「川柳の読み方」「俳句の読み方」というようなものがあるだろうか。
どんな読み方をしようと読者の自由だとも言えるが、形式の差が読み方の差につながるとすれば、短歌や俳句の読み方とは異なる川柳の読み方というようなものが考えられないこともない。
「豈」52号掲載の「〈答え〉からの逸脱」で吉澤久良は「川柳的な読み」について述べている。吉澤は川柳の基本的発想を問答体ととらえ、既存の問答体の超克・逸脱に現代川柳のおもしろさを認めているようだ。(川柳の問答構造については、尾藤三柳に川柳の発生史をふまえた論考があり、川柳界でも広く認められている。)
吉澤は「A はBである」という問答体のうち、答えとしてのBに「落とす」という川柳の感覚について述べたあと、『超新撰21』から次のような句を引用している。
新緑や全国犀の角協会 田島健一
フジツボは小さき地蔵夏の月 柴田千晶
温和しい犬のゐる家たうがらし 上田信治
モザイクタイルの聖母と天使夏了る 榮猿丸
実のあるカツサンドなり冬の雲 小川軽舟
黄落や肉煮る鍋のふきこぼれ 山田耕治
吉澤はこれらの俳句の表現としてのおもしろさを認めつつ、特に1句目から4句目までの俳句に「違和感」を感じるという。それは「新緑」「夏の月」「たうがらし」「夏了る」などの季語と季語以外の部分との関係性(ギャップ・唐突感など)に対する違和感であるらしい。その上で彼は「そういう違和感を持つ理由は明らかで、私が川柳人であり、季語に関する歴史的な蓄積を知らず、季語についての共感を持っていないからである」と述べている。即ち、彼は川柳人として俳句に向き合っていて、川柳の眼で俳句を読んでいる、ということになる。はたして、「川柳的読み」「俳句的読み」というものがあるのだろうか。
私が「川柳と俳句の読みの違い」を意識したのは、「バックストロークin仙台」(2007年5月)のときの渡辺誠一郎の発言による。渡辺は俳句の場合、解釈の手がかりとして「季語」がひとつの安心材料になっているが、川柳の場合は自由な反面、どう読んでいくのだろうという疑問を提起した(「バックストローク」19号)。俳句の場合でも読みが変わってくることがあり、次の句が例に挙げられた。
空蝉の軽さとなりし骸かな 片山由美子
渡辺が「人間の亡骸がもはや空蝉の軽さとなってしまったという思い」と解釈したのに対して、作者は「骸」は蝉の死骸であって、「もの」からは離れないと述べているという。
「もの」にこだわるのが俳句の伝統的な読みかどうかは別にして、物から離れて別のイメージを重ねる読みも可能だということだろう。季語というベースがある俳句でも解釈が分かれることがある。では、川柳ではどうなのか。私が連想するのは次の川柳である。
かぶと虫死んだ軽さになっている 大山竹二
この句を「かぶと虫」自体を詠んだ句だと受け取る川柳人はいないだろう。生きている間は掌の上で力強く動いているかぶと虫も死ぬとあっけないほどの軽さになる。ここには病涯の作者自身のイメージが重なってくる。死んだかぶと虫と作者が一体化しているのだ。
ここで問い方を少し変えて、俳人が俳句を読むときの読み方と、川柳人が俳句を読むときの読み方には違いがあるのだろうか、という問いを立ててみることにしよう。また、川柳人が川柳を読むとき、俳人が川柳を読むときはどうか。
俳人であろうと川柳人であろうと、読者として作品に対しているなら、読み方に差異はないともいえるが、それぞれ背負っているものの違い、ふだん見慣れているフィールドの違いによって読みに微妙な差が生まれることも考えられる。
これも過去のことになるが、「五七五定型」3号(2009年2月)掲載の「五七五定型をどう読むか」という特集では、次の俳句が例に挙げられている。
かの鷹に風と名づけて飼ひ殺す 正木ゆう子
この句について小池は次のように発言している。
「『飼ひ殺す』がインパクトの強い言葉で、川柳人の場合は飼い殺される鷹の方に感情移入する場合が多いと思います。飼い殺す人間と飼い殺される鷹との関係ですね。弱者の立場に自己同一化すれば、飼い殺される檻の中の鷹という自由を奪われたルサンチマンの表現になってしまいます。この句の場合は飼い殺す方に視点があるので、これを爽やかさと見るか、悪意と見るかですね。鷹に『風』という名を付けていて、風は本来自由なものですから、皮肉とも取れるわけです。皮肉と取ると句が陰湿になるので、爽やかさと取るのがいいかも知れませんね」
野口裕は「句はマニュアルなしで読んでいるような気がする。読みという作業はマニュアル化しにくい。結局、一句一句読んでいかないと仕方がない」と述べている。これに対して石田柊馬は「川柳の読みでマニュアルのあった時代があったんです。たとえば、正木ゆう子のこの句を『ナルシシズム』というマニュアルで読めば、飼い殺しというのは、自分の中にある実現できない鷹、という感じ、自分の一生を書いているというような読み方がかつてあったんです」と発言した。
