今回は「川柳カード」8号に掲載されている畑美樹の作品を読んでゆきたい。
「三拍子」というタイトルの十句である。
雲梯をふわりと越えて波になる
小学校のころ校庭に雲梯というものがあった。
はしごを水平にしたような遊具でぶらさがりながら伝い進んでゆく。
今でも公園で見かけたときにやってみようかなと思うこともあるが、体重を考えて自重している。
語源は古代中国の兵器だったようで、雲に届くような梯子をかけて城攻めをするのだ。
この句では雲梯にぶらさがるのではなくて、ふわりと越えると言っている。身体の重さが消去されているのは、「雲」という字のイメージからだろう。
雲を越えたあとに波になるので、実体は感じられない。
あたらしい名前を売っている渚
名前と実体。
名前を変えると新しい自分になることができるのだろうか。
歌舞伎の襲名のように、名を変えることによって実体が名に追いついてゆくこともある。
渚では名前を売っているという。
買ってみようかなと思うが、迷うところだ。街の雑踏の中で売っているなら買う気がしないのだが。
納豆にからまりながら秋津島
秋津島は日本の古名。神話のイメージも感じられる。
日本という島が納豆のねばねばにからまっているというのだ。
本州が納豆ほどに縮小されている。
塩ふって島の意見を聞いていく
ここでは島に塩をふっている。
島の意見に味付けをする。悪意をもって。それとも味を濃くするために。あるいはナメクジのように溶かしてしまうために?
この句には時事を読み取らない方がよいと思う。
ここまで、波→渚→島という連想で句が続いている。
足首をくるりと回す精肉屋
精肉屋が何のために足首を回しているのかという問いは無効である。
「意味よりもほんの少し前に」という文章で畑美樹はこんなふうに書いている。
「意味がやってくる前に伝えられるもの。それは一体なんだろうか」
「コトバが意味を伝えてくるよりもほんの少しだけ前に、何かが届いてしまう、そんなかんじ」
「そこまで」という声がして匂ふ葱
意味より前にやってくるものと言うならば、それは音やリズム、感覚だろうと思って、私は畑美樹を川柳における感覚派ととらえている。
この句では声(聴覚)と匂い(嗅覚)。
「川柳カード」8号の合評会で、「匂ふ」の歴史的かなづかいが話題になった。
「そこまで」は過去をそこで区切っているのだという意見もあった。
顎の先つるりと滑らせてふたり
恋句かなと思ったが、そうではないかもしれない。恋句だとしても手がこんでいる。
足を滑らせるのではなくて、顎の先を滑らせている。あるいは、顎の先で二人が滑っている。そんなことは実景としてはないはずだが、残るのはつるりと滑る感覚である。
「ふわりと」「くるりと」「つるりと」、こういう擬態語の多用はこの作者の特徴だが、実のところ私はあまり好きではない。既成の擬態語や擬音語で感覚自体を表現するのはむつかしいのだ。
おぼろ月やがて水汲む人になる
水のイメージに戻る。
「やがて」に時間の経過がある。
「水を汲まない人」から「水を汲む人」への変化によって、何か新しいことが生まれたらいいなと思う。
水は畑美樹の原イメージである。
お前とかカワウソだとか綿の雲
水といえばカワウソでしょう。
すでにニホンカワウソは絶滅している。
この句は独白ではなくて、二人で会話しているような雰囲気が私には感じられる。
ことりことり新聞紙の三拍子
「こ・と・り」と分節すれば三拍子なのか。
新聞に書かれている内容が三拍子なのか。
小鳥・子盗り・ことり―意味はいろいろ代入できる。
わからないなりにおもしろいなと思った。
かつて私はセレクション柳人『畑美樹集』の解説で次のように書いたことがある。
「言葉と言葉の関係性や完成度に腐心している私には、言葉以前の感覚にこだわる畑美樹の作品は新鮮に見えるし、それがどのように川柳の言葉に定着してゆくのかにとても興味がある」
