「バックストロークin名古屋」から2週間が経過した。シンポジウム「川柳が文芸になるとき」のパネラーの一人である荻原裕幸が朝日新聞(中部版・9月24日)の夕刊でこのイベントを紹介している。荻原は「川柳というジャンルには、どこか『冷遇』されているという印象がある」と述べたあと、「バックストローク」の大会について「ジャンルをめぐる社会的な状況を打破して、川柳の現在に大きな活気を与えるためには何が必要となるのかが、パネルディスカッションのスタイルで議論された」と報告。「昨今、良質の川柳評論集の刊行なども増えつつあり、川柳が文芸としての力をいかんなく見せつつあるのは間違いないようだ」と評価している。
また、「週刊俳句」(9月25日)では野口裕が「名古屋座談会印象記」と題して独自の視点からレポートを書いている。無名性の文芸・蕩尽の文芸である川柳がこうして取り上げられてゆくのは嬉しいことである。
伊丹の柿衞文庫では「西鶴―上方が生んだことばの魔術師」展が開催されている。その関連講座として9月24日に浅沼璞の講演「西鶴の連句と連想」とワークショップがあった。浅沼は『西鶴という鬼才』(新潮新書)などの著作がある西鶴の研究者で、連句批評の第一人者としても知られている。実作者としては連句新形式「オン座六句」を創出して連句界に新風を起こした。
平成19年9月に同じ柿衞文庫で開催された「連句の風・関西からの発信」という連句講座でも、浅沼は西鶴の連句について語っている。このときは矢崎藍が「インターネット連句」について、私が「前句付と雑俳」について担当したのだった。前回「レンキスト西鶴」と題して「西鶴は生涯レンキストだった」「人生そのものが連句的だった」と述べた浅沼は、今回「西鶴における不易と流行」「不易流行の付合」「流行のみの速吟」について語った。
興味深かったのは講義のあとのワークショップで、「現代における西鶴的試み」として、浅沼は次のような西鶴の発句に対して自句を付けて見せた。
唐がらし泪枝折(しおる)ぞ鬼の角 西鶴
青から赤へ変る三日月 璞
交差点わたる坊主に秋暮れて 璞
発句は西鶴の「自画賛十二カ月」の九月に書かれているもの。この「自画賛十二カ月」は柿衞文庫の所蔵品の中でも有名なものである。
脇は「鬼」に赤鬼・青鬼があることと、発句が秋なので月をだしている。第三は「青」「赤」を信号に転じて交差点を出し、「三日月」から「三日坊主」を連想して坊主が登場する。蕉風を受け継ぐ現代連句の付け味とは異なる談林的・西鶴的付句である。
ここからが聴衆の参加するワークショップで、四句目を付けようという課題である。七七の完成形ではなく、連想する単語だけでよいということだったが、参加者には実作者も多かったからか、大部分が七七の短句の形になっていた。
浅沼璞が『西鶴という方法』(鳥影社)で提示した連句理論に「サンプリング」「カットアップ」「リミックス」というのがある。ハウスミュージックに由来する用語で、ディスコでDJが別のレコードから音源を瞬間的につなぎ合わせるやり方をいう。椹木野衣の『シミュレーショニズム』に詳しく論じられている。
「略奪(サンプリング)・切り裂き(カットアップ)・増殖(リミックス)というのがハウスの三種の神器である」
そのようにしてリミックスされたのが次のような付句である。
交差点わたる坊主に秋暮れて(前句)
縞馬の縞定石があり
親譲りなる物乞いの数
案山子を囲みアルバイト終え
障子洗いのけりがつく恋
提出された短句(七七句)は半分に切り裂かれ、別の七音と結び付けられることによって元の文脈とは異なった言葉の姿で立ちあがってくる。なるほど、これがサンプリング・カットアップ・リミックスかと興味深かった。天狗俳諧にもちょっと似ている。
「難波の梅翁先師、当流の一体、たとへば富士のけぶりを茶釜に仕掛、湖を手だらひに見立、目の覚めたる作意を俳道とせられし」
当日のレジュメに引用された西鶴の「独吟百韻自註絵巻」の序である。梅翁(西山宗因)は富士の煙を茶釜に仕掛け、湖を手だらいに見立てるといった作意のある俳諧をおこなったというのだ。ここで雅俗ということが問題となる。「富士の煙」「湖」は雅語、「茶釜」「手だらい」は俗語である。雅語に俗語をぶつけることによって言葉は変容し、目のさめるような作意が生まれる。雅俗の区別がすでに消滅した現代においても、このような言葉の関係性に基づく作句方法は見られないこともない。言葉から言葉を生み出し、言葉の飛躍感を主眼とする言葉付の方法は、たとえば現代川柳の「意表派」と呼ばれる作句法にも通じるところがある。けれども談林の「飛び」は無数の「飛びそこない」を生み出し、燎原の火のように広まった談林はわずか十年で衰退した。浅沼の講義を聞きながら、言葉付や川柳の言葉についていろいろ考えるところがあった。
川柳の外部から川柳を規定した言説に復元一郎の「川柳には切れがない」というものがある。『セレクション柳論』の筑紫磐井の序文でもこのことに触れられている。俳人が川柳について思い浮かべるとき、この「切れ」論争はひとつの入り口なのであろう。
浅沼の『「超」連句入門』(東京文献センター)にはこの論争を反映して、次のように書かれている。
