紅葉を見に須磨離宮公園に行ったついでに、須磨寺に立ち寄った。
須磨寺は尾崎放哉が大正3年(1924)6月から翌年春まで境内の大師堂の堂守をしていたところである。ここは放哉にとって句作開眼の地であって、俳誌「層雲」に彼の句が爆発的に掲載されることになる。
あすは雨らしい青葉の中の堂を閉める 尾崎放哉
一日物云はず蝶の影さす
静もれる森の中おののける此の一葉
沈黙の池に亀一つ浮き上る
放哉の終焉の地は小豆島で、吉村昭の小説『海も暮れきる』に描かれているが、放哉は海が好きであった。須磨の海も放哉の心をなぐさめたのだろう。
「私は性来、殊の外海が好きでありまして、海を見て居るか、波音を聞いて居ると、大抵な脳の中のイザコザは消えて無くなつてしまうのです」(「入庵雑記」)
大師堂の傍らの池畔に「こんなよい月を一人で見て寝る」の句碑がある。
翌年春、放哉は須磨寺の住職争いの内紛の影響を受けて寺を去ることになる。放哉の海の句を挙げておく。
高浪打ちかへす砂浜に一人を投げ出す
何か求むる心海へ放つ
なぎさふりかへる我が足跡も無く
波音正しく明けて居るなり
「川柳スパイラル」10号は「自由律と短句」の特集を組んでいて、「海紅」の石川聡が「自由律俳句と自由律川柳」を書いている。
自由律俳句は新傾向俳句運動の河東碧梧桐にはじまるが、荻原井泉水の「層雲」と中塚一碧楼の「海紅」を二大俳誌とする。(これ、話を単純化しているが、実際はもっと複雑です。)
放哉や山頭火は「層雲」系である。層雲自由律の俳人の作品をいくつか挙げておく。
わたの原より人も鯛つりわれも鯛つり 野村朱鱗洞
山々着飾りたれば秋という天 池原魚眠洞
陽へ病む 大橋裸木
淋しさめが君の淋しさにあひたがつてゐる 栗林一石路
無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ 橋本夢道
「海紅」系の俳人に滝井孝作がいる。俳句では折柴(おりしば・せっさい)と号していた。
「私は二十一歳の時、大正三年の秋、東京に出ました。次の年の春から碧梧桐と一碧楼とで雑誌『海紅』を出すことになりまして、私も編輯を手伝いました。大正四年、五年、六年、七年、この四年間『海紅』の仕事をしてゐました」(『折柴句集』自序)
八ツ手のかげから目かくしの馬を見る馬のをるなり 滝井折柴
毛布きた人に何も言はずそのままにおいてよし
性慾かなしく十能の火灰を土にあける
金に困りぬいてゐて冬の半島を一まはりして來た
ポケットにお前のものをもつ秋の夜也
『折柴句集』はおおむね自由律だが、それ以後は定型となる。滝井には『俳人仲間』という小説もあるが、私はまだ読んでいない。
「層雲」「海紅」以外にも吉岡禅寺洞の「天の川」とか萩原蘿月の「冬木」などがあり、現代の自由律俳誌はさらに多様化しているようだ。中塚一碧楼の句とあわせて掲載しておく。
うすもの着てそなたの他人らしいこと 中塚一碧楼
団栗は無意識に轉び悪事は根強く進捗す秋日かな 中塚一碧楼
冬木の木ずれの音 たれも来ていない 吉岡禅寺洞
季節の歯車を 早くまわせ スウィートピーを まいてくれ 吉岡禅寺洞
太陽と永遠の今と潮が流れてゐる事実 萩原蘿月
「川柳スパイラル」10号にゲスト作品を掲載している岡田幸生の句集『無伴奏』は1996年に出版されたが、私の持っているのは2015年の新版である。北田傀子が序を書いていて、北田は「随句(自由律俳句)」について次のように言っている。
「句は一種の『ひらめき』(肉体感覚の)で、それは理屈で説明し得ないいわば『無条件』である。したがって随句は文章によらず韻となる。『ひらめき』は瞬時であるから句は最短の韻文(三節)となる。この韻を可能にするのは日本語(大和言葉)の特性からで、句は平常の大和言葉で表現するのでなければ実効をあげることができない」