それから十年ほどが経過した。畑美樹が新境地を切り開くことを読者は待っている。
2015年4月25日土曜日
2015年4月17日金曜日
『関西俳句なう』
関西短詩型文芸の地盤沈下が言われるようになって久しい。
俳句について言えば、かつて関西には独自の存在感を示す俳人が何人もいた。
鈴木六林男・永田耕衣・八木三日女・橋閒石などの名が思い浮かぶ。これらの一時代を画した作者たちが亡くなったあと、関西の短詩型の世界は何だか元気がない。
そういう不満を吹き飛ばすように、このたび関西の若手俳人の作品のアンソロジーとして『関西俳句なう』(本阿弥書店)が刊行された。
塩見恵介による「はじめに」には次のように書かれている。
〈「関西俳句なう」は2011年1月1日より、俳句グループ「船団」の関西在住若手メンバー六人で立ち上げました情報サイトです〉
〈2000年代以降、社会情勢の影響が多分にあると思われますが、総合誌の話題はどうしても首都圏が中心となっており、関西に住む我々にとっては少し残念な思いをすることの多い日々が続きました〉
〈本書は、2012年現在、「船団」に所属している若手作家13人と他結社・個人の作家13人の書簡交換形式による作品五十句の発表の場としました〉
本書の帯には端的に「東京がなんぼのもんじゃ」と書かれている。
13組26人の各50句のほかミニエッセイも収録されているが、ここでは私が個人的に興味をひかれた〈久留島元VS岡田一実〉の組み合わせを取り上げる。
まず、久留島元の作品から。久留島の50句には「妖怪の国」というタイトルが付けられている。
静粛に! 今夜稲妻鑑賞会
倉阪鬼一郎の『怖い俳句』(幻冬舎新書)の巻頭には芭蕉の句「稲づまやかほのところが薄の穂」が取り上げられている。倉阪はこんなふうに書いている。
〈「言ひおほせて何かある」とは芭蕉の俳言の一つですが、これは怖さを醸成する場合にも当てはまります。「怖がらせるには、まず隠せ」といったところでしょうか〉
稲妻は恐怖を起こさせる状況設定として、しばしば用いられる。ところが久留島のこの句では、みんながガヤガヤ言いながら稲妻を鑑賞している。「ちょっと静かにしなさい」と注意しなければならないほどだ。現代では恐怖ですら消費の対象となってしまっている。
日本は妖怪の国春の川
川柳で「妖怪」という言葉を用いると「妖怪のような人」という揶揄の意味になってしまうが、この句ではそこまでの意味性は込められていないようだ。『遠野物語』や水木しげるの漫画に描かれているような妖怪の棲息する国であると言っている。妖怪は夏に似合うのに、ここでは「春の川」と取り合わせられている。
きつね来て久遠と啼いて夏の夕
きつねが来てコンと啼いたというだけの句である。それを「久遠」と書いたところに機知を感じる。狐はふつう冬の季語だが、ここでは夏にしている。
鳥の巣に鳥がいるとは限らない
では、何がいるというのだろう。おそろしいものがいるのではないか。
久留島は妖怪研究者でもあって「是害房絵巻」に関しては第一人者である。
是害房という唐土の天狗が日本にやってきて日羅房という日本の天狗と対面する。是害房は日本の僧侶と力比べを試みるが、高僧によって次々と撃退される。傷ついた是害房を天狗たちが介抱し、送別会を開いて、是害房は唐土に帰ってゆく、というような話である。
私は京都国立博物館でこの絵巻を見たことがあり、おもしろいなと思って記憶に残っている。恐ろしいはずの天狗が俳諧性をもって描かれているのだ。
台風の目の中にいるおばあさん
このおばあさんは恐ろしい存在かもしれないし、ユーモアを感じさせる存在かもしれない。そういう二重の存在として、いかようにも受け取れるように思う。
