「川柳木馬」136号が届いた。
「作家群像」は「高橋由美篇」である。高橋の川柳をまとめて読むのは久しぶりなので、今回は彼女の作品を取り上げる。
高橋由美は「川柳木馬ぐるーぷ」の中で、海地大破、古谷恭一、故・北村泰章の次の若手世代として清水かおり、山本三香子とともに注目されてきた。
私が最初に彼女と会ったのは平成15年の「玉野市民川柳大会」のときだったと思う。私は玉野ではじめて選をして、彼女も選者のひとりとして招かれていた。前夜祭のときロシア文学の話になって、パステルナークが好きだと言っていたような記憶がある。『ドクトル・ジバゴ』の原作を書いたパステルナークである。
高橋由美の名を高めたのは、その少し前、「川柳木馬」83号に彼女が書いた巻頭言で、こんな調子で書かれている。
「五・七・五というたった一つの約束事も守らぬ私が、巻頭言を書いているのは滑稽だ。こんな私を受け入れてくれる木馬が太っ腹なのか、もともと川柳が曖昧な文芸の領域を指しているのかは分からない。ただ、ミレニアムの潮流の中で、川柳の世界だけが時間の止まった気がする。これ、皮肉でもなんでもない。皮肉ではないが柳界を直視すれば、時代にそぐわぬ感覚に出くわす。柳論―川柳以外の文学の場で川柳を堂々と語れるか?」
これ、十分皮肉である。そして最後にこんなふうに言っている。
「三十も後半の私を捕まえて、『若い世代』などと銘打ってくれるな。これほどまでに老いてしまった世界をもっと嘆こう」
昔の文章を引っ張り出してきたと高橋は嫌がるだろうが、高橋由美の生意気盛りの文章であり、けっこうこれが受けたのである。高橋の初心がここにある。
その彼女もすでに柳歴20年になるという。「作家群像」の「作者のことば」に曰く。
「1993年ごろ川柳入門。当時は伝統川柳を575…指を折って作句していた。そのころ清水かおりの句に衝撃を受ける。その後、山本三香子に出会う。おそらく彼女らの影響を受け、自由な川柳もありなのでは?と感じ始める」「これまでどおり、あまり575の束縛を受けずに自由に闊歩していきたいと思っている」
さて、そろそろ作品を読んでみたい。60句はだいたい年代順に並んでいるようだ。
つまずいた時 高い樹があると思った
どうしても着地するのか生きるとは
鍵穴を説き伏せてくれ月の光よ
茫然とすると上り坂にみえてくる
人生派の川柳である。
つまずいたとき、茫然とするとき、高い樹が意識されたり、道が上り坂に見えたりする。
好んでも好まなくても人は着地点をもとめて生きているのだろう。
一句目、「川柳木馬」の初出では「意識を失った時 高い樹があると思った」。高橋は初出の句を「つまずいた時」に改作したのだろう。改作の方が実感にぴったりするということだろうか。
ポエジーがあるのは三句目。畑美樹の作家論にあるように下五を「月光よ」とすると定型になる。定型のリズムをはみ出したい欲求がこの作者にはある。基本的には自由律なのだ。
いっそ語りべになろうか君という主人公の
君と汽車に乗る八月を逃がさぬよう
耳元で溶かされゆくは我の体温
僕らのメトロノームと止まった放課後
靴屋から駆け出す君の交差点
ほら忘れ物だよ君の三半器官
弾いてみな 黒は君の鍵盤だから
高橋の作品には「君」という二人称が頻出する。一人の特定の人を指すというよりは、この呼びかけ方が高橋は好きなのだろう。それはほとんど作句のモティーフなのでないかと思われるほどだ。この「君」という呼称については、かつて古谷恭一が「木馬」誌上で取り上げたことがあったと思う。
掲出句のベースにあるのは恋愛感情だろう。
一句目、「君」が主人公で「僕」が語り部。「僕」という言葉は使われていないが、「僕」は男であっても女であってもいい。主人公と語り部の気持が通じ合っているときはいいが、二人の間に亀裂が入ったとき、語り部であり続けることはきっと辛い状況になるだろう。
三句目、「メトロノーム止まった」なら分かりやすいが、「と」に違和感がある。
高橋由美が繰り返し描いている「君」と「僕」の世界。それはもっと深化されるべきだし、さらにそこから外へ出て多様な関係性の世界に入っていくべきものである。恋愛句を書くにしても、高校の文芸部レベルの「君」ではなくて、より成熟した関係性の世界があるはずだ。そんなこと高橋は百も承知だろうが、「君」と「僕」の世界には既視感があるのも事実である。
罵声は浴びないだって日焼けするもの
二泊三日で一昨日の波打ち際へ
そっちに行っちゃ帰れないよ蔓の矛先
60句の中では比較的余裕や遊びの感じられる句である。
二句目は作家論できゅういちが言う「タイムパラドクス」。
三句目は「ジャックと豆の木」を踏まえている。
天命よ ラ音ひたすら吹きにけり
この「ラ音」が以前は分からなかったが、オーケストラで演奏前に調律するときに、まず吹かれるのが「ラ音」だという。ピアノの調律でも同じ。なぜ基準音がラなのかについては、歴史的経緯や理論があるらしい。
この句の作中主体は天命のようにラ音を吹いているという。たった一人で吹いているのだろうか。それとも周囲にはオーケストラが存在するのだろうか。基準音を吹くのは次に多彩な音を出して演奏するためである。
高橋由美にはこの60句以外にもっと難解で詩性の強い作品があったように思うが、比較的理解されやすい句を選んでいるようだ。
「ここ5年ほどは少し大人しく斜めに川柳を眺めている」(作者のことば)とあって、たぶん実生活が忙しいのだろう。けれども、時間があれば川柳が書けるというものでもない。石部明がよく言っていたが、忙しいときは接待のカラオケでマイクを握りながら川柳を考えていたという。今回の「作家群像」を契機に高橋由美の新作を期待したい。
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