分かりづらいところもあるが、石川聡が「自由律俳句と自由律川柳」でも触れている「三節文体構成」なのだろう。あと萩原蘿月の「感動主義」というのも調べてみると、萩原は「冬木」の創刊号で次のように書いている。
「今の俳人の弊は、注意が外的であること、感動が沈滞していること、直観力が鋭くないことである。俳句は詩であるから、俳人の素質も詩人的でなくてはならぬ。詩人は直観力の鋭いこと、内省に富んでいること、感動の絶えず流れている事などによって俗人と区別される」(大正二年十月)
いろいろな考え方があるものだ。岡田幸生に話を戻して、最後に『無伴奏』から何句か紹介しておく。
髪を切ったあなたを見つけた 岡田幸生
無伴奏にして満開の桜だ
フランスパンのしあわせがのぞいている
きょうは顔も休みだ
2020年11月28日土曜日
2020年11月13日金曜日
雑誌を読む楽しみ(連句誌・短歌誌・川柳誌・俳誌)
この秋、10・11月に出た雑誌(連句誌・短歌誌・川柳誌・俳誌)を拾い読みしてみよう。
「みしみし」という連句誌がある。2019年4月創刊で、現在7号(2020年秋)まで発行されている。同号から連句の付け合い(三句の渡り)で印象に残った箇所を挙げておきたい。
飛躍的認知の歪みかもしれず 小奈生
階段下りるだまし絵の中 由季
トリッパのトマト煮のあるレストラン 玉簾
(歌仙「尾長来て」の巻)
夏のあひだを遊び呆けて 銀河
まぼろしはいつもかなはぬ夢を見せ 七
徹底的に髪を切られる らくだ
(歌仙「花野」の巻)
前句の世界を三句目でがらりと転じるのが連句の基本であり、言葉と言葉の関係性の世界には短詩型文学全般に通底するものがある。
この連句誌では連衆(連句参加者)の単独作品も掲載しているので、次に紹介しよう。
蓮の花ひらく一瞬えれきてる 羽田野令
十月で青であなたのこいびとで 瀧村小奈生
弟ときのこ名付ける遊びせり 岡田由季
薄目して手のひらが手を洗ふなり 鴇田智哉
心音のここらで虹がきえるのだ なかはられいこ
天高しまたがってみる竹箒 沖らくだ
コスモスの中に白馬を置いてくる 小林苑を
俳人の作品も川柳人の作品もあって、同じ五七五定型である。かつて柳俳合同句会に参加したことがあるが、川柳・俳句を同じ土俵で選評しあったことを思い出した。
川柳からは瀧村小奈生やなかはられいこが参加しているが、短歌誌「井泉」96号の招待作品としてなかはらの川柳が掲載されている。
読点を置くべき箇所に笠智衆
しんにょうの流れのさきに阿藤海 (以上二句「みしみし」7号)
はらはらと金輪際が降って来る
ゆうぐれのたまごのなかの式次第 (以上二句「井泉」96号)
人名の効果、「金輪際」「式次第」の通常とはずらせた使い方など多彩な作句ぶりだ。
ちなみに「井泉」ではリレー小論として田中槐が荻原裕幸『リリカル・アンドロイド』、阿波野巧也『ビギナーズラック』を取り上げているが、ここでは彦坂美喜子「『わたし』の位相の変化」について見ておきたい。短歌における「わたし」の表現は加藤治郎、穂村弘から斉藤斎藤へ、斉藤から永井祐へと変化してきたと彦坂は言う。「その永井からもう一つ若い世代の歌には、別の位相の『わたし』の表現が表われてきているように思う」 彦坂が挙げているのは次の二人である。
この町に生れていたら通ってた小学校から飛び出すボール 平出奔
ぼくの手がそこで離されたとしても新緑の日はとおくもならず 岩倉文也
「現在の若い二十代の歌人たちの『わたし』は、不在であり、未決定であり、誰からも他人であるところに存在する。それは、仮定による不在の表象、未決定、醒めた他人感覚の記述によって、作品に意識的に張り付いている『わたし』の存在感を一層露わにする」と彦坂は述べている。
短歌では「私性」がよく問題になるが、かつて川柳でも「私性」が追求された時期があるが、現在の川柳はもう少し自由で、ある意味で「いいかげん」だ。 次に挙げるのは川柳誌から。
人間を喰うウイルスの咀嚼音 伊藤良彦
