2012年8月17日金曜日

ドイツで川柳について考える

8月7日付の朝日新聞夕刊に「ハンブルク・バレエ週間」についての記事があり、その中に「RENKU」という文字を発見してあっと驚いた。「RENKU」は即ち「連句」である。私はバレエについては無知であるが、振付家ジョン・ノイマイヤーが芸術監督を務めるハンブルク・バレエにはファンが多いらしい。6月17日から7月1日まで開催されたバレエ週間は、このバレエ団の最大の催しだという。14公演の演目のうち、初日に演じられた「RENKU」は日本の大石裕香とドイツのオーカン・ダンの振り付けによる。
バレエにおいて短いパートをつなぎながら連句的世界を創ってゆくという構想は、ノイマイヤーがモーリス・ベジャールとかねてから話し合っていたプランだった。ベジャール亡きあと、ノイマイヤーは大石とダンの二人の若手にこの試みを託したのである。
大石裕香は大阪出身のダンサーで、今回自らは踊らず、振付に回ったようだ。舞台はシューベルトの「死と乙女」を軸に展開する。Linked Poetryとしての連句精神が国際的な普遍性をもっていることのひとつの証しである。

国学院大学主催の万葉集・夏期講座が大阪天満宮で開催されて、一時期よく聴講に行った。今でもあるのかどうか分からないが、万葉集や記紀神話、折口信夫などについて学ぶところが多かった。あるとき、講師の岡野弘彦が「自分は毎年ヨーロッパへ出かけ、外国で短歌のことばかりを考えている」と語った。まだ若かった私は「短歌を考えるのなら日本で考えたらいいじゃないか、なんでわざわざ外国へ行く必要があるんだろう」と思ったものだった。岡野が言っていたことが今にしてよく分かる。外国へ行くと日本のことが見えてくるのだ。

斎藤茂吉は大正10年から大正13年まで滞欧生活を送っている。「斎藤茂吉選集」(岩波書店)の第9巻は「滞欧随筆」として、茂吉のヨーロッパ滞在中の動静を記した随筆がまとめられている。特に短歌が論じられているわけでもないが、この時、茂吉は日本を外から眺め、短歌についても考えを深めたことだろう。
「滞欧随筆」のうち有名な「ドナウ源流行」の冒頭を引用してみよう。

「この息もつかず流れてゐる大河は、どの辺から出て来てゐるだらうかと思つたことがある。維也納(ウインナ)生れの碧眼の処女とふたりで旅をして、ふたりして此の大河の流を見てゐた時である。それは晩春の午後であつた。それから或る時は、この河の漫々たる濁流が国土を浸して、汎濫域の境線をも突破しようとしてゐる勢を見に行つたことがある。それは初冬の午後であっただらうか。そのころ活動写真でもその実写があつて、濁流に流されて漂ひ着いた馬の死骸に人だかりのしてゐるところなども見せた。その時も、この大河の源流は何処だろうかと僕は思つたのであつた」

こうして茂吉はドナウの源流を求めて復活祭の休みにミュンヘンを出発するのである。

今夏、スイス・ドイツを旅行した。ハンブルクでバレエを見、茂吉のようにドナウ河の源流を訪ねたと言えば話の辻褄は合うが、そんなこともなくただ漫然と観光したばかりである。けれども、思考の流れは自然と川柳のことに向かっていった。もちろん、ヨーロッパには表面的には川柳の影も形もない。私たちが極東で日夜腐心している川柳という文芸は実に小さな形式に見えてくるのである。だが、川柳精神という意味ではヨーロッパのあれこれの文学作品と通底するものがぼんやりと見えてくる。

私も人並みにライン河下りの観光船に乗ってローレライの岩などを見た。船上にはハイネのローレライの歌まで流れていたが、学生時代には暗誦できたローレライの歌詞がもはやおぼろげになっているのに呆然とするのだった。ハイネは詩集『歌の本』の抒情詩人として知られているが、『アッタ・トロル』『ドイツ冬物語』などの長編諷刺詩を書いていて、きわめて政治的・諷刺的な詩人である。翻訳では分かりにくいが、たとえば『アッタ・トロル』におけるゲーテ批判はこんな調子である。

行列の中には、思想界の
大家たちが大勢いた。
われらのゲーテはすぐわかった。
あの目の明るい輝きを見て―

ゲーテはヘングステンベルクに酷評されて
墓の中にじっとしていられず、
異教の輩と一緒になって、いまも
生の狩猟を楽しみ続けているのだ。(『アッタ・トロル』第18章)

ヘングステンベルクという男が一連のゲーテ批判の文章(特に『親和力』に対する道徳的批判)を書いた。死せるゲーテは墓の中にじっとしていられなくなって現世にさまよい出てきたのだ。ハイネは批判者に同調しているのではない。彼の諷刺と嘲弄はヘングステンベルクとゲーテの二方向に向けられている。もちろんゲーテの方が偉大なのである。
ロマン派のイロニーは常に空想の世界と現実の世界との落差から生まれる。ローレライの夢の世界からだけ出来ているわけではない。

連句のエッセンスであるイメージの連鎖はエズラ・パウンドのイマジズムなどに影響を与え、冒頭で紹介した現代バレエにまで及んでいる。それでは川柳という文芸のエッセンスは何であろうか。おおかたの日本人が駄洒落で下品なものと受け止めている川柳ではなくて、世界文学の場に出したときにも通用する川柳の普遍性というものがあるかどうかということである。もしあるとしたら、たぶん、それは「批評性」であり、もう少し拡げていうと「批評的ポエジー」だろう。
ドイツを旅していて、常に思い出していたのはトーマス・マンのことである。トーマス・マンの文学の本質はイロニーにあり、彼の作品の多くはパロディである。ゲーテは別格としてハイネ・ニーチェ・マンなどのドイツ精神の中には批評的ポエジーが流れている。「形式としての川柳」ではなくて「川柳の精神」というようなものを考えないと、川柳は実に小さな文芸に終始してしまうことになる。

ノイシュバーンシュタイン城は観光客で溢れていた。ヴィスコンティの映画でも有名なルートヴィッヒ二世が18歳で王になったとき、最初に命令したのはヴァーグナーを自分のもとへ連れてくることだったという。彼はヴァーグナーに傾倒していたのだ。彼にとって城の建設は権力の象徴などではなくて、理想の芸術空間の実現だった。
地位も財力もない私たちは言葉によって自分の世界を構築するしかないのである。

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