この時評では「現代川柳クロニクル」と題してゼロ年代の現代川柳の動きを略述したことがある(2021年10月23日・29日)。その際、2011年9月の「バックストロークin名古屋」開催と11月の「バックストローク」36号の終刊で記述が終わっている。ゼロ年代の現代川柳の流れは2011年の「バックストローク」の終刊をもって一区切りとすると理解してのことである。次のテン年代の現代川柳について書かなくてはならないのだが、この時期については個人的な活動が中心となり、極私的な記述になることが避けられないので、ご了解いただきたい。
2012年は石部明が亡くなった年であり、喪失感とともに新しい動きがはじまった年でもある。
同年3月、仙台で大友逸星追悼句会が開催された。川柳杜人社発行の大友逸星遺句集『逸』から抜き出しておこう。
にんげんがややおもしろくなってきた 大友逸星
骨折の訳は言えない笑うから
アメリカのパンツを穿いて動けない
うっかりと握り返してしまったが
バス停をずらす誰も居ないので
4月14日「BSおかやま川柳大会」が岡山県天神山文化プラザで開催される。私は入院中の石部明の代選をした。「石部明さんの代選ということなので、明さんならどのような句を選ぶだろうと思いながら選句した。けれども、結局は自分なりの選をするしかない。その句の前で立ち止まり、なぜなんだろうと考えさせてくれるような〈読みのおもしろさ〉のある句を選んだ」というようなことを選後評で私は言っている。大会の翌日、病院に石部を見舞いにいったが、それが彼と話した最後となった。
「Field BSおかやま句会」23号から。
音声認証 ドアときどき壁或いは君 蟹口和枝
菜の花は悲鳴を映す準備です 小西瞬夏
風はまだリベルタンゴを暗譜中 内田真理子
徳利の首から下は皆女優 くんじろう
鳥の肝鳥のかたちにしてあげる 榊陽子
9月15日、「川柳カード創刊記念大会」が大阪・上本町の「たかつガーデン」で開催される。このとき「川柳カード」はまだ創刊されていない。創刊前に花火を打ち上げようという意図だったが、110名の参加があった。池田澄子と樋口由紀子の対談「素直じゃダメなのよ、疑うところからしか始まらない」11月発行の「川柳カード」創刊号にこの大会の記録が掲載されている。10月27日、石部明逝去。
2013年、3月発行の「川柳カード」2号は「石部明の軌跡」を特集。また4月20日には「石部明追悼川柳大会」が岡山県天神山文化プラザで開催された。
9月28日、第2回川柳カード大会。佐藤文香と樋口由紀子の対談「トレンディな俳句・ダサおもしろい川柳」。
2014年4月19日、「第3回木馬川柳大会(創立35周年記念大会)」が高知市で開催された。「ありえない十七音に逢えるかも」というテーマで、味元昭次と兼題「ゼロ」の共選をした。「川柳木馬」140・141合併号から。
ゼロの箱からふとん屋の声がする 樋口由紀子
ゼロじゃないまだ一本の松がある 藤本ゆたか
すずらんの頷くほどの自分探し 山本三香子
彗星だと言いはる筒状の冷気 内田万貴
午前中なら消印は海ですが 徳長怜子
帝国の版図を熱っぽく語る 古谷恭一
早送りしても私は紙吹雪 郷田みや
7月20日、「川柳ねじまき」創刊。
(せり、なずな)だれか呼ぶ声(ほとけのざ) なかはられいこ
敬老の日にいただいた電気椅子 丸山進
わたしたち海と秋とが欠けている 瀧村小奈生
歩いたことないリカちゃんのふくらはぎ 八上桐子
9月10日、『新現代川柳必携』(田口麦彦)発行。
「川柳カード叢書」として『ほぼむほん』(きゅういち)が9月に発行される。これに続き2015年1月に『実朝の首』(飯田良祐)、5月に『大阪のかたち』(久保田紺)が刊行。
ほぼむほんずわいのみそをすするなり きゅういち
経済産業省へ実朝の首持参する 飯田良祐
ぎゅっと押し付けて大阪のかたち 久保田紺
2015年5月 17日、大阪・上本町で「現代川柳ヒストリア」主催の「川柳フリマ」を開催。「文学フリマ」から刺激をうけて、川柳でもフリマができないかという試みである。「雑誌で見る現代川柳史」として、「鴉」「天馬」「鷹」「不死鳥」「馬」「川柳ジャーナル」「川柳現代」などの柳誌の展示と解説。ゲストに天野慶を迎えて対談「川柳をどう配信するか」。フリマの出店は7団体あり、瀬戸夏子と平岡直子の参加が大きな出来事だった。
9月12日、第3回川柳カード大会。柳本々々と小池正博の対談「現代川柳の可能性」。