「読みのマニュアル」とは聞き慣れない言葉だが、そのようなマニュアルが具体的にあったというのではなくて、一時期の川柳界の風潮として、「一句の中のどの言葉に作者がいるのか」「作者の言いたいことが句のどの言葉に反映されているか」という読み方が一般的だったということだろう。石田の発言に対して、野口がさらに「(マニュアルは)あるんでしょうけど、それには乗っかりたくないという気分があります。読むときに無意識に外して読んでいます」と述べているのは、読み巧者の野口であるだけに興味深い。
読みのマニュアル化とマニュアル外し。なかなか微妙な問題である。
読みは句会で鍛えられるのが一般であるが、川柳の句会では作品の読みにまで踏み込んで十分な時間をとることがあまりない。
俳句の読み、川柳の読み、それらを越えたところに成立する五七五定型としての一句の読み。それぞれの読者が作品と対峙しながら深めていくべきことであろう。
「一句のどこに作者がいるか」が問われた時代の作品を挙げておく。
人形の瞳をくりぬいて得た情事 飯尾麻佐子
風百夜 透くまで囃す飢餓装束 渡部可奈子
2011年11月25日金曜日
2011年11月18日金曜日
井上一筒・イメージのコラージュ
関西に井上一筒(いのうえ・いーとん)という不思議な川柳人がいる。「一筒」という号はたぶん麻雀から来ているのだろう。ピンズの1は「イーピン」というが「イートン」という呼び方もあるらしい。私の父はこの牌がでると「浅草の芸者・一丸(市丸)さん」と言っていた。井上一筒は「川柳瓦版の会」という結社に所属しているが、あちこちの句会に出没している。川柳句会では選者が句を読むと、すかさず作者が名のることになっていて、これを「呼名」というが、句会で「イートン」という呼名があると、もうそれだけで笑いが起こるようだ。
「川柳木馬」130号の「作家群像」のコーナーでは、この一筒が取り上げられている。一筒の経歴が何か分かるかと期待したが、プロフィールを読んでも具体的なことは何も書かれていないし、「作者のことば」も同様である。作者についての情報は伏せて、作品だけを読んでほしいということだろう。
湊圭史と古谷恭一が作家論を書いている。湊は一筒作品を読むキーワードとして「生真面目さからくるロマンティシズム」と「意表をつくスピード」を挙げている。ふつうは裏腹の関係にある二つの要素が微妙に配分されているところにおもしろさがあるというのだ。古谷は一筒作品を「笑い」の面からとらえ、秋竜山のナンセンス漫画を見るようだと述べている。そういえば、『秋竜山の江戸川柳と一勝負』(池田書店)という本を先ごろ古本で見つけた。
以下、一筒の作品をいくつか紹介してみよう。
雅楽頭殿めしつぶがついています 井上一筒
伝統川柳の書き方である。「酒井雅楽頭(うたのかみ)」をはじめ、時代劇では幕閣の一員としてよく登場する。権力ある武士が不用意にも口のあたりに幼児のような飯粒を付けているというのだ。私が川柳をはじめたときに、次のような句を知って、おもしろいなと思った。
ご意見はともかく灰が落ちますよ 野里猪突
やんわりと相手を風刺する、伝統川柳の一つの手法だろう。作中主体である「私」と相手との関係性が目に見えるようである。「雅楽頭」は時代を江戸時代にしているが、現代における雅楽頭のような存在を揶揄しているとも読める。
けれども次のような句になると、単なる時代劇の一こまではすまされなくなる。
殿中でござるカピバラの残像 一筒
忠臣蔵の世界であろうか。松の廊下あたりをカピバラが横切った。南米原産で世界最大のネズミと言われている。最近はいろいろキャラクターにもなっているようだ。時空があわない。その落差による滑稽感。不条理演劇の一場面を見るようだ。
なぜ殿中にカピバラがいるのかという問いは無効なのだ。「残像」だから本当は存在しないのだという解釈も理に落ちてしまう。「殿中」と「カピバラ」のふたつの像が一句のなかで共存しているおもしろさを感じとればいいのだろう。「雅楽頭殿…」では時間のズレだったものが、ここでは時間・空間のズレへと手が込んできている。
絵画でコラージュという技法がある。別々の断片を糊で一つの画面に張り合わせる。たとえば忠臣蔵の画面にカピバラを貼り付ける。本来関係ないものである方が衝撃力は大きくなる。けれども、眺めているうちに、カピバラが殿中にマッチしはじめてきたならば、この句は成功なのだろう。
膝の水を抜く空海的な意味
ネストリウス派のどくだみの煎じ方
一筒はさらにエスカレートする。「膝の水を抜く意味」に「空海的」という言葉を挿入する。「どくだみの煎じ方」に「ネストリウス派の」という修飾を付けてみる。「空海」「ネストリウス派」という記号が投げ込まれることによって日常的文脈は変容する。
湊圭史は「慣れていない読者は戸惑うかもしれないが、技法的にはそれほど複雑ではない」と述べ、「ひとつの文脈にまったく文脈が異なるものを導入したり、ある文脈に通常は考えられない限定を与えたりすることで、言葉の世界が曲げられるパターン」と指摘している。
「空海」や「ネストリウス派」が単なる記号なのか、それともこの単語が選ばれていることに意味があるのかどうかは微妙である。「最澄」ではなくて「空海」であり、「アリウス派」ではなくて「ネストリウス派」というところに語の選択は当然あるだろうが、記号的なものとしてそこで読みをとどめるか、密教的世界や三位一体の教義までイメージを広げていくかは読者に任されている。
