2015年4月3日金曜日

中村冨二と「川柳的技術」

「川柳カード」8号に石田柊馬が「冨二考」を発表している。25ページに及ぶ長編評論である。いまなぜ冨二なのか。
もう十年以前のことだと思うが、石田柊馬と松本仁が次のような会話を交わしているのを聞いたことがある。
「中村冨二をどう思う?」
「伝統やね」
「やっぱりそう思うか」
そばで聞いていた私にはよく理解できなかった。
現代川柳は中村冨二と河野春三から始まったというのが私の持論であり、「東の冨二、西の春三」などと言われる。その冨二が「伝統」だと言うのである。
ここで言う「伝統」とは、川柳を「伝統川柳」と「革新川柳」に二分したときの「伝統川柳」の意味で、「現代川柳」には「革新川柳」という意味が強く込められている。この二分法は現在ではすでに無効となっていると私は思っているが、戦後川柳史を理解するときの前提となるキイ・ワードである。
だから「冨二が伝統である」という認識は当時の私にはすぐに理解できないところがあったのだ。そのとき以来、冨二が伝統であるということの内実をいつか石田に解き明かしてほしいという願望を私はもっていた。
一方で、冨二には「川柳という名に残されたモノは、技術だけである」という有名な発言がある。この言葉もさまざまに解釈できて、定説というようなものはない。というより、この言葉の意味を真剣に追及した川柳人がいなかったのである。
そういうモヤモヤした疑問を吹き飛ばす文章として、石田の評論がいま目の前にある。

「川柳に残された川柳的技術」について、かつて私は次のように書いたことがある(「中村冨二と現代川柳」、『蕩尽の文芸』所収)。

〈 冨二の発言の中で最も有名なのが「川柳という名に残されたモノは、技術だけである」という言葉である。『中村冨二句集』(森林書房)の「あとがき」にあるが、同じようなことを冨二はあちこちで繰り返し語っているようだ。
 この言葉はペシミズムではなく、むしろ冨二の川柳職人としての矜持を示すものだと私は受け止めている。作家精神の裏づけとしての川柳技術。山村祐の川柳中年文学説に対して、冨二は「川柳は青春の文学であってほしい」という願いをもっていた。「川柳とaの会」による合同句集『鬼』の序「火を焚く」という文章の中で冨二は次のように書いている。
 「誠に過去現代を通して川柳には青春がとぼしい。そして皆無だと言われない所にボクは川柳の可能性を信じている。たとえ否定する何ものもないボクへの過去の川柳ではあっても、ボク自身や、ボクを取巻く社会の中に存在して否定するに足りる数々の現象に対して『川柳に残された川柳的技術』を武器として歩ける所まで歩いて行こうと思っている」 〉

「川柳職人としての矜持」では何も説明したことにならないが、仕方がない。
では、石田はどんなふうに述べているだろうか。
詳しくは石田の評論をお読みいただきたいが、興趣と発想の不可分性を冨二は「技術」の一語に込めたということになる。
「興趣」とは「川柳的興趣」である。では「川柳的興趣」とは何か。冨二の場合、「意味性」「大衆性」「共感性」などの伝統川柳の諸要素である。この中には「詩性」は入らないのである。

「詩性に及べば自分の意識に在る川柳性からの逸脱になる」
「詩性の追求が深まれば深まるほど、川柳の固有性と言ってもおかしくない意味性と大衆性が後退する」
「冨二の川柳についてのスピリットは意味性に留まること、その共感性の埒内に留まることであった」
「(冨二は)川柳の発展要素を詩性の追求とする議論には加わらなかった」

石田は冨二の川柳をこのようにとらえている。そして、冨二を「川柳的興趣の人」と呼ぶのである。「川柳的興趣」と「詩的興趣」に分けるとすれば、冨二は「詩性」「詩的興趣」の側に立った河野春三とは正反対の位置にいる。そういう意味で冨二は伝統の作家ということになる。詩性川柳を視野に入れつつ、冨二は川柳的興趣に留まったのである。
では、あまたの伝統の作家から冨二を区別しているものは何か。
たぶん、それが「川柳的技術」だろう。
「技術の貧困」は多くの「流れ作業」的作品を生み出した。「発想の中の技術」を含めて、冨二の作品はおもしろいのである。

石田の議論は多面的なので、以上の紹介がどこまで彼の真意を伝えているかはわからない。
冨二の捉え方についても石田とは別の見方も存在する。
たとえば、堺利彦の「中村冨二と『鴉』お時代」(『セレクション柳論』所収)。
堺は「作品は作者ではない」という冨二の言葉に注目して次のように述べている。

〈これは、川柳の作品を、その作者の私性から解き放し、作品を「ことば」そのものによって始めて定立するという先見性を表象する端的な持論と読み解くことも出来る。
今日のテクスト論からすれば常識的な作品に対するスタンスを、すでに冨二は戦前の早い時期から直感的に認識していたことになる。(中略)近代的自我を超えて読者の〈読み〉の前にあっては、作品の〈ことば〉が独り歩きするという言葉の自律性から生み出されるものが作品であるという意識があったに違いない。こうした点においても、既成の川柳からみれば、極めて革新的で〈現代〉を先取りしていた感がある。作品に張り付いた作者の近代的な自我意識が、作品の〈ことば〉によって解き放たれるという、その先見性に刮目するばかりである〉

堺の評価は現在の時点から冨二を過大評価しているところもあるが、石田とは別の冨二像を提出している。
石田の文章で興味深いのは「川柳には二つの興趣がある」という捉え方である。ひとつは「作句時に作者個人が体感する発想と興趣」であり、もうひとつは「読者が一句を読んで感じる川柳的な興趣」である。前者は作者論的な興趣、後者は読者論的な興趣だろう。石田が展開した冨二像は作者論的にとらえたものである。冨二の作品は現在の眼で読んでも少しも古くなっていない。読者は冨二の作品から川柳本来のおもしろさを感じ取ることができると思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