今年発表された川柳作品の中から秀句10句を選んで、簡単なコメントを付けてみたい。
もとより私の読んでいる限られた範囲の中で選んでいるので、客観性もなく極私的なものであることを御断りしておく。
想い馳せると右頬にインカ文字 内田万貴(第63回玉野市民川柳大会)
時空を越えた過去のできごとに想いを馳せる。たとえば、インカ帝国の滅亡。スペイン人によって略奪され滅ぼされたインカの都。パチャカマの落日。さまざまなイメージが連想される。
けれども、この句は恋句としても読める。恋しい人に想いを馳せると、右頬に秘められた想いが文字となって浮かび上がってくるのだ。もちろん、それはインカ文字だから簡単には読めない。ひそかに解読されるのを待っている。
ここで私はふと歴史の知識を思い出す。確かインカには文字がなかったはずではないか。縄をくくってあらわす縄文字というのは聞いたことがあるが、インカは無文字社会なのだ。
そうするとインカ文字そのものが虚構に思えてくる。右頬に浮かんだのは何だろう。
ぎゅうっと空をひっぱっている蛹 加藤久子(「MANO」17号)
昆虫の蛹にはいろいろなタイプがあるが、蝶の蛹はおおむね草木に二本の糸を張って固定されている。そうでないと羽化するときにきちんと殻から抜け出して成虫になれないのだ。
そのような蝶の蛹はまるで空を引っ張っているように見える。
仙台在住の加藤久子は東日本大震災で被災した。この句にはその体験が反映されているようだ。
短律は垂れる分け合う空の景 清水かおり(「川柳カード」創刊準備号)
タの音の繰り返しが律を生みだしている。
「垂れる」「分け合う」の動詞の繰り返しに一瞬とまどうが、「短律は垂れる/分け合う空の景」という二句一章と読むとすっきりする。
「分け合う」というところに一句の主意があると読んだ。
川柳のフィールドで詩的イメージを書くことの多い清水が珍しく主情的になっていることに少し感動したりする。
キリンの首が下りてくるまでここに居る 佐藤みさ子(大友逸星・添田星人追悼句会・平成24年3月11日)
「低い」という兼題に対して「キリンの首」をもってくる。キリンの首は高いところにあって、いつまでもそのままかも知れない。けれども、「私」は低いところに居る。そこが自分の居る場所だからだ。キリンの首は下りてくるだろうか。別に下りてこなくてもいいのだ。「私」は「私」なのだから。
静脈注射静脈を避けて刺す 井上一筒(「ふらすこてん」22号)
悪意の句である。静脈注射なのに静脈を避けて注射して大丈夫なんだろうか。注射する側の視点に立つと、相手に致命的なダメージを与えるほどではないからストレス発散になるかも知れない。気づかれ咎められても、ちょっと失敗しましたと言えばいいのだろう。
注射をされる側から事態を眺めてみると、この看護師の注射は大丈夫だろうかと思うことはよくある。血管に空気でも入れられたら大変である。
この句、医療の場面を外れても通用するところがある。実際に行為に移さなくても人は頭の中でこの程度のことは考えているものである。
遠雷や全ては奇より孵化をした きゅういち(「ふらすこてん」23号)
遠くで雷が鳴っている。「全ては奇より孵化をした」という認識がある。俳句の取り合わせの手法を取り入れつつ、断言の強さは川柳人のものである。「奇」は「奇妙」「奇人」「奇跡」「奇貨」などさまざまな語が考えられるが、ここではマイナス・イメージではなく、プラス・イメージでとらえられている。虫や鳥が卵からうまれるように、すべては「奇」から生まれるのだと。即ち、川柳も「奇」から生まれるわけだ。
マンドリンクラブで憩うモモタロー くんじろう(「川柳カード」創刊号)
(問い)桃太郎は鬼退治をしたあと、どうなったのでしょう。(答え)マンドリンクラブで憩っているところですよ。
けれども、主人公はあの桃太郎ではないかも知れない。モモタローという別のキャラクターかも知れないのだ。だから犬・猿・雉も見当たらない。このモモタローは萩原朔太郎のようにマンドリンが好きなのである。
紫の天使突抜六丁目 佐々馬骨(「ふらすこてん」句会・平成24年1月7日)
「天使突抜」は「てんしつきぬけ」と読むのだろう。
紫の天使が六丁目を突きぬけていった?
「天使突抜」という町名は京都に実在するという。地図で見ると三丁目・四丁目はあるが六丁目はない。「天使突抜六丁目」とは山田雅史監督の映画のタイトルである。存在しない異界に迷い込む話。
さて、この日の句会は「紫」という題だった。兼題と映画のタイトルを結びつけるところに馬骨の機知があった。
正方形の家見て帰る女の子 樋口由紀子(「川柳カード」創刊号)
「正方形の家」というものがあるのかどうか分らないが、その家の前まで来た女の子がただその家を見ただけで、その家の住人に会うこともなく帰ってゆく。「見て帰る」は外側から見ただけで中へ入ることもなく帰る、というふうに私には受け取れる。
女の子はその家の中には入れなかったのである。そもそも「正方形の家」などは嫌いなのである。ゆがみやいびつのない「正方形の家」なんて面白みがないのである。
読者はこの「女の子」の視点に同化する。
ポール・デルボーの絵では駅で汽車を見ている女の子の後ろ姿がよく描かれている。絵を見る者は後ろ姿の女の子に同化しているのだ。
血液は鋭く研いだ鳥の声 石部明(「川柳カード」創刊号)
石部明の最後の作品のひとつ。静脈瘤破裂をくり返し、闘病を続けた彼にとって、この句の認識は痛切なものであったろう。けれども、石部は体験をナマのままではなく、完成された作品として提出した。
血液からは鳥の声が聞こえる。それは病のためではない。川柳の血が鳥の声をあげさせるのだ。石部明の言葉の切れ味は最後まで衰えなかった。
■小池さま。
返信削除ごぶさたしています。
木村草弥です。
いつも拝見していますが、
今回の記事を、そのまま拙ブログに「転載」させていただきました。ご確認ください。 ↓
http://poetsohya.blog81.fc2.com/blog-date-20121218.html
よろしくお願いいたします。
あっ、草弥さんですか。
削除転載ありがとうございました。