古谷恭一は「己の体験以外の言葉には、なかなか感動は生れない」と述べている。また、湊圭史は時代的連関は句語の外で「一種のおもり」として機能するものとして、一筒作品に「一種のロマンティシズム」を読み取っている。
8時にはこむらがえりになる予定
「こむらがえり」の句は、60句の冒頭に据えられている。しかし、この句を冒頭句にして、しかも「こむらがえり」というタイトルまで付けたのが成功だったのかどうか。意味性の強い言葉であるだけに、精神のこむらがえりを笑うとか、文脈にこむらがえりを起こさせるとかの表現意図を見透かされることになってしまうからだ。
天竺を越えて来た銀の前置詞
絵画と言葉のコラージュである。
天竺を越えて来たのは三蔵法師などの取経僧のイメージであろうか。ヒマラヤを越える鶴のイメージかも知れない。これを「前置詞」という言葉の世界へつないでいる。
御手付き中﨟ジオラマを掠める
「木馬」に掲載された60句の中で、私がもっとも好む作品である。
私は最初、ジオラマの中を御手付き中﨟が走り過ぎるのかと思ったが、それだとつまらない。御手付き中﨟がジオラマを持ち去ったのだろう。それは殿さまの大切にしているジオラマだった(と私は勝手に読んでいる)。
ジオラマは明治時代に日本に入ってきたようだから、もとより時代があわない。あまり大きなジオラマだと持ち去るのにたいへんだから、箱型の風景画程度のものだろう。殿さまはフィギュアなども愛好していたかもしれない。家宝ではなくジオラマを盗んだ中臈の気持は、その後顧みられなくなったことに対する憎しみだろうか、それとも皿屋敷のお菊の場合のような愛情の試しだろうか。あるいは、新奇なジオラマそのものに対する少女じみた好奇心だろうか。
どうやら一筒の術中に陥ったようだ。
「川柳木馬」130号の「作家群像」のコーナーでは、この一筒が取り上げられている。一筒の経歴が何か分かるかと期待したが、プロフィールを読んでも具体的なことは何も書かれていないし、「作者のことば」も同様である。作者についての情報は伏せて、作品だけを読んでほしいということだろう。
湊圭史と古谷恭一が作家論を書いている。湊は一筒作品を読むキーワードとして「生真面目さからくるロマンティシズム」と「意表をつくスピード」を挙げている。ふつうは裏腹の関係にある二つの要素が微妙に配分されているところにおもしろさがあるというのだ。古谷は一筒作品を「笑い」の面からとらえ、秋竜山のナンセンス漫画を見るようだと述べている。そういえば、『秋竜山の江戸川柳と一勝負』(池田書店)という本を先ごろ古本で見つけた。
以下、一筒の作品をいくつか紹介してみよう。
雅楽頭殿めしつぶがついています 井上一筒
伝統川柳の書き方である。「酒井雅楽頭(うたのかみ)」をはじめ、時代劇では幕閣の一員としてよく登場する。権力ある武士が不用意にも口のあたりに幼児のような飯粒を付けているというのだ。私が川柳をはじめたときに、次のような句を知って、おもしろいなと思った。
ご意見はともかく灰が落ちますよ 野里猪突
やんわりと相手を風刺する、伝統川柳の一つの手法だろう。作中主体である「私」と相手との関係性が目に見えるようである。「雅楽頭」は時代を江戸時代にしているが、現代における雅楽頭のような存在を揶揄しているとも読める。
けれども次のような句になると、単なる時代劇の一こまではすまされなくなる。
殿中でござるカピバラの残像 一筒
忠臣蔵の世界であろうか。松の廊下あたりをカピバラが横切った。南米原産で世界最大のネズミと言われている。最近はいろいろキャラクターにもなっているようだ。時空があわない。その落差による滑稽感。不条理演劇の一場面を見るようだ。
なぜ殿中にカピバラがいるのかという問いは無効なのだ。「残像」だから本当は存在しないのだという解釈も理に落ちてしまう。「殿中」と「カピバラ」のふたつの像が一句のなかで共存しているおもしろさを感じとればいいのだろう。「雅楽頭殿…」では時間のズレだったものが、ここでは時間・空間のズレへと手が込んできている。
絵画でコラージュという技法がある。別々の断片を糊で一つの画面に張り合わせる。たとえば忠臣蔵の画面にカピバラを貼り付ける。本来関係ないものである方が衝撃力は大きくなる。けれども、眺めているうちに、カピバラが殿中にマッチしはじめてきたならば、この句は成功なのだろう。
膝の水を抜く空海的な意味
ネストリウス派のどくだみの煎じ方
一筒はさらにエスカレートする。「膝の水を抜く意味」に「空海的」という言葉を挿入する。「どくだみの煎じ方」に「ネストリウス派の」という修飾を付けてみる。「空海」「ネストリウス派」という記号が投げ込まれることによって日常的文脈は変容する。
湊圭史は「慣れていない読者は戸惑うかもしれないが、技法的にはそれほど複雑ではない」と述べ、「ひとつの文脈にまったく文脈が異なるものを導入したり、ある文脈に通常は考えられない限定を与えたりすることで、言葉の世界が曲げられるパターン」と指摘している。