まずはその都会の音を脱ぎなさい 高市すみこ
まぼろしの音になるまでおやすみなさい 吉松澄子
斎場を出ると蝉しぐれ どっと 滋野さち(以上4句「湖」11号、課題「音」)
帽子掛けにツノを掛けたら夜ですね 広瀬ちえみ
言っておくけど売れ筋のツノらしい 同
預かったお肉返却したいのです 佐藤みさ子
死を書いたころは遠くに死があった 同 (以上4句「杜人」267号)
俳誌についても見ておこう。 「船団」が終刊(散在)したあと、それぞれの俳人の動きがある。「猫街」(発行人・三宅やよい)は散在のひとつのかたちだと思う。「猫街 NECOMACHI」2号から。
わたしからわたし離れてハンモック 近江文代
ライバルは奈良の大仏麿赤͡兒 ねじめ正一
今日からは花野といってみる空き地 三宅やよい
俳誌「五七五」(編集発行・高橋修宏)6号から。
末の種ならば華厳とひらきけり 三枝桂子
丸と思ひ点とおもへば線あらはる 佐藤りえ
今生も鰓があるのに泳げない 佐藤りえ
牛曳かれ瀕死憤死と春を踏む 増田まさみ
マダム・キューリーまた陽炎を産みこぼし 高橋修宏
「蝶」246号。たむらちせい一周忌霊祭が11月9日に行なわれた。
正論を述べた奴から真葛原 味元昭次
胎内の記憶 花咲く樹海に入り たむらちせい
紅梅を撒きたる夢の出入口 同
戸の狂ひ叩いて開ける山桜 同
「LUTUS」46号から
葉脈の薄きひかりを囀れり 曾根毅
新芽つんつん巣ごもりそして病みにけり 高橋比呂子
春あらし表徴(シーニュ)の君を忘れない 表健太郎
昏夜もう叛かんのかと花ふぶき 志賀康
「里」が出なくなったので、私にとって若手俳人の句を読めるのは「奎」だけである。「奎」15号から。
変容の対義語として牛蛙 仮屋賢一
日盛りの花器の物欲しさうな口 野住朋可
魚は魚吐いて世界が星月夜 有櫛くらげを
人間の形して紅葉狩りの真似 水の机
以前は「言葉と言葉の関係性の世界である連句」と「一句独立して屹立する川柳」というふうに分けていたけれど、最近では連句も川柳も実作をするときの姿勢に区別がない。両者の境界は混然として短詩型の世界は究極的には同じだという気がしている。
「みしみし」という連句誌がある。2019年4月創刊で、現在7号(2020年秋)まで発行されている。同号から連句の付け合い(三句の渡り)で印象に残った箇所を挙げておきたい。
飛躍的認知の歪みかもしれず 小奈生
階段下りるだまし絵の中 由季
トリッパのトマト煮のあるレストラン 玉簾
(歌仙「尾長来て」の巻)
夏のあひだを遊び呆けて 銀河
まぼろしはいつもかなはぬ夢を見せ 七
徹底的に髪を切られる らくだ
(歌仙「花野」の巻)
前句の世界を三句目でがらりと転じるのが連句の基本であり、言葉と言葉の関係性の世界には短詩型文学全般に通底するものがある。
この連句誌では連衆(連句参加者)の単独作品も掲載しているので、次に紹介しよう。
蓮の花ひらく一瞬えれきてる 羽田野令
十月で青であなたのこいびとで 瀧村小奈生
弟ときのこ名付ける遊びせり 岡田由季
薄目して手のひらが手を洗ふなり 鴇田智哉
心音のここらで虹がきえるのだ なかはられいこ
天高しまたがってみる竹箒 沖らくだ
コスモスの中に白馬を置いてくる 小林苑を
俳人の作品も川柳人の作品もあって、同じ五七五定型である。かつて柳俳合同句会に参加したことがあるが、川柳・俳句を同じ土俵で選評しあったことを思い出した。
川柳からは瀧村小奈生やなかはられいこが参加しているが、短歌誌「井泉」96号の招待作品としてなかはらの川柳が掲載されている。
読点を置くべき箇所に笠智衆
しんにょうの流れのさきに阿藤海 (以上二句「みしみし」7号)
はらはらと金輪際が降って来る
ゆうぐれのたまごのなかの式次第 (以上二句「井泉」96号)
人名の効果、「金輪際」「式次第」の通常とはずらせた使い方など多彩な作句ぶりだ。
