2026年9月25日金曜日

曾根毅句集『十翼』

曾根毅の第二句集『十翼』(東京四季出版)が発行された。
曾根とはけっこう以前から交流があって、俳句・川柳の合同句会である「北の句会」でよく顔を合わせたし、私の主催する「大阪連句懇話会」(第10回、2014年6月)にもゲストとして来てもらったことがある。「現代俳句と現代連句との交流」というテーマで、ちょうど彼が芝不器男俳句新人賞を受賞したところだったので話をしてもらった。「ロータス」「光芒」などの俳誌で彼の句はちらちらと眺めていた。彼が短歌を作りはじめたときは驚いたが、歌人としても実績を重ねている。
第一句集『花修』(2015年7月、深夜叢書社)が手元にあるので、何句か引用しておこう。

玉虫や思想のふちを這いまわり
桐一葉ここにもマイクロシーベルト
山の蟻路上の蟻と親しまず
永き日や獣の鬱を持ち帰り
梅に種あれば舟歌恋しけれ

東日本大震災のときに、曾根は仕事で仙台にいたので、当時の状況を体験している。
次に第二句集『十翼』から。

爆撃の直後の藁の匂いかな(「聲」)
僧兵の骨の見えたる蓮かな(「焼身」)
沈黙の傘で見に行く花氷(「氷」)
花であることを忘れし液体よ(「華」)
ただ黒い輪郭のあるダリアの夜(「輪郭」)

「後記」によると、コロナ流行時の外出自粛を追い風と捉えて想望俳句や連作に取り組んだという。引用句のあとに連作のタイトルを添えておいた。連作全体を読めば、より興味深く受け取れると思う。
「句集名は、孔子が著したとされる易経の解説署名を拝借しました」「また、心理学者のユングがシンクロニティ(共時性)を提唱するきっかけになったのが易経であることを知り、客観的な表現が己を離れ得ないということに興味を持ちました。本当の自分は、自己を離れてもどうしようもなく残るもの。意識的に自己を抜きにして、例えば偶然目にした言葉や文献、写真などを詠んでも、そこに通底している無意識のオリジナリティを大切にしています」(後記)
第一句集『花修』は世阿弥の『風姿花伝』から、今度の句集名は易経関係とは手がこんでいる。「易」を解説する十編の注釈書は鳥が翼を広げて本体をささえるようなイメージで、なかでも『繋辞伝』が有名。
曾根は短歌も書くが、短歌と俳句は相容れないところがあって、マルチ的な才能の持ち主は別として、両形式を実作する表現者は珍しい。「翔臨」116号(編集発行・竹中宏)に曾根は「短歌と俳句、定型と我について」という文章を掲載している。句集とあわせて読むと興味深い。
曾根は2018年より短歌を始めたが、俳句と比較したとき、短歌の暗黙のセオリーは次のようなものだという。「短歌は『三十一文字以外は自由』と言いながらも、共通認識として『我(われ)を詠うものである』ということが強固にあるということです」
「俳句における創作は意識的な自己表現ではなく、無意識や言語化できないような深層に触れる原体験や身体的な衝動に端を発するものが本来ではないかと思うのです。意識や意図は、既知の言葉や、他者からどう見えるかというような物語に依存します。しかし、俳句定型という強引な型に無意識をぶつけることで、作者自身が驚くような、文脈を超えたところにある未知の何かが表現されます」
断片的な引用では曾根の真意が伝わらないので、できれば発表誌をお読みいただきたい。句集の後記に書かれていたことが、より詳しく論じられているので、曾根の現在の俳句観が立ち上がってくる。
同じ素材を用いた俳句と短歌の実作が挙げられているので、最後に紹介しておきたい。

  焼身
漆黒の数珠ガソリンを滴らせ
漆黒の数珠の艶めくガソリンの十リットルが滴るばかり

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