「昨年(1999年)刊行された復本一郎の『俳句と川柳』(講談社現代新書)は、俳句のルーツは発句、川柳のルーツは平句、という発生史的な事実から、二つのジャンルの違いを一句における「切れ」の有る無しに求めています」「しかし、それにしても、本当の問題は、この答えのあとにくるといえます。前述の復本のように、ルーツのちがいをそのまま現代のジャンルにもちこむか否か、という問題です」
このように述べたあと、浅沼は高柳重信を引用して「連句への潜在的意欲」論を展開していく。
振り返ってみれば、10年以前に川柳の外部から発せられた「川柳には自己規定がない」「川柳には切れがない」という二つの言説は、川柳界に衝撃を与えたと言える。この10年間の川柳人の営為は何もこの二つの問いに答えるためにあったわけではないが、私たちが外部の視線を意識しつつ川柳活動を続けてきたことも事実である。
10年前の議論に後戻りするというのではなく、短詩型文学の現在を見すえながら、私たちはさらに先に進んでゆくことが大切であろう。
2011年9月23日金曜日
川柳が文芸になるとき
9月17日(土)、「バックストロークin名古屋」がウインクあいち(愛知県産業労働センター)にて開催され、約100名の川柳人が全国から名古屋に集結した。北海道から九州までの各地からの参加者をはじめ地元・名古屋の川柳人、及び川柳に関心のある歌人・俳人・連句人も含めて熱気のある大会となった。バックストロークの大会は、第一部のシンポジウムと第二部の句会をドッキングさせ、これまで二年に一度のペースで各地を巡回してきた。京都・東京・仙台・大阪、そして今回の名古屋に至る。発行人・石部明のいう「行動する川柳」である。
第一部のシンポジウムは、「川柳が文芸になるとき」というテーマで、パネラーが荻原裕幸・樋口由紀子・畑美樹・湊圭史、司会・小池正博で行われた。シンポジウムの記録は「バックストローク」36号に掲載されるが、ここでは当日の議論を私なりの観点から素描してみることにしたい。
「川柳が文芸になるとき」とは逆説的なタイトルである。川柳が文芸の一種であることは当然であるが、これまであまり社会的に認知されてこなかった。新聞で取り上げられる場合も文芸欄ではなくて、社会面に掲載されることが多い。したがって、「川柳が文芸になるとき」というテーマは、いままで文芸ではなかった川柳が突然文芸になったという意味ではなく、短詩型文学の諸ジャンルのなかで川柳が存在感を増してきている情況を考えてみよう、ということになる。これを「川柳が文学になるとき」とするとニュアンスがかわってくる。寺山修司は「川柳は便所の落書き」と言ったし、川柳には純粋文学のワクにはまりきれない要素がある。また、「川柳が詩になるとき」とすると、「川柳は非詩」という考え方(いわゆる川柳非詩論)が一方にあるので、侃侃諤諤の議論をしなければならない。今回のテーマは、ざっくりと「川柳の今を考える」というほどの意味にとらえられるが、「川柳の今を考える」といっても、川柳とは何か(川柳性)についての本質論と、川柳が作られる場とか環境などの状況論があり、両者は切り離せない。現代川柳がパネラーの眼にどのように映っているのかというところから話がはじまった。
荻原は2001年の「川柳ジャンクション」で「川柳の自己規定」を問題にした。川柳人は自己規定が下手だというのである。10年たってもこの発言を川柳人はよく覚えているから、荻原は少し話しにくそうだったが、川柳を外部から見る目を痛切に意識させるという点で、荻原の発言は川柳人にとってとても大きな意味があったのだ。
川柳人の営為が外部に向かってよく伝わっていないのには、それなりの理由がある、と荻原はいう。川柳のことをよく知らない人に対して、川柳は定型詩だから形の説明をする。その際に俳句との違いを外部に対して分かりやすい形で伝えることが必要となる。
また、「バックストローク」などでは「方法を意識して書かれる作品」と「方法を意識せずに書かれる作品」(たとえば「思い」をそのまま吐露するなど)が区別されているようだが、五七五の定型を基本としている限り、日常言語とは異なる思考方法がそこに働くはずで、両者を区別できるのか、もう一度遡って考えてみてはどうか、と荻原は言う。
荻原は「朝日新聞」中部版(2010年3月26日・夕刊)で川柳について「文芸らしくない文芸」と語っているので、この点についても司会者から質問があった。
樋口は今年4月に『川柳×薔薇』を出版し、「ウラハイ」(ウェブマガジン「週刊俳句」の裏ヴァージョン)に「金曜日の川柳」を連載するなど、川柳を外部に対して発信し続けている。彼女は「川柳のウチとソト」という観点から、ジャンルの内側でのみ評価される作品と他ジャンルからも評価される作品の違いについて語った。
樋口のレジュメには飯島晴子「言葉が現れるとき」が引用されている。これが樋口の言いたかったことをよく伝えている。
(A)
眼前にある実物をよくよく目で見て、これは赤いとか、丸いとか、ああリンゴであるとか、とにかくなるべく実物に添って心をはたらかしてしらべる。そして、知ったこと、感じたことを他人に伝えるために、自分の内部ではなく、公の集会場の備えてある言葉の一覧表、とでもいうような種類の言葉の中から言葉を選んで使う、というやり方である。対象となる事物が、観念や情感に代っても事情は同じである。私にとってこれ以外の言葉のとらえ方があろうとは思ってもみなかった。