「空海」や「ネストリウス派」が単なる記号なのか、それともこの単語が選ばれていることに意味があるのかどうかは微妙である。「最澄」ではなくて「空海」であり、「アリウス派」ではなくて「ネストリウス派」というところに語の選択は当然あるだろうが、記号的なものとしてそこで読みをとどめるか、密教的世界や三位一体の教義までイメージを広げていくかは読者に任されている。
古谷恭一は「己の体験以外の言葉には、なかなか感動は生れない」と述べている。また、湊圭史は時代的連関は句語の外で「一種のおもり」として機能するものとして、一筒作品に「一種のロマンティシズム」を読み取っている。
8時にはこむらがえりになる予定
「こむらがえり」の句は、60句の冒頭に据えられている。しかし、この句を冒頭句にして、しかも「こむらがえり」というタイトルまで付けたのが成功だったのかどうか。意味性の強い言葉であるだけに、精神のこむらがえりを笑うとか、文脈にこむらがえりを起こさせるとかの表現意図を見透かされることになってしまうからだ。
天竺を越えて来た銀の前置詞
絵画と言葉のコラージュである。
天竺を越えて来たのは三蔵法師などの取経僧のイメージであろうか。ヒマラヤを越える鶴のイメージかも知れない。これを「前置詞」という言葉の世界へつないでいる。
御手付き中﨟ジオラマを掠める
「木馬」に掲載された60句の中で、私がもっとも好む作品である。
私は最初、ジオラマの中を御手付き中﨟が走り過ぎるのかと思ったが、それだとつまらない。御手付き中﨟がジオラマを持ち去ったのだろう。それは殿さまの大切にしているジオラマだった(と私は勝手に読んでいる)。
ジオラマは明治時代に日本に入ってきたようだから、もとより時代があわない。あまり大きなジオラマだと持ち去るのにたいへんだから、箱型の風景画程度のものだろう。殿さまはフィギュアなども愛好していたかもしれない。家宝ではなくジオラマを盗んだ中臈の気持は、その後顧みられなくなったことに対する憎しみだろうか、それとも皿屋敷のお菊の場合のような愛情の試しだろうか。あるいは、新奇なジオラマそのものに対する少女じみた好奇心だろうか。
どうやら一筒の術中に陥ったようだ。
2011年11月11日金曜日
「豈」52号における「ジャンルの越境」
「ジャンル越境時代」と言われて久しいが、ジャンルの垣根というものは今も厳然として存在する。個々の作家が作品を書く場合の根拠としてジャンルとか形式が背後にあることがやはり有効なのであろう。
音楽ではかつて「クロスオーバー」という言葉があった。ジャンルの存在を前提として、それを乗り越えようという発想である。やがて「フュージョン」という言葉が出来て、垣根を溶かして融合させようという発想になった。だが、「ジャズ」が「フュージョン」になることによって、本来のジャズらしさが失われていったという見方をすると、ジャンルの融合はジャンルの解体・変質につながってゆく。石田柊馬が一時よく言っていた「川柳が川柳であるところの川柳性」が見失われ、川柳が終焉するという文脈はここから出てくる。
ジャンルはそれを支えている人間の量と質によって優位が決まるという考え方もできる。英語の優位はそれを語る人間の量によって保障され、日本語を語る人間が減少してゆくことで日本文芸は衰退することになる。日本の短詩型文学の世界において、俳句・短歌がジャンルのヘゲモニーを握っているのは、量的保証があるためだとも言える。
「他者」という言葉を使えば、文芸にとっての他者とは他ジャンルの作品ということになるだろう。俳句にとっての短歌・川柳。川柳にとっての狂句・俳句。自由詩にとっての定型詩・短歌・俳句…等々。
これらの文芸諸ジャンルが上位・下位のヒエラルキーではなくて、正面から向き合うような状況がいま少しずつ生まれてきている。
「―俳句空間― 豈」52号の特集「ジャンルの越境」は、『超新撰21』や「詩客」ホームページの開設などを踏まえた企画であろう。本誌巻頭の「新鋭招待作家」には、生駒大祐・冨田拓也などと並んで清水かおりや種田スガルの作品が掲載されている。
夢削ぎの刑かな林檎剥くように 清水かおり
手に入るものなら日盛り空の腕
過呼吸の嘴細烏は見ないふり
「詩客」を運営している森川雅美は「三詩型交流の現場から」で次のように書いている。
「今までの詩歌の多くの雑誌やウェブマガジンは、一つの詩型に特化するか、いくつかの詩型が載っていても、一つの詩型に重点が置かれていた。しかし『詩客』では同じページに、三詩型の作品の表示が並んでいて、クリックすると見られるようになっている。『短歌』『俳句』『自由詩』の表記はあるので、まったく並行というわけにはいかないが、他と比べると境界の壁は低い」
ここに「川柳」がなぜないのだというクレームはもう無用である。森川の視野に「川柳」はきちんと入っているし、「詩客」のホームページにも実質的に川柳人が参加していることはすでにみなさんがご存じのことだろう。
さて、谷口慎也は「内なる越境」で次のように書いている。
