2011年10月14日金曜日

北海道川柳史

チャタレイ裁判などで知られる伊藤整はかつて一時代を代表する文学者であった。彼の評論『小説の方法』は受験国語の定番であって、高校生のとき『火の鳥』を読みながら、これが組織と人間論というものかと思った記憶がある。伊藤はジョイスの翻訳など先端的な仕事をしていたが、文学的出発は『雪明りの路』という詩集である。

ああなぜ わたしひとり
かうしてひつそり歩いてゆくのだらう。
道は
落葉松のみどりに深くかくれて
どうなつて行くか解りはしない。
何処かの谷間には
すももが 雪のやうに咲き崩れてゐたが
人ひとりの影もなかつた。
それに こんなに空気の冷えてゐるのは
きつと雨あがりなのだらう。
なぜ 私ひとり かうして
鶯の聲ばかり こだまする
海のやうな 野から林へと歩いてゆくのだらう。
みんなは
なぜ私をこんな遠い所までよこしたのだらう。
ああ 誰も気づかない間に
私はきつと
この下で一本の蕗になるのだ。 (伊藤整「蕗になる」)

ところが、伊藤の友人の妹に左川ちかという女性詩人がいて、伊藤よりもっと進んだ詩を書いていた。伊藤の詩が近代詩だったのに対して、左川は現代詩を書いていたのだ。左川は24歳で夭折する。

馬は山をかけ下りて発狂した。その日から彼女は青い食物をたべる。
夏は女達の目や袖を青く染めると街の広場で楽しく廻転する。
テラスの客等はあんなにシガレットを吸ふのでブリキのやうな空は
貴婦人の頭髪の輪を落書してゐる。
悲しい記憶は手巾のやうに捨てようと思ふ。恋と悔恨とエナメルの
靴を忘れることが出来たら!
私は二階から飛び降りずに済んだのだ。
海が天にあがる。 (左川ちか「青い馬」)

伊藤整は小樽高等商業学校の出身であるが、上級に小林多喜二がいた。伊藤整の『若き詩人の肖像』に次のような一節がある。伊藤が図書館で本を借りようとすると、必ず図書カードに小林の名が記入されている。小林に先に読まれることによって、その本のエッセンスが抜き取られてしまっているように伊藤には感じられた。嫉妬のあまり伊藤は小林の名を覚えてしまったというのだ。ここには伊藤整の小林多喜二に対する屈折した感情がうかがえる。

昨年、小樽文学館へ行く機会があり、田中五呂八の写真パネルを見て、感慨にふけった。昭和3年9月23日、小樽・丸高屋における『新興川柳論』出版記念大会の写真である。五呂八の短冊2句も展示されていた。

神が書き閉づる最後の一頁    田中五呂八
人の住む窓を出て行く蝶一つ

さて、「バックストロークin名古屋」で選者をつとめた浪越靖政氏から斎藤大雄著『北海道川柳史』(北海道新聞社)を送っていただいた。北海道の川柳についてはそれほど詳しくはないが、新興川柳運動が小樽から始まったことなどから、関心をもっていた。本書によって、北海道とひとくくりにはできず、札幌・小樽・函館・旭川などそれぞれの川柳活動があることについて認識を新たにした。

新興川柳以前の北海道の川柳はどのような状態だったのか。
尾藤三柳著『川柳入門―歴史と鑑賞―』(雄山閣)の大正期のページには、明治43年に最初の川柳会(札幌)が開かれた北海道の創刊誌ラッシュは、ことにめざましいものがあった、として、「仔熊」「アツシ」「柳の華」「筒井筒」「草の露」「鏑矢」などの川柳誌の名が挙げられている。これらは一体どのような雑誌だったのだろう。『北海道川柳史』によって概略を素描してみたい。

北海道で「新川柳」の名称で句が募集されたのが明治41年(1908)のこと(それまでは「狂句」として募集されていた)。「北海タイムス」(現北海道新聞)1月11日付で懸賞「新川柳」が募集され、1月24日に入選句が発表された。課題は「芸者」。天位を取ったのが西島○丸(にしじま・れいがん)で、彼は布教僧として北海道に来ていた。また、「小樽新聞」が「狂句」を廃して「川柳」という名称を使ったのは明治42年8月のことである。小樽新聞の選者として佐田天狂子が知られている。
大正3年9月、川柳誌「仔熊」がはじめて刊行された。「仔熊」は残念ながら創刊号だけで休刊となったが、やがて川柳誌「アツシ」が刊行され、札幌川柳界の充実期を迎える。

