2020年11月13日金曜日

雑誌を読む楽しみ(連句誌・短歌誌・川柳誌・俳誌)

この秋、10・11月に出た雑誌(連句誌・短歌誌・川柳誌・俳誌)を拾い読みしてみよう。
「みしみし」という連句誌がある。2019年4月創刊で、現在7号(2020年秋)まで発行されている。同号から連句の付け合い(三句の渡り)で印象に残った箇所を挙げておきたい。

飛躍的認知の歪みかもしれず       小奈生
 階段下りるだまし絵の中        由季
トリッパのトマト煮のあるレストラン   玉簾
   (歌仙「尾長来て」の巻)

 夏のあひだを遊び呆けて        銀河
まぼろしはいつもかなはぬ夢を見せ    七
 徹底的に髪を切られる         らくだ
   (歌仙「花野」の巻)

前句の世界を三句目でがらりと転じるのが連句の基本であり、言葉と言葉の関係性の世界には短詩型文学全般に通底するものがある。
この連句誌では連衆(連句参加者)の単独作品も掲載しているので、次に紹介しよう。

蓮の花ひらく一瞬えれきてる    羽田野令
十月で青であなたのこいびとで   瀧村小奈生
弟ときのこ名付ける遊びせり    岡田由季
薄目して手のひらが手を洗ふなり  鴇田智哉
心音のここらで虹がきえるのだ   なかはられいこ
天高しまたがってみる竹箒     沖らくだ
コスモスの中に白馬を置いてくる  小林苑を

俳人の作品も川柳人の作品もあって、同じ五七五定型である。かつて柳俳合同句会に参加したことがあるが、川柳・俳句を同じ土俵で選評しあったことを思い出した。
川柳からは瀧村小奈生やなかはられいこが参加しているが、短歌誌「井泉」96号の招待作品としてなかはらの川柳が掲載されている。

読点を置くべき箇所に笠智衆
しんにょうの流れのさきに阿藤海  (以上二句「みしみし」7号)
はらはらと金輪際が降って来る
ゆうぐれのたまごのなかの式次第  (以上二句「井泉」96号)

人名の効果、「金輪際」「式次第」の通常とはずらせた使い方など多彩な作句ぶりだ。
ちなみに「井泉」ではリレー小論として田中槐が荻原裕幸『リリカル・アンドロイド』、阿波野巧也『ビギナーズラック』を取り上げているが、ここでは彦坂美喜子「『わたし』の位相の変化」について見ておきたい。短歌における「わたし」の表現は加藤治郎、穂村弘から斉藤斎藤へ、斉藤から永井祐へと変化してきたと彦坂は言う。「その永井からもう一つ若い世代の歌には、別の位相の『わたし』の表現が表われてきているように思う」 彦坂が挙げているのは次の二人である。

この町に生れていたら通ってた小学校から飛び出すボール   平出奔
ぼくの手がそこで離されたとしても新緑の日はとおくもならず 岩倉文也

「現在の若い二十代の歌人たちの『わたし』は、不在であり、未決定であり、誰からも他人であるところに存在する。それは、仮定による不在の表象、未決定、醒めた他人感覚の記述によって、作品に意識的に張り付いている『わたし』の存在感を一層露わにする」と彦坂は述べている。
短歌では「私性」がよく問題になるが、かつて川柳でも「私性」が追求された時期があるが、現在の川柳はもう少し自由で、ある意味で「いいかげん」だ。 次に挙げるのは川柳誌から。

人間を喰うウイルスの咀嚼音    伊藤良彦
まずはその都会の音を脱ぎなさい  高市すみこ
まぼろしの音になるまでおやすみなさい 吉松澄子
斎場を出ると蝉しぐれ どっと   滋野さち(以上4句「湖」11号、課題「音」)
帽子掛けにツノを掛けたら夜ですね 広瀬ちえみ
言っておくけど売れ筋のツノらしい 同
預かったお肉返却したいのです   佐藤みさ子
死を書いたころは遠くに死があった 同 (以上4句「杜人」267号)

俳誌についても見ておこう。 「船団」が終刊(散在)したあと、それぞれの俳人の動きがある。「猫街」(発行人・三宅やよい)は散在のひとつのかたちだと思う。「猫街 NECOMACHI」2号から。

わたしからわたし離れてハンモック  近江文代
ライバルは奈良の大仏麿赤͡兒     ねじめ正一
今日からは花野といってみる空き地  三宅やよい

俳誌「五七五」(編集発行・高橋修宏)6号から。

末の種ならば華厳とひらきけり  三枝桂子
丸と思ひ点とおもへば線あらはる 佐藤りえ
今生も鰓があるのに泳げない   佐藤りえ
牛曳かれ瀕死憤死と春を踏む   増田まさみ
マダム・キューリーまた陽炎を産みこぼし 高橋修宏

「蝶」246号。たむらちせい一周忌霊祭が11月9日に行なわれた。

正論を述べた奴から真葛原    味元昭次
胎内の記憶 花咲く樹海に入り  たむらちせい
紅梅を撒きたる夢の出入口     同
戸の狂ひ叩いて開ける山桜     同

「LUTUS」46号から

葉脈の薄きひかりを囀れり       曾根毅
新芽つんつん巣ごもりそして病みにけり 高橋比呂子
春あらし表徴(シーニュ)の君を忘れない 表健太郎
昏夜もう叛かんのかと花ふぶき     志賀康

「里」が出なくなったので、私にとって若手俳人の句を読めるのは「奎」だけである。「奎」15号から。

変容の対義語として牛蛙    仮屋賢一
日盛りの花器の物欲しさうな口 野住朋可
魚は魚吐いて世界が星月夜   有櫛くらげを
人間の形して紅葉狩りの真似  水の机

以前は「言葉と言葉の関係性の世界である連句」と「一句独立して屹立する川柳」というふうに分けていたけれど、最近では連句も川柳も実作をするときの姿勢に区別がない。両者の境界は混然として短詩型の世界は究極的には同じだという気がしている。

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