先週紹介した海堀酔月の『両忘』は禅語のようだが、今週も仏教用語をタイトルにした句集について触れてみたい。斉田仁(さいだ・じん)の『異熟』(西田書店)である。
「現代詩手帖」の「俳句時評」で関悦史がこの句集を取り上げていて、「異熟」が唯識論でいう阿頼耶識のことだと知った。「時熟」ならハイデガー。
「異熟はアーラヤ識と称せられる識で、一切の種子をもつものである」(『唯識三十頌』)
そういえば『異熟』の「あとがき」には次のように書かれている。
「大方、聞きなれない言葉だろうし、薄気味の悪い語感ともいえるが、れっきとした仏教語である。原典にある梵語の、意訳というか、いま流行りの言葉でいえば、超訳というか。発音して読んだときの響きが気に入って、題名とした」
唯識論を大成したヴァスバンドゥはフロイトより1600年も前に深層心理を探究した。
また、井筒俊彦は言葉が生成する意識のゼロポイントを「言語アラヤ識」と呼んだ。
そこでは、さまざまな言葉が生成・消滅しているわけである。
あまり句集のタイトルにこだわるのもよくないので、句集の作品を見ていくことにしよう。
山の蛾のひとつ網戸に体当たり
蛾は意志をもって体当たりしているわけではない。光に誘われる蛾の本能に従っているだけである。しかし、蛾の力は案外に大きなもので体当たりしているような衝撃が網戸に起こったのである。
ヘッセ忌の標本箱の黒い蝶
ヘッセの小説に蝶を盗む話がある。友人の持っている珍しい蝶の標本を彼は欲しくてたまらない。その気持は昆虫マニアならとてもよく理解できるものだ。彼は友人の標本を盗んでしまう。そのことを知った友人の反応は … 軽蔑だった。友人に軽蔑されて彼は自分の集めた蝶の標本をひとつひとつ指で潰してしまう。
夏の峠忠治と一茶すれ違う
国定忠治と小林一茶が夏の峠ですれ違った。二人は無言ですれ違ったのだろうか。
「おまえさん、俳諧をおやりなさるのかね」
「はい、やせ蛙が好きでございます」
そんな会話を交わしたかもしれない。無言の方がいいかな。
胃の漱石肺の一葉時雨来る
漱石は胃弱だった。そのくせ甘いものが好きだった。胃潰瘍なのに、目の前の饅頭をぱくりと食べてしまう。「食べる俺も悪いが、こんなものを目の前に出しておく家人も悪い」
漱石と一葉の間には縁談話があったとも言われている。
鬼籍の兄まだ竹馬を貸し渋る
兄は弟に竹馬を貸してやらなかった。兄の死後、弟は自由に竹馬を使えたかというと、そうではない。ここには兄弟の間の心理的なドラマがある。
もう一歩花野に踏み込まねばならぬ
熊撃ちしその夜の浴びるような酒
牡丹散りまだ生臭きままの思惟
やあ蝶々やあ蒲公英と歩きけり
童貞や池にびっしりあおみどろ
斉田仁は現在、俳誌「麦」同人。「塵風」代表。1982年に八幡船社から『斉田仁句集』を出している。津久井理一の「八幡船」(ばはんせん)から発行されていた「短詩型文学全書」は川柳人にとっても記憶に残るものだ。その川柳篇として『中村冨二集』『時実新子集』『林田馬行集』などが出されている。
さて、唯識論の完成者であるヴァスバンドゥは日本では世親の名で知られている。
奈良の興福寺では4月から6月2日まで南円堂と北円堂が同時公開された。法相宗は唯識論のメッカであり、北円堂には運慶作の無着・世親像が安置されている。
無着(アサンガ)が兄、世親(ヴァスバンドゥ)が弟。この兄弟の像が本尊の弥勒菩薩を挟んで屹立している。無着は人格的であり、世親は論争的である。
先日、無着像を見ていて、左手の親指が失われていることに気づいた。無着像は30年以上前から見続けているが、きちんとものを見るのは難しいことである。
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