(B)
それが俳句をつくる作業のなかで、言葉を扱っていていつからともなく、言葉というもののはたらきの不思議に気がついた。言葉の偶然の組合せから、言葉の伝える意味以外の思いがけないものが顕ちのぼったり、顕ちのぼりかけたりすることを体験した。そこに顕ってくれるのは、私から少しずれた私であり、私の予定出来ない、私の未見の世界であった。言葉は自分たちの意志で働いているうちに或る瞬間、カチッと一つのかたちをつくる。このカチッという感触が得られたとき、言葉たちのかたちの向うに、言葉を伝える意味とは決定的に違う一つの時空が見えているはずである。このようにして私の俳句のつくり方は変わった。
図式的に言えば、前者(A)によってウチ向きの作品が出来上がり、後者(B)によってソトに対しても開かれた作品が書かれるということになる。「ソトの目の厳しさ」を樋口はよく知っているのだろう。
「金曜日の川柳」で取り上げる作品について、「伝統」の作品によいものがあり、取り上げることが多いというのも印象的だった。伝統の作品を含むことによって川柳はより豊かなものになる。
畑美樹は「川柳展望」「川柳大学」「バックストローク」そして「Leaf」と川柳誌に参加してきているが、「川柳をやっている」という意識が薄かったように思う、と自ら言う。彼女が川柳に深く関わるようになった時期は、川柳が他ジャンルからそのアイデンティティを問われた時代であり、それだけ川柳という文芸が「動いていた」「動いている」時代であった。
では、なぜ畑は川柳をおもしろいと感じたのか。
俳句や短歌にはすでに確立されたアイデンティティがあり、中心にあるそのジャンルのアイデンティティを強く意識したところから始まっている。それに対して川柳は「中心を意識しない自由度」がある。だから、はみだしすぎると、戻ってこられなくなる。そこに、自由なゆえの不自由さがあり、「作る」おもしろさがある、という。
以上が畑のとらえた川柳の姿である。戻るべきジャンルの中心ではなくて、中心のない自由さ、ダイナミックに動いていること自体におもしろさを見出している。「ジャンルの中心を意識しないことが果たして文芸の条件として成り立つのか」とは畑自身の疑問であるが、「バックストローク」の編集後記にも畑はよく「川柳は動いている」と書いている。また、畑は彼女の持論である「字から入る川柳」ではなく「耳から入る川柳」の可能性についても語った。
川柳の世界に入って時間がたつにつれて、最初に感じた違和感が次第に薄れ、川柳界の習慣を当然のこととしてなじんでしまうようになりがちである。その点、まだ川柳歴の長くない湊のフレッシュな目に現代川柳がどううつっているのか興味があった。
湊は川柳について原理的に考えるのが好きで、川柳理論を組み立てては崩しているそうだ。
「川柳が文芸ジャンルとして認められるには、一人ひとりがよい句を書くというだけでは足りない」と湊は言う。インフラの整備が必要で、第一にアンソロジー、第二に評論が求められるという。句の発表形態としての句会・雑誌のあり方を再考することも求められるが、実践を除いて論を立ててもさほど意味はないとした。
川柳に興味をもった人がいても、明治以後の主な川柳作品を集めた手頃なアンソロジーがないので、それ以上先に進めない。湊は自ら運営するサイト「s/c」「バックストローク」100句選を掲載し、鑑賞を付けている。その後、「川柳作家全集」(新葉館)でも同じようなことを試みている。
湊の指摘したジャンルとして自立するためのインフラ整備という問題。
川柳は他ジャンルと比べてこれらのシステム整備が遅れているとかねがね感じていたので、荻原の「俳句・短歌にあるものはすべて川柳にもある」という発言には驚いた。ただ、絶対量が少ないので、アンソロジーなども川柳人がどんどん作っていけばよいという。
荻原の「川柳は外部に向かって伝わっていない」という認識と湊の「一人ひとりがよい句を書くというだけでは足りない」という発言とは対応している。荻原のは外部からの目であり、湊のは川柳の世界に入ってみての実感である。ただ、実践的には両者の考えには違いがある。荻原は『現代川柳の群像』『現代川柳鑑賞辞典』『現代女流川柳鑑賞辞典』などの大きなタイトルでは読者が引いてしまうので、もっと個人的に偏ったものでよいから各自がアンソロジーを編むべきだという。湊は逆に川柳史を視野に入れ、明治以降の近現代川柳全体をカバーするような川柳全集をイメージしているらしい。
川柳が文芸として認知されるためのインフラやシステムの整備と、時代に応じた新鮮な川柳作品が書かれることとは並行しなければならない。インフラが整備されても、川柳にとって大切なものが失われてしまうならば、何にもならないからだ。川柳界にもプロデューサーとクリエーターが必要なのだが、川柳のマーケットがそれほど大きくない現状では、川柳人が両者を兼ね備えてやっていくしかないのである。
