12月22日(土)、三宮の生田神社会館で「俳句Gathering」が開催された。「俳句で遊ぼう」というコンセプトで、俳句を使った遊びやシンポジウムなど、硬軟とりまぜて何を見せてくれるのかという期待感があって、「現俳協青年部シンポジウム」のときに案内をもらってから楽しみにしていたものだ。生田神社という場所もよく、古来神社は人々が集まり猥雑なエネルギーを発散させる文芸の場でもあった。
第一部「五・七・五でPON」は天狗俳諧。三人一組で上五・中七・下五を別々に作るのでちぐはぐなおもしろさが出る。いきなり壇上に上がらされたのには驚いたが、見ると私・小池康生・野口裕のチームではないか。対戦相手は佐藤文香のチーム。佐藤側が勝利したのは言うまでもない。
第二部のシンポジウムは〈「俳句の魅力」を考える〉というテーマ。パネリストは小池康生・小倉喜郎・中山奈々。この部分については後で触れる。
第三部「選抜句相撲」。兼題「冬の星」で対戦する二句のどちらかが勝ち上がってゆく。勝ち進んでゆく句を聴衆は何度も耳にすることになるが、審査員の堺谷真人が述べたように、何度も聞いているうちにその句の新しい良さが発見されてゆく。
第四部「句会バトル」ではアイドルグループ「Pizzah♥Yah」の5人娘と「俺たちゃ俳句素人」の男性5人が「俳句甲子園」方式で対戦する。第一部が始まったときには30人程度だった聴衆もこの時点では60名を越え、この日の見せ場であったことに気づく。ツイッターなどでも参加者の感想が飛び交っていた部分だろう。ただひとつだけいただけなかったのは、アイドル側が相手の句を非難するときに「それって川柳でしょう」と発言したこと。まあ、目くじらをたてることもないか。
午後1時から6時まで盛りだくさんのイベントなので、ずっと聞いているのでは集中力が続かない。私も適当に廊下へ出て休憩したが、途中から参加する人も多く、それぞれの興味のある部分に参加すればよいことだ。イベントとして精選すべきだという意見はあるだろうが、第一回目だから小さく完成するのではなくて雑多な可能性があるところが魅力でもあるわけだ。
中身の問題とは別に見せ方をどうするかということは重要で、この日の集まりは「見せ方」を意識した構成になっていた。内向きではなくて外向的な集まりになっていたと思う。
ここで第二部のシンポジウムについて改めてレポートしておこう。
小倉喜郎は句会のおもしろさについて、「俳句自体は小さなもの。句会は俳句を出してそれぞれの価値観をぶつけあうところがおもしろい。他ジャンルの人とも議論が白熱する。たとえば一枚の絵画について議論するのは困難だが、俳句一句についてなら議論できる」と語った。小池康生は「句会は、俳句を作る、選をする、評する、が三位一体。句会に出ると評がうまくなる。次に俳句がうまくなる。最後が選」と述べた。
レジュメに3人のパネラーの句が挙がっていて、他の2人の句を読み合う。特にこの部分は話が具体的でおもしろかった。
アイスコーヒー美空ひばりがよく来たの 小池康生
白菜のいちばん外のやうな人
アロハシャツ着てテレビ捨てにゆく 小倉喜郎
筍をお父さんと呼んでみる
すべて分かつたふりして春の油揚げ 中山奈々
湯ざめせぬやうに若草物語
「俳句を作らせたい人はだれですか」という質問に対して中山奈々が「ブッダ(仏陀)」と答えたのには驚いた。中山は「意味わからへんおもしろさが俳句にはある」と言う。
実行委員のひとり久留島元のレポートが発表されているので、そちらもお読みいただければ当日の雰囲気がよくわかると思う。
曾呂利亭雑記 http://sorori-tei-zakki.blogspot.jp/
さて、今年の川柳時評は本日で終わりだが、今年一年の川柳の世界を振り返ってみると、未来につながる営為がどれほどあったか、考えると心もとない気がする。むしろ、失われたものの方が大きかったのではないかと思われるのである。
今年、川柳界は石部明を失った。
「バックストローク」の終刊後、石部は「BSおかやま句会」の機関誌「Field」誌の発行にエネルギーを注いでいた。その25号の巻頭言で石部はこんなふうに書いている。
「小池正博を編集人とし、樋口由紀子が発行人となる『川柳カード』が来月(11月)に創刊され、その記念句会も盛大だったようだ。ただ、革新誌を目指しながら、結局は中道的な誌に落ち着いてしまう過去の多くの前例に習わず、意識の高いお二人の責任において、前衛、革新ということばをおそれぬ集団であっていただきたいと思う」
この言葉は重く受け止めなければならない。
だだ、付け加えておきたいことは、「川柳カード」は川柳の表現領域の拡大を目指しているが、「前衛」「革新」を標榜するものではないということである。「前衛」「革新」を唱えることによって前へ進めたのは過去のことであり、そのことを石部ほどよく自覚していた川柳人はいないはずである。
必要なことは文芸で行われるべきことを川柳でもきちんと行うということである。句を作り、句集を出し、それを読み、句評・批評を推し進めていく。そして、川柳のおもしろさをきちんと発信してゆくこと。
