2014年8月29日金曜日

「塔」創刊60周年大会のことなど

「塔」創刊60周年記念全国大会が8月23日に京都で開催された。
京都駅前のホテル会場には800人の聴衆がつめかけて満員であった。
亡くなった河野裕子の人気に加え、栗木京子・吉川宏志・江戸雪などの有力な歌人をかかえて発信力の強い「塔」ではあるものの、その集客力に驚いた。

第一部は高野公彦(「コスモス」)の講演「曖昧と明確のはざま」。
高野は現代短歌の中から「曖昧と明確」のはざまに揺れる短歌を紹介しながら、「短歌結社は読みをきたえるところ」という観点から「短歌の読み」を展開した。「曖昧」(ambiguity)という言葉から、昔読んだエンプソンの『曖昧の七型』を思い出した。

トンネルが多い列車と聞いたから夏目漱石誘って行った   松田梨子
あと五十年は生きてくぼくのため赤で横断歩道をわたる   永井祐

高野が例にあげた歌は、ふだん言葉の飛躍に腐心している川柳の現場から見ると、曖昧でもなんでもなく理解しやすい歌だと思った。

赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり   斎藤茂吉

茂吉難解歌として有名だが、上の句と下の句を一種の連句の付合と理解することもできる。

第二部は永田和宏・鷲田清一・内田樹の鼎談「言葉の危機的状況をめぐって」。
鷲田(ワッシー)は「言葉の危うさ」について、現代の言葉が「すべってゆく言葉」であると述べ、「なめらかな言葉ではなくて、心にざわめきを起こさせる言葉」の重要性を指摘した。テクスタイルにはテクスト(意味)とテクスチュア(感触)があるので、「その人が何を言っているのか」よりも「その人が何を聴きとろうとしているのか」が大切。その発話者が「自分の言葉」と「自分の身体感覚」との間にある「違和」を自覚することが、文芸が生まれる前提となる。
内田は「吃音」について述べたあと、「届く言葉と届かない言葉」について、「コンテンツがいくらよくても聞き手の知的好奇心を喚起できない」「テープレコーダーの言葉よりライブの言葉」「自分宛のメッセージだと思うと人は注意力のレベルを上げる」などと語った。内田の読者にとってはおなじみの言説だろうが、肉声で聞くと説得力がある。「ポエティックなものを理解しようとすると知性だけではなくて全身が必要」「一義的なものはポエティックではない」「言葉は生成するためにある」という発言もあった。
鷲田・内田の問題提起を、永田は実作を挙げながら短歌にひきつけて展開してゆく。
自分があらかじめ考えていることを歌にするのではなく、歌にすることによって自分の思っていることを発見する。永田はそれを「生成の現場性」と呼んだ。

わからへんなんぼ聞いてもわからへん平和のためにいくさに行くと   石川智子

この作品を永田は「わからないことをわからないままに伝える歌」として紹介した。あらかじめ分かっていることを歌にするのではなく、プロセスをプロセスのままに表現するところに、永田は可能性を見ているようだ。「いま私たちは分かりやすいところで理解しようとしているのではないか」「社会詠は自分の中にあるメッセージを伝えようとすると失敗する」とも。
「一読明快」や「断言」が言われる川柳の世界と比べて、興味深く聞いていた。

この夏はいろいろな本や雑誌を送っていただいた。
『続続鈴木漠詩集』(編集工房ノア)から、たとえば次のような一節。

言葉はまた鏡でもあるから
向い合せの鏡の中を
エコーする言霊の無限反映
母音たちは屈託なく
自己模倣を繰返すのだ (「愛染*」)

木よ 質問する
時間軸はどこまで動いたか
雨季が終り
藍よりも青いあの空が
人みなの倦んだ視野に
戻ってくるまでには? (「質問*」)

「解䌫」28号に鈴木は別所真紀子詩集『すばらしい雨』(かりばね書房)の書評を書いている。今春に刊行されたときにこのブログで紹介しそびれていた一冊なので、遅ればせながら書いてみる。
別所は『雪は今年も』などの俳諧小説の書き手であり、詩人・連句人でもある。
詩集の「句詩付合」は「解䌫」に発表されたものだが、まとめて読むことができる。たとえば、「骨(こつ)拾ふ」という作品はこんなふうに書かれている。

骨拾ふ人に親しき菫かな     蕪村

めつむると 頭蓋のなかで
海馬が泳ぎだす 耳の奥では
からからと鳴る蝸牛の殻

みひらけばうす紫のゆうぐれ
膝の裏からしずしずと半月が昇る
たのしいじゃない? ひとのからだも

句詩付合、現代川柳や古川柳に別所の詩を付けたものを読んでみたいと思った。
詩集の中で最も印象に残ったのは「ひと夏を」という詩である。

役に立たない生きものになって
ひと夏をすごした

わたしは世界に用がない
世界はわたしに用がない

会えないまま遠くへ去ったひとへの手紙に
「古今集巻十二、六一二」と添えた

「古今集巻第四、一七八」
とのみのはがきひとひら

「巻第八、三七三」往く葉
「巻第十一、四八三」還る葉

ある夜 おびただしい流星群が墜ちて
秋 そして冬へ

「わたしは世界に用がない」という部分、多田智満子「告別」よりの引用。『古今集』も交えた引用の織物でありながら、その思いは心に沁みるものがある。

七月に「川柳ねじまき」創刊号が出た。
名古屋で毎月開催されている「ねじまき句会」のメンバーによる。発行人・なかはられいこ。とても好評でネットを中心に多くのコメントが寄せられている。

らいねんの桜のことでけんかする   なかはられいこ
敬老の日にいただいた電気椅子    丸山進
わたしたち海と秋とが欠けている   瀧村小奈生
そうか川もしずかな獣だったのか   八上桐子
地図で言う四国あたりが私です    米山明日歌
交番でモーゼの長き旅終わる     青砥和子
用意しておいた手足を呼んでみる   ながたまみ
このボタン押さずに傘を開いてよ   二村鉄子
墜落中ちょっと質問いいですか?   魚澄秋来
港には頼らず日本を出入りする    荻原裕幸

詩歌のさまざまなジャンルでそれぞれの表現者が言葉を届けようとしている。その中には届く言葉もあり届かない言葉もある。川柳の言葉は外部になかなか届かないものとあきらめる気持ちもあったが、案外、届く人には届いていたりする。鷲田清一や内田樹も言っていた「宛名」の問題である。

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