シンポジウムというものは出来たことよりも出来なかったこと、語られた部分よりも語られなかった部分が多いものである。パネラーにとっても用意してきた言説のごく一部分しか発言する機会がなかったことだろう。荻原のいう「文芸らしくない文芸」、樋口の「川柳のウチとソト」、畑の「中心を意識しない自由度」、湊の「インフラの整備」(あるいは湊のレジュメにあった「文芸を解体してゆく文芸」)、これらの諸点をさらに問い詰めてゆけば、「川柳性」の内実がより明確に浮かび上がってゆくかも知れない。アンソロジーなどの実践的な問題も含めてそれは今後の課題であり、個々の川柳人によって深められてゆくべきものであろう。2001年の「川柳ジャンクション」での議論に比べて2011年の今回の議論に深化があっただろうか。荻原は「また10年後に呼んでください」と言ったが、10年後の川柳状況はいったいどうなっているだろう。楽しみでもあり、怖くもある。
第一部のシンポジウムは、「川柳が文芸になるとき」というテーマで、パネラーが荻原裕幸・樋口由紀子・畑美樹・湊圭史、司会・小池正博で行われた。シンポジウムの記録は「バックストローク」36号に掲載されるが、ここでは当日の議論を私なりの観点から素描してみることにしたい。
「川柳が文芸になるとき」とは逆説的なタイトルである。川柳が文芸の一種であることは当然であるが、これまであまり社会的に認知されてこなかった。新聞で取り上げられる場合も文芸欄ではなくて、社会面に掲載されることが多い。したがって、「川柳が文芸になるとき」というテーマは、いままで文芸ではなかった川柳が突然文芸になったという意味ではなく、短詩型文学の諸ジャンルのなかで川柳が存在感を増してきている情況を考えてみよう、ということになる。これを「川柳が文学になるとき」とするとニュアンスがかわってくる。寺山修司は「川柳は便所の落書き」と言ったし、川柳には純粋文学のワクにはまりきれない要素がある。また、「川柳が詩になるとき」とすると、「川柳は非詩」という考え方(いわゆる川柳非詩論)が一方にあるので、侃侃諤諤の議論をしなければならない。今回のテーマは、ざっくりと「川柳の今を考える」というほどの意味にとらえられるが、「川柳の今を考える」といっても、川柳とは何か(川柳性)についての本質論と、川柳が作られる場とか環境などの状況論があり、両者は切り離せない。現代川柳がパネラーの眼にどのように映っているのかというところから話がはじまった。
荻原は2001年の「川柳ジャンクション」で「川柳の自己規定」を問題にした。川柳人は自己規定が下手だというのである。10年たってもこの発言を川柳人はよく覚えているから、荻原は少し話しにくそうだったが、川柳を外部から見る目を痛切に意識させるという点で、荻原の発言は川柳人にとってとても大きな意味があったのだ。
川柳人の営為が外部に向かってよく伝わっていないのには、それなりの理由がある、と荻原はいう。川柳のことをよく知らない人に対して、川柳は定型詩だから形の説明をする。その際に俳句との違いを外部に対して分かりやすい形で伝えることが必要となる。
また、「バックストローク」などでは「方法を意識して書かれる作品」と「方法を意識せずに書かれる作品」(たとえば「思い」をそのまま吐露するなど)が区別されているようだが、五七五の定型を基本としている限り、日常言語とは異なる思考方法がそこに働くはずで、両者を区別できるのか、もう一度遡って考えてみてはどうか、と荻原は言う。
荻原は「朝日新聞」中部版(2010年3月26日・夕刊)で川柳について「文芸らしくない文芸」と語っているので、この点についても司会者から質問があった。
樋口は今年4月に『川柳×薔薇』を出版し、「ウラハイ」(ウェブマガジン「週刊俳句」の裏ヴァージョン)に「金曜日の川柳」を連載するなど、川柳を外部に対して発信し続けている。彼女は「川柳のウチとソト」という観点から、ジャンルの内側でのみ評価される作品と他ジャンルからも評価される作品の違いについて語った。
樋口のレジュメには飯島晴子「言葉が現れるとき」が引用されている。これが樋口の言いたかったことをよく伝えている。
(A)
眼前にある実物をよくよく目で見て、これは赤いとか、丸いとか、ああリンゴであるとか、とにかくなるべく実物に添って心をはたらかしてしらべる。そして、知ったこと、感じたことを他人に伝えるために、自分の内部ではなく、公の集会場の備えてある言葉の一覧表、とでもいうような種類の言葉の中から言葉を選んで使う、というやり方である。対象となる事物が、観念や情感に代っても事情は同じである。私にとってこれ以外の言葉のとらえ方があろうとは思ってもみなかった。
(B)
それが俳句をつくる作業のなかで、言葉を扱っていていつからともなく、言葉というもののはたらきの不思議に気がついた。言葉の偶然の組合せから、言葉の伝える意味以外の思いがけないものが顕ちのぼったり、顕ちのぼりかけたりすることを体験した。そこに顕ってくれるのは、私から少しずれた私であり、私の予定出来ない、私の未見の世界であった。言葉は自分たちの意志で働いているうちに或る瞬間、カチッと一つのかたちをつくる。このカチッという感触が得られたとき、言葉たちのかたちの向うに、言葉を伝える意味とは決定的に違う一つの時空が見えているはずである。このようにして私の俳句のつくり方は変わった。
