コロナ禍で外出がままならないので、テレビを見て過ごす時間が増えた。エムオンやスペースシャワーなどの音楽番組をBGMがわりにつけているが、最近のいろいろなミュージシャンの曲が耳に入ってくる。
年末の紅白歌合戦では、YOASOBIが沢山の本に囲まれて「夜に駆ける」を歌ったことが目をひいた。場所は角川武蔵野ミュージアムの本棚劇場だそうだ。YOASOBIはそもそも小説を音楽にするプロジェクトから誕生したというから、本に囲まれて歌うのはふさわしい。「夜を駆ける」は星野舞夜の小説「タナトスの誘惑」に基づいているという。
紅白では星野源が「うちで踊ろう」に二番の歌詞を付けて歌ったことも評判になった。「たまに重なり合うよな僕ら」「常に嘲りあうよな僕ら」というフレーズが耳に残った。ひとは本来ひとりなのだが、だからこそ時にはともに何かをすることが必要なのだというメッセージと受け取った。
あいみょんの人気もすごいが、彼女はある番組で「物語として読める歌詞を書きたい」と言っていた。物語に対する欲求は文学の読者だけではなく、ひろく音楽の世界にも入ってきているのだろう。現在のような困難な時代だからこそ人々は物語を必要とする。
でんぐり返しの日々 可哀想なふりをして (あいみょん「マリーゴールド」)
いつかはひとり いつかはふたり (「ハルノヒ」)
僕の心臓のBPMは190になったぞ(「君はロックを聴かない」)
物語性のある作品を書く川柳人といえば、広瀬ちえみがまず思い浮かぶ。
広瀬は『セレクション柳人14広瀬ちえみ集』(邑書林)に収録されている文章で次のように書いている。
「では短詩形といわれる川柳は物語ではないのだろうか。あるいはポエジーといわれる詩は、「季語」や「切れ」を武器にしている俳句は、物語ではないのだろうかという疑問はいつもつきまとっている。作品ができたとき、頭の中には、つねに自分なりのひとつの物語ができるからである。初心のときから「韻文、韻文」とまるでお経のように言われてきた。韻文は物語ではないのだろうか。五・七・五のリズムに乗せて、あることないことを書くのは物語ではないのだろうか」(「思い」の問題)
ビニールの木に水をやったら笑ったわ 広瀬ちえみ
散文と韻文の違い。小説(物語)は散文、短歌・俳句・川柳は韻文というように一応は分けられるが、物語は散文で、美の世界は韻文で、というように截然と分けられるものでもない。川柳のなかにも散文性は存在するし、現実を直視する散文精神はメッセージ性ともつながってゆくから川柳と無縁ではない。
『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房)から物語の感じられる川柳を抜き出しておこう。
見たことのない猫がいる枕元 石部明
つぎつぎと女が消える一揆の村 海地大破
吊橋の快楽をいちどだけ兄と 渡部可奈子
人殺しして来て細い糞をする 中村冨二
読者の想像力を刺激するような句である。小説や物語の一場面のようにも読めるし、川柳の一句が一編の小説に匹敵するとも言える。
コロナ禍でいくつかの川柳句会が終了に追い込まれている。句会は人が集まらなければ成立しないから、座の文芸の性格が強いところではやむを得ないのだろう。それぞれの川柳グループがコロナ下で対応に苦慮している。
誌上句会・大会に切りかえる
ネット句会
Zoomなどを利用したリモート句会
感染対策をしたうえで句会を開催する
など対応はさまざまだ。私もこの一年ほどリアル句会に参加していない。ひとりで作句を続ければいいようなものだが、句会に出られない状況はナマの川柳の感覚から遊離してゆく怖さがある。特に川柳の場合は句会後の懇親会がディープで、一概には言えないが短歌・俳句の飲み会よりも人間関係が濃密だから、酒席の場が禁じられている現状には辛いものがある。
文芸における個人と場の関係を、大岡信は「うたげと孤心」と呼んでいる。いまは各人が孤独に自らの営為を続ける時期だろうが、直接会えなくても他の人とコミュニケーションをとる手段はいろいろあるので、孤立しているわけではなく、遠いところでつながっていると思いたい。
マスクしてたって笑窪なんでしょう 岡田幸生
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