では、続いて岡田一実の作品から。
とほくに象死んで熟れゆく夜のバナナ
遠景には死んだ象がいる。近景には熟れたバナナがある。バナナは象の好物であるはずだが、それを食べる象はもういない。
蟷螂のしづかに草を持てあます
蟷螂が草の上でじっとしている。
たぶん餌となる虫がくるのを待っているのだろうが、虫はいつまでもやってこない。
蟷螂は時間を持てあましているようだが、次の瞬間には餌をとらえるかもしれない。持てあましながら、緊張しているのだ。
象も蟷螂も「もの」でありながら、かすかに喩としての意味を感じさせる。
白鳥が白くてどうでもよくて好き
本当に「どうでもよい」のだろうか。「どうでもよい」と言わないと苦しいほど好きなのではないか。
昨年発行されたこの作者の句集『境界‐border』に「はくれんの中身知りたし知らんでも良し」という句があった。二律背反的な感情がつきまとうのだ。
焚火かの兎を入れて愛しめり
最初読んだとき、焚火の中に兎を放り込むのかと思ってドキッとした。しかし、そうではなくて、焚火の輪のなかに兎も入れて一緒に暖をとっているのだろう。「かの」という言葉から三橋敏雄の「絶滅のかの狼を連れ歩く」を連想する。狼ではなくて兎をつれているのだろう。
茎容れて吸はれながらに水澄めり
花瓶に花を活けると茎は水を吸う。花の茎の水を吸われることによって花瓶の水は澄んでゆくのだ。吸われることによって濁ってゆくのではなくて、澄んでゆくと見たところに作者の感性がある。
十年以上前に巻いた妖怪賦物・胡蝶「一反木綿」の巻がある。
別所真紀さんの発句は「わが死後は一反木綿秋の風」。
抽斗からその時の付句が何句か出てきたので、書き留めておきたい。
座敷わらしと仲良しになり 漠
塗り壁にぶつかるまではともに行く 正博
妙齢をおいてけ堀の夕映に 漠
膝のあたりに人面の瘡 正博
ドラキュラに母あることのかなしさよ 真紀
(花の座では次の句を付けている。)
花の下天狗評定続きをり 正博
俳句について言えば、かつて関西には独自の存在感を示す俳人が何人もいた。
鈴木六林男・永田耕衣・八木三日女・橋閒石などの名が思い浮かぶ。これらの一時代を画した作者たちが亡くなったあと、関西の短詩型の世界は何だか元気がない。
そういう不満を吹き飛ばすように、このたび関西の若手俳人の作品のアンソロジーとして『関西俳句なう』(本阿弥書店)が刊行された。
塩見恵介による「はじめに」には次のように書かれている。
〈「関西俳句なう」は2011年1月1日より、俳句グループ「船団」の関西在住若手メンバー六人で立ち上げました情報サイトです〉
〈2000年代以降、社会情勢の影響が多分にあると思われますが、総合誌の話題はどうしても首都圏が中心となっており、関西に住む我々にとっては少し残念な思いをすることの多い日々が続きました〉
〈本書は、2012年現在、「船団」に所属している若手作家13人と他結社・個人の作家13人の書簡交換形式による作品五十句の発表の場としました〉
本書の帯には端的に「東京がなんぼのもんじゃ」と書かれている。
13組26人の各50句のほかミニエッセイも収録されているが、ここでは私が個人的に興味をひかれた〈久留島元VS岡田一実〉の組み合わせを取り上げる。
まず、久留島元の作品から。久留島の50句には「妖怪の国」というタイトルが付けられている。
静粛に! 今夜稲妻鑑賞会
倉阪鬼一郎の『怖い俳句』(幻冬舎新書)の巻頭には芭蕉の句「稲づまやかほのところが薄の穂」が取り上げられている。倉阪はこんなふうに書いている。
〈「言ひおほせて何かある」とは芭蕉の俳言の一つですが、これは怖さを醸成する場合にも当てはまります。「怖がらせるには、まず隠せ」といったところでしょうか〉