図式的に言えば、前者(A)によってウチ向きの作品が出来上がり、後者(B)によってソトに対しても開かれた作品が書かれるということになる。「ソトの目の厳しさ」を樋口はよく知っているのだろう。
「金曜日の川柳」で取り上げる作品について、「伝統」の作品によいものがあり、取り上げることが多いというのも印象的だった。伝統の作品を含むことによって川柳はより豊かなものになる。
畑美樹は「川柳展望」「川柳大学」「バックストローク」そして「Leaf」と川柳誌に参加してきているが、「川柳をやっている」という意識が薄かったように思う、と自ら言う。彼女が川柳に深く関わるようになった時期は、川柳が他ジャンルからそのアイデンティティを問われた時代であり、それだけ川柳という文芸が「動いていた」「動いている」時代であった。
では、なぜ畑は川柳をおもしろいと感じたのか。
俳句や短歌にはすでに確立されたアイデンティティがあり、中心にあるそのジャンルのアイデンティティを強く意識したところから始まっている。それに対して川柳は「中心を意識しない自由度」がある。だから、はみだしすぎると、戻ってこられなくなる。そこに、自由なゆえの不自由さがあり、「作る」おもしろさがある、という。
以上が畑のとらえた川柳の姿である。戻るべきジャンルの中心ではなくて、中心のない自由さ、ダイナミックに動いていること自体におもしろさを見出している。「ジャンルの中心を意識しないことが果たして文芸の条件として成り立つのか」とは畑自身の疑問であるが、「バックストローク」の編集後記にも畑はよく「川柳は動いている」と書いている。また、畑は彼女の持論である「字から入る川柳」ではなく「耳から入る川柳」の可能性についても語った。
川柳の世界に入って時間がたつにつれて、最初に感じた違和感が次第に薄れ、川柳界の習慣を当然のこととしてなじんでしまうようになりがちである。その点、まだ川柳歴の長くない湊のフレッシュな目に現代川柳がどううつっているのか興味があった。
湊は川柳について原理的に考えるのが好きで、川柳理論を組み立てては崩しているそうだ。
「川柳が文芸ジャンルとして認められるには、一人ひとりがよい句を書くというだけでは足りない」と湊は言う。インフラの整備が必要で、第一にアンソロジー、第二に評論が求められるという。句の発表形態としての句会・雑誌のあり方を再考することも求められるが、実践を除いて論を立ててもさほど意味はないとした。
川柳に興味をもった人がいても、明治以後の主な川柳作品を集めた手頃なアンソロジーがないので、それ以上先に進めない。湊は自ら運営するサイト「s/c」「バックストローク」100句選を掲載し、鑑賞を付けている。その後、「川柳作家全集」(新葉館)でも同じようなことを試みている。
湊の指摘したジャンルとして自立するためのインフラ整備という問題。
川柳は他ジャンルと比べてこれらのシステム整備が遅れているとかねがね感じていたので、荻原の「俳句・短歌にあるものはすべて川柳にもある」という発言には驚いた。ただ、絶対量が少ないので、アンソロジーなども川柳人がどんどん作っていけばよいという。
荻原の「川柳は外部に向かって伝わっていない」という認識と湊の「一人ひとりがよい句を書くというだけでは足りない」という発言とは対応している。荻原のは外部からの目であり、湊のは川柳の世界に入ってみての実感である。ただ、実践的には両者の考えには違いがある。荻原は『現代川柳の群像』『現代川柳鑑賞辞典』『現代女流川柳鑑賞辞典』などの大きなタイトルでは読者が引いてしまうので、もっと個人的に偏ったものでよいから各自がアンソロジーを編むべきだという。湊は逆に川柳史を視野に入れ、明治以降の近現代川柳全体をカバーするような川柳全集をイメージしているらしい。
川柳が文芸として認知されるためのインフラやシステムの整備と、時代に応じた新鮮な川柳作品が書かれることとは並行しなければならない。インフラが整備されても、川柳にとって大切なものが失われてしまうならば、何にもならないからだ。川柳界にもプロデューサーとクリエーターが必要なのだが、川柳のマーケットがそれほど大きくない現状では、川柳人が両者を兼ね備えてやっていくしかないのである。
シンポジウムというものは出来たことよりも出来なかったこと、語られた部分よりも語られなかった部分が多いものである。パネラーにとっても用意してきた言説のごく一部分しか発言する機会がなかったことだろう。荻原のいう「文芸らしくない文芸」、樋口の「川柳のウチとソト」、畑の「中心を意識しない自由度」、湊の「インフラの整備」(あるいは湊のレジュメにあった「文芸を解体してゆく文芸」)、これらの諸点をさらに問い詰めてゆけば、「川柳性」の内実がより明確に浮かび上がってゆくかも知れない。アンソロジーなどの実践的な問題も含めてそれは今後の課題であり、個々の川柳人によって深められてゆくべきものであろう。2001年の「川柳ジャンクション」での議論に比べて2011年の今回の議論に深化があっただろうか。荻原は「また10年後に呼んでください」と言ったが、10年後の川柳状況はいったいどうなっているだろう。楽しみでもあり、怖くもある。
2011年9月16日金曜日