2016年5月22日、第二回「川柳フリマ」開催。「句集でたどる現代川柳の歩み」の解説は石田柊馬。対談「短歌の虚構・川柳の虚構」のゲストは山田消児。出店は12グループ。
7月3日、第67回玉野市民川柳大会が開催される。男女共選の川柳句会で、全国から人が集まったが、この大会を最後に終了することになった。「川柳たまの」472号にはさまれた前田一石の挨拶文には次のように書かれている。
「玉野市民川柳大会は多くの川柳作家に可愛いがられ、親しまれ、また期待されてきましたが、この67回大会をもって終わらせて頂きます。参加された方々をはじめ、多くの仲間たちには誠に申し訳ないことですが、当玉野の会員の高齢化、減少は如何ともしがたく、ここ数年来の最大の問題点でありましたが、改善するに至りませんでした」
最後の大会の特選句を挙げておく。
「姿勢」新家完司選 車椅子押して姿勢を立て直す 畑佳余子
「姿勢」酒井かがり選 フィギュアの僕がおどけて少年A 北原照子
「化石」石田柊馬選 肉食系女子の化石に違いない 柴田夕起子
「化石」草地豊子選 出兵の父は化石になり帰還 原 修二
「太陽」きゅういち選 三回噛むとプチプッチとお日様 浜 純子
「太陽」長谷川博子選 太陽を今日は半分だけもらう 西村みなみ
「潜む」古谷恭一選 滝田ゆうわたしの路地に潜んでる 斉尾くにこ
「潜む」榊陽子選 潜むには大きな音を出すカバン 川添郁子
「高」 前田一石選 だらだらのばす七月の座高 中西軒わ
12月23日、墨作二郎没。91歳。
2017年3月、「川柳カード」14号で終刊。
5月6日、川柳トーク「瀬戸夏子は川柳を荒らすな」(中野サンプラザ)開催。このときはじめて暮田真名に会った。
11月4日、「川柳杜人」70周年
11月「川柳スパイラル」創刊。
書かなかったことも多いが、「川柳スパイラル」創刊以後のことは現在進行形であり、これからのことに属する。
2022年3月26日土曜日
2022年3月18日金曜日
前句付と川柳味―石田柊馬の川柳論
近所の公園を歩いているとツグミの姿を見かけることが多くなった。けっこう何羽も見つけることができる。冬の間は単独行動をするようだが、北へ帰るときには群れになるので、そろそろ集まりだしているのだろう。もうすぐツグミの姿が見られなくなるはずで、季節は確実に進んでいる。
少年の見遣るは少女鳥雲に 中村草田男
この鳥雲はどの鳥のことだろうか。急に気になってきた。ツグミだろうか。季語が比喩的に使われているけれど、どの鳥を思い浮かべるかによってイメージが多少変わってくる。高橋和巳に「飛翔」という短編があり、一時期高校の教科書にも載っていた。この小説の鳥の群れはツグミだろうが、最後は霞網にかかって死滅する。壊滅してゆく学生運動と重なるイメージである。
今回は川柳のルーツである前句付について触れてみたいが、そういう気になったのは本を整理していて、雑誌のバックナンバーが出てきたからである。「翔臨」71号(2011年6月)に石田柊馬の「川柳味の変転」という文章が掲載されていて、興味深い内容になっている。石田はまず次のように述べている。
「川柳の性質は前句附けで出来上がった。俳諧でいわれる平句が川柳のポジションであり、前句附けでは、先に書かれた七七を受けて五七五を展開する受け身が、川柳味と書き方をつくった。『誹風柳多留』は、前句附けの書き手がうがちと省略を合せる遊戯感覚の書き方をいまに伝えている」
石田の本文では「前句附け」、私の文中では「前句付」という表記にしておく。俳諧と川柳の関係を史的にとらえる視野をもっていたのは前田雀郎だったが、現代川柳の作者のなかで、川柳を前句付と関連させてとらえたのは河野春三であった。春三は前句付に遡ることによって、「うがち」などの三要素とは異なる生活詩としての川柳の可能性を唱えた。石田柊馬も前句付から説き起こしており、川柳を俳諧の平句と位置付けている。「川柳性」という言葉を使うと、何が「川柳性」なのかむずかしい議論になるが、石田は「川柳味」という言葉を使っていて、古川柳から現代川柳にいたる川柳本来の持ち味というくらいのニュアンスだろう。その「川柳味」には「うがち」と「省略」のふたつが含まれると見ている。以下、彼のいうところを辿ってみよう。
石田はまず川柳味の場として「句会」を取りあげている。
「近代化を目指した明治の時代に、先達は前句附けの受動性から、近代的な能動性を求めた。野球でいえばキャッチャーからピッチャーに変わっても川柳が書けると判断した」
