2013年3月22日金曜日

戦争花嫁―意味は人を傷つける

川上未映子の『水瓶』(青土社)を読んだ。散文詩が9篇収録されている。書店では詩のコーナーに並べられているので、詩集だと思って読んでいるが、短編小説集なのかも知れない。どの作品も物語的である。冒頭の「戦争花嫁」は次のように始まっている。

「ある女の子が歩いているときに、不意に戦争花嫁がやってきて、それはいつもながらさわることも噛むこともできない単なる言葉でした。なのでつかまえて、戦争花嫁、と口にしてみれば唇がなんだか心地よく、豪雨の最中だというのに非常な明るさの気分がする。
 だったらわたしはこの言葉がとどまってあるうちは、自分のことを戦争花嫁ということにしようと女の子はこれもまた言葉でうきうきとする。名状はいつもこのようにして空白に律儀にとどくもの。あるいは名状がそこにある空白を手に入れる。ひっそりとした名づけの祝着。戦争花嫁。即座に意味は起立しないけれど、女の子はこうも思う。意味のないものは意味のあるものよりも人を傷つけるということは少ないのじゃないの」

意味ではなく「戦争花嫁」という言葉がやってくる。その言葉が少女を明るい気分にさせる。だから彼女は自分のことを「戦争花嫁」と呼ぶことにするのだ。
意味のないものは人を傷つけることが少ない、という。逆に言えば、意味のあるものは人を傷つける。だから、「戦争花嫁」は発語をしないで生きている。あるいは、発語から意味を引きはがそうとする。
発語が人を傷つける。私が発した言葉は人を傷つけ、その言葉は相手の心の中で永遠に生き続ける。その人が思い出すたびに、いつまでもそこにあるのだ。
それでは、発語をせずに生きてきた「戦争花嫁」は最後にどうなるのだろうか。

「バナナフィッシュにうってつけだった日」はサリンジャーの「ナイン・ストーリーズ」の一編をふまえている。ここでも「言葉」が重要なモティーフとなっている。

「二回目は、二回目だから自己紹介をしようと言う。青年の名前がつるりと老女の耳にやってくる。そのとたん、まあ、なんて。老女が見つめる青年のまわりに美しい文字の配列が秒針みたいにきらきらして手に取れる。これは世界製に見えて、そのじつもっと違うもの。そして意味はなに製かしら。いつもどこで作られますか?」

終末を迎えつつある老女が夏の日のできごとを思い出している。老女は水着をきた少女になっていて、ひとりの青年と出会う。ああこれは、サリンジャーの「バナナフィッシュにうってつけの日」( A Perfect Day for Bananafish )の後日談なのだと読者は思う。「うってつけだった日」と過去形になっていることに納得するのだ。
川上の作品では老女は青年の名前をもう忘れているが、読者は彼がシーモアという名であることを知っている。そして、少女にバナナフィッシュの話をしたあと、ホテルの自室に戻って拳銃の弾を頭に撃ち込むということも。
老女はそんなことは知らない。そして青年のことを一度も思い出さなかったのだが、死の床で、生涯で一度きり、この夏の日のことを思い出す、というのが川上の設定である。

『解纜』と云う連句誌がある。別所真紀子を中心に年一回程度発行されていて、現在第26号になる。巻頭の詩句付合では一茶の「春雨や喰れ残りの鴨が鳴」に別所真紀子の詩が取り合わされている。ここでは前号25号の作品を紹介する。

句詩付合      別所真紀子

亡き母や海見るたびに見るたびに    一茶

   三日月が 鹹い絶望の潮に櫂を入れる

   溶かされていった
   血と肉とたましいの透明な重量

  ちりり ちりり
   千尋の底で白い骨が 鳴る

「解纜」は平成6年に創刊されたが、創刊号に安西均追悼歌仙が掲載されていて、今回の26号に再録されている。その表六句を紹介する。

チェーホフよ撃鉄起こせ二月満月   洋一
 暗喩の雪の溶けし八日よ      真紀
折雛の中のうつろをてのひらに    健悟
 西行きバスにお辞儀するひと    洋一
外国の火の色の酒まゐらせむ     真紀
 朱夏の蓬生白馬佇立す       洋一

発句の「撃鉄」には「フリント」とルビが付いている。安西均に「チェーホフの猟銃」という詩があることを踏まえている。別所真紀子の留書には「この、五十年に渉るすぐれた詩業を達成して逝かれた詩人が、連句をなさっていたことは殆ど知られていないと思う」とある。
また、「解纜」3号では安西均の一周忌に歌仙が巻かれていて、これも26号に再録されている。この歌仙には連句人・村松武雄が参加している。

きさらぎを美男微笑の遠あかね    真紀
 髭そりあとのかくも料峭      武雄
すゐーとぴい蒼きが蒼く乾きゐて   久美
 数へてゐるか象の皺など      遊耳
行き遇ひて目礼のまま橋の月     純
 露流れだす街のしづけさ      健悟

脇を付けている松村武雄は北村太郎の兄である。「髭そりあと」は北村太郎の「朝の鏡」の一節を踏まえていると別所はいう。こんな詩である。

朝の水が一滴、ほそい剃刀の
刃のうえに光って、落ちる ― それが
一生というものか。不思議だ。

北村太郎には「定家」「実朝」などの古典的人物を踏まえた詩があるほか、「かげろう抄」という連句(歌仙)形式の作品もある。「かげろう抄」は「現代詩文庫」(思潮社)の『北村太郎集』にも収録されているからご存じの方もあることだろう。
「解纜」26号には昨年6月に亡くなった真鍋天魚(真鍋呉夫)の追悼胡蝶も収録されている。真鍋の最後の句は次のようなものだったそうである。

月皓々空にも魚の泳ぎをり    
死水は三ツ矢サイダー三口半

川上未映子に戻ると、書名になっている「水瓶」では16歳の少女の鎖骨のあいだには一個の水瓶が埋まっている。その中にあるものは―

「すべての襟巻き、すべての注目、すべての手段すべての氏名、すべての復帰、すべての羊皮紙、すべての旅費、すべての直面、すべての銅すべての浮き沈み、すべての気まぐれすべてのケーキ買ってきてすべてのこれじゃないのにすべてのなんでわかってくれないの、すべての無駄すべてのがっかりすべてのもう帰ってこないでね、すべてのそもそも最初からわかってたけどなんとかやれる気でいたの、すべての梱包、すべての特別、すべての予習すべての部屋」

こんな調子で7ページ続く。16歳の少女はこれだけのものを抱えているのである。

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