川上三太郎『川柳入門』を読む
9月11日(日)に地元の堺市で「第25回堺市民芸術祭川柳大会」が開催されたので参加してみた。秋は川柳大会のシーズンだから、他の大会とも重なっているようだが、120~130名の出席者があった。席に座って作句していると、さまざまな川柳大会の案内ビラが配られる。その案内ビラの選者と兼題を見て、その大会に参加する気になったりする。情報伝達の方法が古風とも言えるし、人間的とも言える。披講の前に墨作二郎の「お話」がある。川柳大会では選者が選をしている間の参加者の待っている空白を埋めるために「お話」という時間が設定されることが多い。
作二郎は終戦直後の堺の川柳界のことから語りはじめたが、昭和30年ごろの川柳入門書のうち川上三太郎の『川柳入門』(昭和27年・川津書店)を取り上げたのが印象的であった。同書店から発行された入門書シリーズで佐佐木信綱が『短歌入門』を、水原秋桜子が『俳句入門』を書いている。この本については後述する。
「お話」に続いて披講に入る。一つ目は「男」という題。この題では「男とはどういうものか」という常識や「男とはこんなものさ」という穿ちが量産されることになる。文芸性とは次元の異なる価値観によって場が支配されるから、作品はその場だけで消えてゆくし、またそれでよいのだとも言える。川柳の大衆性という一面が胸にせまってくる。当日の作品ではないが、「男」という題でどのような佳作が生まれうるか、頭の中で思い浮かべてみた。次に挙げるのはすでに著名な作品である。
壁がさみしいから逆立ちをする男 岸本水府
男は莫迦で蛇に咬まれたことがない 定金冬二
十人の男を呑んで九人吐く 時実新子
都鳥男は京に長居せず 渡辺隆夫
『川柳入門』に話を戻すと、三太郎は「川柳」を次のように定義している。
「川柳とは原則として人間を主題とする十七音の定型詩である」
この「原則として」は「人間を主題とする」という内容と「十七音の定型詩」という形式との両方にかかっている。例外として「人間を主題としない内容」もあるわけであり、例外として「十七音以上または以下のもの」もある。作二郎は「原則として」に三太郎の狡さがあるという。
「ところでこの人間を主題とする―という事ですが、これは人間のみとせまく取ってはいけません。人間―つまり人間及びそれから生ずる諸種相、生活、その見聞、感情等、一切がふくまれるので、それは大きな内容を持つことになるのであります。つまり、われわれの感懐、見聞がすべて川柳の内容となるのですから、川柳は非常に人間の匂いの濃いものなのであります」
「人間の匂い」という言い方をすると、「人間」よりも広い範囲をカバーできることになる。「原則として十七音の定型詩」というところにも、例外的韻律を認めていることになる。作二郎は「今の言葉が五七五のおさまるだろうか。おさまるとしたら、非常に窮屈である」と言う。
三太郎は川柳を作るには次の二つが必要だと述べている。
ことば―を沢山知って置く事
ことば―を正確に知って置く事
作二郎は震災や原発事故の現状に触れて、「シーベルト」「想定外」などの言葉が飛び交っているが、それらは正確に使われているのかどうかを問いかける。そして、川柳が時代の表現だとすれば、今を生きている人間として震災を書くことは避けて通れないと述べた。
『川柳入門』の第二篇「川柳の鑑賞」では、川柳をコント風に解説してある。たとえば、「夏まつり」というタイトルでは―
「なつかしいわ、くにのお祭―」
「おねーさん、赤ちゃん、まだ?」
「いやななつ子ちゃん―」
「西瓜切ってきたの、とても冷えてるわ」
「ありがとう、本当に久しぶりだわ、この味、おいしいわ」
《 東京の姉も来てゐる夏まつり 》
こんな調子のコント風解説が続く。このようなスタイルを取ること自体、川柳が大衆文芸・民衆文芸の一面をもっていることを如実に示している。そう言えば、川上三太郎こそ、川柳が詩性と大衆性の二面性をもっていることを身をもって示した二刀流主義者であった。
作二郎が三太郎の『川柳入門』のうち、「ことばをたくさん知っておくこと」「ことばを正確に知っておくこと」の二点を引き合いにだしたことは今日的意味があるだろう。
この日の作二郎の話の中で最も印象に残った言葉がある。
「十年前の作品も今の作品も同じだと言われるのは癪である」
作二郎は終戦直後の堺の川柳界のことから語りはじめたが、昭和30年ごろの川柳入門書のうち川上三太郎の『川柳入門』(昭和27年・川津書店)を取り上げたのが印象的であった。同書店から発行された入門書シリーズで佐佐木信綱が『短歌入門』を、水原秋桜子が『俳句入門』を書いている。この本については後述する。
「お話」に続いて披講に入る。一つ目は「男」という題。この題では「男とはどういうものか」という常識や「男とはこんなものさ」という穿ちが量産されることになる。文芸性とは次元の異なる価値観によって場が支配されるから、作品はその場だけで消えてゆくし、またそれでよいのだとも言える。川柳の大衆性という一面が胸にせまってくる。当日の作品ではないが、「男」という題でどのような佳作が生まれうるか、頭の中で思い浮かべてみた。次に挙げるのはすでに著名な作品である。
壁がさみしいから逆立ちをする男 岸本水府