前句付を前句からの受動性と見れば、一句独立した川柳は能動性となる。それをキャッチャーからピッチャーへの変化に例えているのは川柳人らしいサービス精神だろう。
「今の眼で見れば、前句附けの質を題詠に引いたときに、前句附けでの飛躍、うがち、省略などが弱くなったと見えるが、前句附けの感覚を越えて、新しい共感性の文芸を一般化することが近代化の実践であったのだろう。題詠は、主に、問答体の書き方を川柳に定着させた。その代表的な場が句会であった」
川柳味の近代化に関しては、前句付から離れたとはいえ、明治の川柳には『柳多留』を思わせる発想と表現の名残りがあるとして、井上剣花坊と阪井久良岐の作品が挙げられている。では、剣花坊・久良岐以後の近代川柳はどうだろうか。
「近代川柳の佳作の多くは、題詠から離れた創作として書かれた」が、大方のレベルは「自己表出と共感性」の位相にとどまって、飽和状態になり、袋小路におちいったという。そして「川柳味」は題詠の方に現れていたと見る。また「川柳の日常詠は圧倒的に退屈なのだ」とも言い、退屈な川柳への批判として次のような句を挙げている。
舐めれば癒える傷 秋陽を占める犬たち 小泉十支尾
倒されて聴くこおろぎの研ぎすまし 時実新子
草いちめん脱走の快感をまてり 草刈蒼之助
首塚の木に鈴なりのあかるさや 福島真澄
その後に「詩性川柳」の時代がやってくる。「うがち」や「省略」より「私の思い」を上位に置く川柳が主流になる。
母系につながる一本の高い細い桐の木 河野春三
花を咲かせ 二秒ほど血をしたたらす 中村冨二
芒野の顔出し遊び何処まで行く 泉淳夫
水を汲む追っているのか追われてか 岩村憲治
川柳的な省略はほとんど見られなくなり、暗喩(メタファー)の追求が重んじられるようになる。象徴語への依存と暗喩の追及が川柳から省略を遠ざけたのだと石田は見ている。
そんな中で省略によって川柳味を取り戻そうとしている作者として樋口由紀子と筒井祥文が挙げられている。
一から百を数えるまではカレー味 樋口由紀子
良いことがあってベンツは裏返る 筒井祥文
以上、石田柊馬の2011年の時点での川柳観を見てきた。石田は「川柳性」の中核に「川柳味」があり、それが川柳の近代化や詩性川柳によって弱まっていると考えているようだ。「川柳味」を「うがち」と「省略」に限定すればそのような把握になるだろうが、限定的な「川柳味」よりも広義の「川柳性」にはもっと様々な要素が含まれる。「川柳の味」というようなものは確かに存在するし、私も「川柳味」を否定しないが、前句付や伝統川柳のなかだけに「川柳味」があるとも思わない。「詩性川柳」の行きづまりに関しては、行きづまったのは「私性川柳」であり、「詩性」と「私性」を分離することが必要だというのが私の立場である。川柳が前句付をルーツとすることから、前句あるいは題からの飛躍によって川柳の一句が成立するとすれば、現代川柳の詩的飛躍は川柳の本質や構造をふまえた正統的な方向だとも思っている。石田柊馬の「川柳味の変転」論を読み返してみて、いろいろ思うところがあったが、現在進行形の川柳の動向のなかで今それぞれの表現者がどのような位置にいるのか確認しておくことが重要だろう。
少年の見遣るは少女鳥雲に 中村草田男
この鳥雲はどの鳥のことだろうか。急に気になってきた。ツグミだろうか。季語が比喩的に使われているけれど、どの鳥を思い浮かべるかによってイメージが多少変わってくる。高橋和巳に「飛翔」という短編があり、一時期高校の教科書にも載っていた。この小説の鳥の群れはツグミだろうが、最後は霞網にかかって死滅する。壊滅してゆく学生運動と重なるイメージである。
今回は川柳のルーツである前句付について触れてみたいが、そういう気になったのは本を整理していて、雑誌のバックナンバーが出てきたからである。「翔臨」71号(2011年6月)に石田柊馬の「川柳味の変転」という文章が掲載されていて、興味深い内容になっている。石田はまず次のように述べている。
「川柳の性質は前句附けで出来上がった。俳諧でいわれる平句が川柳のポジションであり、前句附けでは、先に書かれた七七を受けて五七五を展開する受け身が、川柳味と書き方をつくった。『誹風柳多留』は、前句附けの書き手がうがちと省略を合せる遊戯感覚の書き方をいまに伝えている」