稲妻は恐怖を起こさせる状況設定として、しばしば用いられる。ところが久留島のこの句では、みんながガヤガヤ言いながら稲妻を鑑賞している。「ちょっと静かにしなさい」と注意しなければならないほどだ。現代では恐怖ですら消費の対象となってしまっている。
日本は妖怪の国春の川
川柳で「妖怪」という言葉を用いると「妖怪のような人」という揶揄の意味になってしまうが、この句ではそこまでの意味性は込められていないようだ。『遠野物語』や水木しげるの漫画に描かれているような妖怪の棲息する国であると言っている。妖怪は夏に似合うのに、ここでは「春の川」と取り合わせられている。
きつね来て久遠と啼いて夏の夕
きつねが来てコンと啼いたというだけの句である。それを「久遠」と書いたところに機知を感じる。狐はふつう冬の季語だが、ここでは夏にしている。
鳥の巣に鳥がいるとは限らない
では、何がいるというのだろう。おそろしいものがいるのではないか。
久留島は妖怪研究者でもあって「是害房絵巻」に関しては第一人者である。
是害房という唐土の天狗が日本にやってきて日羅房という日本の天狗と対面する。是害房は日本の僧侶と力比べを試みるが、高僧によって次々と撃退される。傷ついた是害房を天狗たちが介抱し、送別会を開いて、是害房は唐土に帰ってゆく、というような話である。
私は京都国立博物館でこの絵巻を見たことがあり、おもしろいなと思って記憶に残っている。恐ろしいはずの天狗が俳諧性をもって描かれているのだ。
台風の目の中にいるおばあさん
このおばあさんは恐ろしい存在かもしれないし、ユーモアを感じさせる存在かもしれない。そういう二重の存在として、いかようにも受け取れるように思う。
では、続いて岡田一実の作品から。
とほくに象死んで熟れゆく夜のバナナ
遠景には死んだ象がいる。近景には熟れたバナナがある。バナナは象の好物であるはずだが、それを食べる象はもういない。
蟷螂のしづかに草を持てあます
蟷螂が草の上でじっとしている。
たぶん餌となる虫がくるのを待っているのだろうが、虫はいつまでもやってこない。
蟷螂は時間を持てあましているようだが、次の瞬間には餌をとらえるかもしれない。持てあましながら、緊張しているのだ。
象も蟷螂も「もの」でありながら、かすかに喩としての意味を感じさせる。
白鳥が白くてどうでもよくて好き
本当に「どうでもよい」のだろうか。「どうでもよい」と言わないと苦しいほど好きなのではないか。
昨年発行されたこの作者の句集『境界‐border』に「はくれんの中身知りたし知らんでも良し」という句があった。二律背反的な感情がつきまとうのだ。
焚火かの兎を入れて愛しめり
最初読んだとき、焚火の中に兎を放り込むのかと思ってドキッとした。しかし、そうではなくて、焚火の輪のなかに兎も入れて一緒に暖をとっているのだろう。「かの」という言葉から三橋敏雄の「絶滅のかの狼を連れ歩く」を連想する。狼ではなくて兎をつれているのだろう。
茎容れて吸はれながらに水澄めり
花瓶に花を活けると茎は水を吸う。花の茎の水を吸われることによって花瓶の水は澄んでゆくのだ。吸われることによって濁ってゆくのではなくて、澄んでゆくと見たところに作者の感性がある。
十年以上前に巻いた妖怪賦物・胡蝶「一反木綿」の巻がある。
別所真紀さんの発句は「わが死後は一反木綿秋の風」。
抽斗からその時の付句が何句か出てきたので、書き留めておきたい。
座敷わらしと仲良しになり 漠
塗り壁にぶつかるまではともに行く 正博
妙齢をおいてけ堀の夕映に 漠
膝のあたりに人面の瘡 正博
ドラキュラに母あることのかなしさよ 真紀
(花の座では次の句を付けている。)
花の下天狗評定続きをり 正博
2015年4月3日金曜日
中村冨二と「川柳的技術」
「川柳カード」8号に石田柊馬が「冨二考」を発表している。25ページに及ぶ長編評論である。いまなぜ冨二なのか。