ちなみに「井泉」ではリレー小論として田中槐が荻原裕幸『リリカル・アンドロイド』、阿波野巧也『ビギナーズラック』を取り上げているが、ここでは彦坂美喜子「『わたし』の位相の変化」について見ておきたい。短歌における「わたし」の表現は加藤治郎、穂村弘から斉藤斎藤へ、斉藤から永井祐へと変化してきたと彦坂は言う。「その永井からもう一つ若い世代の歌には、別の位相の『わたし』の表現が表われてきているように思う」 彦坂が挙げているのは次の二人である。
この町に生れていたら通ってた小学校から飛び出すボール 平出奔
ぼくの手がそこで離されたとしても新緑の日はとおくもならず 岩倉文也
「現在の若い二十代の歌人たちの『わたし』は、不在であり、未決定であり、誰からも他人であるところに存在する。それは、仮定による不在の表象、未決定、醒めた他人感覚の記述によって、作品に意識的に張り付いている『わたし』の存在感を一層露わにする」と彦坂は述べている。
短歌では「私性」がよく問題になるが、かつて川柳でも「私性」が追求された時期があるが、現在の川柳はもう少し自由で、ある意味で「いいかげん」だ。 次に挙げるのは川柳誌から。
人間を喰うウイルスの咀嚼音 伊藤良彦
まずはその都会の音を脱ぎなさい 高市すみこ
まぼろしの音になるまでおやすみなさい 吉松澄子
斎場を出ると蝉しぐれ どっと 滋野さち(以上4句「湖」11号、課題「音」)
帽子掛けにツノを掛けたら夜ですね 広瀬ちえみ
言っておくけど売れ筋のツノらしい 同
預かったお肉返却したいのです 佐藤みさ子
死を書いたころは遠くに死があった 同 (以上4句「杜人」267号)
俳誌についても見ておこう。 「船団」が終刊(散在)したあと、それぞれの俳人の動きがある。「猫街」(発行人・三宅やよい)は散在のひとつのかたちだと思う。「猫街 NECOMACHI」2号から。
わたしからわたし離れてハンモック 近江文代
ライバルは奈良の大仏麿赤͡兒 ねじめ正一
今日からは花野といってみる空き地 三宅やよい
俳誌「五七五」(編集発行・高橋修宏)6号から。
末の種ならば華厳とひらきけり 三枝桂子
丸と思ひ点とおもへば線あらはる 佐藤りえ
今生も鰓があるのに泳げない 佐藤りえ
牛曳かれ瀕死憤死と春を踏む 増田まさみ
マダム・キューリーまた陽炎を産みこぼし 高橋修宏
「蝶」246号。たむらちせい一周忌霊祭が11月9日に行なわれた。
正論を述べた奴から真葛原 味元昭次
胎内の記憶 花咲く樹海に入り たむらちせい
紅梅を撒きたる夢の出入口 同
戸の狂ひ叩いて開ける山桜 同
「LUTUS」46号から
葉脈の薄きひかりを囀れり 曾根毅
新芽つんつん巣ごもりそして病みにけり 高橋比呂子
春あらし表徴(シーニュ)の君を忘れない 表健太郎
昏夜もう叛かんのかと花ふぶき 志賀康
「里」が出なくなったので、私にとって若手俳人の句を読めるのは「奎」だけである。「奎」15号から。
変容の対義語として牛蛙 仮屋賢一
日盛りの花器の物欲しさうな口 野住朋可
魚は魚吐いて世界が星月夜 有櫛くらげを
人間の形して紅葉狩りの真似 水の机
以前は「言葉と言葉の関係性の世界である連句」と「一句独立して屹立する川柳」というふうに分けていたけれど、最近では連句も川柳も実作をするときの姿勢に区別がない。両者の境界は混然として短詩型の世界は究極的には同じだという気がしている。
2020年11月6日金曜日
現代川柳とは何か
『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房)が刊行されて、現代川柳に対して新たな関心が寄せられつつあるようだ。