男は莫迦で蛇に咬まれたことがない 定金冬二
十人の男を呑んで九人吐く 時実新子
都鳥男は京に長居せず 渡辺隆夫
『川柳入門』に話を戻すと、三太郎は「川柳」を次のように定義している。
「川柳とは原則として人間を主題とする十七音の定型詩である」
この「原則として」は「人間を主題とする」という内容と「十七音の定型詩」という形式との両方にかかっている。例外として「人間を主題としない内容」もあるわけであり、例外として「十七音以上または以下のもの」もある。作二郎は「原則として」に三太郎の狡さがあるという。
「ところでこの人間を主題とする―という事ですが、これは人間のみとせまく取ってはいけません。人間―つまり人間及びそれから生ずる諸種相、生活、その見聞、感情等、一切がふくまれるので、それは大きな内容を持つことになるのであります。つまり、われわれの感懐、見聞がすべて川柳の内容となるのですから、川柳は非常に人間の匂いの濃いものなのであります」
「人間の匂い」という言い方をすると、「人間」よりも広い範囲をカバーできることになる。「原則として十七音の定型詩」というところにも、例外的韻律を認めていることになる。作二郎は「今の言葉が五七五のおさまるだろうか。おさまるとしたら、非常に窮屈である」と言う。
三太郎は川柳を作るには次の二つが必要だと述べている。
ことば―を沢山知って置く事
ことば―を正確に知って置く事
作二郎は震災や原発事故の現状に触れて、「シーベルト」「想定外」などの言葉が飛び交っているが、それらは正確に使われているのかどうかを問いかける。そして、川柳が時代の表現だとすれば、今を生きている人間として震災を書くことは避けて通れないと述べた。
『川柳入門』の第二篇「川柳の鑑賞」では、川柳をコント風に解説してある。たとえば、「夏まつり」というタイトルでは―
「なつかしいわ、くにのお祭―」
「おねーさん、赤ちゃん、まだ?」
「いやななつ子ちゃん―」
「西瓜切ってきたの、とても冷えてるわ」
「ありがとう、本当に久しぶりだわ、この味、おいしいわ」
《 東京の姉も来てゐる夏まつり 》
こんな調子のコント風解説が続く。このようなスタイルを取ること自体、川柳が大衆文芸・民衆文芸の一面をもっていることを如実に示している。そう言えば、川上三太郎こそ、川柳が詩性と大衆性の二面性をもっていることを身をもって示した二刀流主義者であった。
作二郎が三太郎の『川柳入門』のうち、「ことばをたくさん知っておくこと」「ことばを正確に知っておくこと」の二点を引き合いにだしたことは今日的意味があるだろう。
この日の作二郎の話の中で最も印象に残った言葉がある。
「十年前の作品も今の作品も同じだと言われるのは癪である」
2011年9月11日日曜日
川柳誌にできること、できないこと
少しずつ秋らしい空になってきた。秋は各地で川柳大会が開催される季節である。
この夏から秋にかけて、さまざまな雑誌や句集を送っていただいた。
「江古田文学」77号は「林芙美子・没後60年」特集を組んでいる。昭和26年(1951年)6月、林芙美子は心臓麻痺のために永眠。4月に「浮雲」を完結し、「めし」を連載しはじめたところであった。48歳。神奈川近代文学館では今年10月1日から林芙美子展が開催されるという。
「江古田文学」の特集「林芙美子の現在」では諸家が様々な角度から芙美子を論じているが、その中で浅沼璞が〈吟詠『放浪記』〉を発表しているのが印象的である。浅沼は最初に『放浪記』第三部の一節を引用している。
「速くノートに書きとめておかなければ、この素速い文字は消えて忘れてしまうのだ。
仕方なく電気をつけ、ノートをたぐり寄せる。鉛筆を探しているひまに、さっきの光るような文字は綺麗に忘れてしまって、そのひとかけらも思い出せない。また燈火を消す。するとまた、赤ん坊の泣き声のような初々しい文字が瞼に光る」
就寝時の眠りに落ちきらない頭脳の中では様々な言葉が飛び交っている。川柳人にもベッドから起きて言葉の切れはしを紙に書きつけた経験はあることだろう。浅沼はこの一節から芭蕉の「物の見えたるひかり」を連想し、「思えば芭蕉も芙美子も、宿命的な放浪者であった」と述べている。
放浪のカチウシャたらむ翁の忌 浅沼璞
痴れ人へ突き飛ばさんや扇風機
何喰うてベンチに星の女かな
私の表皮にすぎぬ「放浪記」
特集では「浮雲」について多角的に論じられていて、成瀬巳喜男の映画のことも取り上げられている。成瀬の映画はあまりにも有名であり、私も何度も見ているので、芙美子の原作はもういいやと思って、これまで読んだことがなかった。けれども、この特集によって俄然興味を刺激され、小説を読んでみると、これがとても面白いのである。
さて、振り返って、川柳誌における「特集」の在り方について考えさせられた。無いものねだりかも知れないが、川柳誌において充実した特集は企画しにくいし、成功もしにくいのである。
総合誌・結社誌・同人誌の三種の紙媒体の中で、川柳人にとってなじみの深いのは結社誌と同人誌である。
