この時評で何度か紹介してきた東奥文芸叢書に新たな一冊が加わった。滋野さち句集『オオバコの花』である。滋野は青森市在住の川柳人、おかじょうき川柳社、川柳触光舎に所属。「触光」では現在「誌上句会」の選を担当している。
滋野は「バックストローク」「川柳カード」にも投句していて、2010年4月の「第三回BSおかやま大会」の第一部「石部明を三枚おろし」のときに、「現在注目されている川柳人は?」という私の質問に答えて石部が挙げた何人かの川柳人の中に滋野の名前があった。「川柳では失われつつある風土が書ける」「時事性を越えて、社会性のしっぽをつかむぐらいの力量を持っている得難い個性」と石部が述べたことが印象に残っている。
それでは、句集を開いてみることにしよう。全体は五章に分かれ、年代順に配列されている。滋野は川柳をはじめて二年半くらいの作品を集めて、『川柳のしっぽ』を上梓している。今度の句集の最初の章「川柳のしっぽから」はその第一句集(2003年~2005年の作品)からとられている。
川 流れる意味を探している
「川」を「題」ととらえれば、そこからの連想で「流れる意味を探している」へと飛躍する構造になっている。句集全体の巻頭句だから、比喩的な意味も出てくる。
この書き方は冠句に似ている。たとえば、近代冠句の代表的作家である久佐太郎に次のような作品がある。
宝石箱 いちどに春がこぼれ出る
在る男 村から消えて秋が来る
羊飼い まさか俺が狼とは
米を研ぐ昨日も今日も模範囚
日常性というものがある。毎日、米を研ぎ食事の準備をする。それは刑罰ではないはずだが、毎日がまるで牢獄のように感じられるのだろう。何のために自分はここにいて、こんなことをしているのか。日常の中に豊かな可能性を感じてもよいのに、きれいごとでは毎日を過ごせない。ただ、模範囚のようにきちんと仕事をこなしてゆくのだ。
相討ちの顔で朝飯食っている
多くの表現者と同じように、滋野の出発点にあるのは現実との違和感である。
朝飯を食べながらも何らかの憤懣があるのだろう。
杉はドーンと倒れ私のものになる
このような爽快感、カタルシスを感じる句もある。
次の「泡立ち草」の章には批評性のある句が多く収録されている。自己探求の人生派であった作品がここでは社会派に変貌してゆく。
雨だれの音が揃うと共謀罪
親知らず抜くと国家が生えてくる
国家斉唱 金魚は長い糞たれて
戦争は卵胎生ときどきアルビノ
兵役があった時代のいぼがえる
ペットです軍用犬に向きません
二番目に刻むとネギくさい祖国
石部明が言ったように、時事性を越えて社会性へと向かう作品だろう。
「じゅげむじゅげむ」の章からは次の一句。
自分史が有害図書の棚にある
第四章「大気は澄んで」には2011年~2013年の句が収録されている。
福島の原発事故をはじめ、さまざまな事件が諷刺されている。
雪無音 土偶は乳房尖らせて
それ以上覗きこんだらかじるわよ
羽化してもいいか 大気は澄んでるか
ステルスが来るってよゲンパツ飛び越えて
着地するたび夢精するオスプレイ
最後に「地球は青いか」(2014年)の章から。
埋め立ててジュゴンの沖を売る話
解釈を変えたらカナムグラ繁茂
草取りの軍手に玉音放送かな
傭兵もバイトもビラで募集中
滋野の句にはいろいろな面があるが、私の紹介は社会性の句に偏ったかもしれない。
かつて私は滋野の句に関連して次のように書いたことがある(「川柳カード」5号)。
〈 時事川柳や社会詠は「消える川柳」と呼ばれることが多い。確かにその時々の常識的な世評に乗っかって作られた句はすぐに忘れ去られてしまうだろう。ためされているのは作者の主観性・思想性の強度である。客観性(第三者性)の視点から詠まれた時事川柳もおもしろいが、「思い」と「時事」と「言葉」が三位一体となる方向は模索されてよいと思う 〉
諷刺対象を第三者的に眺めて無責任な立場から句を詠むやり方がある。けれども、滋野は社会詠の場合にも、そこに自己の「思い」を込めないではいられないタイプなのだ。滋野の内部に存在する人生派・社会派・芸術派の要素が互いに否定し合うことなく、さらに大きなスケールで作品を生み出すのを私は楽しみにしている。
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