「俳句Gathering」の懇親会では、高校生が俳人に交じって壇上で堂々と発言していた。驚くことはないのだろう。彼女は「高校生」ではなくて「俳人」なのである。「俳句甲子園」という俳句への通路があり、「俳句甲子園出身者のどこが嫌か」を語り合うだけの相対化の視点もあった。俳句の「内容」だけではなくて「俳句を他者に対してどう見せるか」ということに意識的なので、他ジャンルの者でも参加していて気持ちがよかった。
川柳人の中には句を作ることに専念したいと言う人が多い。狭い範囲の読者しか読んでくれない川柳同人誌でも、それを運営・継続してゆくには大変なエネルギーが必要だ。「投壜通信」と言えば聞こえがいいが、何のためにこのような無駄なことをしているのかと思わなかった川柳人がいるだろうか。
ニヒリズムとのたたかいは続くのだが、マーケットの成立しない川柳の世界で、川柳をもっと上手にプロデュースすることができれば、川柳にも元気がでてくるかもしれない。
次回の掲載は1月4日になります。では、みなさま、よいお年をお迎えください。
2012年12月28日金曜日
2012年12月21日金曜日
「川柳カード」創刊号・同人作品を読む
12月16日(日)に大阪・上本町の「たかつガーデン」で「川柳カード」創刊号の合評会が開催された。同人誌が発行されると合評会の機会が持たれるのは、他ジャンルでは当たり前のことである。川柳でも合評会がないわけではないが、「川柳カード」ではきちんとした合評会をおこないたいと思っていた。
当日の議論を踏まえて、改めて創刊号の同人作品を読んでいきたい。ただし、24人の同人作品のごく一部しか取り上げられないことをお断りしておく。
意は言えずそもそもヒトの位にあらず きゅういち
貸しボート一艘離れゆく領土
すり足の一団旧い慰安所へ
皇国の野球を思う遠喇叭
パサパサの忍び難きが炊きあがる
連作10句の中から5句を抽出した。軍国主義日本のレトロな雰囲気の中に現代の出来事も混ぜながらひとつの世界を構築している。「昭和」と正面から向かい合った連作は川柳の世界では新鮮なのではないか。ただし、他ジャンルではすでに試みられていることであって、「皇国の野球を思う遠喇叭」などは「南国に死して御恩のみなみかぜ」(攝津幸彦)を連想させる。
鶯が鳴き出したので帰ります 松永千秋
生れてしまいましたずっと団子虫
すこし夜を分けてもらったのでハンコ
きゅういちの句と比べると、松永千秋の句は平明で何も解りにくいところはない。こういう作品を読むとほっとする。
けれども、合評会では「松永千秋の句の方が読みにくい」という湊圭史の発言があった。「読み」という点では「あたりまえ」すぎてそれ以上何も言うことができないというのである。俳句の場合は季語があるから読み方の見当がつくが、何もない川柳の場合「読み方」が分からないことになる。
ある意味で湊の指摘は新鮮であった。読みとは読み手の解釈を言語化することだから、作品そのものに何も付け加えることがない場合は、「分かる」ことはできても「読む」ことができない。私は松永千秋の作品は読みの対象になりうると思うが、「読めない」という受け取り方もありうるだろう。
くじ引きで貰う氷雨の請求書 井上一筒
ポンペイウスの白髪インドメタシン
胡麻豆腐一つ捻じれ場ば浄閑寺
尺骨は二十五弁の椿から
グレゴリオ暦では1月1日
「浄閑寺」は花又花酔の句「生れては苦界死しては浄閑寺」が有名。この句を連想してしまうだけに、「胡麻豆腐」の句は古風な感じがする。この句を真中に置くことによって他の句の言葉を引き立たせようとしたのかも知れない。
一筒の句は時空を飛翔してさまざまな言葉をつかみとってくる。シーザーと戦ったポンペイウスがインドメタシン(炎症止めの軟膏か何かだろう)を塗っている。動物の骨である「尺骨」が植物である椿から生える。「グレゴリオ暦では1月1日」の表現意図がよくわからなかったが、「もうすぐお正月ですね」という挨拶らしい。
開店と同時に膝が売れていく 榊陽子
つつがなく折られて鶴は最果てる
かあさんを指で潰してしまったわ
耳貸してください鼻お貸しいたします
動詞で終わる句が多いという文体の特徴がある。ただ、それが10句並べたときに単調さに陥る危険がある。「膝」「指」「耳」「鼻」などの身体用語も多く使われている。
「かあさんを指で潰してしまったわ」の句について樋口由紀子が「金曜日の川柳」で取り上げている。エレクトラ・コンプレックスがベースにあるようだ。
櫛につく白髪(いいえ繰糸です) 飯島章友
川柳ではこういう( )の使用はあまり見かけない。俳句では多いのだろうか。短歌の影響だと言う人もあり、この句の場合は(いいえ繰糸です)は櫛が言っているのではないかという意見もあった。
夕焼けに箪笥の中の首に会う くんじろう
粘膜をまさぐり合って赤トンボ
女先生も百足を食べている
液化した狐とぬくい飯を食う
主張せよ我は河童の子孫なり
インパクトの強い句が並ぶ。
今年話題になった本に『怖い俳句』(倉阪鬼一郎)があった。くんじろうの作品は「怖い川柳」をねらっている。何が怖いかは人によって異なるから、不条理な句、何げないけれどもじんわりと怖い句を混ぜてもよかったのでは。