石田の本文では「前句附け」、私の文中では「前句付」という表記にしておく。俳諧と川柳の関係を史的にとらえる視野をもっていたのは前田雀郎だったが、現代川柳の作者のなかで、川柳を前句付と関連させてとらえたのは河野春三であった。春三は前句付に遡ることによって、「うがち」などの三要素とは異なる生活詩としての川柳の可能性を唱えた。石田柊馬も前句付から説き起こしており、川柳を俳諧の平句と位置付けている。「川柳性」という言葉を使うと、何が「川柳性」なのかむずかしい議論になるが、石田は「川柳味」という言葉を使っていて、古川柳から現代川柳にいたる川柳本来の持ち味というくらいのニュアンスだろう。その「川柳味」には「うがち」と「省略」のふたつが含まれると見ている。以下、彼のいうところを辿ってみよう。
石田はまず川柳味の場として「句会」を取りあげている。
「近代化を目指した明治の時代に、先達は前句附けの受動性から、近代的な能動性を求めた。野球でいえばキャッチャーからピッチャーに変わっても川柳が書けると判断した」
前句付を前句からの受動性と見れば、一句独立した川柳は能動性となる。それをキャッチャーからピッチャーへの変化に例えているのは川柳人らしいサービス精神だろう。
「今の眼で見れば、前句附けの質を題詠に引いたときに、前句附けでの飛躍、うがち、省略などが弱くなったと見えるが、前句附けの感覚を越えて、新しい共感性の文芸を一般化することが近代化の実践であったのだろう。題詠は、主に、問答体の書き方を川柳に定着させた。その代表的な場が句会であった」
川柳味の近代化に関しては、前句付から離れたとはいえ、明治の川柳には『柳多留』を思わせる発想と表現の名残りがあるとして、井上剣花坊と阪井久良岐の作品が挙げられている。では、剣花坊・久良岐以後の近代川柳はどうだろうか。
「近代川柳の佳作の多くは、題詠から離れた創作として書かれた」が、大方のレベルは「自己表出と共感性」の位相にとどまって、飽和状態になり、袋小路におちいったという。そして「川柳味」は題詠の方に現れていたと見る。また「川柳の日常詠は圧倒的に退屈なのだ」とも言い、退屈な川柳への批判として次のような句を挙げている。
舐めれば癒える傷 秋陽を占める犬たち 小泉十支尾
倒されて聴くこおろぎの研ぎすまし 時実新子
草いちめん脱走の快感をまてり 草刈蒼之助
首塚の木に鈴なりのあかるさや 福島真澄
その後に「詩性川柳」の時代がやってくる。「うがち」や「省略」より「私の思い」を上位に置く川柳が主流になる。
母系につながる一本の高い細い桐の木 河野春三
花を咲かせ 二秒ほど血をしたたらす 中村冨二
芒野の顔出し遊び何処まで行く 泉淳夫
水を汲む追っているのか追われてか 岩村憲治
川柳的な省略はほとんど見られなくなり、暗喩(メタファー)の追求が重んじられるようになる。象徴語への依存と暗喩の追及が川柳から省略を遠ざけたのだと石田は見ている。
そんな中で省略によって川柳味を取り戻そうとしている作者として樋口由紀子と筒井祥文が挙げられている。
一から百を数えるまではカレー味 樋口由紀子
良いことがあってベンツは裏返る 筒井祥文
以上、石田柊馬の2011年の時点での川柳観を見てきた。石田は「川柳性」の中核に「川柳味」があり、それが川柳の近代化や詩性川柳によって弱まっていると考えているようだ。「川柳味」を「うがち」と「省略」に限定すればそのような把握になるだろうが、限定的な「川柳味」よりも広義の「川柳性」にはもっと様々な要素が含まれる。「川柳の味」というようなものは確かに存在するし、私も「川柳味」を否定しないが、前句付や伝統川柳のなかだけに「川柳味」があるとも思わない。「詩性川柳」の行きづまりに関しては、行きづまったのは「私性川柳」であり、「詩性」と「私性」を分離することが必要だというのが私の立場である。川柳が前句付をルーツとすることから、前句あるいは題からの飛躍によって川柳の一句が成立するとすれば、現代川柳の詩的飛躍は川柳の本質や構造をふまえた正統的な方向だとも思っている。石田柊馬の「川柳味の変転」論を読み返してみて、いろいろ思うところがあったが、現在進行形の川柳の動向のなかで今それぞれの表現者がどのような位置にいるのか確認しておくことが重要だろう。
2022年3月11日金曜日
「私性」とジャンルの圧
短歌・俳句・川柳の三ジャンルの関係には微妙なものがある。読者として作品を読むだけなら問題はないだろうが、特に実作者として関わる場合には屈折した陰影が生まれてくるようだ。たとえば、短歌と川柳の両形式をひとりの表現者が実作するという場合、ふたつの形式を截然と分けて別人格になって言葉を紡ぐのだろうか。あるいは、短歌が川柳に、川柳が短歌に浸透してゆくのだろうか。
