短詩型文学は実作が中心で「批評」という営為は必ずしも重視されているとは限らない。「批評家」という呼び方には否定的ニュアンスが込められる場合がある。偉そうなことをいうなら自分で作ってみろ、というわけである。小説の場合は作家と批評家の分業が確立されているが、短歌や俳句の場合は実作者が批評も兼ねているから、実作に重点を置く傾向は避けられない面もあるのだろう。特に川柳においては、ひたすら実作あるのみである。
このような状況の中で、最近「批評」ということに関して注目した文章が二つあった。
一つは短歌誌「井泉」46号に掲載された江田浩司の「批評への意志を心に沈めて」である。同誌のリレー小論「短歌は生き残ることができるか」の一環として書かれた文章だが、江田はこんなふうに述べている。
「短歌への否定的な発言が、歌人の内部から生まれる限り、短歌は生き残ることができる。それは、パラドックスでもなんでもない。表現の自然な摂理と言っても間違いではないだろう。短歌の否定論や滅亡論が繰り返し現れるのは、表現としての健全さを短歌が担保しているという証左である」
「自己の創作に基づく、狭隘でエゴイスティックな肯定性が、批評の場で発揮されるだけで、若い世代、来たるべき世代に、希望を与えるような批評が提示されなければ、短歌は伝統芸としての道を歩み続けるだけである」
そのような若い世代に希望を与えた批評として、江田は1975年の岡井隆の批評を例に挙げている。5年の空白期間を経て歌壇に復帰した岡井は短歌時評で次のように書いている。
「実感とか事実とか生活とか、かつて二度も三度もだまされたはずの空手形を信ずるふりをしてみたって、結果のむなしさはわかっているのに、未来が見えなくなると人は、過去をふりかえっては、そのくせ手近なところで藁をつかみたがる」(1975年「読売新聞時評」「歌集評釈のすすめ」)
岡井の文章を引用したあとで、江田は「短歌創作の意志に、自己批評を含む批評の意志が、有機的に結びついていかない限り、短歌の新たな地平は拓かれてはいかない」と述べる。心をうつ文章である。批評性を生命とする川柳が自己自身に対してだけは批評の意志を向けないのは不思議なことである。同人誌「ES」23号には江田の『緑の闇に拓く言葉(パロール)』の近刊予告が掲載されている。楽しみにして待つことにしよう。
二つ目は、「円錐」の編集後記に記された今泉康弘の一文。
「俳句総合誌の作品がつまらないのは、『つまらないぞ!』とハッキリ言わず、ほめ合いに終始しているからだろう。真剣に批判するのはシンドイ。とにかく褒める方が楽だ。そのことを最近になって身にしみて知った」
私はこの文章を「豈」53号に転載された大井恒行の文章から孫引きしているのだが、大井は今泉の文章を引用したあと、「自らも批評だけではなく俳句を書く彼にとって、他者への批評の刃は自らを切りつける。それが冒頭の『真剣に批判するのはシンドイ!』という吐露につながっているのではないか」と述べている。
7月1日に「川柳カード」創刊準備号という20ページの薄っぺらな冊子が発行された。
赤を主体とした表紙に、「SENRYU」のカードがデザインされている。中の一枚には何も書かれていない。
「シャッフルの時代」と言われて久しい。「シャッフルの時代」とは「ジャンル越境時代」ということだろう。短詩型の諸形式をカードにたとえてみると、短歌カード・俳句カード・川柳カードなどがある。従来は、それぞれ独立したジャンル内で作品が読み書きされていたのだろうが、カードをシャッフルするようにジャンルの越境がはじまっているという認識である。
これまで川柳は内向的であった。短詩型の他ジャンルに対して川柳を発信するという意識に乏しかった。もっと川柳というカードを使ってみたい気がする。
発行人の樋口由紀子は巻頭言で、レディー・ガガのシューズをデザインした日本人・舘鼻則孝(たてはな・のりたか)のことを取り上げている。彼は大学の卒業制作の作品を世界中のファッション、セレブ関係者にメールで売り込んだ。それがガガのスタイリストの目にとまって注文が来たという。メールで売り込むこと自体は誰でもできることである。彼が逆に気づかされたのは「意外にみんなやってないんだ」ということだった。この話の後で、樋口は次のように言う。
「川柳にも『意外にみんなやってない』ことがたくさんある。誰でも出来るのに、誰も禁止していないのに、自由にやれるのに、やってないことが山ほどある」
短律は垂れる分け合う空の景 清水かおり
バスタブの豆腐百丁ならどうぞ 平賀胤壽
まなうらにリング善人ばかり見え 丸山進
なぜなぜと偏平足を差し出せり 草地豊子
三日ほど咲いたら雨に負けている 広瀬ちえみ
球体の茶室でさがす膝の向き 兵頭全郎
たくさん食べてペンペン草になるんだよ 松永千秋
整形が済み賑やかな野菜市 小池正博
日に札を透かしてみれば三畳紀 筒井祥文
全世界冗談にする桃二つ 樋口由紀子
10人が各10句ずつ作品を発表している。
これに小池正博の評論「関係性の文芸―川柳という原理について―」が付く。
「関係性」は現代思想のキイ・ワードである。ソシュールの影響を受けたものなら、誰でもこの言葉を使うだろう。
すでに堺利彦の『川柳解体新書』(新葉館・平成14年)には次のように書かれている。
「十九世紀から二十世紀への思想は、『〈実体〉から〈関係〉へ』という大きな転回がありました。ここでいう〈関係〉とは〈相対〉と同義であって、いわばそれまで〈絶対〉的なものとして考えられていたものが、ものごとの関係性を通して相対的に捉えられ、じつは〈実体〉というものはなく、そこにあるのは単にものごとの〈関係〉を通して認知される〈差異〉に過ぎないということがあらわになったわけです」
「〈川柳のまなざし〉は、こうした相対主義思想の遙か以前から〈実体〉を突き崩し、ものごとを〈関係〉として捉えていたと言っては身びいき過ぎるでしょうか」
小池の文章は「関係性」をキイ・ワードにしながら、萩原朔太郎の『詩の原理』にならって、形式論と内容論から川柳を素描している。大きく出たものである。
「川柳カード」創刊号は11月下旬に発行の予定。
9月15日(土)には大阪・上本町で「川柳カード・創刊記念大会」が俳人の池田澄子をゲストに迎えて開催されることになっている。
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