現代川柳について考える際に現代短歌から学ぶことは多い。私自身にとっても、2000年代前半は短歌の批評会や歌会に何回か参加する機会があって、そこからさまざまな刺激を受けることがあった。インターネットの世界でも短歌が一番進んでいて、短歌結社や個々の歌人のホームページを「電脳短歌イエローページ」から検索することができた。最近でこそ「週刊俳句」というウェブマガジンができて、なぜ同じことが短歌でできないのかという声も聞かれるが、以前は明らかに短歌が先行していたのである。
今回は短歌について二、三の話題を語ってみたい。
塚本邦雄が亡くなったのは2005年6月9日であった。今年で6年になり、6月12日には東京の日本出版クラブ会館で「神變忌7回忌シンポジウム」が開催される。司会・魚村晋太郎、パネリスト・藤原龍一郎、堂園昌彦、野口あや子。関西にいるとこういうシンポジウムに行けないのが残念である。
さて、5月28日(土)に大橋麻衣子歌集『JOKER』の批評会に参加した。大橋麻衣子は「短歌人」に所属。第一歌集『シャウト』(2004年)。『JOKER』(青磁社)は第二歌集である。
水面に金魚ぷっかり浮き上がる夫婦が愛と言い張るたびに 大橋麻衣子
振り向けど壁があるのみ鏡面のわが背後には蝶が群れ飛ぶ
倖田來未くずれがホストくずれ連れファミレスで子らを威嚇している
ともにゆく選択肢は与えてくれず去るつもりもなく遠くに牡鹿
批評会の司会は斎藤典子、パネラーは彦坂美喜子・川本浩美。発起人・藤原龍一郎・永田淳も出席。彦坂美喜子は歌集全体の表現の特徴について次のようにまとめている(当日のレジュメから)。
〈「私小説的物語」。近代における事実を重んじ虚飾を否定する自然主義文学とは違う。物語(虚構)を前提として、表現が事実をつくる。事実を書くのではなく、書かれたものが事実を作るということ。その装置として、登場人物、内面表白形式が使われる〉
この歌集を「物語という装置」と位置付けたことが、この批評会の方向性を決定した。前回の『シャウト』の批評会では、現実・事実に還元した読み方が行われ、現実に不満をもつ主婦のはけ口として受け止められる傾向が強かったから、彦坂の規定はいっそう鮮やかだった。短歌が「私の思いの表現」だと考えている人が、書かれていることが事実だと思って立腹するとすれば、それは作品として成功していることになる。
パネラーの話を聞きながら、『JOKER』は「大橋麻衣子」を「作中主体」とする物語なのだろうと思った。
歌物語の場合、詞書があって和歌がある。『JOKER』の場合、書かれていない詞書に当たるのが世間の常識である。ここには「琴瑟相和す夫婦」や「良妻賢母主義」という社会常識に反抗して自己に忠実に生きていこうとする「作中主体」がいる。高村光太郎の『智恵子抄』が光太郎と智恵子の愛の物語と読まれているのとは方向性は違うがこれもひとつの物語なのだろう。ただ「愛を語る夫婦」というような世間常識が現実的にはとうに崩壊しているのだとしたら、それに対するアンチという書き方がいつまで有効なのだろうという疑問も感じてしまう。
これは「大きな物語」ではなくて「小さな物語」である。だから、フェミニズムなどの「大きな物語」とは無縁である。
彦坂の問題提起は「物語という装置の使い方」にあるから「物語を殺す」とか「反物語」なども視野に入っているだろう。「反物語」まで行ったときにどのような短歌表現が生れるのか、興味がある。
藤原龍一郎は、塚本の「馬を洗はば…」という歌では誰も作者が本当に馬を洗っているとは思わないのに、大橋麻衣子に対しては現実に還元して読まれることに疑問を呈していた。
『JOKER』では最初から現実と混同させるような書き方が選択されている。
川柳で似たような例を挙げれば時実新子の書き方になるだろうか。
書かれていることが真実だと読者は思っていたのに、テレビ番組の「徹子の部屋」で「今までの作品の中の私は作り物で、本当の私は夫思いのよき家庭人」と語ったとき、川柳人の多くは裏切られたような気がしたらしい。
大橋麻衣子は本来、技巧の持ち主だという。
押え込む感情の底に森はあり青光りする象と出くわす 大橋麻衣子
この歌を彦坂は前衛短歌的レトリックだという。「象」は脳内風景であり、このような書き方をいまの若い歌人はしない。たとえば、笹井宏之のレトリックとは違う。
もう一人のパネラー・川本浩美は当日体調が悪い様子で気の毒だったが、発表の責務を果たされた。レジュメは「オオハシ、大橋を撃て!」というタイトルで、
家族という「関係」―疑わねばならぬもの
社会、他者への視線―悪意の類型化を越えうるか
風景と自己意識―テーマ性の明確さと危うさ
現実と「モノ」、「コト」―不透明さの可能性
について話された。
『JOKER』とは直接関係はないのだけれど、当日、笹井宏之の歌集も鞄に入れて持っていた。笹井が第4回歌葉新人賞を受賞した「短歌ヴァーサス」10号や「新彗星」3号の「追悼・笹井宏之」もたまたま手元にある。今でも気になっているのは江田浩司が「万来舎・短歌の庫」に書いた〈笹井宏之『ひとさらい』を読む〉(2009年1月19日)である。江田浩司はこんなふうに書いていた。
「確かに笹井短歌の特徴には、意外性のある言葉同士の融合による言葉の意味に対する脱コード化の魅力がある。また笹井は短歌という定型詩の内部で脱コード化を行うことの可能性と限界に無頓着な側面を併せ持っている。つまり、笹井の創作は意味の脱コード化が短歌の詩型の機能と相乗的に効果を表す場合と、短歌が意味の脱コード化を行うトポスにすぎない場合の二種類に分けることができる。そして後者の例がこの歌集にはかなり見られる」
こういう指摘は現代川柳にとっても他人事ではないだろう。
そして、江田の指摘はその後深められることもなく、笹井の突然の死によって笹井短歌の検証が実質的に中断してしまったように思えるのは残念な気がする。
二十日まえ茜野原を吹いていた風の兄さん 風の母さん 笹井宏之
「雨だねぇ こんでんえいねんしざいほう何年だったか思い出せそう?」
嫌われた理由が今も分からずに泣いている満月の彫刻師
それは世界中のデッキチェアがたたまれてしまうほどのあかるさでした
野菜売るおばさんが「意味いらんかねぇ、いらんよねぇ」と畑へ帰る
「ねえ、気づいたら暗喩ばかりの中庭でなわとびをとびつづけているの」
短歌誌「ES廻風」第21号を送っていただいた。
『JOKER』批評会の後の懇親会で小中英之の全歌集が出版されるという話を聞いたが、「ES」にもその予告が掲載されている。今秋9月刊行予定、砂子屋書房から。もう没後10年が経過したのである。第一歌集『わがからんどりえ』から。
黄昏にふるるがごとく鱗翅目ただよひゆけり死は近からむ 小中英之
月射せばすすきみみづく薄光りほほゑみのみとなりゆく世界
人形遣ひたりしむかしの黒衣なほいかに過ぎしもわれにふさはし
身辺をととのへゆかな春なれば手紙ひとたば草上に燃す
酔へば眼にゆらぐかずかずかぎりなしあなベレニケの髪もゆらぐよ
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