もう十年以前のことだと思うが、石田柊馬と松本仁が次のような会話を交わしているのを聞いたことがある。
「中村冨二をどう思う?」
「伝統やね」
「やっぱりそう思うか」
そばで聞いていた私にはよく理解できなかった。
現代川柳は中村冨二と河野春三から始まったというのが私の持論であり、「東の冨二、西の春三」などと言われる。その冨二が「伝統」だと言うのである。
ここで言う「伝統」とは、川柳を「伝統川柳」と「革新川柳」に二分したときの「伝統川柳」の意味で、「現代川柳」には「革新川柳」という意味が強く込められている。この二分法は現在ではすでに無効となっていると私は思っているが、戦後川柳史を理解するときの前提となるキイ・ワードである。
だから「冨二が伝統である」という認識は当時の私にはすぐに理解できないところがあったのだ。そのとき以来、冨二が伝統であるということの内実をいつか石田に解き明かしてほしいという願望を私はもっていた。
一方で、冨二には「川柳という名に残されたモノは、技術だけである」という有名な発言がある。この言葉もさまざまに解釈できて、定説というようなものはない。というより、この言葉の意味を真剣に追及した川柳人がいなかったのである。
そういうモヤモヤした疑問を吹き飛ばす文章として、石田の評論がいま目の前にある。
「川柳に残された川柳的技術」について、かつて私は次のように書いたことがある(「中村冨二と現代川柳」、『蕩尽の文芸』所収)。
〈 冨二の発言の中で最も有名なのが「川柳という名に残されたモノは、技術だけである」という言葉である。『中村冨二句集』(森林書房)の「あとがき」にあるが、同じようなことを冨二はあちこちで繰り返し語っているようだ。
この言葉はペシミズムではなく、むしろ冨二の川柳職人としての矜持を示すものだと私は受け止めている。作家精神の裏づけとしての川柳技術。山村祐の川柳中年文学説に対して、冨二は「川柳は青春の文学であってほしい」という願いをもっていた。「川柳とaの会」による合同句集『鬼』の序「火を焚く」という文章の中で冨二は次のように書いている。
「誠に過去現代を通して川柳には青春がとぼしい。そして皆無だと言われない所にボクは川柳の可能性を信じている。たとえ否定する何ものもないボクへの過去の川柳ではあっても、ボク自身や、ボクを取巻く社会の中に存在して否定するに足りる数々の現象に対して『川柳に残された川柳的技術』を武器として歩ける所まで歩いて行こうと思っている」 〉
「川柳職人としての矜持」では何も説明したことにならないが、仕方がない。
では、石田はどんなふうに述べているだろうか。
詳しくは石田の評論をお読みいただきたいが、興趣と発想の不可分性を冨二は「技術」の一語に込めたということになる。
「興趣」とは「川柳的興趣」である。では「川柳的興趣」とは何か。冨二の場合、「意味性」「大衆性」「共感性」などの伝統川柳の諸要素である。この中には「詩性」は入らないのである。
「詩性に及べば自分の意識に在る川柳性からの逸脱になる」
「詩性の追求が深まれば深まるほど、川柳の固有性と言ってもおかしくない意味性と大衆性が後退する」
「冨二の川柳についてのスピリットは意味性に留まること、その共感性の埒内に留まることであった」
「(冨二は)川柳の発展要素を詩性の追求とする議論には加わらなかった」
石田は冨二の川柳をこのようにとらえている。そして、冨二を「川柳的興趣の人」と呼ぶのである。「川柳的興趣」と「詩的興趣」に分けるとすれば、冨二は「詩性」「詩的興趣」の側に立った河野春三とは正反対の位置にいる。そういう意味で冨二は伝統の作家ということになる。詩性川柳を視野に入れつつ、冨二は川柳的興趣に留まったのである。
では、あまたの伝統の作家から冨二を区別しているものは何か。
