と黒』の読者としてhappy few (幸福な少数者)を想定した。この句集はhappy fewに届くだろうか。
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