最後の句「我は河童の子孫なり」に川柳人としての自負が感じられる。
さてはじめるか宇宙地図2000円 兵頭全郎
月からの俯瞰 引退会見乙
冥王は不在 卓袱台理路整然
オリオンの腰に回した手のやり場
「コスモス」というタイトル。秋桜ではなくて宇宙の方のコスモスである。
兵頭全郎は言葉から出発する。「月」「冥王」「オリオン」などの天体が並ぶ。その場合も「冥王は不在」のように「冥府の王」とも「冥王星」とも受け取れるような両義性を意識的に用いている。
「引退会見乙」の「乙」は「おつかれさま」という符牒でネットではよく使われるらしい。こんなのは私にはわかんない。
値がついてみかんの生の第二章 石田柊馬
オスプレーの正反対にあるみかん
人病んでみかんのへこみ眼について
五十年とぞ みかんぶつけてやらんかな
さてみかん私も歯周病である
「みかん」連作10句から5句掲出。
作者の石田柊馬によると、これは「群作」だという。きちんと構成されているのが「連作」、構成のないのが「群作」。そういう意味であれば、「みかん」という題で、あと何句でも作れるわけである。ただし、「連作」と「群作」の区別は微妙だと私は思う。
「みかん」を狂言回しとして様々な句に仕立て上げているが、技術の鮮やかさにとどまっていてそれ以上ではないところに物足りなさを感じる。
鰻ふと橋渡ろうと思うなり 樋口由紀子
「橋」は象徴的な意味をもつ言葉である。こちらから向うへ渡る通路であり、橋を渡ることが別の世界・新しい世界へと移行することにもつながる。渡る途中で危険を伴うこともある。
「人間は橋であって、目的ではない。人間が愛されるべき点は、人間が移行であり、没落であることだ」(ニーチェ『ツァラトゥストゥラ』)
鰻が橋を渡ろうと思ったという。橋を渡ってどこへ行こうとしたのだろうか。一大決心をしたというわけでもない。「ふと」思ったのである。鰻なのだから橋を渡らなくても泳いで対岸に行けるはずである。おかしな句であるが、何となく笑いを誘われる。
読者は「橋を渡ろうと思った鰻」という個性的なキャラクターに出会うのである。
次週は暮れの28日になりますが、休まずに続けますので、よろしくお願いします。
当日の議論を踏まえて、改めて創刊号の同人作品を読んでいきたい。ただし、24人の同人作品のごく一部しか取り上げられないことをお断りしておく。
意は言えずそもそもヒトの位にあらず きゅういち
貸しボート一艘離れゆく領土
すり足の一団旧い慰安所へ
皇国の野球を思う遠喇叭
パサパサの忍び難きが炊きあがる
連作10句の中から5句を抽出した。軍国主義日本のレトロな雰囲気の中に現代の出来事も混ぜながらひとつの世界を構築している。「昭和」と正面から向かい合った連作は川柳の世界では新鮮なのではないか。ただし、他ジャンルではすでに試みられていることであって、「皇国の野球を思う遠喇叭」などは「南国に死して御恩のみなみかぜ」(攝津幸彦)を連想させる。
鶯が鳴き出したので帰ります 松永千秋
生れてしまいましたずっと団子虫
すこし夜を分けてもらったのでハンコ
きゅういちの句と比べると、松永千秋の句は平明で何も解りにくいところはない。こういう作品を読むとほっとする。
けれども、合評会では「松永千秋の句の方が読みにくい」という湊圭史の発言があった。「読み」という点では「あたりまえ」すぎてそれ以上何も言うことができないというのである。俳句の場合は季語があるから読み方の見当がつくが、何もない川柳の場合「読み方」が分からないことになる。
ある意味で湊の指摘は新鮮であった。読みとは読み手の解釈を言語化することだから、作品そのものに何も付け加えることがない場合は、「分かる」ことはできても「読む」ことができない。私は松永千秋の作品は読みの対象になりうると思うが、「読めない」という受け取り方もありうるだろう。
くじ引きで貰う氷雨の請求書 井上一筒
ポンペイウスの白髪インドメタシン
胡麻豆腐一つ捻じれ場ば浄閑寺
尺骨は二十五弁の椿から
グレゴリオ暦では1月1日
「浄閑寺」は花又花酔の句「生れては苦界死しては浄閑寺」が有名。この句を連想してしまうだけに、「胡麻豆腐」の句は古風な感じがする。この句を真中に置くことによって他の句の言葉を引き立たせようとしたのかも知れない。
一筒の句は時空を飛翔してさまざまな言葉をつかみとってくる。シーザーと戦ったポンペイウスがインドメタシン(炎症止めの軟膏か何かだろう)を塗っている。動物の骨である「尺骨」が植物である椿から生える。「グレゴリオ暦では1月1日」の表現意図がよくわからなかったが、「もうすぐお正月ですね」という挨拶らしい。
開店と同時に膝が売れていく 榊陽子
つつがなく折られて鶴は最果てる
かあさんを指で潰してしまったわ
耳貸してください鼻お貸しいたします
動詞で終わる句が多いという文体の特徴がある。ただ、それが10句並べたときに単調さに陥る危険がある。「膝」「指」「耳」「鼻」などの身体用語も多く使われている。
