初谷むいの第二歌集『わたしの嫌いな桃源郷』(書肆侃侃房)が5月に刊行された。初谷のことを最初に意識したのはツイッター名の「む犬」が記憶に残ったからだったか、それとも短歌の友人から若手歌人では初谷むいが面白いと聞いたからだっただろうか。2017年の「瀬戸夏子は川柳を荒らすな」にも彼女は来ていたはずだし、「川柳スパイラル」も毎号送っている。第一歌集の『花は泡、そこにいたって会いたいよ』は話題をあつめ、収録されている短歌はいろいろなかたちで引用された。
今度の歌集のタイトル『わたしの嫌いな桃源郷』とはずいぶん反語的である。帯の「不完全なぼくらの、完全な世界へのわるぐち」というキャッチ・コピーも二律背反的だ。巻頭には次の歌が掲載されている。
それはたとえば、百年育てて咲く花を信じられるかみたいな話?
百年育てれば咲く花というものがあるのか、ないのか。ペシミスティックなこの世界でそのような花の存在を信じるのは、すでに自分がいなくなった世界に希望が持てるかどうかという「信」のレベルの話になる。「それはたとえば」と言っているから、この歌の前に省略されているものがある。また、最後に疑問符がついていて、相手に対する問いかけになっている。意識されているのは相手との関係性なのだろう。
だから世界を愛しているよ 花器として余談の日々をうつくしくゆく
この世界に出口などないたそがれがみえるあたしは変わらずここにいる
生きづらい世界がこのようなものとしてとらえられている。出口のない世界と変わらない「私」。けれども、「私」は世界を愛しているし、美しいものと思おうとしている。花を飾るのは現実が酷薄であるからだ。
ぼくたちは海を見ながら飽きていく貝を拾ってすべてを捨てて
海を見ながらの感想。相手との関係性はやがて飽きられ、貝殻のように拾ったり捨てたりする。やがて終わるものであるからこそ、いまは完全でありたいのだ。
この歌集には「わたし」「ぼく」「あなた」「きみ」などの人称代名詞が頻出する。良くも悪くも短歌なのだなあと思う。他者との関係性は恋愛の場面に典型的にあらわれるから、恋歌が多くなるのは当然なのだろう。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』でシャルロッテはウェルテルにとって世界そのものが凝縮したような存在であって、失恋は世界との断絶を意味してしまう。人間関係は行きづまると息苦しいので、すこし別の題材に目を転じたくなる。初谷の第一歌集で私が気に入っているのは「全自動わんこ」だが、第二歌集では「二次元の女の子」が登場する。
よろしくねあたし二次元の女の子おなかは空かないけどここにいる
あたし二次元の女の子この世界に生まれたきもちくらいわかるよ
短歌の話題を続けよう。
内山晶太・染野太朗・花山周子・平岡直子の四人による同人誌「外出」は評価が高いが、すでに7号まで発行されている。今号では花山周子が63首発表しているのが注目される。
くちびるは煙草の灰を量産しなお燃え残る唯一のもの 内山晶太
はなびらのほうから触れにくる時期は遠さがふいに親しさを増す
赤ちゃんは自分のサイズがわからずにスマホのなかへ送られてくる 平岡直子
勝手に泡が出てくる勝手に泡が出てくるこれ鬱なのかなあ
怒りとは自己憐憫なりあじさいの若葉が指にざらついている 染野太朗
切る人の独占欲の表れだそうだよ髪を切られる夢は
新しくしたカーテンが生活になじむ速度が鬱だと思う 花山周子
机の下に乾電池拾うこのなかに電気は残っているのだろうか
紀野恵編集の「七曜」204号。紀野の歌集『遣唐使のものがたり』については以前紹介したが、本誌では白居易の漢詩からインスピレーションを得た二次創作「楽天生活」が連載されている。
暮讀一巻書 會意如嘉話 ゆふべ読むふみ こころにひびく
しろねこも世かいをおもふぼくだつて生きていくこと大切なんだ 紀野恵
