2021年6月19日土曜日

フェミニズムとアート

コロナ以前はしょっちゅう美術館や展覧会に行っていたが、入場制限や休館などで足を運ぶ機会がほとんどなくなった。アートから刺激を受けるのは文学表現にとっても大切なことなので、過去に見た展覧会のカタログを取りだしてきて眺めている。そのなかに『ワシントン女性芸術美術館展』があった(1991年・大阪・大丸ミュージアム)。この女性芸術美術館(The National Museum of Women in the Arts)は1981年創設。展覧会ではイタリア・ルネサンスから第二次世界大戦後の動きまで女性作家のアートが展示されていた。ルネサンス期ではフォンターナの「貴婦人像」がカタログの表紙にもなっている。フォンターナは画家を仕事にして成功した最初の女性と言われている。フランス革命期ではマリー・アントワネットの肖像画を描いたルブランが有名。王妃と個人的にも親しかったので、王立アカデミーにも入会できたが、革命後にはその関係が不利になって亡命を余儀なくされている。(話はそれるが、フランス革命と女性に関しては、マラーを暗殺したシャルロット・コルデーとか、革命の発端となったバスティーユ牢獄襲撃の先頭に立ったというテロワーニュ・ド・メリクールなどの女性のことが思い浮かぶ。)
19世紀から20世紀にかけての女性アーティストとしては、マネの絵にも描かれたベルト・モリゾとかモデルでユトリロの母親のシュザンヌ・ヴァラドン、マリー・ローランサンなど。彫刻ではカミーユ・クローデル、ケーテ・コルヴィッツなどがいる。カミーユ・クローデルやフリーダ・カーロのことは映画にもなったのでよく知られている。
このカタログには「フェミニズムとアート」という対談が付いていて、小池一子と松岡和子が対談している。司会は山梨俊夫。小池一子はキュレーターでこの二年前の1989年に西武美術館主催の「フリーダ・カーロ展」を実現させている。松岡和子は演劇評論家で、先ごろ坪内逍遥・小田島雄志に続いてシェークスピアの全作品の個人訳を完成させた。この対談を読み直してみると、今日にも通じる問題を含んでいる。
まず、女性美術館ができること自体にも議論があったらしい。松岡によると「女性の美術を、特別なある一つの場所の中に囲い込んで『ゲットー化』してしまうことがいいか、悪いか」という問題だったようだ。松岡の発言のなかでは「20世紀に入るまで、ほとんど全ての女性芸術家は、父親が芸術家だったか、あるいは夫とか、恋人とか、その女性アーティストの才能と社会的な仕事をしていく上での立場を守る強力な男性がそばにいた。それがなくなったのが、20世紀になって初めて」ということも印象に残る。
小池の発言では「女性がやる、ということを日本ではジャーナリズムが、意識的に―悪い言い方をすれば面白がるし、良く受けとめれば男のジャーナリストの中に押し出すという、精神的な支援があることもあって、やはり強調はされてしまうのね。そのことがセールスポイントになるというところが、日本ではあるのね」と指摘されている。「女性的感性、男性的感性というのは、危ないですね。男性の作家だって、いわゆる『女性的』で、繊細な色調で、繊細な線でというのはあるし、もの凄くダイナミックに力強く描く女性もいるし、ジュディ・シカゴの場合は、多分に戦略的なことと自分の作品の知的な操作というのかな、選択というのかな、何かそういうものがあったと思うのです」「例えば女の人が描いたら、女の美術史家とかキュレーターが評価するということは、もちろんナンセンスだと思う」「それほど凄くないのに評価してしまうような、忸怩たるものは、あっては困るわけです」
ジュディ・シカゴはフェミニズム・アートの草分けで、バース・プロジェクト(誕生をテーマにした作品群)を作っている。来日もしている。
今から30年も前の展覧会のカタログなので、情況はその後も進展があったことだろうが、読みながら短詩型文学の、特に川柳の世界と比べていろいろ考えるところがあった。

文学についても読み直そうと思って、世界最古の文学である古代メソポタミア文学を開いてみた(『古代オリエント集』筑摩世界文学大系1)。もとは粘土板に書かれた楔形文字なので、欠損が多くて断片的なところがあるのは仕方がない。メソポタミア神話はシュメールとアッカド、バビロニアで多少異なるが共通する部分も多い。洪水神話とかギルガメシュが有名だが、フェミニズムとの関連でも取り上げられることのある女神にイシュタルがいる。イシュタルはシュメールではイナンナという名になっていて、ここで紹介するのは「イナンナの冥界下り」の話である。
天界の女王イナンナは姉で冥界の女王であるレシュキガルのところへ下ってゆく。何の目的かは明らかではない。冥界に行くには七つの門をくぐらなければならず、門の番人は彼女が門をひとつくぐるたびに、身に着けている装飾品や着物をはがしてゆく。最後は裸になってたどりつくのだが、姉の女王は激怒して「死の目」を向けたので、イナンナは死んでしまう。イナンナの使者は主神エンキの助けでイナンナを生き返らせることができたが、彼女が地上に戻るためには身代りをさしださなくてはならない。そこで鬼神ガルラ霊が付いてきて身代りを求めることになる。イナンナの使者や息子は喪服をまとっていて彼女に忠実だったので、イナンナは彼らを身代りにすることを拒否する。最後に夫のドゥムジに出合うと、彼はすばらしい服を着ていて哀悼の態度をとっていなかったので、夫を見たイナンナは「彼を連れていきなさい」と叫ぶ。イナンナの夫は逃げ回るが、結局身代りになって冥界へ連れ去られる。

さて、ジェンダーの問題は川柳の世界ではあまり取り上げられることはないが、いま「川柳スパイラル」12号の編集に取りかかっていて、特集のテーマは〈「女性川柳」とはもう言わない〉である。発行は7月下旬だが、特集内容だけ予告しておきたい。

〈招待作品〉として瀬戸夏子の短歌十首「二〇〇二年のポジショントーク」
〈ゲスト作品〉として川柳各十句。
作者は歌人から川野芽生・乾遥香・牛尾今日子の三名。
川柳人から榊陽子・笹田かなえ・峯裕見子・瀧村小奈生・内田万貴の五名。
評論として
「女性による短歌が周縁化されてきた歴史に抗して」(髙良真実)
「俳句史を少しずつ書き換えながら、詠む」(松本てふこ)
「『女性川柳』とはもう言わない」(小池正博)

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