「かあさんを指で潰してしまったわ」の句について樋口由紀子が「金曜日の川柳」で取り上げている。エレクトラ・コンプレックスがベースにあるようだ。
櫛につく白髪(いいえ繰糸です) 飯島章友
川柳ではこういう( )の使用はあまり見かけない。俳句では多いのだろうか。短歌の影響だと言う人もあり、この句の場合は(いいえ繰糸です)は櫛が言っているのではないかという意見もあった。
夕焼けに箪笥の中の首に会う くんじろう
粘膜をまさぐり合って赤トンボ
女先生も百足を食べている
液化した狐とぬくい飯を食う
主張せよ我は河童の子孫なり
インパクトの強い句が並ぶ。
今年話題になった本に『怖い俳句』(倉阪鬼一郎)があった。くんじろうの作品は「怖い川柳」をねらっている。何が怖いかは人によって異なるから、不条理な句、何げないけれどもじんわりと怖い句を混ぜてもよかったのでは。
最後の句「我は河童の子孫なり」に川柳人としての自負が感じられる。
さてはじめるか宇宙地図2000円 兵頭全郎
月からの俯瞰 引退会見乙
冥王は不在 卓袱台理路整然
オリオンの腰に回した手のやり場
「コスモス」というタイトル。秋桜ではなくて宇宙の方のコスモスである。
兵頭全郎は言葉から出発する。「月」「冥王」「オリオン」などの天体が並ぶ。その場合も「冥王は不在」のように「冥府の王」とも「冥王星」とも受け取れるような両義性を意識的に用いている。
「引退会見乙」の「乙」は「おつかれさま」という符牒でネットではよく使われるらしい。こんなのは私にはわかんない。
値がついてみかんの生の第二章 石田柊馬
オスプレーの正反対にあるみかん
人病んでみかんのへこみ眼について
五十年とぞ みかんぶつけてやらんかな
さてみかん私も歯周病である
「みかん」連作10句から5句掲出。
作者の石田柊馬によると、これは「群作」だという。きちんと構成されているのが「連作」、構成のないのが「群作」。そういう意味であれば、「みかん」という題で、あと何句でも作れるわけである。ただし、「連作」と「群作」の区別は微妙だと私は思う。
「みかん」を狂言回しとして様々な句に仕立て上げているが、技術の鮮やかさにとどまっていてそれ以上ではないところに物足りなさを感じる。
鰻ふと橋渡ろうと思うなり 樋口由紀子
「橋」は象徴的な意味をもつ言葉である。こちらから向うへ渡る通路であり、橋を渡ることが別の世界・新しい世界へと移行することにもつながる。渡る途中で危険を伴うこともある。
「人間は橋であって、目的ではない。人間が愛されるべき点は、人間が移行であり、没落であることだ」(ニーチェ『ツァラトゥストゥラ』)
鰻が橋を渡ろうと思ったという。橋を渡ってどこへ行こうとしたのだろうか。一大決心をしたというわけでもない。「ふと」思ったのである。鰻なのだから橋を渡らなくても泳いで対岸に行けるはずである。おかしな句であるが、何となく笑いを誘われる。
読者は「橋を渡ろうと思った鰻」という個性的なキャラクターに出会うのである。
次週は暮れの28日になりますが、休まずに続けますので、よろしくお願いします。
2012年12月14日金曜日
2012年・川柳作品ベストテン
今年発表された川柳作品の中から秀句10句を選んで、簡単なコメントを付けてみたい。
もとより私の読んでいる限られた範囲の中で選んでいるので、客観性もなく極私的なものであることを御断りしておく。
想い馳せると右頬にインカ文字 内田万貴(第63回玉野市民川柳大会)
時空を越えた過去のできごとに想いを馳せる。たとえば、インカ帝国の滅亡。スペイン人によって略奪され滅ぼされたインカの都。パチャカマの落日。さまざまなイメージが連想される。
けれども、この句は恋句としても読める。恋しい人に想いを馳せると、右頬に秘められた想いが文字となって浮かび上がってくるのだ。もちろん、それはインカ文字だから簡単には読めない。ひそかに解読されるのを待っている。
ここで私はふと歴史の知識を思い出す。確かインカには文字がなかったはずではないか。縄をくくってあらわす縄文字というのは聞いたことがあるが、インカは無文字社会なのだ。
そうするとインカ文字そのものが虚構に思えてくる。右頬に浮かんだのは何だろう。
ぎゅうっと空をひっぱっている蛹 加藤久子(「MANO」17号)
昆虫の蛹にはいろいろなタイプがあるが、蝶の蛹はおおむね草木に二本の糸を張って固定されている。そうでないと羽化するときにきちんと殻から抜け出して成虫になれないのだ。
そのような蝶の蛹はまるで空を引っ張っているように見える。
仙台在住の加藤久子は東日本大震災で被災した。この句にはその体験が反映されているようだ。
短律は垂れる分け合う空の景 清水かおり(「川柳カード」創刊準備号)
タの音の繰り返しが律を生みだしている。
「垂れる」「分け合う」の動詞の繰り返しに一瞬とまどうが、「短律は垂れる/分け合う空の景」という二句一章と読むとすっきりする。
「分け合う」というところに一句の主意があると読んだ。
川柳のフィールドで詩的イメージを書くことの多い清水が珍しく主情的になっていることに少し感動したりする。
キリンの首が下りてくるまでここに居る 佐藤みさ子(大友逸星・添田星人追悼句会・平成24年3月11日)
