青森県で発行されている川柳誌「おかじょうき」1月号(通巻228号)に「第17回杉野十佐一賞」が発表されている。
杉野十佐一(すぎの・とさいち)は昭和26年に「おかじょうき川柳社」を設立、初代代表として多くの川柳人を育成した。昭和54年没。
今回、大賞を受賞したのは次の作品である。
ササキサンを軽くあやしてから眠る 榊陽子
「軽」という題詠で、選者六人のうち、なかはられいこと樋口由紀子が特選、広瀬ちえみが秀逸に選んでいる。
まず、なかはられいこの選評から。
「文句なしで特選でいただいた。
しょっぱなから『ササキサン』という上五に瞬殺された。だってササキサンだよ、ササキサン!なんだこれは。
人名か、薬の名前か?人名であれば、佐々木家の妻が夫を『軽くあやして眠る』のか?作者にはササキサンと呼ばれる日常があって、人様向けのササキサンを『軽くあやしてから眠る』のか?
安らかに眠るために、あやさねばならぬものが気持の中に存在する日は誰にでもある。それは黒々とした悪意だったり、叶わぬ望みだったり、底知れぬ悲しみだったり、いったん暴れだすと手に負えないもの。理性では御しきれぬ感情に対する不安のようなもの。そうした名づけようのない、モヤモヤした気持ちのしこりのようなものを作者は『ササキサン』と名づけたのではないだろうか。個人的にはこの解釈がいちばん気にいっている」
次に、樋口由紀子の選評。
「『ササキサン』が謎である。名字は普通は漢字で書く。それをわざとカタカナ表記にしている。一体誰なのだ。身内なのだろうか。他人なのだろうか。それとももう一人の自分なのだろうか、といろいろと考えてみた。だれを当てはめてみても話は通じて、生きているということの物語は成立する。人と人との関係の微妙なアヤをついている。『軽くあやしてから眠る』と組み合わせられることによって、カタカナ表記の『ササキサン』にエッジが利いた」
これらの選評から、ササキサンという固有名詞にインパクトがあったことが分かる。「佐々木さん」でも「ササキさん」でもなくて、「ササキサン」なのだ。一般に、固有名詞は喚起力が強いものであるが、この謎めいた名前に読者は、夫・他人・もう一人の自分など様々なものを代入することができる。
多義的な読みを可能にしているのは、「軽くあやしてから眠る」という含みのある表現にもよる。なかはらが「モヤモヤした気持のしこりのようなもの」と呼び、樋口が「人と人との関係の微妙なアヤ」と指摘した何かが表現されているようだ。読みはひとつではなく、読者の連想によってさまざまな読みが可能となり、しかも作品としては緩みがないところが評価されたのだろう。
作者はどのように述べているだろうか。榊陽子の「受賞の言葉」。
「思いがけず大賞をいただき、さらにこの句でいただいたということに驚いています。というのも投句した後に『なんでササキサン?』という思いが自分の中でおこり、しまったなあと思っていたのです。2か月後に再開したササキサンをしげしげと観察すると、血のつながった他人のようであり、見ず知らずのわたしのようでもありました。ササキサンはあのツンとした菊の匂いをかがせたり、耳を触らせてあげるとまもなく寝息が聞こえます。そして私は夜を揺らさないようそっと部屋を抜け出すのです」
「血のつながった他人」と「見ず知らずのわたし」。
この作者は自作を突き放して眺めることもできるし、自作についてけっこう意識的であることがわかる。
ササキサンには小説の登場人物のような雰囲気が濃厚である。
読者はこの人物に対してさまざまなイメージを重ねることができる。
私が連想したのは―
川上弘美の短編集『溺レる』に「百年」という小説が収録されている。
作中の「私」(女性)は次のように語っている。
「おおかたの人から、あんたと居るのはつまらない、と言われた。サカキさんだけが、つまらない、と言わなかった。
なぜ私なんかと居るの。サカキさんに聞いたことがあった。
サカキさんは少し考えてから、おまえは清のような女だよ、と答えた」
「清」は漱石の『坊っちゃん』に登場する乳母である。漱石の理想とするタイプの女性らしい。自分の恋人を「清のような女」と呼ぶのは男の悪意である。正確に言えば、そのような男を作中に登場させる女性作家の悪意である。
けれども、榊陽子の句に登場する「ササキサンをあやす女」は清とはまったく違うタイプの女性である。その証拠に、彼女はササキサンを「軽く」あやすのだ。なかはられいこの選評に「悪意」という言葉が出てくるのは偶然ではない。
ササキサンを軽くあやしてから眠る
読者の想像力を刺激し、多様な読みを喚起する川柳作品はそれほど多くない。榊陽子の作品には、虚構を通しての「私性」の表現の可能性が感じられる。
「夫に食べさせてもらっていますから。」
返信削除久しぶりに、古風な発言を聞いた。年配者からであったが。
シャドウワークが声高に主張される現代社会において、いかにも、古風である。
否、意外に、・・・・・・・・・
さて、ササキサンが、サカキサンであることは、一読すればわかる。
全て、カタカナ書きにしているのは、呼びかけではなく、存在そのものを客観的に表現したかったからであろう。実名にしなかったのは、作者の恥じらいと、生々しい私生活を作品化したいためである。
旧姓を離れて、嫁いだ女性、特に、専業主婦の不安感と、逞しさを、ユーモアたっぷりに表現されている作品だ。専業主婦の悲哀が、この作品の主題なのではないだろうか。古風ではあるが。