たぶん、それが「川柳的技術」だろう。
「技術の貧困」は多くの「流れ作業」的作品を生み出した。「発想の中の技術」を含めて、冨二の作品はおもしろいのである。
石田の議論は多面的なので、以上の紹介がどこまで彼の真意を伝えているかはわからない。
冨二の捉え方についても石田とは別の見方も存在する。
たとえば、堺利彦の「中村冨二と『鴉』お時代」(『セレクション柳論』所収)。
堺は「作品は作者ではない」という冨二の言葉に注目して次のように述べている。
〈これは、川柳の作品を、その作者の私性から解き放し、作品を「ことば」そのものによって始めて定立するという先見性を表象する端的な持論と読み解くことも出来る。
今日のテクスト論からすれば常識的な作品に対するスタンスを、すでに冨二は戦前の早い時期から直感的に認識していたことになる。(中略)近代的自我を超えて読者の〈読み〉の前にあっては、作品の〈ことば〉が独り歩きするという言葉の自律性から生み出されるものが作品であるという意識があったに違いない。こうした点においても、既成の川柳からみれば、極めて革新的で〈現代〉を先取りしていた感がある。作品に張り付いた作者の近代的な自我意識が、作品の〈ことば〉によって解き放たれるという、その先見性に刮目するばかりである〉
堺の評価は現在の時点から冨二を過大評価しているところもあるが、石田とは別の冨二像を提出している。
石田の文章で興味深いのは「川柳には二つの興趣がある」という捉え方である。ひとつは「作句時に作者個人が体感する発想と興趣」であり、もうひとつは「読者が一句を読んで感じる川柳的な興趣」である。前者は作者論的な興趣、後者は読者論的な興趣だろう。石田が展開した冨二像は作者論的にとらえたものである。冨二の作品は現在の眼で読んでも少しも古くなっていない。読者は冨二の作品から川柳本来のおもしろさを感じ取ることができると思う。
もう十年以前のことだと思うが、石田柊馬と松本仁が次のような会話を交わしているのを聞いたことがある。
「中村冨二をどう思う?」
「伝統やね」
「やっぱりそう思うか」
そばで聞いていた私にはよく理解できなかった。
現代川柳は中村冨二と河野春三から始まったというのが私の持論であり、「東の冨二、西の春三」などと言われる。その冨二が「伝統」だと言うのである。
ここで言う「伝統」とは、川柳を「伝統川柳」と「革新川柳」に二分したときの「伝統川柳」の意味で、「現代川柳」には「革新川柳」という意味が強く込められている。この二分法は現在ではすでに無効となっていると私は思っているが、戦後川柳史を理解するときの前提となるキイ・ワードである。
だから「冨二が伝統である」という認識は当時の私にはすぐに理解できないところがあったのだ。そのとき以来、冨二が伝統であるということの内実をいつか石田に解き明かしてほしいという願望を私はもっていた。
一方で、冨二には「川柳という名に残されたモノは、技術だけである」という有名な発言がある。この言葉もさまざまに解釈できて、定説というようなものはない。というより、この言葉の意味を真剣に追及した川柳人がいなかったのである。
そういうモヤモヤした疑問を吹き飛ばす文章として、石田の評論がいま目の前にある。
「川柳に残された川柳的技術」について、かつて私は次のように書いたことがある(「中村冨二と現代川柳」、『蕩尽の文芸』所収)。
〈 冨二の発言の中で最も有名なのが「川柳という名に残されたモノは、技術だけである」という言葉である。『中村冨二句集』(森林書房)の「あとがき」にあるが、同じようなことを冨二はあちこちで繰り返し語っているようだ。
