2011年10月28日金曜日

岩井三窓著『川柳読本』を読む

9月22日、「番傘」川柳に大きな足跡を残した岩井三窓(いわい・さんそう)が亡くなった。89歳。インターネットで追悼文を探してみると、歌人の川添英一の「短歌日記」があった。「川柳のカリスマ、岩井三窓さん亡くなる」(2011年9月25日)という文章で、川添による弔辞が掲載されている。川添は岩井三窓の隣人で、親子のような付き合いだったという。私は生前の三窓とは一度しか会ったことがなく、しかもその場では三窓と知らずに、後になってからあれが岩井三窓だったかと気づいたというにすぎないから、追悼をする資格などないが、彼の著書『川柳読本』『川柳燦燦』が手元にあるので、静かに『川柳読本』(1981年9月発行、創元社)を読んでみたい。

『川柳読本』は句文集なので、句集とエッセイが収録されている。まず、句集の方から見ていくが、『三文オペラ』(昭和34年)は岩井三窓の代表的句集である。

医者の手の冷たさ胸をさぐられる
目の赤いことにも訳のある兎
綴方貧しき父は母を打つ
ターミナル幾人虹に気付きしや
走れどもキリン孤独にたえられず

一句一句が安心して読めるというか、川柳というものはこういうものだったんだなあということを改めて思う。時代性というものがあるから、たとえば、いまどきの女性に「貧しき父は母を打つ」などの行為をするととんでもないことになるだろう。いま同じような書き方をしようとは思わないが、ここにはかつて存在したはずの川柳の実体が確かに感じられる。作者が結婚する以前の作品を集めた句集なので、独身者の孤独と感慨がベースにある。「三文オペラ」というタイトルが、ブレヒトの戯曲とは無関係に、効果的である。

本閉じてロマンを酒にもとむべき
愛ゆらぐよしなき人の一言に
或る時は娶らぬひとの名を数え
北国を発って以来の人嫌い
飲みながら話そうつまり恋なんだ
たこ焼でのどやけどしたひとりもの

今回読み直してみて、当然のこととはいえ、『三文オペラ』以後にもよい句が多かった。たとえば、次のような句。

あわてたな枕を二度も踏んで行く
苦労せぬから人形に皺がなし
大阪を出ればはったり効かぬ人
君は知るまい吊り天井はいまもある
犬がどうして缶詰をあけますか
こころまで言わねばならぬことになる

本書にはまた大量のエッセイが収録されていて、その二三を紹介したい。三窓はこんなふうに書いている。

「作句力に修練がいるように、鑑賞力にも、それ相応の修練を要するのは、当然のことなのである。人の句を読む技術というものは、自分の句を作る技術などに比べて、数倍の努力が必要なのである。私には分らない、だから難解句、誰にでも分る句を、というのは、すこしせっかちであり、怠惰でもある」(「もののあわれ」)

「リズムが悪い、五七五でない、七七五である。と、真っ先に指摘する人がいます。その人は、まず五七五、それが第一条件である、と言います。公衆電話で十円硬貨を何度入れても、素通りして落ちてくることがあります。それは、0.何ミリかの磨滅か、歪みによるものです。句を読むときにも、まず、五七五のゲージを持って選別する。それは人間でなく、機械なのです。機械的人間には、人のこころが解る筈がありません」(「夢と現実」)

いま読んでも妥当な意見であり、伝統川柳にときどき見られる偏狭さがない。
いちばん印象的なのは「丸い豆腐」という断章である。本書を読むたびに、いつもこの部分に目が止まるのだ。

「先年、旅をして丸い豆腐を売っているのをみてびっくりしたことあった。豆腐というものは四角いものだと信じきっていた私には、それはまったく驚異そのものだった」

川柳人たちのエピソードも満載されている。伝統派の川柳人の中で私は大山竹二に関心があるので、やはり竹二の挿話が興味深かった。
あるとき摂津明治と大山竹二が並んで座り、三窓がその隣になった。二人の会話はおもしろく、ほとほと感心するものであったという。明治がいま作ろうとしている句材の情景を語りはじめた。友達が二階借をしている。主人公がそれを訪れる。ぎしぎし軋む段梯子、古びた仏壇がちらりと見える。夜具の一部も見える…
その時、突然、竹二がその話を遮った。「あかん、やめとけ」
温厚な竹二にしては珍しく乱暴な口調である。
すると、明治は竹二の一言で、親に叱られた子供のように、あっさりと話題を変えたというのだ。摂津明治という川柳人をこれまで私は知らなかったので、特に印象深い。

崖がさと崩れて土工胸を病み    摂津明治
馬われを視つむ馬には孤独なき
廃業の心傾く灯を洩らし

大山竹二は『三文オペラ』の句集評でこんなふうに書いている。「番傘の中にあって手足が伸びきっている人はたんとない。三窓さんはその少ないうちの一人でありましょう」
三窓は岸本吟一・阪口愛舟らと「河童倶楽部」を作り、「番傘」の中でも独自の動きを見せた。「番傘」の内部でさまざまな流れがあったことは、当時この大結社の可能性を示すものであったと思われる。川柳がひとつの実質をもっていた時代であった。

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