藤原龍一郎『寺山修司の百首』(ふらんす堂)が発行された。藤原の『赤尾兜子の百句』をこのコーナーで取り上げたことがあるが、今回は寺山修司の短歌である。寺山については改めて説明する必要もないだろうが、藤原は解説で次のように書いている。
「かつて寺山修司はサブカルチャー・シーンのスーパースターであった。いや、サブカルチャーというより、正確にはカウンター・カルチャー・シーンといった方がよいだろう。寺山修司の表現行為は、すべてのジャンルのメインストリームに対する明確で意志的なカウンターであった」
よく知られている歌ばかりだが、何首か引用しておきたい。
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
わが撃ちし鳥は拾わで帰るなりもはや飛ばざるものは妬まぬ
間引かれしゆゑに一生欠席する学校地獄のおとうとの椅子
かくれんぼの鬼とかれざるまま老いて誰をさがしにくる村祭
「マッチ擦る」について藤原は「この一首は極めつけのカッコよさだ。日活アクション映画の石原裕次郎や小林旭を連想しても差し支えない。寺山修司は通俗性もやさしく包み込んでいるのだから」と書いている。藤原の解説も本書の魅力である。ちなみに寺山は川柳界では「川柳は便所の落書きになれ」という発言で有名。
私は「写生」という方法には興味がないから、アララギ派の短歌は無縁だと思っていた。けれども藤沢周平の『白埴の瓶』という長塚節を主人公とする小説を読んで、アララギの短歌に少し触れる機会があった。子規の没後に「馬酔木」そして「アララギ」を作ったのは伊藤左千夫と長塚節である。
牛飼いが歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる 伊藤左千夫
人の住む国辺を出でて白波が大地両分けしはてに来にけり
馬追虫の髭のそよろに来る秋はまなこを閉ぢて想ひ見るべし 長塚節
白埴の瓶こそよけれ霧ながら朝はつめたき水くみにけり
この程度の歌は私でも暗誦している。この二人を並べて論じているのが土屋文明である。文明の『短歌入門』のなかの「短歌小径」では子規・左千夫・節の三者の短歌を比較しながら、特に左千夫と節の変遷を克明にたどっている。左千夫の初期の作品に「森」の題詠がある。
かつしかや市川あたり松を多み松の林のなかに寺あり 伊藤左千夫
かつしかの田中にいくつ神の森の松を少み宮居さぶしも
森中のあやしき寺の笑ひ声夜の木霊にひびきて寂し
手許にある『伊藤左千夫歌集』ではこの三首のうち前の二首が収録されていて、三首目は掲載されていない。三首目は子規の写生概念からはみ出すのだろう。土屋文明は「写生」と「趣向」という言葉を用いている。三首目は趣向の強い歌ということになる。ところが、私は三首目の方がおもしろいように感じる。俳句では「景気」と「趣向」という言い方をする。私が蕪村を好きなのは、景気の句の背後に趣向が隠されているという二重性が楽しめるからである。
左千夫の歌集を読んでみて驚いたのは晩年の恋歌である。『野菊の墓』の作者だから純情な恋かと思っていたら、そうではない。一方の長塚節にも恋歌がある。アララギ派では断然、茂吉がおもしろいと思っていたが、先入観をはずせば、左千夫や節の作品もそれなりにおもしろい。あと、永井佑が「近代の短歌を完成させてその後のあらゆる変革を呑み込み、短歌の外側にいる人の頭に?マークを浮かばせる特有の磁場を作り上げた人、現在まで通用している短歌のOSを書いた人間、それがどうも土屋文明みたいなのだ。短歌の秘密のかぎは土屋文明が持っている」(「土屋文明『山下水』のこと」、「率」5号)と書いているのを読んでから土屋文明のことが気になっていたが、『短歌入門』を読むと、そういうこともあるかなとも思った。
0 件のコメント:
コメントを投稿