短歌と川柳は形式が違うが内容には相通じるものがある、と言われることがある。誰がそんなことを言っているのか、そのような発言にはどんな根拠があるのかと問われても困るが、短歌と川柳には何らかの親和性があるような気がするのは事実である。では、短歌と川柳に通底するものがあるとすれば、それは何だろうか。たぶんそれは「私性」というものだろう。
短歌の「私性」はさておいて、川柳においては「私性川柳」と呼ばれる作品がある。私は「私性川柳」は河野春三を理論的根拠とし、時実新子をピークとする流れととらえている。
おれの ひつぎは おれがくぎうつ 河野春三
凶暴な愛が欲しいの煙突よ 時実新子
作品の根拠は「私」であり、「私」の思いを主として表現している。
私は「私性川柳」のすべてを否定するわけではないけれども、矮小化された「私性」は評価しない。「私」の表現が説得力をもつのは作者のかかえている人生上の事実によってであり、言葉によって作品世界を構築するという考え方は薄かった。それはしばしば作者の病気や苦悩の告白というかたちをとる。病気や生の苦しみは多かれ少なかれ誰にでもあるが、それを訴える人に対して川柳人は「よい川柳が書けるから、よかったね」と言うだろう。これは変化球を投げているのだが、半ば本音も混じっている。暗鬱な句を書いてきた作者が「これからは明るい作品も書きたい」というのに対して、「いや、あなたは病気や苦悩を書くべきで、明るい句はだめだ」と忠告したという話もある。結局、従来の川柳では作品の説得力は作者のかかえている現実によるので、作品の表現レベルによるのではなかった。作品の背後に作者の顔が貼りついているのは気持ちが悪い。
「私性川柳」の解毒剤としてかつて私が考えたのは細田洋二の「言葉の再生」と渡辺隆夫のキャラクター川柳であった。
サルビヤ登る 天の階段 から こぼれ 細田洋二
月よりの使者まだ来ぬかベランダマン 渡辺隆夫
「川柳ジャーナル」のメンバーの中で細田洋二は唯一の「言葉派」であった。渡辺隆夫は作者の実人格とは次元の異なるキャラクターを作中に作り出し、それを諷刺することによって川柳の批評性を守った。
ここで私は「短歌と川柳は形式が違うが内容には相通じるものがある」という言説を、「ある種の短歌とある種の川柳には共通性がある」と言い直さなければならない。ある種の短歌とは「私性」の強い短歌であり、ある種の川柳とは「私性川柳」である。
ところが、近年になって不思議な事態が生まれてきて、現代川柳に「私性」からの解放を見る見方が出てきている。従来、短歌から川柳へと向かう通路は「私性」であったのが、「私性」への同調圧力からの解放のために、「ことば」を入り口とする新たな回路として現代川柳が捉えられはじめたようだ。それほど「私性」の圧は短歌のフィールドで強いのだろう。現代短歌に「言葉派」がどれくらい存在しているのか不明だし、現代川柳の「言葉派」も川柳界全体から見ればマイナーな存在である。ただ、渡辺隆夫が川柳を「何でもありの五七五」と言ったように、川柳が比較的自由な感じがするのだろう。
ジャンルの圧というものはどのフィールドでも存在する。川柳では「一読明快」ということが言われ、意味や作者の実生活上の事実ではなく、テクストの言葉から川柳を読み解くことにまだ慣れていない。現代川柳の難解さや意味不明の作品に対して川柳の危機を唱える人も多い。「それは川柳ではない」。
かつて堺利彦は「分からないけれどおもしろい」と「分かるけれどつまらない」という評価軸を提出したことがあった。川柳表現もこのふたつのあいだで揺れ動いている。「分からないしつまらない」という失敗作も多く見られるが、作品の読みに対するストライク・ゾーンは人によって異なるのだろう。
いずれにしても、ジャンルの圧というものは無視できないが、それぞれの表現者がそれぞれの表現を試みるなかで、新しい作品、新しい作者が生まれてくる可能性を注視しておきたい。
短歌と川柳は形式が違うが内容には相通じるものがある、と言われることがある。誰がそんなことを言っているのか、そのような発言にはどんな根拠があるのかと問われても困るが、短歌と川柳には何らかの親和性があるような気がするのは事実である。では、短歌と川柳に通底するものがあるとすれば、それは何だろうか。たぶんそれは「私性」というものだろう。