「低い」という兼題に対して「キリンの首」をもってくる。キリンの首は高いところにあって、いつまでもそのままかも知れない。けれども、「私」は低いところに居る。そこが自分の居る場所だからだ。キリンの首は下りてくるだろうか。別に下りてこなくてもいいのだ。「私」は「私」なのだから。
静脈注射静脈を避けて刺す 井上一筒(「ふらすこてん」22号)
悪意の句である。静脈注射なのに静脈を避けて注射して大丈夫なんだろうか。注射する側の視点に立つと、相手に致命的なダメージを与えるほどではないからストレス発散になるかも知れない。気づかれ咎められても、ちょっと失敗しましたと言えばいいのだろう。
注射をされる側から事態を眺めてみると、この看護師の注射は大丈夫だろうかと思うことはよくある。血管に空気でも入れられたら大変である。
この句、医療の場面を外れても通用するところがある。実際に行為に移さなくても人は頭の中でこの程度のことは考えているものである。
遠雷や全ては奇より孵化をした きゅういち(「ふらすこてん」23号)
遠くで雷が鳴っている。「全ては奇より孵化をした」という認識がある。俳句の取り合わせの手法を取り入れつつ、断言の強さは川柳人のものである。「奇」は「奇妙」「奇人」「奇跡」「奇貨」などさまざまな語が考えられるが、ここではマイナス・イメージではなく、プラス・イメージでとらえられている。虫や鳥が卵からうまれるように、すべては「奇」から生まれるのだと。即ち、川柳も「奇」から生まれるわけだ。
マンドリンクラブで憩うモモタロー くんじろう(「川柳カード」創刊号)
(問い)桃太郎は鬼退治をしたあと、どうなったのでしょう。(答え)マンドリンクラブで憩っているところですよ。
けれども、主人公はあの桃太郎ではないかも知れない。モモタローという別のキャラクターかも知れないのだ。だから犬・猿・雉も見当たらない。このモモタローは萩原朔太郎のようにマンドリンが好きなのである。
紫の天使突抜六丁目 佐々馬骨(「ふらすこてん」句会・平成24年1月7日)
「天使突抜」は「てんしつきぬけ」と読むのだろう。
紫の天使が六丁目を突きぬけていった?
「天使突抜」という町名は京都に実在するという。地図で見ると三丁目・四丁目はあるが六丁目はない。「天使突抜六丁目」とは山田雅史監督の映画のタイトルである。存在しない異界に迷い込む話。
さて、この日の句会は「紫」という題だった。兼題と映画のタイトルを結びつけるところに馬骨の機知があった。
正方形の家見て帰る女の子 樋口由紀子(「川柳カード」創刊号)
「正方形の家」というものがあるのかどうか分らないが、その家の前まで来た女の子がただその家を見ただけで、その家の住人に会うこともなく帰ってゆく。「見て帰る」は外側から見ただけで中へ入ることもなく帰る、というふうに私には受け取れる。
女の子はその家の中には入れなかったのである。そもそも「正方形の家」などは嫌いなのである。ゆがみやいびつのない「正方形の家」なんて面白みがないのである。
読者はこの「女の子」の視点に同化する。
ポール・デルボーの絵では駅で汽車を見ている女の子の後ろ姿がよく描かれている。絵を見る者は後ろ姿の女の子に同化しているのだ。
血液は鋭く研いだ鳥の声 石部明(「川柳カード」創刊号)
石部明の最後の作品のひとつ。静脈瘤破裂をくり返し、闘病を続けた彼にとって、この句の認識は痛切なものであったろう。けれども、石部は体験をナマのままではなく、完成された作品として提出した。
血液からは鳥の声が聞こえる。それは病のためではない。川柳の血が鳥の声をあげさせるのだ。石部明の言葉の切れ味は最後まで衰えなかった。
もとより私の読んでいる限られた範囲の中で選んでいるので、客観性もなく極私的なものであることを御断りしておく。
想い馳せると右頬にインカ文字 内田万貴(第63回玉野市民川柳大会)
時空を越えた過去のできごとに想いを馳せる。たとえば、インカ帝国の滅亡。スペイン人によって略奪され滅ぼされたインカの都。パチャカマの落日。さまざまなイメージが連想される。
けれども、この句は恋句としても読める。恋しい人に想いを馳せると、右頬に秘められた想いが文字となって浮かび上がってくるのだ。もちろん、それはインカ文字だから簡単には読めない。ひそかに解読されるのを待っている。
ここで私はふと歴史の知識を思い出す。確かインカには文字がなかったはずではないか。縄をくくってあらわす縄文字というのは聞いたことがあるが、インカは無文字社会なのだ。
そうするとインカ文字そのものが虚構に思えてくる。右頬に浮かんだのは何だろう。
ぎゅうっと空をひっぱっている蛹 加藤久子(「MANO」17号)
昆虫の蛹にはいろいろなタイプがあるが、蝶の蛹はおおむね草木に二本の糸を張って固定されている。そうでないと羽化するときにきちんと殻から抜け出して成虫になれないのだ。
そのような蝶の蛹はまるで空を引っ張っているように見える。
仙台在住の加藤久子は東日本大震災で被災した。この句にはその体験が反映されているようだ。