「確かに、俳柳それぞれの作品がクロスオーバーする領域というものがある。またそこはこのふたつのジャンルにとって豊かな可能性を暗示する場所でもある。だがその領域から俳柳を超えた何かを、例えば新しいジャンルの成立などを夢みるとすれば、それはしょせんかなわぬ夢と言うしかない。俳柳それぞれの書き手が一句を成そうとするとき、その発想の内的契機は、同時的にそれぞれの領域を背負ってしまうからだ」
こうして谷口は「越境」について「内なる越境」(ジャンル内の越境)という観点から、「本流」に対峙する「反流」というとらえ方をしている。
また、谷口が種田スガルの句になつかしさとともに苦い感情をもったと述べていることも興味深い。かつて山村祐の「短詩」が長音派と短音派に分裂して拡散していったことをふまえての発言である。ちょうど本誌には「新鋭招待作家」として種田スガルの作品が掲載されている。
顔のない世界で遠い過去を生きる 種田スガル
摘み木の上から眺める格差の最果て
暖かい鳥かごの中 無下にする才能の孤独
これを「短詩」誌に掲載された作品と比べてみる。「短詩」は1966年9月創刊、1970年3月休刊。山村祐によって43冊刊行されている。
告白のあとのブランコに朝顔が巻いている 道上大作
石神逆光に目覚め千年目の欠伸 谷口慎也
吊輪ぶらさげ夕陽の中を帰る類人猿 吉田健治
ふはは どこまでを道化おおせる 骨の笛 石津恵造
私は何も種田の作品が先行作品の繰り返しだと言っているのではない。若い表現者は自己の実感と言葉に基づいて表現する権利をもっている。それが表現史のうえでどのような意味をもつかは後の話である。
また、関悦史は「越境に関する断章」で次のように書いている。
「『超新撰21』におけるジャンルの越境は、川柳や自由律俳句をアンソロジーに同列に取り込むことにより、有季定型俳句を読むのと同じ目でそれらの作品を読ませようとする、いささか強引ともいえる誘い込みだった」
「越境して他のジャンルに移ってしまうのではなく、いわば有季定型に対して脱中心化をしかけようという挑発であり、外よりも、俳句というジャンルの内側へと主に注意が向いたアクション。脱領土化の浮遊ではなく、周辺領域の再属領化による撹乱」
関の認識は谷口の指摘と対応している。
『超新撰21』にも『詩客』にもまったく触れずに、恩田侑布子は「鷹女と短歌とロックンロール」で三橋鷹女にとっての短歌からの影響、特に若山牧水の影響を「眼のなき魚」の例をあげて論じている。いまこれに川柳における「眼のなき魚」の作例を私が付け加えて三作品を並べると、次のようになる。
海底に眼のなき魚の棲むといふ眼のない魚の恋しかりけり 若山牧水『路上』
颱風の底ひ眼のなき魚が棲む 鷹女『向日葵』
眼のない魚となり海の底へと思ふ 中島紫痴郎
「ジャンルの越境」とは実際、大変なエネルギーのいることである。それは他者と向き合うことであり、ひるがえって自己を問われることでもある。短詩型文学のヒエラルキーの中で自足しているなら問題はないが、広い視野から短詩型文学の表現史を見渡そうとすると、形式の恩寵に安住できない事態に直面せざるをえないだろう。幸いなことに、ジャンルのヘゲモニーを越えて、作品自体と誠実に向き合うような読み手が俳句のフィールドにおいても増えてきているのだ。それに応えうるような川柳作品が書かれることがますます望まれるのである。
音楽ではかつて「クロスオーバー」という言葉があった。ジャンルの存在を前提として、それを乗り越えようという発想である。やがて「フュージョン」という言葉が出来て、垣根を溶かして融合させようという発想になった。だが、「ジャズ」が「フュージョン」になることによって、本来のジャズらしさが失われていったという見方をすると、ジャンルの融合はジャンルの解体・変質につながってゆく。石田柊馬が一時よく言っていた「川柳が川柳であるところの川柳性」が見失われ、川柳が終焉するという文脈はここから出てくる。
ジャンルはそれを支えている人間の量と質によって優位が決まるという考え方もできる。英語の優位はそれを語る人間の量によって保障され、日本語を語る人間が減少してゆくことで日本文芸は衰退することになる。日本の短詩型文学の世界において、俳句・短歌がジャンルのヘゲモニーを握っているのは、量的保証があるためだとも言える。
「他者」という言葉を使えば、文芸にとっての他者とは他ジャンルの作品ということになるだろう。俳句にとっての短歌・川柳。川柳にとっての狂句・俳句。自由詩にとっての定型詩・短歌・俳句…等々。
これらの文芸諸ジャンルが上位・下位のヒエラルキーではなくて、正面から向き合うような状況がいま少しずつ生まれてきている。
「―俳句空間― 豈」52号の特集「ジャンルの越境」は、『超新撰21』や「詩客」ホームページの開設などを踏まえた企画であろう。本誌巻頭の「新鋭招待作家」には、生駒大祐・冨田拓也などと並んで清水かおりや種田スガルの作品が掲載されている。
夢削ぎの刑かな林檎剥くように 清水かおり
手に入るものなら日盛り空の腕
過呼吸の嘴細烏は見ないふり
「詩客」を運営している森川雅美は「三詩型交流の現場から」で次のように書いている。