短歌の「私性」はさておいて、川柳においては「私性川柳」と呼ばれる作品がある。私は「私性川柳」は河野春三を理論的根拠とし、時実新子をピークとする流れととらえている。
おれの ひつぎは おれがくぎうつ 河野春三
凶暴な愛が欲しいの煙突よ 時実新子
作品の根拠は「私」であり、「私」の思いを主として表現している。
私は「私性川柳」のすべてを否定するわけではないけれども、矮小化された「私性」は評価しない。「私」の表現が説得力をもつのは作者のかかえている人生上の事実によってであり、言葉によって作品世界を構築するという考え方は薄かった。それはしばしば作者の病気や苦悩の告白というかたちをとる。病気や生の苦しみは多かれ少なかれ誰にでもあるが、それを訴える人に対して川柳人は「よい川柳が書けるから、よかったね」と言うだろう。これは変化球を投げているのだが、半ば本音も混じっている。暗鬱な句を書いてきた作者が「これからは明るい作品も書きたい」というのに対して、「いや、あなたは病気や苦悩を書くべきで、明るい句はだめだ」と忠告したという話もある。結局、従来の川柳では作品の説得力は作者のかかえている現実によるので、作品の表現レベルによるのではなかった。作品の背後に作者の顔が貼りついているのは気持ちが悪い。
「私性川柳」の解毒剤としてかつて私が考えたのは細田洋二の「言葉の再生」と渡辺隆夫のキャラクター川柳であった。
サルビヤ登る 天の階段 から こぼれ 細田洋二
月よりの使者まだ来ぬかベランダマン 渡辺隆夫
「川柳ジャーナル」のメンバーの中で細田洋二は唯一の「言葉派」であった。渡辺隆夫は作者の実人格とは次元の異なるキャラクターを作中に作り出し、それを諷刺することによって川柳の批評性を守った。
ここで私は「短歌と川柳は形式が違うが内容には相通じるものがある」という言説を、「ある種の短歌とある種の川柳には共通性がある」と言い直さなければならない。ある種の短歌とは「私性」の強い短歌であり、ある種の川柳とは「私性川柳」である。
ところが、近年になって不思議な事態が生まれてきて、現代川柳に「私性」からの解放を見る見方が出てきている。従来、短歌から川柳へと向かう通路は「私性」であったのが、「私性」への同調圧力からの解放のために、「ことば」を入り口とする新たな回路として現代川柳が捉えられはじめたようだ。それほど「私性」の圧は短歌のフィールドで強いのだろう。現代短歌に「言葉派」がどれくらい存在しているのか不明だし、現代川柳の「言葉派」も川柳界全体から見ればマイナーな存在である。ただ、渡辺隆夫が川柳を「何でもありの五七五」と言ったように、川柳が比較的自由な感じがするのだろう。
ジャンルの圧というものはどのフィールドでも存在する。川柳では「一読明快」ということが言われ、意味や作者の実生活上の事実ではなく、テクストの言葉から川柳を読み解くことにまだ慣れていない。現代川柳の難解さや意味不明の作品に対して川柳の危機を唱える人も多い。「それは川柳ではない」。
かつて堺利彦は「分からないけれどおもしろい」と「分かるけれどつまらない」という評価軸を提出したことがあった。川柳表現もこのふたつのあいだで揺れ動いている。「分からないしつまらない」という失敗作も多く見られるが、作品の読みに対するストライク・ゾーンは人によって異なるのだろう。
いずれにしても、ジャンルの圧というものは無視できないが、それぞれの表現者がそれぞれの表現を試みるなかで、新しい作品、新しい作者が生まれてくる可能性を注視しておきたい。
2022年3月4日金曜日
琉歌と連句
今年の国民文化祭は沖縄で開催される。連句については、「美ら島おきなわ文化祭2022」の「連句の祭典」が10月29日に吟行会、10月30日に実作会(南城市文化センター)が開催されることになっている。今年に入ってから沖縄関係の本を読むことが多くなった。昨年の「国文祭わかやま」のときは南方熊楠の本をいくつか読んだが、今年は伊波普猷の『古琉球』『をなり神の島』を読んで、琉歌のことなどを調べている。南城市は琉歌の盛んなところで、琉歌募集事業が行われている。国文祭では連句と琉歌のコラボも計画されているようだ。
琉歌にはいろいろな種類があるが、普通には「上句・八八 下句・八六」あわせて三十音の定型短歌をさしている。18世紀の代表的な琉歌の作者、恩納なべの作品を紹介する。
恩納岳あがた ウンナダキアガタ
里が生まれ島 サトゥガウマリジマ
もりもおしのけて ムインウシヌキティ
こがたなさな クガタナサナ
(恩納岳の向こうに、恋人の産まれた村がある。
