「風」113号(2019年7月)は第20回風鐸賞発表。正賞・山田純一、準賞・林マサ子と森吉留里惠。山田と森吉は十四字作品で、林は十七字作品で受賞している。
「風」(編集発行・佐藤美文)は十四字の顕彰に力を入れている。巻頭の「誹諧武玉川の十四字詩」(四篇)には次のような作品が掲載されている。
文が流れて仕廻ふ曲水
闇をつかむハ恋のはじまり
印籠ばかり光る上人
けふも長閑で青い掌
案じる事の知れぬ関守
七七句(短句)のことを川柳では十四字と呼んでいる。『誹諧武玉川』については田辺聖子著『武玉川・とくとく清水』(岩波新書)をはじめ諸書が出ている。ちなみに田辺聖子の本では最後に『武玉川』から次の句が挙げられている。
逢はぬ恋人に噺して仕廻けり
これは五七五形式だが、『武玉川』には両形式が収録されていて、それぞれ興味深いものがある。
「風」の十四字作品から森吉留里惠と本間かもせりの句を紹介しておく。
苦し紛れにすがる三角 森吉留里惠
いのちが匂うなまぐさいなあ
エラスムスから学ぶ韜晦
メビウスの輪の見せぬハラワタ
思い詰めてか陽が昇らない
星は午睡の託児所に降る 本間かもせり
スマホが花で満たされてゆく
人という字はやや尖ってる
となりの窓も窓を見ている
廃線しても駅前という
「川柳の仲間 旬」224号(2019年7月号)。川合大祐が人名を使った作品を発表している。
かまいたちどれがさびしい星野源 川合大祐
校長にジャガー横田の霊憑る
パズル解く樋口可南子の庭先で
人名はその時代を彩る記号として便利でもあり、様々な使い方ができる。
すでに渡辺隆夫に「桃すもも咲う八千草薫さま」「かなでは切れぬ樋口可南子かな」などの句があり、効果的なだけに安易な使いすぎは禁物だろう。「旬」の前号に川合は「前半が白鯨だった京マチ子」を発表していて、これは京マチ子の訃報以前に作られたということだ。固有名詞の喚起力は読む人によって異なる。
鳥葬に間に合うようにバスに乗る 桑沢ひろみ
カエル鳴く宇宙は無限だから嫌 大川博幸
私はなるべく納豆とお喋りしたい 千春
まあいいか味方はいないほうがいい 樹萄らき
みんな来て蝉の主張を聴いている 丸山健三
「川柳草原」105号(2019年7月)から。
いちじくの葉をそんな使っちゃいけないわ 岡谷樹
ここへおいでと逃げ水の赤い爪 みつ木もも花
リア充と思いますかと聞いてくる 木口雅裕
気まぐれな空 タピオカが降る三時 オカダキキ
駅前通り日曜画家の沙羅双樹 藤本鈴菜
天日干ししよう熟考してみよう 竹内ゆみこ
風紋は束の間 誘惑に嵌る 山本早苗
火の鳥を抱けば爛れるひだりむね 中野六助
「凜」78号(2019年7月)。
巻頭言で桑原伸吉は「戦後七十四年の歳月は戦争を知っている世代の減少、メディアも一時的な報道だけで、戦争そのものも薄い存在になってしまった」と述べたあと、次の二句を並べて掲載している。
戦後という夾竹桃が胸に咲く 墨作二郎
夾竹桃零れて語り部は熱い 桑原伸吉
「川柳北田辺」105回(2019年7月)。
くんじろうの巻頭言(「放蕩言」)は「筒井祥文はふらすこてんをどう読んでいたのか」。
くんじろうはまた、筒井祥文55句(平成27年度作品から)を選んで掲載している。盟友とはかくあるべきだろう。
木馬から馬が出た日が誕生日 筒井祥文
さようなら自分の舌を舐めておけ
見わたして高い鼻から摘んでゆく
さる件で弓道部から狙われる
そのうちに外す梯子が掛けてある
いい知恵が出ずにゴジラは火をふいた
2019年7月27日土曜日
2019年7月21日日曜日
『藤原月彦全句集』(六花書林)
龍一郎と月彦
2000年ごろ、欠かさず読んでいたブログに正岡豊の「折口信夫の別荘日記」と藤原龍一郎の「電脳日記 夢見る頃を過ぎても」があった。この二つからは多大な刺激を受けた。当時私は「きさらぎ連句会通信」という連句を中心にしたフリーペーパーを出していたが、それを最初に認めてくれたのもこの両人だった。