短律は垂れる分け合う空の景 清水かおり(「川柳カード」創刊準備号)
タの音の繰り返しが律を生みだしている。
「垂れる」「分け合う」の動詞の繰り返しに一瞬とまどうが、「短律は垂れる/分け合う空の景」という二句一章と読むとすっきりする。
「分け合う」というところに一句の主意があると読んだ。
川柳のフィールドで詩的イメージを書くことの多い清水が珍しく主情的になっていることに少し感動したりする。
キリンの首が下りてくるまでここに居る 佐藤みさ子(大友逸星・添田星人追悼句会・平成24年3月11日)
「低い」という兼題に対して「キリンの首」をもってくる。キリンの首は高いところにあって、いつまでもそのままかも知れない。けれども、「私」は低いところに居る。そこが自分の居る場所だからだ。キリンの首は下りてくるだろうか。別に下りてこなくてもいいのだ。「私」は「私」なのだから。
静脈注射静脈を避けて刺す 井上一筒(「ふらすこてん」22号)
悪意の句である。静脈注射なのに静脈を避けて注射して大丈夫なんだろうか。注射する側の視点に立つと、相手に致命的なダメージを与えるほどではないからストレス発散になるかも知れない。気づかれ咎められても、ちょっと失敗しましたと言えばいいのだろう。
注射をされる側から事態を眺めてみると、この看護師の注射は大丈夫だろうかと思うことはよくある。血管に空気でも入れられたら大変である。
この句、医療の場面を外れても通用するところがある。実際に行為に移さなくても人は頭の中でこの程度のことは考えているものである。
遠雷や全ては奇より孵化をした きゅういち(「ふらすこてん」23号)
遠くで雷が鳴っている。「全ては奇より孵化をした」という認識がある。俳句の取り合わせの手法を取り入れつつ、断言の強さは川柳人のものである。「奇」は「奇妙」「奇人」「奇跡」「奇貨」などさまざまな語が考えられるが、ここではマイナス・イメージではなく、プラス・イメージでとらえられている。虫や鳥が卵からうまれるように、すべては「奇」から生まれるのだと。即ち、川柳も「奇」から生まれるわけだ。
マンドリンクラブで憩うモモタロー くんじろう(「川柳カード」創刊号)
(問い)桃太郎は鬼退治をしたあと、どうなったのでしょう。(答え)マンドリンクラブで憩っているところですよ。
けれども、主人公はあの桃太郎ではないかも知れない。モモタローという別のキャラクターかも知れないのだ。だから犬・猿・雉も見当たらない。このモモタローは萩原朔太郎のようにマンドリンが好きなのである。
紫の天使突抜六丁目 佐々馬骨(「ふらすこてん」句会・平成24年1月7日)
「天使突抜」は「てんしつきぬけ」と読むのだろう。
紫の天使が六丁目を突きぬけていった?
「天使突抜」という町名は京都に実在するという。地図で見ると三丁目・四丁目はあるが六丁目はない。「天使突抜六丁目」とは山田雅史監督の映画のタイトルである。存在しない異界に迷い込む話。
さて、この日の句会は「紫」という題だった。兼題と映画のタイトルを結びつけるところに馬骨の機知があった。
正方形の家見て帰る女の子 樋口由紀子(「川柳カード」創刊号)
「正方形の家」というものがあるのかどうか分らないが、その家の前まで来た女の子がただその家を見ただけで、その家の住人に会うこともなく帰ってゆく。「見て帰る」は外側から見ただけで中へ入ることもなく帰る、というふうに私には受け取れる。
女の子はその家の中には入れなかったのである。そもそも「正方形の家」などは嫌いなのである。ゆがみやいびつのない「正方形の家」なんて面白みがないのである。
読者はこの「女の子」の視点に同化する。
ポール・デルボーの絵では駅で汽車を見ている女の子の後ろ姿がよく描かれている。絵を見る者は後ろ姿の女の子に同化しているのだ。
血液は鋭く研いだ鳥の声 石部明(「川柳カード」創刊号)
石部明の最後の作品のひとつ。静脈瘤破裂をくり返し、闘病を続けた彼にとって、この句の認識は痛切なものであったろう。けれども、石部は体験をナマのままではなく、完成された作品として提出した。
血液からは鳥の声が聞こえる。それは病のためではない。川柳の血が鳥の声をあげさせるのだ。石部明の言葉の切れ味は最後まで衰えなかった。
2012年12月7日金曜日
鶴彬と大阪
鶴彬の生涯で大阪と関わりのある時期が二度ある。
一度目は鶴彬が17歳のとき、1926年(大正15年・昭和元年)の9月に職探しに大阪に出てきた時期である。もう一度は軍隊での赤化事件で大阪衛戍監獄に入ったときである。私は以前から鶴彬の大阪時代について関心があるので、何冊かの本を紹介しながら、ふりかえってみたい。
まず、17歳での大阪行きについてであるが、彼は四貫島の従兄弟を頼って、毎日職探しに明け暮れていた。喜多一二(きた・かつじ、鶴彬の本名)の名で発表された「大阪放浪詩抄」という詩がある。その冒頭の一節(引用は深井一郎著『反戦川柳家・鶴彬』日本機関紙出版センター、による)。
はじめて見た大阪の表情は
石炭坑夫の顔のやうに
くろずんでゐた
軽いちっそくをおぼえる空気の中に
あ、秋はすばやくしのびこみ
精神病者のごとき街路樹は