山もおしのけて、こちら側に引き寄せたいものだ。)
恩納なべと並んで有名な吉屋思鶴(よしや・うみづる)の琉歌も紹介しておこう。
流れゆる水に ナガリユルミズィニ
桜花浮けて サクラバナウキティ
色きよらさあてど イルジュラサアティドゥ
すくて見ちやる スクティンチャル
この琉歌には伝説があって、歌会の席で「流れゆる水に桜花浮けて」という上の句に、ある男が下手な下の句を付けて失笑を買ったところ、よしやが「色きよらさあてどすくて見ちゃる」と付けて喝采されたという。また、別の物語ではよしやが出した上の句に下の句を付けたのが仲里按司だということになっている。仲里按司との恋は実らなかったという脚色もある。
琉歌と和歌のコラボとして新しくできたのが仲風(なかふう)という形式で、上の句が七五(七七または五五の場合もある)、下の句が八六。大和の七五音と琉球の八六音とのコラボになる。現代でも琉歌と連句との共演には可能性がありそうだ。
さて、2月に届いた俳誌・川柳誌から作品を紹介しよう。まず俳誌から。
笹鳴きや青から溶かしゆく絵の具 木村リュウジ
「蝶」254号に今泉康弘が「ここは泣いてもいいベンチ」を書いていて、27歳で亡くなったこの俳人を追悼している。木村は「海原」「ロータス」などに参加、「蝶」関係では「兎鹿野句会」にも投句して「高知は第二の故郷だ」と言っていたという。「口紅を拭う二月のみずうみに」「桃を剥く指や影絵のあふれだす」「山茶花ほっここは泣いてもいいベンチ」などの句がある。
手が線をひく蓑虫の暮らしぶり 田島健一
「オルガン」27号から。「手が線をひく」と「蓑虫の暮らしぶり」との関係が分かりにくいが、まったく無関係というのでもなくて、イメージのなかで何かしらつながっている。関係があるとしても、その距離が遠いから説明できないし、無理に説明しようとするとつまらないことになってしまう。季語の本意から読み解くという常套手段も無効のようだが、取合せという点では俳句的とも言えるのだろう。「渡り鳥食べると硬いフォトグラフ」「追放会議ふくろうが声つかい切る」「菜種蒔く靴の歴史のあかるさに」
次に川柳誌「触光」73号から。
みかん箱開けてどの子を選ぼうか 青砥和子
からっぽに詰め込みすぎるから痛い
「みかん箱」だから「どの子」は蜜柑のことだろうが、みかんから離れて一句全体を比喩的に読むこともできる。「からっぽに」も箱のことを言っているが、「痛い」というのだから物を詰め込んでいる場合だけでもなさそうだ。日常的な情景を詠みながら、そこから少し深いところに意味を届かせている。
靴先から黄泉平坂冬に入る 小野善江
展開が面白すぎるポップコーン
人ではなく何かを待って冬木立
同じく「触光」から。小野善江は「蝶」に俳句も投句している。ここでは「冬」「冬木立」という季語も使っているから、柳俳の間に線引きはしていないのだろう。ただ、小野の場合は川柳作品の場合の方がより飛躍感がある。
深みから出てくる筋肉をつけて 広瀬ちえみ
「垂人」41号から。主語が省略されているので、いろいろな状況が想像できる。深みから「私」なり「ある人物」が出てくる。しかも、「筋肉」を付けて。深みとか闇とかいうものが単なるマイナスではなくて、そこを潜り抜けることによってプラスに転じるものとして捉えられている。広瀬ちえみの川柳には一種のオプティミズムがある。「マントから一抱えもの葱を出す」「点滴はきょうでおしまいオーイ雲」「猫帰る向こうの国のごはん食べ」
連句に戻ると、「藝文攷」2021(日大大学院芸術学研究科文芸学専攻)に浅沼璞の「『西鶴独吟百韻自註絵巻』考(一)」が掲載されている。晩年の西鶴は『世間胸算用』などが有名だが、俳諧に復帰もしていた。俳諧と浮世草子という二つのジャンルをもっていたのである。西鶴における詩と散文の混交を示すものとして浅沼は『西鶴独吟百韻自註絵巻』を取りあげている。自らの独吟俳諧に浮世草子風の自註を施したものである。
役者笠秋の夕に見つくして
着ものたゝむやどの舟待
埋れ木に取付貝の名を尋ね
このような三句の渡りに談林親句体から元禄疎句体への志向がうかがえると浅沼は説く。ちなみに浅沼のこの論考は「ウラハイ」(週刊俳句)に連載された「西鶴ざんまい」を加筆修正して論文化したということである。
琉歌にはいろいろな種類があるが、普通には「上句・八八 下句・八六」あわせて三十音の定型短歌をさしている。18世紀の代表的な琉歌の作者、恩納なべの作品を紹介する。