現代川柳への関心はここ数年来じわじわと広がってきたという実感がある。今年前半には『金曜日の川柳』(樋口由紀子編著・左右社)が上梓され、句集についても『雨曜日』(広瀬ちえみ・文学の森)をはじめ注目すべき川柳書が発行されている。この流れは急に起こったのではなく、この5年間で言えば、『大人になるまでに読みたい15歳の短歌・俳句・川柳』(ゆまに書房・川柳の選と解説:なかはられいこ)や八上桐子句集『hibi』(港の人)、樋口由紀子句集『めるくまーる』(ふらんす堂)などの川柳句集によって、現代川柳作品を読んでみたいという読者が徐々に増えてきた結果だと思われる。現代川柳の存在を発信するためには単独で散発的な仕事をしてもだめで、かたまりとしてアピールする必要があるのだ。(「川柳スパイラル」3号でも「現代川柳にアクセスしよう」という特集を組んで、アンソロジーや句集・評論集・ウェブサイト・川柳用語などの紹介を試みたことがある。)
現代川柳のアンソロジーと言えば、『現代川柳の精鋭たち』(北宋社、2000年)の存在が大きな意味をもっている。20年後の今年、『はじめまして現代川柳』が刊行されたことは偶然とは言え、現代川柳のリレーをつなぐ何らかの意味はあるだろう。『現代川柳の精鋭たち』の作者のうち10人が『はじめまして現代川柳』にも収録されている。
それでは、「現代川柳」とは何か?
定説はないが、「現代川柳」という用語は狭義・広義の二つの意味で使われている。
狭義の「現代川柳」 戦後から1970年代までの前衛的・革新的な川柳
広義の現代川柳 現代書かれている川柳というユルイとらえ方
狭義の意味の方だが、『はじめまして現代川柳』の「現代川柳小史」では「現代川柳」という呼称について河野春三の「我々の作品を今後、現代川柳という呼称に統一したい」(「天馬」2号・1957年2月)という発言を紹介している。「現代川柳」の「現代」は単に今の時代というのではなくて、「革新川柳」と同じ意味で使われていた。その中心にいたのが河野春三である。
広義の意味の方には「現代」とはいつを指すかという問題がある。「現代詩」の場合でも、昭和初年のダダやプロレタリア詩の時代、「荒地」の詩人たちなどの戦後詩、現代書かれている詩、などの様々なとらえ方ができる。読者の世代によって「現代」の範囲が動くのである。『はじめまして現代川柳』では厳密な定義を避けて、次のようなざっくりとした言い方をしている。
〈現在では伝統と革新ということはあまり言われなくなったが、伝統であれ革新であれ、文芸としての川柳を志向する作品を「現代川柳」と呼んでおこう。遊戯性は深い意味では文芸と無縁ではないし、川柳は文学か非文学かには議論もあるが、「川柳は遊び」という軽い意味のとらえかたはしないでおきたい〉
現代川柳史の時代区分についても簡単に触れておこう。
これも定説はないが、アバウトに次のように。
現代川柳第一世代 中村冨二・河野春三から墨作二郎・時実新子まで
現代川柳第二世代 石部明・石田柊馬から渡辺隆夫まで(1930年代~1940年代生まれ)
現代川柳第三世代 筒井祥文から清水かおりまで(1950年代~1960年代生まれ)
ポスト現代川柳世代 飯島章友・川合大祐から柳本々々・暮田真名まで(1970年以降)
世代で厳密に区切れるものではないし、個々の作者についてはいろいろ問題もあろう。特に中村冨二が本当に現代川柳なのかどうか(悪い意味ではない)、考えてゆけば興味深いところだ。
『はじめまして現代川柳』では現代川柳の源流として、新興川柳と戦後川柳の作者を挙げている。現代川柳と新興川柳には直接の関係はないと考える人もいるが、私は新興川柳(川上日車と木村半文銭)を現代川柳の源流として重要だと思っている。あと、「川柳ジャーナル」の作家の中から「言葉派」のルーツとして細田洋二の存在は見逃せない。
ともあれ、たくさんの読者に『はじめまして現代川柳』を手にとっていただいて、現代川柳作品のさまざまな可能性に触れていただければ嬉しい。