藤原の話を実際に聞いたのは「川柳ジャンクション2001」のときだったと思う。『現代川柳の精鋭たち』(北宋社)をめぐってのシンポジウムで、パネラーは荻原裕幸・藤原龍一郎・堀本吟。
そのときの記録によると、藤原は川柳についてこんなふうに発言している。
「好きで三十年も関わってきた短詩型文芸のなかに、まだ自分がまったく足を踏み入れていない領域がこれだけ広大に広がっているというのがすごくうれしかった。そこには評価する部分と同時に不思議に思う部分がありました」
藤原は評価する部分として
①世界を批評する姿勢②日常に陰翳を発見する視線③季語的な既成イメージに依りかからない表現意志④定型への疑い⑤洗練を拒否する文体
の五点を挙げた。逆に疑問に思ったこととしては
①参加者の平均年齢が高い②題詠で作られる作品の不思議③筆名の不可解さ(号はギミックなのか)④単行作品集の少なさ⑤現代仮名づかい
が挙げられている。そして最後に
俳人には「上がり」があるが川柳作家には「上がり」がない
と述べた。「上がり」とは大新聞の選者になるなどの最終ステイタスということだろう。
『現代川柳の精鋭たち』についての感想であり、18年前の発言なので、いま藤原が同じ感想をもっているかどうかは分からないが、川柳をめぐる状況が変わった部分もあり変わらない部分もあることだろう。
藤原の著書では『短歌の引力』(柊書房)も熱心に読んだ。中国の戦地から「アララギ」に短歌を送り続けた渡辺直己を「前線歌人というギミック」」として論じた文章など印象に残っている。あと、手元にある藤原龍一郎の歌集から引用しておこう。
乱歩はた荷風の虚無と快楽と綴り尽くさば美貌の都
百年の孤独ぞ驟雨の東京を切り裂きジャックのごとく歩めば
〈私〉という存在を端的に蟲喰花喰蟲と喩えて
赤光の茂吉にまたぎ越えられて腐り腐りて今日の赤茄子
直喩より暗喩こそふさわしきかな歌姫中森明菜・病葉
歌人・藤原龍一郎が俳人・藤原月彦であることは承知していたが、私にとって彼はまず歌人として現われたことになる。
私は「豈」の同人なので、彼の作品は「豈」誌上で読んでいたし、「里」では媚庵の名で作品を発表しているのも承知していた(媚庵はトランペッターにして小説家ボリス・ヴィアンをもじったものだろう)。しかし、『王権神授説』の存在は一種の月彦伝説として霧の彼方に存在していた。今回、『藤原月彦全句集』(六花書林)の刊行によって、月彦の作品はようやくその全貌をあらわしたことになる。
右眼・左眼
少年の左眼に映るは椿事ばかり
邪恋かな射手座に右の瞳を射られ
右眼と左眼に映っているのは別の世界かもしれない。見えているのは現実だが、現実に覆い被さるようにしてもうひとつの別の世界が見えているとしたら、世界は二重の存在構造になってゆく。少年の左眼に映っている椿事とは何だろう。日常とは別の何かが見えているに違いない。
幻想を見るのが左眼だとも限らない。射手座に射られた右眼は見えなくなるのかも知れないし、今まで見えなかったものが見えるようになるのかも知れない。
虚構の家族
駆落ちの姉の声聞く桜闇
壜詰めのエロス金曜物語
致死量の月光兄の蒼全裸
夭折の兄かもしれず海蛍
憂国や未婚の亡兄の指を咬み
三句目は「蒼全裸」に「あおはだか」のルビ。五句目は「亡兄」に「あに」のルビ。
エロスは禁じられることによって本物の恋に変質する。伊勢の斎宮に対する恋や三島由紀夫『豊穣の海』第一部「春の雪」における恋など枚挙にいとまがない。
兄の指を咬むのは愛咬・あまがみだろう。しかも、この兄は夭折したようだ。
虚構の家族を詠むことは短詩型文学にしばしば見られるが、ここには濃厚なエロスが漂っている。
『俳句世界1エロチシズム』(1996年8月、雄山閣)に歌仙「砂熱し」の巻(前田圭衛子捌き)が収録されている。発句は「砂熱し来いというから来てみたが」(上野遊馬)。そのウラの二句目・三句目はこんなふうに。
エロスの羽は壜詰めのまま 正博
少年の髭うっすらと泣けるごと 麗
こういう世界はすでに藤原月彦が表現していたのだった。
アルンハイム世襲領
ポーに「アルンハイムの地所」(The Domein of Arnheim)という小説がある。