恩納岳あがた ウンナダキアガタ
里が生まれ島 サトゥガウマリジマ
もりもおしのけて ムインウシヌキティ
こがたなさな クガタナサナ
(恩納岳の向こうに、恋人の産まれた村がある。
山もおしのけて、こちら側に引き寄せたいものだ。)
恩納なべと並んで有名な吉屋思鶴(よしや・うみづる)の琉歌も紹介しておこう。
流れゆる水に ナガリユルミズィニ
桜花浮けて サクラバナウキティ
色きよらさあてど イルジュラサアティドゥ
すくて見ちやる スクティンチャル
この琉歌には伝説があって、歌会の席で「流れゆる水に桜花浮けて」という上の句に、ある男が下手な下の句を付けて失笑を買ったところ、よしやが「色きよらさあてどすくて見ちゃる」と付けて喝采されたという。また、別の物語ではよしやが出した上の句に下の句を付けたのが仲里按司だということになっている。仲里按司との恋は実らなかったという脚色もある。
琉歌と和歌のコラボとして新しくできたのが仲風(なかふう)という形式で、上の句が七五(七七または五五の場合もある)、下の句が八六。大和の七五音と琉球の八六音とのコラボになる。現代でも琉歌と連句との共演には可能性がありそうだ。
さて、2月に届いた俳誌・川柳誌から作品を紹介しよう。まず俳誌から。
笹鳴きや青から溶かしゆく絵の具 木村リュウジ
「蝶」254号に今泉康弘が「ここは泣いてもいいベンチ」を書いていて、27歳で亡くなったこの俳人を追悼している。木村は「海原」「ロータス」などに参加、「蝶」関係では「兎鹿野句会」にも投句して「高知は第二の故郷だ」と言っていたという。「口紅を拭う二月のみずうみに」「桃を剥く指や影絵のあふれだす」「山茶花ほっここは泣いてもいいベンチ」などの句がある。
手が線をひく蓑虫の暮らしぶり 田島健一
「オルガン」27号から。「手が線をひく」と「蓑虫の暮らしぶり」との関係が分かりにくいが、まったく無関係というのでもなくて、イメージのなかで何かしらつながっている。関係があるとしても、その距離が遠いから説明できないし、無理に説明しようとするとつまらないことになってしまう。季語の本意から読み解くという常套手段も無効のようだが、取合せという点では俳句的とも言えるのだろう。「渡り鳥食べると硬いフォトグラフ」「追放会議ふくろうが声つかい切る」「菜種蒔く靴の歴史のあかるさに」
次に川柳誌「触光」73号から。
みかん箱開けてどの子を選ぼうか 青砥和子
からっぽに詰め込みすぎるから痛い
「みかん箱」だから「どの子」は蜜柑のことだろうが、みかんから離れて一句全体を比喩的に読むこともできる。「からっぽに」も箱のことを言っているが、「痛い」というのだから物を詰め込んでいる場合だけでもなさそうだ。日常的な情景を詠みながら、そこから少し深いところに意味を届かせている。
靴先から黄泉平坂冬に入る 小野善江
展開が面白すぎるポップコーン
人ではなく何かを待って冬木立
同じく「触光」から。小野善江は「蝶」に俳句も投句している。ここでは「冬」「冬木立」という季語も使っているから、柳俳の間に線引きはしていないのだろう。ただ、小野の場合は川柳作品の場合の方がより飛躍感がある。
深みから出てくる筋肉をつけて 広瀬ちえみ
「垂人」41号から。主語が省略されているので、いろいろな状況が想像できる。深みから「私」なり「ある人物」が出てくる。しかも、「筋肉」を付けて。深みとか闇とかいうものが単なるマイナスではなくて、そこを潜り抜けることによってプラスに転じるものとして捉えられている。広瀬ちえみの川柳には一種のオプティミズムがある。「マントから一抱えもの葱を出す」「点滴はきょうでおしまいオーイ雲」「猫帰る向こうの国のごはん食べ」
連句に戻ると、「藝文攷」2021(日大大学院芸術学研究科文芸学専攻)に浅沼璞の「『西鶴独吟百韻自註絵巻』考(一)」が掲載されている。晩年の西鶴は『世間胸算用』などが有名だが、俳諧に復帰もしていた。俳諧と浮世草子という二つのジャンルをもっていたのである。西鶴における詩と散文の混交を示すものとして浅沼は『西鶴独吟百韻自註絵巻』を取りあげている。自らの独吟俳諧に浮世草子風の自註を施したものである。
役者笠秋の夕に見つくして
着ものたゝむやどの舟待
埋れ木に取付貝の名を尋ね
このような三句の渡りに談林親句体から元禄疎句体への志向がうかがえると浅沼は説く。ちなみに浅沼のこの論考は「ウラハイ」(週刊俳句)に連載された「西鶴ざんまい」を加筆修正して論文化したということである。