今回は川柳について具体的なことを書いてみたい。
筒井祥文が発行人となっている「ふらすこてん」という川柳誌がある。句会は毎月京都で開催され、隔月に雑誌が発行されている。スタートして4年目に入るが、今年の新年号(19号)の巻頭言「常夜灯」に祥文は川柳句会の現状について次のように書いている。
〈このところ句会に新たな流れが見える。「番傘」や「ふあうすと」の小集会より、結社横断的な地域句会に人が流れ出しているという現象である。地域句会ではその句会の主催者の目に叶った人だけを選者に抜擢出来るという強みがある。それにより、より質の高い選者が選句をすることになるから当然句会は面白くなるのだが、それは取りも直さず大結社の選者の質の低下を物語ろう。この現象は物言わぬ川柳人が出した答だと思わねばなるまい〉
川柳界は句会を中心に回っている。毎週、土日になればどこかで句会が開催されており、平日の夜の句会もある。句会好きの川柳人は月に5~6回、句会に出かけていく。同じ日の昼と夜、1日に2度の句会に参加することもある。それほど句会は面白いものであるが、遊戯的でもあって、文学的川柳を目指す川柳人の中には句会に対して否定的立場をとる者もいる。川柳句会では兼題5~6題に席題が1題くらい出されて、それぞれ選者が選をする。俳句の句会のような互選は少なく、選者が単独で選をするから、川柳に対する理解・経験の浅い選者、経験は長くても川柳観が疑われるような選者に当ると、出した作品が日の目を見ることはない。選者問題は常に議論されてきたのであって、尾藤三柳著『選者考』は選者の問題について歴史を踏まえて追及している。
大結社である「番傘」で言うと、「本社句会」があり、各地の句会がある。「川柳塔」の場合も本社句会と各地の句会を合わせると月に30ほどの句会がある。
筒井祥文はあちこちの句会を回って句会のことは知悉しているから、「結社句会」から「結社横断的地域句会」への流れという現状分析は確かだろう。結社を超えた選者が選ばれるのは、結社自身の選者の質的低下と表裏の関係ということになる。岸本水府は他結社の選者を決して許さなかったという話をよく聞く。「それでは、まるで『番傘』に人がいないようではないか」というのである。水府の結社至上主義が良いとも言えないが、伝統的川柳結社の力量が低下・崩壊しつつあることは否定できない。
私は結社というものが体質にあわないので、伝統的結社の行方にはあまり興味はないが、筒井祥文は伝統の衰退に何とか歯止めをかけたいと思っているようだ。伝統川柳の現状を憂えていると言ってもよい。
祥文は「ふらすこてん」に「番傘この一句」を連載している。「番傘」誌の二カ月分からピックアップして、あれこれの句を紹介するコーナーである。今月は「番傘」2011年9月号・10月号より次の句を取り上げている。
ざつだんとよもやまばなしつきわらう 田中乘子
すべてひらかな表記だが、「雑談と四方山話月笑う」ということだろう。
〈生活の中のほんのこれっきりを言うのが川柳であるが、そのほんのこれっきりに否定しきれない真実を見たときに人はたじろぐ。お互い生きて今ここに在るという不思議を含む「わらう」であり自分というものの存在を確認すると同時に懐疑した一瞬であろう〉と祥文は書いている。
また、女性の川柳作品として次のような句も紹介されている。
絶対はないと悲しい事を言う 松尾寿美子
水の無い所にあなたもういない 西川節子
小石蹴る負けを認める認めない 西崎久美子
何が不満でマヨネーズぎゅっと出す 水永ミツコ
ちょうど1年前の「常夜灯」(「ふらすこてん」13号)で祥文は「川柳が文芸である以上、オリジナルでなければならないことは当然です。しかしそれは句材が古いものは総てダメだということになりません。逆に古くても句として立ち上げ得るから文芸なのです」と述べている。彼の考えをよく表していると思う。
さて、先日「ふらすこてん」1月句会に参加した。
兼題は「願う」「紫」「うかつ」「客」、席題「酒」。この句会の特徴は三人選。「客」の選者は三人であり、提出された同じ句に対してそれぞれの選をする。その後、なぜ取ったのか、取らなかったのかという議論が戦わされる。
題詠に対してはどのような態度で作句すればよいだろうか。
最近『番傘一万句集』を古本屋で見つけた。今回の題も二つ掲載されている。
「客」
いい話客間へ母は行ったきり 方夫(『番傘川柳一万句集』)
お客様ですかとお客様が来る 北斗
扇風機自分で止めて帰る客 綾女
あの客は黙って食べるから怖い 靄子 (『新・番傘川柳一万句集』)
「酒」の川柳は山ほどある。
かんざめでいいと幹事の飲みなおし 当百 (『番傘川柳一万句集』)
忠告をしてくれ酒をついでくれ 番茶子
新大阪ホテルをぬけて立飲屋 水府
死ぬ時は一緒といやな奴が注ぐ 寛水 (『続・番傘川柳一万句集』)
いい酒でなにも覚えておりません 博子 (『新・番傘川柳一万句集』)
気分よく飲んでいるからからかうな 金泉
昔の伝統系の川柳人は『番傘一万句集』の例句程度は読んでから句会に望んだのだろう。
定金冬二は一つの題について50句は作れと言ったそうだ。
私は手元に定金冬二の句稿ノートをもっている。昭和53年ころのノートらしい。先輩の川柳人からいただいたものだが、少し抜き出してみる。
「雲」 新子選
釣に行く男の背なにある雲よ
船が出て雲より重くなる私
仏弟子が通ると雲が低くなる
妻の絵が一枚売れた冬の雲
「神」 冨二選
神さまがズボンをぬぐと砂が落ちる
消ゴムの好きな神さまだっている
まっ先に神は自分を信じない
神のいる方へは行かぬかたつむり
真夜中の神と卵は同じ罪
死にまねの上手な神と街の屋根と
出句は二、三句だろうから、全部が選ばれた句ではない。このくらいのレベルの句を作った上で冬二は句会に臨んだということになる。
さて、冒頭の巻頭文に話を戻すと、筒井祥文の言う「結社横断的」ということは「超結社的」と呼び変えることもできる。私は結社の役割を否定するものではないが、短詩型文学の現状を見ると結社に属さない表現者、結社に属していても結社にこだわらない作者が増えているのも事実である。結社横断的なものから地域縦断的なものへ、さらにネットワークを拡げると、個に基づいた自律的な川柳人のつながりができてゆくだろう。自分がどこの誰であるかではなく、何をどう考えるかでつながってゆくこと。それは結社的なものではないし、組織的なものでもないが、文芸意識をもった仲間の存在を意識することで、表現者はさらに一歩前に進むことができるのである。
最後に、今月号の筒井祥文の句をあげておく。
屋根を壊して版画家が見る時間 祥文
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