今月の短詩型界隈で最も話題になったのは、たぶん「文學界」5月号の特集「幻想の短歌」だろう。巻頭表現、我妻俊樹の「小鳥が読む文章」10首が掲載されている。
セロファンの春画の朝凪にのまれていなくなろうとしてたのかしら 我妻俊樹
堂園昌彦による幻想短歌アンソロジー80首、10人による短歌7首、批評やエッセイ、座談会など盛沢山な内容だが、大森静佳・川野芽生・平岡直子の座談会「幻想はあらがう」に注目した。この三人は『葛原妙子歌集』(書肆侃侃房)の「栞」に文章を書いている。葛原妙子は「幻視の歌人」と呼ばれているが、川野が「幻視者の瞼」という捉え方をしているのに対して、平岡が見慣れた景色(言葉)を見慣れない景色(言葉)に再構成することが葛原の「写生」であり、「幻視、といわれたら半分悔しいと思う」と書いていたのが気になっていた。今回の対談では文脈は異なるが、「この三人の中で、いちばん『幻想的』と言われるのは私だと思うんですけど、意外と私、幻想的ではないんですね」と川野が言っているのがおもしろかった。現実よりファンタジー・異界の方がリアルだというのが川野のスタンスだとすれば、現実に対する批評性もそこから生れてくるだろう。一方で、リアルな世界に対して独自な見方をすることで結果的に幻想につながっていく(読者にとって)のが平岡の短歌なのかなと思った。
平岡の紹介に初の川柳句集『Ladies and』(左右社)が5月下旬に刊行予定とある。また特集では暮田真名が我妻俊樹の短歌について書いている。暮田の句集『ふりょの星』も近日発行されることになっている。
前回紹介した『なしのたわむれ』だが、須藤岳史がヴィオラ・ダ・ガンバについて語っているところが興味深かったので書き留めておく。この楽器は18世紀の後半に姿を消してしまったのだが、20世紀になってから再発見された。忘れ去られたのはこの楽器が王や貴族に愛されていたので、フランス革命のときにアンシャン・レジームの象徴とみなされたことと、音楽の場が宮殿や貴族の邸宅からコンサートホールに移ったため、楽器が広い会場でもよく聞こえるものに改造されていったからだという。変化を続ける社会への対応を拒んで消えて行った楽器を、須藤は「敗者」ではなく「無冠の王のような楽器」と書いている。あとコロナ禍で演奏会がキャンセルになる状況について、演奏会がなくても音楽家は練習をするが、やはり本番がないと下手になるというところ。また、良い音は文脈のなかで決定されるというところ。文芸においてもいろいろな意味で関係性が重要な契機になるのだろう。
「川柳スパイラル」14号の特集「今井鴨平と現川連の時代」で「川柳現代」の11号・14号が手元にないと書いたところ、野沢省悟に送っていただいたので、両号に掲載されている作品を紹介しておく。牛尾絋二の柳俳誌時評にも注目した。
石と寝て石の奇蹟を五色に睡むる 横山三星子
銀の壺奴隷の卑屈さを耐える 定金冬二
〈私〉を綴じ込んで脹らんでゆくカルテ 柴崎柴舟
生きてきて 生きていて 屈辱の膝がしら 時実新子
波が空缶を洗いバカンスに嘔吐する 中島正行
防人歌虫の滅びて地の憂ひ 篠崎堅太郎
岡山の詩誌「ネビューラ」の代表・壺阪輝代はセレクション柳人『石部明集』(邑書林)で石部明論を書いている。同誌80号「ふるさとの在り処」で壺阪は石部の次の句に触れている。
空瓶の転がりゆくはわが故郷 石部明
この句について「石部明論」では次のように書かれていた。
「年を経るごとに、詰まっていたものが減っていき、ついに空っぽになっていくという現実。その虚しさに気づいた時、故郷が靄の中から浮かび上がってくる。そこへ向かって転がっていく空瓶は、作者自身に他ならない。この故郷は、生まれ育った故郷というよりも、生まれる前に棲んでいた故郷のように私には思える」
これに付け加えて壺阪は今号の「ネビューラ」で「この句に出会った時、私は自分の内面を見透かされているような衝撃を覚えた。『作者自身』の箇所を『私自身』に置きかえれば、この感想は、私自身に向かって言っている言葉なのだ」と言う。
壺阪が『石部明集』で取り上げていた他の句も紹介しておこう。
傘濡れて家霊のごとく畳まれる 石部明
折鶴のほどかれてゆく深夜かな
手を入れて水の形を整える
死顔の布をめくればまた吹雪
石部明について繰り返し語ることが必要だ。
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