莫大な遺産を手にした男が理想の庭園(領地)を作りあげる話である。
自然は完璧ではない。人工の手を加えることで完全なドリームランドを作りあげるというのだ。
シュールレアリスムの画家・マグリットはこの小説にヒントを得て「アルンハイムの領地」を描いた。断崖の稜線に鳩が羽を広げた姿が描きこまれているシュールな絵である。画面の手前には卵のある鳥の巣が置かれている。
江戸川乱歩の「パノラマ島奇譚」にもポーの小説の影響があると言われる。
そして、わが藤原月彦は俳句によって「世襲領」を構築している。
ジンと血の匂いて世襲領に夏
炎天の花から肉へ孵るダリ
亡命の日よりの姉の夢遊病
乱歩忌の劇中劇のみなごろし
遠雷を神々の訃とおもうべし
マグリットではなく、ダリの名が出て来るが、「内乱の予感」などのシュールな絵は作者の脳裏に揺曳していたに違いない。最後の句は「神々の黄昏」を表出したワグナーであろうか。月彦の脳裏にはさまざまな表象が浮かんでは消えていったのだろう。
貴腐
此処過ぎてまたひとり減る花野行
赤黄男忌の世界の大部分は雨
剃刀を泉にあらふ夢のあと
ひかりごけ塗りて聖夜の遊びなる
兄妹羽化しつつありあかずの間
第二句集『貴腐』、中島梓の解説がいい。
「藤原月彦は、形に耐えかねて無形に逃れる徒輩ではない。しかしまた、彼は、足を踏みそこね、踏み出しすぎ、あるいは踏みはずすことを恐れて、手を拱いて伝統の内に立ちつくすたぐいの俳人でもない。彼は、わずか十七文字のうちに、観念を、思惟を、美学をすら導き入れるにためらわぬだけの、勇気と、大胆さと、そして力量とをかねそなえている。彼にとって、十七文字のミクロコスモスは、そのひとことひとことに全世界をもはらみうる、フェッセンデンの宇宙となった」
「フェッセンデンの宇宙」はSFで、実験室で作られた人工の小宇宙。
年譜によると、1983年から1988年まで藤原は秦夕美との二人誌「巫朱華」(プシュケと読むのだろう)を発行していたという。
魔都
久生十蘭の推理小説に『魔都』がある。
魔都と呼ばれる都市には東京や上海などがあるが、藤原は句集『魔都 魔界創世記篇』『魔都 魔性絢爛篇』『魔都 美貌夜行篇』を出している。1920年代の探偵小説誌「新青年」を連想させ、タイトルを眺めているだけで楽しいではないか。
梔子の闇かと問へば否と応ふ
卯の花腐し美少年腐し哉
人撃たれ唐突に花野となりぬ
どこまで歩けば空蟬を棄てられる
妖かしの春の橘外男かな
驚くべきことに藤原は『魔都』という句集を百冊だすことを構想していたらしい。
「私は今までに、『王権神授説』『貴腐』『盗汗集』なる三冊の句集を上梓し、『パラダイスそして誰よりも遠き夕暮』と『迦南』という未刊句集をもっているが、この『魔都』は、それらの独立性ある作品集とは異なり、大河大ロマン句集の第一巻として、刊行するものである」「とりあえず全100巻と予告しておくが、このような構想が、俳句史上、空前絶後であることはまちがいない」
バルザックの人間喜劇やフォークナーのヨクナパトーファ・サーガに匹敵するような世界の構築を俳句で行なおうとする壮大な試みであろう(藤原が挙げているのは、栗本薫のグイン・サーガと半村良の『太陽の世界』)。それは三巻で終わったけれど、こんなことを考えた人は他にはいない。
1970・80年代と2010年代
ポー、澁澤龍彦、江戸川乱歩、三島由紀夫などこの句集にはブッキッシュなイメージが散りばめられているし、70年代に残っていた「革命的ロマン主義」の匂いもする。
刊行された時代の反映もあるが、いま全句集として出されることによって現代の句集としてどのように読まれるのか、興味深いところだ。「BL俳句」の先駆的な部分もあり、句集によってひとつの世界を構築するというやり方は現代性を失っていないと思われる。
2000年ごろ、欠かさず読んでいたブログに正岡豊の「折口信夫の別荘日記」と藤原龍一郎の「電脳日記 夢見る頃を過ぎても」があった。この二つからは多大な刺激を受けた。当時私は「きさらぎ連句会通信」という連句を中心にしたフリーペーパーを出していたが、それを最初に認めてくれたのもこの両人だった。