現代川柳への関心はここ数年来じわじわと広がってきたという実感がある。今年前半には『金曜日の川柳』(樋口由紀子編著・左右社)が上梓され、句集についても『雨曜日』(広瀬ちえみ・文学の森)をはじめ注目すべき川柳書が発行されている。この流れは急に起こったのではなく、この5年間で言えば、『大人になるまでに読みたい15歳の短歌・俳句・川柳』(ゆまに書房・川柳の選と解説:なかはられいこ)や八上桐子句集『hibi』(港の人)、樋口由紀子句集『めるくまーる』(ふらんす堂)などの川柳句集によって、現代川柳作品を読んでみたいという読者が徐々に増えてきた結果だと思われる。現代川柳の存在を発信するためには単独で散発的な仕事をしてもだめで、かたまりとしてアピールする必要があるのだ。(「川柳スパイラル」3号でも「現代川柳にアクセスしよう」という特集を組んで、アンソロジーや句集・評論集・ウェブサイト・川柳用語などの紹介を試みたことがある。)
現代川柳のアンソロジーと言えば、『現代川柳の精鋭たち』(北宋社、2000年)の存在が大きな意味をもっている。20年後の今年、『はじめまして現代川柳』が刊行されたことは偶然とは言え、現代川柳のリレーをつなぐ何らかの意味はあるだろう。『現代川柳の精鋭たち』の作者のうち10人が『はじめまして現代川柳』にも収録されている。
それでは、「現代川柳」とは何か?
定説はないが、「現代川柳」という用語は狭義・広義の二つの意味で使われている。
狭義の「現代川柳」 戦後から1970年代までの前衛的・革新的な川柳
広義の現代川柳 現代書かれている川柳というユルイとらえ方
狭義の意味の方だが、『はじめまして現代川柳』の「現代川柳小史」では「現代川柳」という呼称について河野春三の「我々の作品を今後、現代川柳という呼称に統一したい」(「天馬」2号・1957年2月)という発言を紹介している。「現代川柳」の「現代」は単に今の時代というのではなくて、「革新川柳」と同じ意味で使われていた。その中心にいたのが河野春三である。
広義の意味の方には「現代」とはいつを指すかという問題がある。「現代詩」の場合でも、昭和初年のダダやプロレタリア詩の時代、「荒地」の詩人たちなどの戦後詩、現代書かれている詩、などの様々なとらえ方ができる。読者の世代によって「現代」の範囲が動くのである。『はじめまして現代川柳』では厳密な定義を避けて、次のようなざっくりとした言い方をしている。
〈現在では伝統と革新ということはあまり言われなくなったが、伝統であれ革新であれ、文芸としての川柳を志向する作品を「現代川柳」と呼んでおこう。遊戯性は深い意味では文芸と無縁ではないし、川柳は文学か非文学かには議論もあるが、「川柳は遊び」という軽い意味のとらえかたはしないでおきたい〉
現代川柳史の時代区分についても簡単に触れておこう。
これも定説はないが、アバウトに次のように。
現代川柳第一世代 中村冨二・河野春三から墨作二郎・時実新子まで
現代川柳第二世代 石部明・石田柊馬から渡辺隆夫まで(1930年代~1940年代生まれ)
現代川柳第三世代 筒井祥文から清水かおりまで(1950年代~1960年代生まれ)
ポスト現代川柳世代 飯島章友・川合大祐から柳本々々・暮田真名まで(1970年以降)
世代で厳密に区切れるものではないし、個々の作者についてはいろいろ問題もあろう。特に中村冨二が本当に現代川柳なのかどうか(悪い意味ではない)、考えてゆけば興味深いところだ。
『はじめまして現代川柳』では現代川柳の源流として、新興川柳と戦後川柳の作者を挙げている。現代川柳と新興川柳には直接の関係はないと考える人もいるが、私は新興川柳(川上日車と木村半文銭)を現代川柳の源流として重要だと思っている。あと、「川柳ジャーナル」の作家の中から「言葉派」のルーツとして細田洋二の存在は見逃せない。
ともあれ、たくさんの読者に『はじめまして現代川柳』を手にとっていただいて、現代川柳作品のさまざまな可能性に触れていただければ嬉しい。