この言葉はペシミズムではなく、むしろ冨二の川柳職人としての矜持を示すものだと私は受け止めている。作家精神の裏づけとしての川柳技術。山村祐の川柳中年文学説に対して、冨二は「川柳は青春の文学であってほしい」という願いをもっていた。「川柳とaの会」による合同句集『鬼』の序「火を焚く」という文章の中で冨二は次のように書いている。
「誠に過去現代を通して川柳には青春がとぼしい。そして皆無だと言われない所にボクは川柳の可能性を信じている。たとえ否定する何ものもないボクへの過去の川柳ではあっても、ボク自身や、ボクを取巻く社会の中に存在して否定するに足りる数々の現象に対して『川柳に残された川柳的技術』を武器として歩ける所まで歩いて行こうと思っている」 〉
「川柳職人としての矜持」では何も説明したことにならないが、仕方がない。
では、石田はどんなふうに述べているだろうか。
詳しくは石田の評論をお読みいただきたいが、興趣と発想の不可分性を冨二は「技術」の一語に込めたということになる。
「興趣」とは「川柳的興趣」である。では「川柳的興趣」とは何か。冨二の場合、「意味性」「大衆性」「共感性」などの伝統川柳の諸要素である。この中には「詩性」は入らないのである。
「詩性に及べば自分の意識に在る川柳性からの逸脱になる」
「詩性の追求が深まれば深まるほど、川柳の固有性と言ってもおかしくない意味性と大衆性が後退する」
「冨二の川柳についてのスピリットは意味性に留まること、その共感性の埒内に留まることであった」
「(冨二は)川柳の発展要素を詩性の追求とする議論には加わらなかった」
石田は冨二の川柳をこのようにとらえている。そして、冨二を「川柳的興趣の人」と呼ぶのである。「川柳的興趣」と「詩的興趣」に分けるとすれば、冨二は「詩性」「詩的興趣」の側に立った河野春三とは正反対の位置にいる。そういう意味で冨二は伝統の作家ということになる。詩性川柳を視野に入れつつ、冨二は川柳的興趣に留まったのである。
では、あまたの伝統の作家から冨二を区別しているものは何か。
たぶん、それが「川柳的技術」だろう。
「技術の貧困」は多くの「流れ作業」的作品を生み出した。「発想の中の技術」を含めて、冨二の作品はおもしろいのである。
石田の議論は多面的なので、以上の紹介がどこまで彼の真意を伝えているかはわからない。
冨二の捉え方についても石田とは別の見方も存在する。
たとえば、堺利彦の「中村冨二と『鴉』お時代」(『セレクション柳論』所収)。
堺は「作品は作者ではない」という冨二の言葉に注目して次のように述べている。
〈これは、川柳の作品を、その作者の私性から解き放し、作品を「ことば」そのものによって始めて定立するという先見性を表象する端的な持論と読み解くことも出来る。
今日のテクスト論からすれば常識的な作品に対するスタンスを、すでに冨二は戦前の早い時期から直感的に認識していたことになる。(中略)近代的自我を超えて読者の〈読み〉の前にあっては、作品の〈ことば〉が独り歩きするという言葉の自律性から生み出されるものが作品であるという意識があったに違いない。こうした点においても、既成の川柳からみれば、極めて革新的で〈現代〉を先取りしていた感がある。作品に張り付いた作者の近代的な自我意識が、作品の〈ことば〉によって解き放たれるという、その先見性に刮目するばかりである〉
堺の評価は現在の時点から冨二を過大評価しているところもあるが、石田とは別の冨二像を提出している。
石田の文章で興味深いのは「川柳には二つの興趣がある」という捉え方である。ひとつは「作句時に作者個人が体感する発想と興趣」であり、もうひとつは「読者が一句を読んで感じる川柳的な興趣」である。前者は作者論的な興趣、後者は読者論的な興趣だろう。石田が展開した冨二像は作者論的にとらえたものである。冨二の作品は現在の眼で読んでも少しも古くなっていない。読者は冨二の作品から川柳本来のおもしろさを感じ取ることができると思う。