赤くみどりを去勢されてゐる
吉橋通夫の小説『鶴彬・暁を抱いて』(新日本出版社)は2009年3月に初版が出ているから最近の小説ではないが、先日読む機会があった。
第一章「初めての旅立ち―十七歳 大阪へ」では、喜多一二が故郷の高松町から大阪行きの汽車に乗る場面から始まる。彼の故郷は石川県の高松町で、四国の高松ではない。七尾線で津幡まで出て上り列車に乗り換え、大阪まで九時間。
大阪へ出た彼は職探しがうまくいかず、ある日、百貨店の屋上にあがってみる。「大阪放浪詩抄」では次のように書かれている。
高い高い百貨店の頂上にある
ひろい展望台の海です
ところところの白亜の大建造物は孤島の風景です
真下の街道とうごめく人人は、
蟻だ、蟻だ、
左様、
生活に思索を奪はれた都会人種は
みな極端な唯物主義者です
遠く瞳を放てば
郊外の工場地街は
もうえんたる 煙の底に
太陽を失念した
プロレタリア諸君が
便所のいじ虫の如くに
うごめいてゐるのです
小説では幼馴染の花枝という少女が登場する。手をにぎることさえしなかった幼い恋は、彼女が大阪へ去り、「新世界」で働くことになって終った。その彼女と大阪で再会する場面が小説ではこんなふうに描かれている。
「かっちゃん!」
「えっ?」
おどろいてふりむくと、はでな水色の銘仙を着た若い女が目を丸くして立っている。
「やっぱり、かっちゃんね!」
息をのんだ。
「もしかして…花枝ちゃん?」
こっくりうなずいた花枝が、一二の袷の袖を引っぱって道のはしへ誘う。
「もしかして、あたしを追いかけて大阪へ来てくれたん?」
この場面も「大阪放浪詩抄」からヒントを得ているようだ。小説のネタばらしのようで恐縮だが、原詩では次のように書かれている。
新世界を散策してゐると
とあるキネマ館の入口から
蝶蝶のやうに女が舞ひ出て来た
それはふるさとにゐるとき
熱心に僕を恋した女だった
『ここにゐるの』
『ええ あんたは』
『浪人してゐる』
女は銀貨を一つ僕の掌にのせた
そういう女性が本当にいたのであろうか。フィクションかも知れないとも思うが、小説化するとすれば、やはり外せないエピソードだろう。
喜多一二(鶴彬)がいた四貫島(しかんじま)はJR環状線「西九条」のあたりである。彼は小さな町工場で働きはじめるが、「パンを得なくして何の思索があらう。仕事につかなくて何の文学があらう」「頭脳で考えるよりも胃袋で直観した」(「田中五呂八と僕」)という認識に至るのである。
やがて彼は大阪を去って故郷へ帰る。東京へも行き井上剣花坊を訪れ、剣花坊の柳誌「川柳人」を中心に活躍が続くが、1930年(昭和5年)に金沢の第七連隊に入隊する。そこで「第七連隊赤化事件」が起こる。
入隊した喜多一二はナップ(全日本無産者芸術連盟)と連絡をとりつつ、「無産青年」(日本共産青年同盟の機関紙)を軍隊内に広めようとする。
治安維持法違反で懲役二年。彼は大阪の衛戍監獄(えいじゅかんごく)へ送られる。
吉橋の小説、第四章「抵抗への旅立ち」の獄中生活の場面では、こんなふうに描かれている。
「ここは大阪城内なので、街のざわめきは伝わってこない。だが、高い壁に穿たれたわずか五十センチ足らずの明かり窓が、鉄格子の向こうからたくさんのものを運んでくれる。
薄紅色の花びらがひらひらと舞い落ちてきたときは、夢かと思った。受け止めようとしたが足がふらつき、畳みの上に落としてしまった。そっとつまんで手のひらに乗せて香りをむさぼった。そのうち水分を失い、変色し始めたので口に入れると、まだ甘い花びらの味がした」
獄中生活は厳しく、一日中壁に向かって正座させられたり、真冬でも水風呂に五分間浸からなければならなかった。
陸軍衛戍監獄は大阪城内にあり、現在の豊国神社付近だと言われている。
2008年、鶴彬没後70年を記念して、この場所に「鶴彬顕彰碑」が建立された。場所は豊国神社の東側である。顕彰碑には次の句が刻まれている。
暁を抱いて闇にゐる蕾 鶴彬
この句は金沢市の卯辰山公園の句碑にも選ばれている。句碑について言えば、「手と足をもいだ丸太にしてかへし」の句碑が盛岡市(鶴彬の墓がある)に、「枯れ芝よ 団結をして春を待つ」が郷里の高松町にある。
1933年(昭和8年)、鶴彬は兵営を出る。木村半文銭と「大衆性論争」を激しく繰り広げたのは昭和11年のことである。昭和12年12月に「川柳人」に対する弾圧事件が起こり、鶴彬は特高に逮捕される。獄中で赤痢にかかり、昭和13年9月死去。享年29歳。
付け加えるべきかどうか迷うのだが、鶴彬と大阪との関係、実はもう一つある。鶴彬が「川柳人」に投句した作品を非国民的だとして当局に告発したと言われている川柳誌「三味線草」は大阪から発行されていたのである。ああ。
一度目は鶴彬が17歳のとき、1926年(大正15年・昭和元年)の9月に職探しに大阪に出てきた時期である。もう一度は軍隊での赤化事件で大阪衛戍監獄に入ったときである。私は以前から鶴彬の大阪時代について関心があるので、何冊かの本を紹介しながら、ふりかえってみたい。