「アツシ」は大正6年5月創刊。札幌川柳会とオホツク会が団結し、盟主に神尾三休(かみお・さんきゅう)をいただいた。「発刊に当りて」の神尾三休の文章は格調高いものである。

「川柳は最も入り易くして、最も達し難い詩である。往時の堕落した川柳に慣れた無理解な世間は旧態依然、川柳を遊戯文学視し、其作家を侮蔑の眼を以て見てゐる。何といふ悲しいことだろう。アツシは此の難しい川柳を学び、真面目に之を研究し、而して我が北海の柳壇を開拓すると共に、広く天下に呼号しなければならぬ貴く重い使命を有って生れたのだ」

三休は川柳の文学性を高め、北海道を理想の川柳王国にすることを夢見ていた。そのため井上剣花坊を招待して北海道川柳大会を開催しようとする。それは創刊後一年あまりの「アツシ」にとって大きな企画であった。
大正7年8月、北海道川柳大会が札幌で開催された。しかし、降り続く雨のためか、会場を急遽変更したためか、参加者は31名と少なかった。剣花坊は彼一流の大きな声で絶叫するように講演をおこなった。この講演が三休たちアツシの同人に大きな悲しみと怒りを与えたという。講演内容が低俗であって、三休の理想とは遠かったのである。
ここで三休はひとつの決意をする。「アツシ」を終刊して、新誌「鏑矢」を創刊するのだ。「吾々は深く感ずる処あってアツシ会の大改革を断行する。敢て混沌たる川柳界を廓清しやうと云ふのではなく、唯吾々の結束を一層鞏固にして、威武に屈せず、富貴に淫せざる理想の川柳王国を造らんが為めである」(「アツシ」終刊)この神尾三休は本書のなかで、最も私の心に残った川柳人である。

耕して心の草を取り続け     神尾三休

三休の片腕的存在が河内岐一で、川柳誌「わがまま」「筒井筒」を発行する。

大正7年、札幌での川柳大会を終えた井上剣花坊は函館に向かう。函館での剣花坊歓迎大会は盛会であった。これを契機として函館川柳界は大きく発展する。ところが、この大会終了後、世話役の亀井花童子(かめい・かどうじ)と山村都ね尺が衝突して、花童子は函館川柳会を脱退し、川柳誌「忍路(おしょろ)」を創刊する。まことに川柳とは人間臭いものだ。

父さんかなと破れから子が覗き    亀井花童子

こんな調子で書いていても切りがないので、次に北海道の川柳人の作品を幾つか挙げてみる。

座布団にのこる乙女の膝は春     田中五呂八
ふるさとではもう死んでいる売春婦  高木夢二郎
金屏風今日は酔ってはならぬ酒    直江無骨
干鱈の骨の凍ててる北の冬      斎藤大雄
うそぶいて砂絵のまちに来てしまう  桑野晶子
喪服から蝶が生れる蛇が生れる    細川不凍
人生へあてる定規の右ひだり     北夢之助

『北海道川柳史』は斎藤大雄の残した大きな仕事である。これほどの本を書いた彼がなぜ晩年に「大衆川柳論」を唱え、「川柳は幕の内弁当のようなものである」などの俗論を繰り返したのか、私には理解できない。そこで手元にある『現代川柳入門』(1979年11月発行、たいまつ社)も読んでみた。そこには「川柳の作句リズムは五・七・五を基本形にしたもので、この基本を修得しなければ、他のリズムでいきなり詠っても説得力が弱くなってしまう。だが、五・七・五のリズムは、あくまでも基本形であって、絶対に基本を守らなければならないという理由はない」とあって、木村半文銭の句も掲載されている。高橋新吉の詩や雑俳も取り上げられていて、広い視野から川柳を論じていることが分かる。「あとがき」で大雄は次のように書いている。

「川柳界は動いている。最近、その動きは激しく、音をたてはじめてきた。これは川柳の歴史のなかのひとつの過程であり、さけることのできない流れでもある。そのなかにあっての『現代川柳入門』は、歴史の流れのなかからとらえていかなければ、明日の川柳を見失ってしまう結果を招く恐れがある」

現在の時点から見ても説得力のあるスタンスであり、実に正統的な考え方のように思える。新興川柳の遺産を評価する点において、私は人後に落ちないつもりである。ただ、私は木村半文銭を評価し、斎藤大雄は田中五呂八を評価する。五呂八の新興川柳を評価することと川柳大衆化論の奇妙な結びつき。川柳人にとって、「大衆」とは一種の魔物であり躓きの石であるのかも知れない。

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