2019年8月11日日曜日

地域川柳史への試み

「川柳スパイラル」6号は「現代川柳の縦軸と横軸」という特集で、藤本秋声「京都柳壇伝統と革新の歴史」、桒原道夫「『川柳雑誌』発刊までの麻生路郎」を掲載している。現代川柳の通史はほとんど見られず、地域に特化した川柳史となると斎藤大雄『北海道川柳史』など少数のものしか思い浮かばない。もちろん『番傘川柳百年史』『麻生路郎読本』『札幌川柳社五〇年史』など結社を中心としたものはまとめられており、各地の結社誌にはその地域の川柳史が掲載されているのかも知れないが、なかなか管見に入らない。「川柳カード」8号(2015年3月)には浪越靖政「北海道川柳の開拓者たち」を掲載し、各地域の川柳史に繋げたかったが、あとが続かなかった。現代川柳は通時的・共時的にとらえる必要があると私は思っていて、そのことによって川柳人それぞれの「いま」(現在位置)が自覚されることになる。

藤本秋声は「京都番傘」に所属、個人誌「川柳大文字」を発行し、京都の柳社と柳誌、川柳家列伝などを連載している。「川柳大文字」についてはこの時評でも紹介したことがある(2018年2月25日)が、川柳史の掘り起こしとして貴重な作業であり、「川柳スパイラル」に寄稿をお願いしたところ、さっそく原稿を送っていただいた。ところが、彼は6月に急逝された。4月の「筒井祥文を偲ぶ会」では短時間だったが言葉を交わしたのに、思いがけないことだった。彼の残した仕事に改めて向きあいたいと思っている。

藤本の原稿は次のように書き出されている。
「京都は伝統と革新が共存する町と言われてきた。伝統と革新は対立したものとして捉えがちだが、両者は密接に関係し合い文化は成長発展する。川柳も例外ではない」
「伝統と革新」という捉え方は今日ではあまり使われなくなったが、川柳史を整理するときには必要な視点である。
関西の新川柳(近代川柳)は大阪の小島六厘坊からはじまるが、斎藤松窓(六厘坊の学友)や藤本蘭華などが京都における草創期の川柳人である。大正期に入り「京都川柳社」が創立され、以後「平安川柳社」による統合まで、京都柳壇の本流となる。「京都番傘」は昭和初期に創立され、紆余曲折を経て現在に至る。藤本は伝統系・革新系のさまざまな柳社と川柳誌の消長を丁寧に記述している。
私が特に興味をもったのは、川井瞬二を中心とする戦前の革新系の川柳人の動向である藤本はこんなふうに書いている。
「舜二は伝統川柳からの脱却を訴え、詩性川柳を唱えた。舜二の試みはまったく新しいもので『木馬』の川柳革新運動は揶揄する者、賛同する者ある中、概ね京都柳界では将来への希望として歓迎されたようだ。昭和7年『川柳街』は『木馬』『川柳タイムス』らと合併して『更生・川柳街』となり、京都川柳社、京都番傘を凌ぐ京都で最大の柳社となる。舜二は革新の先鋒となり多くの若い作家に影響を与えるが、翌年病死する」
「最も舜二の影響を受けたのは宮田(堀)豊次であった。舜二の川柳観は宮田兄弟らの『川柳ビル』に受け継がれる。戦後は新興の結社を巻き込み、昭和32年の京都柳界統合の『平安川柳社』に至る」
藤本の個人誌「川柳大文字」のすごいところは、川柳史の記述だけではなくて、そのもとになった資料(川柳誌のコピー)が添えられているところにある。以前私は堀豊次に「川柳ビル」は手元にありますかと尋ねたことがあるが、一冊も残っていないということだった。それが、藤本にもらったコピーで一部だけではあるものの、目にすることができたのは嬉しかった。
ここでは川井俊二と安平陸平の作品を紹介しておこう。陸平は「川柳ビル」同人で、33歳で夭折した川柳人である。

口笛にふと寂しさが吹けてゐる    川井瞬二
断髪のある日時計が動かない
壁にゐる俺はやつぱり一人かな
時計屋の十二時一時九時六時
戦争の悲惨さを知り恋を知り
恋人の背中をたたけば痩せてゐる五月
蜥蜴颯つと背筋に白い六月よ

子猫が足らんと親猫泣いている    安平陸平
その鞭はその鞭は我が鼻の先
蛇の舌あくまで嫌はれやうとする
大きな蜘蛛は大きな巣を作り
馬―カツと馬子を蹴るかも判らない
長い指短い指で五本ある
散る櫻私は何も思はない

次に大阪の川柳史に移ろう。
桒原道夫の文章は次のように始まっている。
「麻生路郎は、社会を対象とする『川柳雑誌』を大正13年2月に発刊し、川柳の社会化に邁進した川柳人である。本稿では、『川柳雑誌』を発刊するまでの路郎の歩みを、路郎が関わった雑誌や人物を通して概観する」
川柳塔社からは『麻生路郎読本』がまとめられているが、『麻生路郎読本』については2010年11月12日の時評で取り上げている。
桒原の原稿は麻生路郎の交友関係をたどることによって、大阪川柳史をカバーするものとなっている。地域川柳史といっても、大阪・京都・神戸は影響しあっており、人的交流も分けられない面がある。斎藤松窓の名は藤本と桑原の文章の両方に出てくる。
大阪の川柳史は比較的なじみのあるもので、川上日車や木村半文銭は私好みの作家である。
桒原の引用している作品を挙げておく。

マツチ擦つてわづかに闇を慰めぬ     青明
堪へ難し野に入り森を出て又野     半文銭
よりかゝる鉄柵に湧く淋しさよ     路郎
日曜を秋となり行く日のさびし     五葉
鐘の音に夏と秋とが離れゆく      由三
戀せよと薄桃色の花が咲く       龍郎

龍郎は岸本水府。引用句に「淋しさよ」「さびし」などの語が出てくるのは、主観句の時代だったからだろう。
日車と半文銭は、大正12年2月、「小康」を発刊する。路郎も誘われたが、断っている。桑原がその理由を挙げている部分が興味深い。

・「雪」「土團子」「後の葉柳」と雑誌を出して失敗した苦痛を繰り返したくない。
・川柳を知っているという社会の一部の人達を相手にして雑誌を出すことは不賛成である。
・短歌や俳句の域にまで芸術的価値を認めさせるべく、川柳を知らない人に川柳を読ませる必要がある。
・芸術的なものを残そうとするなら、日車、半文銭、森田森の家、路郎の四人だけの作品を発表する雑誌でよい。
・立場の違う人まで引き込んで「小康」を発刊するのは、結果が分かっているので、行動を共に出来ない。

以上、藤本と桒原の文章によって京都と大阪における近代川柳史を見てきたが、関西に限っても結社と川柳誌の興亡はより多岐にわたっている。ベテランの川柳人は手持ちの客観的資料に基づいて記録を残しておく必要があるし、若き研究者による近現代川柳史の探求が待ち望まれている。

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