まず、17歳での大阪行きについてであるが、彼は四貫島の従兄弟を頼って、毎日職探しに明け暮れていた。喜多一二(きた・かつじ、鶴彬の本名)の名で発表された「大阪放浪詩抄」という詩がある。その冒頭の一節(引用は深井一郎著『反戦川柳家・鶴彬』日本機関紙出版センター、による)。
はじめて見た大阪の表情は
石炭坑夫の顔のやうに
くろずんでゐた
軽いちっそくをおぼえる空気の中に
あ、秋はすばやくしのびこみ
精神病者のごとき街路樹は
赤くみどりを去勢されてゐる
吉橋通夫の小説『鶴彬・暁を抱いて』(新日本出版社)は2009年3月に初版が出ているから最近の小説ではないが、先日読む機会があった。
第一章「初めての旅立ち―十七歳 大阪へ」では、喜多一二が故郷の高松町から大阪行きの汽車に乗る場面から始まる。彼の故郷は石川県の高松町で、四国の高松ではない。七尾線で津幡まで出て上り列車に乗り換え、大阪まで九時間。
大阪へ出た彼は職探しがうまくいかず、ある日、百貨店の屋上にあがってみる。「大阪放浪詩抄」では次のように書かれている。
高い高い百貨店の頂上にある
ひろい展望台の海です
ところところの白亜の大建造物は孤島の風景です
真下の街道とうごめく人人は、
蟻だ、蟻だ、
左様、
生活に思索を奪はれた都会人種は
みな極端な唯物主義者です
遠く瞳を放てば
郊外の工場地街は
もうえんたる 煙の底に
太陽を失念した
プロレタリア諸君が
便所のいじ虫の如くに
うごめいてゐるのです
小説では幼馴染の花枝という少女が登場する。手をにぎることさえしなかった幼い恋は、彼女が大阪へ去り、「新世界」で働くことになって終った。その彼女と大阪で再会する場面が小説ではこんなふうに描かれている。
「かっちゃん!」
「えっ?」
おどろいてふりむくと、はでな水色の銘仙を着た若い女が目を丸くして立っている。
「やっぱり、かっちゃんね!」
息をのんだ。
「もしかして…花枝ちゃん?」
こっくりうなずいた花枝が、一二の袷の袖を引っぱって道のはしへ誘う。
「もしかして、あたしを追いかけて大阪へ来てくれたん?」
この場面も「大阪放浪詩抄」からヒントを得ているようだ。小説のネタばらしのようで恐縮だが、原詩では次のように書かれている。
新世界を散策してゐると
とあるキネマ館の入口から
蝶蝶のやうに女が舞ひ出て来た
それはふるさとにゐるとき
熱心に僕を恋した女だった
『ここにゐるの』
『ええ あんたは』
『浪人してゐる』
女は銀貨を一つ僕の掌にのせた
そういう女性が本当にいたのであろうか。フィクションかも知れないとも思うが、小説化するとすれば、やはり外せないエピソードだろう。
喜多一二(鶴彬)がいた四貫島(しかんじま)はJR環状線「西九条」のあたりである。彼は小さな町工場で働きはじめるが、「パンを得なくして何の思索があらう。仕事につかなくて何の文学があらう」「頭脳で考えるよりも胃袋で直観した」(「田中五呂八と僕」)という認識に至るのである。
やがて彼は大阪を去って故郷へ帰る。東京へも行き井上剣花坊を訪れ、剣花坊の柳誌「川柳人」を中心に活躍が続くが、1930年(昭和5年)に金沢の第七連隊に入隊する。そこで「第七連隊赤化事件」が起こる。
入隊した喜多一二はナップ(全日本無産者芸術連盟)と連絡をとりつつ、「無産青年」(日本共産青年同盟の機関紙)を軍隊内に広めようとする。
治安維持法違反で懲役二年。彼は大阪の衛戍監獄(えいじゅかんごく)へ送られる。
吉橋の小説、第四章「抵抗への旅立ち」の獄中生活の場面では、こんなふうに描かれている。
「ここは大阪城内なので、街のざわめきは伝わってこない。だが、高い壁に穿たれたわずか五十センチ足らずの明かり窓が、鉄格子の向こうからたくさんのものを運んでくれる。
薄紅色の花びらがひらひらと舞い落ちてきたときは、夢かと思った。受け止めようとしたが足がふらつき、畳みの上に落としてしまった。そっとつまんで手のひらに乗せて香りをむさぼった。そのうち水分を失い、変色し始めたので口に入れると、まだ甘い花びらの味がした」
獄中生活は厳しく、一日中壁に向かって正座させられたり、真冬でも水風呂に五分間浸からなければならなかった。
陸軍衛戍監獄は大阪城内にあり、現在の豊国神社付近だと言われている。
2008年、鶴彬没後70年を記念して、この場所に「鶴彬顕彰碑」が建立された。場所は豊国神社の東側である。顕彰碑には次の句が刻まれている。
暁を抱いて闇にゐる蕾 鶴彬
この句は金沢市の卯辰山公園の句碑にも選ばれている。句碑について言えば、「手と足をもいだ丸太にしてかへし」の句碑が盛岡市(鶴彬の墓がある)に、「枯れ芝よ 団結をして春を待つ」が郷里の高松町にある。
1933年(昭和8年)、鶴彬は兵営を出る。木村半文銭と「大衆性論争」を激しく繰り広げたのは昭和11年のことである。昭和12年12月に「川柳人」に対する弾圧事件が起こり、鶴彬は特高に逮捕される。獄中で赤痢にかかり、昭和13年9月死去。享年29歳。
付け加えるべきかどうか迷うのだが、鶴彬と大阪との関係、実はもう一つある。鶴彬が「川柳人」に投句した作品を非国民的だとして当局に告発したと言われている川柳誌「三味線草」は大阪から発行されていたのである。ああ。