「今までの詩歌の多くの雑誌やウェブマガジンは、一つの詩型に特化するか、いくつかの詩型が載っていても、一つの詩型に重点が置かれていた。しかし『詩客』では同じページに、三詩型の作品の表示が並んでいて、クリックすると見られるようになっている。『短歌』『俳句』『自由詩』の表記はあるので、まったく並行というわけにはいかないが、他と比べると境界の壁は低い」
ここに「川柳」がなぜないのだというクレームはもう無用である。森川の視野に「川柳」はきちんと入っているし、「詩客」のホームページにも実質的に川柳人が参加していることはすでにみなさんがご存じのことだろう。
さて、谷口慎也は「内なる越境」で次のように書いている。
「確かに、俳柳それぞれの作品がクロスオーバーする領域というものがある。またそこはこのふたつのジャンルにとって豊かな可能性を暗示する場所でもある。だがその領域から俳柳を超えた何かを、例えば新しいジャンルの成立などを夢みるとすれば、それはしょせんかなわぬ夢と言うしかない。俳柳それぞれの書き手が一句を成そうとするとき、その発想の内的契機は、同時的にそれぞれの領域を背負ってしまうからだ」
こうして谷口は「越境」について「内なる越境」(ジャンル内の越境)という観点から、「本流」に対峙する「反流」というとらえ方をしている。
また、谷口が種田スガルの句になつかしさとともに苦い感情をもったと述べていることも興味深い。かつて山村祐の「短詩」が長音派と短音派に分裂して拡散していったことをふまえての発言である。ちょうど本誌には「新鋭招待作家」として種田スガルの作品が掲載されている。
顔のない世界で遠い過去を生きる 種田スガル
摘み木の上から眺める格差の最果て
暖かい鳥かごの中 無下にする才能の孤独
これを「短詩」誌に掲載された作品と比べてみる。「短詩」は1966年9月創刊、1970年3月休刊。山村祐によって43冊刊行されている。
告白のあとのブランコに朝顔が巻いている 道上大作
石神逆光に目覚め千年目の欠伸 谷口慎也
吊輪ぶらさげ夕陽の中を帰る類人猿 吉田健治
ふはは どこまでを道化おおせる 骨の笛 石津恵造
私は何も種田の作品が先行作品の繰り返しだと言っているのではない。若い表現者は自己の実感と言葉に基づいて表現する権利をもっている。それが表現史のうえでどのような意味をもつかは後の話である。
また、関悦史は「越境に関する断章」で次のように書いている。
「『超新撰21』におけるジャンルの越境は、川柳や自由律俳句をアンソロジーに同列に取り込むことにより、有季定型俳句を読むのと同じ目でそれらの作品を読ませようとする、いささか強引ともいえる誘い込みだった」
「越境して他のジャンルに移ってしまうのではなく、いわば有季定型に対して脱中心化をしかけようという挑発であり、外よりも、俳句というジャンルの内側へと主に注意が向いたアクション。脱領土化の浮遊ではなく、周辺領域の再属領化による撹乱」
関の認識は谷口の指摘と対応している。
『超新撰21』にも『詩客』にもまったく触れずに、恩田侑布子は「鷹女と短歌とロックンロール」で三橋鷹女にとっての短歌からの影響、特に若山牧水の影響を「眼のなき魚」の例をあげて論じている。いまこれに川柳における「眼のなき魚」の作例を私が付け加えて三作品を並べると、次のようになる。
海底に眼のなき魚の棲むといふ眼のない魚の恋しかりけり 若山牧水『路上』
颱風の底ひ眼のなき魚が棲む 鷹女『向日葵』
眼のない魚となり海の底へと思ふ 中島紫痴郎
「ジャンルの越境」とは実際、大変なエネルギーのいることである。それは他者と向き合うことであり、ひるがえって自己を問われることでもある。短詩型文学のヒエラルキーの中で自足しているなら問題はないが、広い視野から短詩型文学の表現史を見渡そうとすると、形式の恩寵に安住できない事態に直面せざるをえないだろう。幸いなことに、ジャンルのヘゲモニーを越えて、作品自体と誠実に向き合うような読み手が俳句のフィールドにおいても増えてきているのだ。それに応えうるような川柳作品が書かれることがますます望まれるのである。
2011年11月4日金曜日
無名性の文芸―北野天満宮笠着連句
10月29日(土)、京都の北野天満宮で「市民連句体験会」というイベントがあった。国民文化祭・京都2011のうち「連句の祭典」の一環として、北野天満宮の境内に特設テントを張り、「前句付」「笠着連句」などが興行され、神楽殿では「正式俳諧」や「白拍子」が披露された。境内は入場無料で、都合のよい時間帯にいつでも参加・見物できる。この日は中世・近世の空間に戻ったかのようであった。
私が担当したのは「笠着連句」のコーナーである。「連句の祭典」だから「笠着連句」と称しているが、歴史的には「笠着連歌」あるいは「笠着俳諧」である。「笠着連歌(笠着俳諧)」とは中世以降、お寺や神社の祭礼や法会に行われ、参詣人たちが自由に参加できた庶民的な連歌(連句)である。立ったまま笠も脱がずに句を付けたので、この名称がついているが、笠を脱がないのは参加者の身分を明かさないためとも言われている。今回、京都市の実行委員会に頼んで、幾つか笠を用意してもらった。デモンストレーションにかぶってもらおうと思ったのだが、実際にかぶってくれたのは子どもたちだけであった。カップルに勧めても逃げられ、笠をかぶらされるから参加するのは嫌だという人もいたのは本末転倒である。