藤原の話を実際に聞いたのは「川柳ジャンクション2001」のときだったと思う。『現代川柳の精鋭たち』(北宋社)をめぐってのシンポジウムで、パネラーは荻原裕幸・藤原龍一郎・堀本吟。
そのときの記録によると、藤原は川柳についてこんなふうに発言している。
「好きで三十年も関わってきた短詩型文芸のなかに、まだ自分がまったく足を踏み入れていない領域がこれだけ広大に広がっているというのがすごくうれしかった。そこには評価する部分と同時に不思議に思う部分がありました」
藤原は評価する部分として
①世界を批評する姿勢②日常に陰翳を発見する視線③季語的な既成イメージに依りかからない表現意志④定型への疑い⑤洗練を拒否する文体
の五点を挙げた。逆に疑問に思ったこととしては
①参加者の平均年齢が高い②題詠で作られる作品の不思議③筆名の不可解さ(号はギミックなのか)④単行作品集の少なさ⑤現代仮名づかい
が挙げられている。そして最後に
俳人には「上がり」があるが川柳作家には「上がり」がない
と述べた。「上がり」とは大新聞の選者になるなどの最終ステイタスということだろう。
『現代川柳の精鋭たち』についての感想であり、18年前の発言なので、いま藤原が同じ感想をもっているかどうかは分からないが、川柳をめぐる状況が変わった部分もあり変わらない部分もあることだろう。
藤原の著書では『短歌の引力』(柊書房)も熱心に読んだ。中国の戦地から「アララギ」に短歌を送り続けた渡辺直己を「前線歌人というギミック」」として論じた文章など印象に残っている。あと、手元にある藤原龍一郎の歌集から引用しておこう。
乱歩はた荷風の虚無と快楽と綴り尽くさば美貌の都
百年の孤独ぞ驟雨の東京を切り裂きジャックのごとく歩めば
〈私〉という存在を端的に蟲喰花喰蟲と喩えて
赤光の茂吉にまたぎ越えられて腐り腐りて今日の赤茄子
直喩より暗喩こそふさわしきかな歌姫中森明菜・病葉
歌人・藤原龍一郎が俳人・藤原月彦であることは承知していたが、私にとって彼はまず歌人として現われたことになる。
私は「豈」の同人なので、彼の作品は「豈」誌上で読んでいたし、「里」では媚庵の名で作品を発表しているのも承知していた(媚庵はトランペッターにして小説家ボリス・ヴィアンをもじったものだろう)。しかし、『王権神授説』の存在は一種の月彦伝説として霧の彼方に存在していた。今回、『藤原月彦全句集』(六花書林)の刊行によって、月彦の作品はようやくその全貌をあらわしたことになる。
右眼・左眼
少年の左眼に映るは椿事ばかり
邪恋かな射手座に右の瞳を射られ
右眼と左眼に映っているのは別の世界かもしれない。見えているのは現実だが、現実に覆い被さるようにしてもうひとつの別の世界が見えているとしたら、世界は二重の存在構造になってゆく。少年の左眼に映っている椿事とは何だろう。日常とは別の何かが見えているに違いない。
幻想を見るのが左眼だとも限らない。射手座に射られた右眼は見えなくなるのかも知れないし、今まで見えなかったものが見えるようになるのかも知れない。
虚構の家族
駆落ちの姉の声聞く桜闇
壜詰めのエロス金曜物語
致死量の月光兄の蒼全裸
夭折の兄かもしれず海蛍
憂国や未婚の亡兄の指を咬み
三句目は「蒼全裸」に「あおはだか」のルビ。五句目は「亡兄」に「あに」のルビ。
エロスは禁じられることによって本物の恋に変質する。伊勢の斎宮に対する恋や三島由紀夫『豊穣の海』第一部「春の雪」における恋など枚挙にいとまがない。
兄の指を咬むのは愛咬・あまがみだろう。しかも、この兄は夭折したようだ。
虚構の家族を詠むことは短詩型文学にしばしば見られるが、ここには濃厚なエロスが漂っている。
『俳句世界1エロチシズム』(1996年8月、雄山閣)に歌仙「砂熱し」の巻(前田圭衛子捌き)が収録されている。発句は「砂熱し来いというから来てみたが」(上野遊馬)。そのウラの二句目・三句目はこんなふうに。
エロスの羽は壜詰めのまま 正博
