飯島章友は若手の川柳人のなかで今もっとも意欲的に活躍している一人である。
「バックストローク」会員をへて、現在「川柳カード」同人。2015年1月には柳本々々・川合大祐・江口ちかる・倉間しおりとブログ「川柳スープレックス」を立ち上げた。
飯島は「かばん」に所属する歌人でもあるから、彼を通じて川柳に興味をもつようになった歌人も多い。
「川柳カード」11号の特集「いま現代川柳を問い直す」で、飯島は「川合大祐を読む―ドラえもんは来なかった世代の句―」を書いている。
川合大祐は1974年生まれ。飯島は川合や飯島自身を「第二次ベビーブーム世代」であり、〈この世代は「ドラえもんは必ず来る」と大人たちから言われ続けたにもかかわらず、「ドラえもんは来なかった」世代なのである〉と書いている。そこから飯島は川合の川柳作品に「世界への懼れ」を読み取っている。
さて、「川柳カード」11号から飯島章友の同人作品を読んでみよう。
いまはむかし割れて砕けて散りしUFO
誰そ彼のあれはどなたの脳の皺
飯島作品の背後にはプレテクストの存在が感じられる。
「いまはむかし…」というのは説話の語り出しであるし、「割れて砕けて散りし」は源実朝の短歌「大海の磯もとどろに寄する波割れて砕けて裂けて散るかも」を連想させる。
古典や短歌のフレーズを使って詠みはじめながら、UFOにまでたどり着くという冒頭一句目となっている。
「黄昏」は「誰そ彼」に由来すると言われている。昔の村落共同体では誰もが顔見知りだった。けれども、夕暮れの時間帯に、ふと見知らぬものとすれ違うことがある。逢魔が時である。ここでは「誰そ彼」から「脳の皺」にまで行き着いている。人間の意識や記憶が脳の皺に還元されるのだとしたら、世界のすべての出来事は脳内で生成しているのかもしれない。
諸事情で荊棘線となる地平線
樹形図の果てが世界樹だったこと
「川柳カード」11号には小津夜景が「ことばの原型を思い出す午後」を寄稿していて、飯島の川柳作品を「私という質感/世界という質感」「変質と生命」「逼迫する時間性」「螺旋的起源へ」という観点から論じている。
小津は飯島の作品における「世界という質感」について、〈ぐにゃぐにゃ/ぐちゅぐちゅ〉〈変質の気配にじっと感覚をとぎすます語り手の息づかい〉を読み取っている。この見方を補助線として掲出作品を読めば、ここでも「地平線」が「荊棘線」に変質・変容する気配を読み取ることができるだろう。
「荊棘」はイバラのことで、キリストの「荊冠」などを連想させるが、ここでは「荊棘線」は有刺鉄線のことだろう。どんな事情があるのかはぼかされているが、「地平線」が棘のあるものに変容するのだ。
二句目。樹形図は、数学などでいろいろな場合について枝分かれした形で書いてゆく図。すべての場合を挙げてゆけば、それが全体として世界樹になってゆくというのだ。
「世界樹」という言い方は、たとえば北欧神話に登場する大樹ユグドラシルなどを連想させ、神話的宇宙的なスケールにつながってゆく。
ここでも「樹形図」が「世界樹」に変容してゆくさまが詠まれている。
飯島にとって図や線は固定し静止したものではなく、意識のなかでさまざまに変容する。
足を攣るジムノペディアの少年A
ジムノペディアはギリシア神話に出てくるデュオニュソスの祭のようだが、これは少年を裸にする祭であるらしい。ちょっとBLっぽい感じもする。
へそに頭を入れてまるっと消えました
「頭」には「ず」とルビが付いている。
小津は飯島の作品をDNAの二重螺旋のイメージと重ねているが、飯島は今号ではさらにウロボロスの蛇やメビウスの輪のように、「まるっと」消えてゆくものとして身体をとらえているようだ。
音叉鳴る饐えゆくもののにおいさせ
飛行船泣いて半濁音を生む
今号の飯島作品のうちで、この二句は従来の川柳の守備範囲に入ってくる作品だろう。
「共感」という点でいえば、比較的分かりやすいかも知れない。「抒情性」も感得できる。
けれども、共感されたり受け入れられたりすることにはある種の危険もともなっている。無意識のうちに従来の川柳概念の枠に収まっていってしまうからだ。だから、ここでは今まであまり見たことのない作品を中心に取り上げた。
小津夜景は飯島の作品を「語り手の知覚を拠り所として外界が言語化されてゆく」ものとしてとらえている。その場合の外界は、川合大祐の場合のように「世界への懼れ」として表現されるのではなく、より知的に処理されたうえで表現されているという気がする。
飯島は短歌と川柳というふたつの表現形式をもっている。
ひとつのジャンルの中で次第に完成してゆくような表現者もあるが、飯島のように二つのジャンルを見据えて作品を書いている表現者が今後どうなってゆくのかに私は関心を寄せている。複数の視点をもっていることで、既成の「川柳とはこういうものだ」というフレームにとらわれない表現の可能性が生まれるかもしれないからである。
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