「笠着連歌」は「花の下(もと)連歌」の流れをくんでいる。寺社のしだれ桜のもとで身分を問わない市井の人々によって行われた。みんなが句をだすことによって、大勢でにぎやかに付け進んでいくイメージである。京都では中世に毘沙門堂や清水の地主神社、鷲尾(霊山)などで行われていた。
ところで、『俳壇抄』という全国俳誌ダイジェストが発行されていて、この夏・秋号(37号・11月1日発行)には465誌が1誌1ページずつ紹介されている。電話帳のような分厚さである。前号批評として五十嵐秀彦が書いている「俳壇抄36号を読む―座の意味を問う―」という文章が興味深かった。
五十嵐は「俳句の座とはどのようなところから生れてきたのだろう。それはいつごろ、誰が、何を目的に、どのように始められたのだろう」という問題意識から「俳諧(連句)の座」に遡り、さらに松岡心平著『宴の身体 バサラから世阿弥へ』を援用しながら、「地下(じげ)連歌」「花の下連歌」「笠着連歌」について触れている。五十嵐はこんなふうに述べている。
「庶民はウタの交感をとおして、実生活のさまざまな軛から自らを解放し、生を実感していたのだろう。喜びも悲しみも座をとおして、自然界に魂を染み渡らせるように昇華していった。そこには生生しい花鳥風月があったであろうと私は思う。座は孤独な魂の集合体であり、生に意味を与えるトポスだったのである。その連歌の座が、俳諧に引き継がれ、日本中に詩の座を根付かせていった。私たちの句会も、この座を根底に持っているはずなのだ」
連俳史を通底するこういう問題意識は貴重である。
花の下連歌は北野天満宮の法楽連歌に受け継がれていったと言われる。ただし、「花の下」から「法楽連歌」への移行にともなう変質は避けられないことでもあった。文芸としての整備・制度の整備にともなって失われるものがあるのは、どの世界にもよくあることだろう。北野天満宮にはかつて連歌会所(連歌堂)があり、近世には毎月25日に月次連歌がおこなわれた(現在では連歌井戸が残るのみ)。『日本文学の歴史6・文学の下剋上』(角川書店)には、その様子が次のように描かれている。
「だれとも知られず詣って来る人が、顔を隠し句をつづるのを、執筆(しゅひつ)は懐紙に筆を添え、声がかれるほど吟じるが、指合(さしあい)ばかり多く、突き返されて思わずうめいたり、初心のくせに出しゃばって句を出して一座の笑い者となるものもあったという」
一方、幕府のあった鎌倉にも鎌倉連歌の伝統があったが、南北朝期になると京連歌と鎌倉連歌は混ざり合う。二条河原の落書にある「京鎌倉をこきまぜて、一座そろはぬゑせ連歌、在所在所の歌連歌、点者にならぬ人ぞなき」という事態が生じるが、そこには猥雑なエネルギーが渦巻いていただろう。
やがて連歌は北野信仰と結びつき、「天満大自在天神」は連歌の神となる。二条良基によって式目と連歌論が整備され、連歌は洗練されていく。
「笠着連句」当日に話を戻すと、笠着コーナーだけでも100名程度の参加者があり(付句を付けずに説明だけ聞いた人も含む)、宗匠・執筆ともトイレにゆく暇もない盛況であった。事前の予想では「笠着」とは暇なものであり(以前に一度経験があるので)、人もあまり集らないのではないかと思っていたが、嬉しい悲鳴であると言える。説明スタッフも立ちっぱなしで参加者の質問に対応していた。子どもを連れた若い母親や、就学前の児童、学生から大人までさまざまな方々に付句を付けていただいた。連句人だけではなく、京都在住の川柳人や連句初体験の人たちに関心をもっていただいたことは、市民参加型のイベントの趣旨に添うものである。
選ばれた付句は短冊に清書され、テントの柱に張り渡した紐に順番に吊るしてゆき、参加者に見やすいようにする。あまりゆっくり付句を考えていると、すでに付句が選定され、次の句に移っていることになる。36句の中にはもちろん連句人も参加していて、観光バスを利用した吟行会の途中に立ち寄って時間に追われながら一句付けた人もあった。一般市民のなかにはじっと立ち止まって進行を見守っている人もいる。そんな人が一句出してくださって、それがなかなかよい句だったりするとこちらも嬉しくなってくる。正午の発句から始まってすらすらと付け進み、午後3時半ごろには歌仙36句が巻き上がった。
寺社の境内に人々が集り、共同制作としての文芸に取り組む。無名性をベースとするから名前は記録に残らないが、それぞれの参加者のことは記憶に残っている。北野天満宮の雑踏のなかで、私はあの二条河原の落書を思い出していた。何も「笠着」が「えせ連歌」というのではない。「自由狼藉」の世界、庶民の猥雑なエネルギーが沸騰していた中世という時代を想ったのである。