少年の髭うっすらと泣けるごと 麗
こういう世界はすでに藤原月彦が表現していたのだった。
アルンハイム世襲領
ポーに「アルンハイムの地所」(The Domein of Arnheim)という小説がある。
莫大な遺産を手にした男が理想の庭園(領地)を作りあげる話である。
自然は完璧ではない。人工の手を加えることで完全なドリームランドを作りあげるというのだ。
シュールレアリスムの画家・マグリットはこの小説にヒントを得て「アルンハイムの領地」を描いた。断崖の稜線に鳩が羽を広げた姿が描きこまれているシュールな絵である。画面の手前には卵のある鳥の巣が置かれている。
江戸川乱歩の「パノラマ島奇譚」にもポーの小説の影響があると言われる。
そして、わが藤原月彦は俳句によって「世襲領」を構築している。
ジンと血の匂いて世襲領に夏
炎天の花から肉へ孵るダリ
亡命の日よりの姉の夢遊病
乱歩忌の劇中劇のみなごろし
遠雷を神々の訃とおもうべし
マグリットではなく、ダリの名が出て来るが、「内乱の予感」などのシュールな絵は作者の脳裏に揺曳していたに違いない。最後の句は「神々の黄昏」を表出したワグナーであろうか。月彦の脳裏にはさまざまな表象が浮かんでは消えていったのだろう。
貴腐
此処過ぎてまたひとり減る花野行
赤黄男忌の世界の大部分は雨
剃刀を泉にあらふ夢のあと
ひかりごけ塗りて聖夜の遊びなる
兄妹羽化しつつありあかずの間
第二句集『貴腐』、中島梓の解説がいい。
「藤原月彦は、形に耐えかねて無形に逃れる徒輩ではない。しかしまた、彼は、足を踏みそこね、踏み出しすぎ、あるいは踏みはずすことを恐れて、手を拱いて伝統の内に立ちつくすたぐいの俳人でもない。彼は、わずか十七文字のうちに、観念を、思惟を、美学をすら導き入れるにためらわぬだけの、勇気と、大胆さと、そして力量とをかねそなえている。彼にとって、十七文字のミクロコスモスは、そのひとことひとことに全世界をもはらみうる、フェッセンデンの宇宙となった」
「フェッセンデンの宇宙」はSFで、実験室で作られた人工の小宇宙。
年譜によると、1983年から1988年まで藤原は秦夕美との二人誌「巫朱華」(プシュケと読むのだろう)を発行していたという。
魔都
久生十蘭の推理小説に『魔都』がある。
魔都と呼ばれる都市には東京や上海などがあるが、藤原は句集『魔都 魔界創世記篇』『魔都 魔性絢爛篇』『魔都 美貌夜行篇』を出している。1920年代の探偵小説誌「新青年」を連想させ、タイトルを眺めているだけで楽しいではないか。
梔子の闇かと問へば否と応ふ
卯の花腐し美少年腐し哉
人撃たれ唐突に花野となりぬ
どこまで歩けば空蟬を棄てられる
妖かしの春の橘外男かな
驚くべきことに藤原は『魔都』という句集を百冊だすことを構想していたらしい。
「私は今までに、『王権神授説』『貴腐』『盗汗集』なる三冊の句集を上梓し、『パラダイスそして誰よりも遠き夕暮』と『迦南』という未刊句集をもっているが、この『魔都』は、それらの独立性ある作品集とは異なり、大河大ロマン句集の第一巻として、刊行するものである」「とりあえず全100巻と予告しておくが、このような構想が、俳句史上、空前絶後であることはまちがいない」
バルザックの人間喜劇やフォークナーのヨクナパトーファ・サーガに匹敵するような世界の構築を俳句で行なおうとする壮大な試みであろう(藤原が挙げているのは、栗本薫のグイン・サーガと半村良の『太陽の世界』)。それは三巻で終わったけれど、こんなことを考えた人は他にはいない。
1970・80年代と2010年代
ポー、澁澤龍彦、江戸川乱歩、三島由紀夫などこの句集にはブッキッシュなイメージが散りばめられているし、70年代に残っていた「革命的ロマン主義」の匂いもする。
刊行された時代の反映もあるが、いま全句集として出されることによって現代の句集としてどのように読まれるのか、興味深いところだ。「BL俳句」の先駆的な部分もあり、句集によってひとつの世界を構築するというやり方は現代性を失っていないと思われる。