2月4日(土)に京都私学会館で「愛媛大学写生・写生文研究会」が開催された。
この研究会は愛媛大学教授の佐藤栄作氏が主催し、「役割語」の視点から写生文・写生を研究しようとするものらしい。「役割語」とは金水敏氏が提唱したもので、話者の特定の人物像を想起させる言葉づかいを言うようだ。オネエ言葉やキャラ言語などが含まれるが、これと写生との関係は不明。当日の研究会には俳人・歌人・川柳人などが参加し、活気に満ちたものとなった。
基調報告の竹中宏は個々の写生句ではなくて、その根源にあるものを見すえた報告を行った。竹中は「個々の俳人の具体例を分析していくことにはそれほど興味を感じない、それでは『木を見て森を見ない』ことになってしまう」と述べたあと、波多野爽波の句集『舗道の花』の扉にある「写生の世界は自由闊達の世界である」という言葉を引用した。写生はものを写すのではなくて「自由闊達」な感覚であるということだが、一方で「自由闊達でない俳句」があることが意識されている。逆に言えば「写生でない俳句」では自由闊達は実現できないことになる。「写生でない俳句」(反写生)としてまず思い浮かぶのは、水原秋桜子の「自然の真と文芸上の真」である。人間が自らの意識を自覚的に運用していくという方向とは別に、自己を外の世界に解き放ってゆく感覚を写生派の人々は感じていたのではないかと竹中は言う。
外界は人間の思っているようには動いていない。その外界を閉ざして自閉的な世界を確立することが自由なのかどうかというのが竹中の問題提起である。人間は見たいようにしか外界を見ていない。
また彼は「写生は俳句自体の問題ではなくて、俳句が俳句になる境界のところで生まれる論題」とも述べた。
竹中の基調報告を受けて、パネラーの岩城久治は「写生という言葉がいけなかったのではないか」と述べた。
中田剛は「写生」と「写実」の違いについて述べ、「掴みだしてきたものを言葉で構成する過程があるのではないか」と指摘した。それに対して、竹中は「私が言ったのは創作過程の一歩手前の問題」であり、「写生体験」はそれを現実化していく「言語体験」の中で裏切られてゆくことがあると語った。混沌とした創作体験を語る場合に、「写生体験」と「言語体験」の二段階に分けて説明するのはわかりやすいが、実際には両者は混沌として同時進行するのではないかと思ったりした。
関悦史は竹中の基調報告を受けて、「自分の言いたいことを言おうとするとみんな同じになる。言いたいことを抑圧することによって逆にその作家性が立ち上がってくる」と述べた。
パネラーの実作体験を踏まえた発言はそれぞれ刺激的なものであった。
事前にもらった資料の中で竹中宏は「ノイズ」について書いている(「俳句界」2007年11月号)。
ある合評会で俳人が「すくなくとも、これは写生的といえない。写生には、もっとノイズがふくまれているはずだ」と発言したことに触れて、次のように述べている。
「生きている世界は、無数の生きている事象の巨大な集合であり、事物はそれぞれが生きていることの気配を発散しているのだから、世界はふかいざわめきのもとにある。生きていることのざわめきは、これを今日ふうにいえば、抽象化と数理化の支配にあらがうノイズとして、世界にみちていて、事物から削ぎおとせば、ただの静物だけが残ることになる。写生は、事物を、その内部に包蔵され、表面に滲出し、周囲からそれをくるみこんでいるノイズの網目ごと、そっくりとらえたいのだ」
川柳では「写生」ということはあまり言わない。
もちろん「写生」を唱えた個々の川柳人は存在しており、浅井五葉などの名が思い浮かぶ。
大仏の鐘杉を抜け杉を抜け 五葉
けれども、「写生」の主張が川柳界全体を覆うことはなかったし、論として深められたこともなかった。
もともと、川柳は第三者の立場から社会や人間を風刺するもので、その傍観者性は漱石の「非人情」「余裕派」に通じるところがある。
水原秋桜子の「自然の真と文芸上の真」について言えば、「文芸上の真」の方に共感する川柳人は多いだろう。大多数の川柳は日常的トリヴィアリズムの次元にとどまっているので、そこから抜け出るためには秋桜子の「文芸上の真」は今でも有効なのだ。秋桜子は理想的に構成する世界で、写生とははっきり違う。秋桜子の句集『葛飾』の序に「自己の心を無にして自然に忠実ならんとする態度」「自然を尊びつつも尚お自己の心に愛着をもつ態度」の二つについて、秋桜子は第二の態度をとると述べている。問題は「自己の心」からどのように次に進むかということだろう。
竹中宏の資料として事前に配布された文章に「写生不快」(「青」253号、昭和50年10月号)がある。そこではこんなふうに書かれていた。
「現実にわれわれは、事物や世界のありようについて、あらかじめなんらかの解釈をもったうえで、その既成の解釈の眼鏡をとおして、事物や世界にふれているのだが、写生は、この眼鏡を破砕し、その裂けめから、裸形の存在がつきでる」
その通りだと思われるけれども、川柳の場合は「眼鏡」そのもののおもしろさを生命とするところがある。もちろん常識的解釈という眼鏡はつまらないが、世界に対する独自のものの見方は、レンズが屈折しているからこそ、ユニークな世界を立ち上がらせることがある。いわゆる「川柳眼」である。
当日の竹中宏の発言のひとつに「ことばが『私』の外に半分出てくれるかどうか」というのがあった。竹中は本質的なことしか語らなかったのであり、語りえないものを語ろうとしていた。そのことがとても印象的だった。世界を見る独自の眼をもちながらノイズをもキャッチする方途があるだろうか、そんなことを考えた。
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