私が担当したのは「笠着連句」のコーナーである。「連句の祭典」だから「笠着連句」と称しているが、歴史的には「笠着連歌」あるいは「笠着俳諧」である。「笠着連歌(笠着俳諧)」とは中世以降、お寺や神社の祭礼や法会に行われ、参詣人たちが自由に参加できた庶民的な連歌(連句)である。立ったまま笠も脱がずに句を付けたので、この名称がついているが、笠を脱がないのは参加者の身分を明かさないためとも言われている。今回、京都市の実行委員会に頼んで、幾つか笠を用意してもらった。デモンストレーションにかぶってもらおうと思ったのだが、実際にかぶってくれたのは子どもたちだけであった。カップルに勧めても逃げられ、笠をかぶらされるから参加するのは嫌だという人もいたのは本末転倒である。
「笠着連歌」は「花の下(もと)連歌」の流れをくんでいる。寺社のしだれ桜のもとで身分を問わない市井の人々によって行われた。みんなが句をだすことによって、大勢でにぎやかに付け進んでいくイメージである。京都では中世に毘沙門堂や清水の地主神社、鷲尾(霊山)などで行われていた。
ところで、『俳壇抄』という全国俳誌ダイジェストが発行されていて、この夏・秋号(37号・11月1日発行)には465誌が1誌1ページずつ紹介されている。電話帳のような分厚さである。前号批評として五十嵐秀彦が書いている「俳壇抄36号を読む―座の意味を問う―」という文章が興味深かった。
五十嵐は「俳句の座とはどのようなところから生れてきたのだろう。それはいつごろ、誰が、何を目的に、どのように始められたのだろう」という問題意識から「俳諧(連句)の座」に遡り、さらに松岡心平著『宴の身体 バサラから世阿弥へ』を援用しながら、「地下(じげ)連歌」「花の下連歌」「笠着連歌」について触れている。五十嵐はこんなふうに述べている。
「庶民はウタの交感をとおして、実生活のさまざまな軛から自らを解放し、生を実感していたのだろう。喜びも悲しみも座をとおして、自然界に魂を染み渡らせるように昇華していった。そこには生生しい花鳥風月があったであろうと私は思う。座は孤独な魂の集合体であり、生に意味を与えるトポスだったのである。その連歌の座が、俳諧に引き継がれ、日本中に詩の座を根付かせていった。私たちの句会も、この座を根底に持っているはずなのだ」
連俳史を通底するこういう問題意識は貴重である。
花の下連歌は北野天満宮の法楽連歌に受け継がれていったと言われる。ただし、「花の下」から「法楽連歌」への移行にともなう変質は避けられないことでもあった。文芸としての整備・制度の整備にともなって失われるものがあるのは、どの世界にもよくあることだろう。北野天満宮にはかつて連歌会所(連歌堂)があり、近世には毎月25日に月次連歌がおこなわれた(現在では連歌井戸が残るのみ)。『日本文学の歴史6・文学の下剋上』(角川書店)には、その様子が次のように描かれている。
「だれとも知られず詣って来る人が、顔を隠し句をつづるのを、執筆(しゅひつ)は懐紙に筆を添え、声がかれるほど吟じるが、指合(さしあい)ばかり多く、突き返されて思わずうめいたり、初心のくせに出しゃばって句を出して一座の笑い者となるものもあったという」
一方、幕府のあった鎌倉にも鎌倉連歌の伝統があったが、南北朝期になると京連歌と鎌倉連歌は混ざり合う。二条河原の落書にある「京鎌倉をこきまぜて、一座そろはぬゑせ連歌、在所在所の歌連歌、点者にならぬ人ぞなき」という事態が生じるが、そこには猥雑なエネルギーが渦巻いていただろう。
やがて連歌は北野信仰と結びつき、「天満大自在天神」は連歌の神となる。二条良基によって式目と連歌論が整備され、連歌は洗練されていく。
「笠着連句」当日に話を戻すと、笠着コーナーだけでも100名程度の参加者があり(付句を付けずに説明だけ聞いた人も含む)、宗匠・執筆ともトイレにゆく暇もない盛況であった。事前の予想では「笠着」とは暇なものであり(以前に一度経験があるので)、人もあまり集らないのではないかと思っていたが、嬉しい悲鳴であると言える。説明スタッフも立ちっぱなしで参加者の質問に対応していた。子どもを連れた若い母親や、就学前の児童、学生から大人までさまざまな方々に付句を付けていただいた。連句人だけではなく、京都在住の川柳人や連句初体験の人たちに関心をもっていただいたことは、市民参加型のイベントの趣旨に添うものである。
選ばれた付句は短冊に清書され、テントの柱に張り渡した紐に順番に吊るしてゆき、参加者に見やすいようにする。あまりゆっくり付句を考えていると、すでに付句が選定され、次の句に移っていることになる。36句の中にはもちろん連句人も参加していて、観光バスを利用した吟行会の途中に立ち寄って時間に追われながら一句付けた人もあった。一般市民のなかにはじっと立ち止まって進行を見守っている人もいる。そんな人が一句出してくださって、それがなかなかよい句だったりするとこちらも嬉しくなってくる。正午の発句から始まってすらすらと付け進み、午後3時半ごろには歌仙36句が巻き上がった。
寺社の境内に人々が集り、共同制作としての文芸に取り組む。無名性をベースとするから名前は記録に残らないが、それぞれの参加者のことは記憶に残っている。北野天満宮の雑踏のなかで、私はあの二条河原の落書を思い出していた。何も「笠着」が「えせ連歌」というのではない。「自由狼藉」の世界、庶民の猥雑なエネルギーが沸騰していた中世という時代を想ったのである。