結社誌は会費を払って自己の作品を掲載してもらうシステムである。したがって、雑誌が届くと自分の作品が掲載されているページを真っ先に開く。高橋古啓は「自分で作った作品を自分で読んでどうするのか。他の人の作品をこそ読むべきではないか」とよく言っていた。けれども、自作を掲載してもらうために会費を払うのであってみれば、まず自作の載っているページを開いて悦に入るのは当然の権利と言えば言えるのである。
同人誌の場合はそれほど極端ではないだろうが、自作の発表の場として作品欄は当然重視される。ただ、川柳誌の場合、経済的な問題もあってページ数がすくなく、同人作品が詰め込まれて掲載されることが多いのは残念なことだ。同人はライバルでもあるから、どんな作品を書いているかに対しては関心があるはずだ。
いずれにせよ、川柳誌の場合、不特定多数の読者が読むのではないから、誌面構成は限定される。商業ベースにも乗らないから、企画や編集の良し悪しもあまり問われない。
ここでもう一冊紹介したい雑誌がある。四ッ谷龍の個人誌「むしめがね」19号である。平成17年に18号が出ているから、6年ぶりの発行である。「むしめがね」は昭和62年に冬野虹と四ッ谷龍との二人文芸誌として創刊。平成14年に冬野虹が急逝したあともゆるやかなペースで発行が続けられている。
本号では「ぶらんこの上の虹」と「四ッ谷龍句集『大いなる項目』」の二つの特集を組んでいる。
特集1ではフランスの作家・俳人ティエリー・カザルスが「ぶらんこの上の虹」のタイトルで冬野虹論を書いている。『セレクション俳人・四ッ谷龍集』の年譜によると、平成12年11月に四ッ谷はパリでカザルスと会っている。
「日本には、俳句を他言語に置き換えることは不可能であり、俳句の翻訳には意味がないと思っている人がいる。そう思う方には、ティエリーの文章をぜひ読んでみていただきたい」と四ッ谷は書いている。
白梅や図書館に気絶してゐる 冬野虹
水に澄むふたつのからだ羊追ふ
メリケン粉海から母のきつねあめ
荒海やなわとびの中がらんどう
「冬野虹がとくに愛読したフランス人文学者の一人に、『夢想の詩学』の著者、ガストン・バシュラールがいた。彼女はこの本を日本語訳で読んでいた。もじゃもじゃの白髯を生やしたこの哲学者は、その著作の中で夢想に重要な位置を付与していた、二十世紀にはまれな思想家であった」
カザルスはこのように述べたあと、「幼年時代のはじめの印象がどのようにして大人になってからの内面生活の素因となりうるか」を説いたバシュラールの一節を引用している。「バシュラールと同様、冬野虹は大いなる夢想家であった。生涯を通して、彼女は自分の『最初の感覚』に深くつながり続けていた」
特集2は四ッ谷龍句集『大いなる項目』。亜樹直(あきただし)と関悦史が書いている。亜樹直(女性)は講談社の青年マンガ誌「モーニング」に連載されているワイン漫画「神の雫」の原作者。四ッ谷とは中学時代の同級生だという。関悦史は俳句界で大活躍中の俳人・批評家。4月の「バックストローク岡山大会」で選者をしていただいたので、川柳界でもおなじみの方も多いだろう。「己からずれ出る激しい振動としての祈り」と題する『大いなる項目』評は、四ッ谷があとがき(ルーペ帳)で書いているように、ティエリーの「俳句の技法は、ひたすら『鼓動』に一致し、同期するところにある」という認識と一致する。すぐれた批評は期せずして一致するのであろうか。
渡り鳥鏡を抜けて来しもあらむ 四ッ谷龍
涼しさのわたしは庭となりにけり
大空を鳩にあずけて薔薇づくり
フルートは雷の妃なり吹けり
山猫は行ったり来たり宗鑑忌
「江古田文学」は350ページに及ぶ大冊で、特集には17人が執筆している。「むしめがね」は70ページの中に作品と批評が充実している。
比較することなどできないが、連想は「これからの川柳誌はどのような方向を目指すべきなのか」という方向に向かってしまう。川柳誌には何ができて何ができないのか。川柳誌にも構想力が求められている。
この夏から秋にかけて、さまざまな雑誌や句集を送っていただいた。
「江古田文学」77号は「林芙美子・没後60年」特集を組んでいる。昭和26年(1951年)6月、林芙美子は心臓麻痺のために永眠。4月に「浮雲」を完結し、「めし」を連載しはじめたところであった。48歳。神奈川近代文学館では今年10月1日から林芙美子展が開催されるという。
「江古田文学」の特集「林芙美子の現在」では諸家が様々な角度から芙美子を論じているが、その中で浅沼璞が〈吟詠『放浪記』〉を発表しているのが印象的である。浅沼は最初に『放浪記』第三部の一節を引用している。
「速くノートに書きとめておかなければ、この素速い文字は消えて忘れてしまうのだ。
仕方なく電気をつけ、ノートをたぐり寄せる。鉛筆を探しているひまに、さっきの光るような文字は綺麗に忘れてしまって、そのひとかけらも思い出せない。また燈火を消す。するとまた、赤ん坊の泣き声のような初々しい文字が瞼に光る」
就寝時の眠りに落ちきらない頭脳の中では様々な言葉が飛び交っている。川柳人にもベッドから起きて言葉の切れはしを紙に書きつけた経験はあることだろう。浅沼はこの一節から芭蕉の「物の見えたるひかり」を連想し、「思えば芭蕉も芙美子も、宿命的な放浪者であった」と述べている。
放浪のカチウシャたらむ翁の忌 浅沼璞
痴れ人へ突き飛ばさんや扇風機
何喰うてベンチに星の女かな
私の表皮にすぎぬ「放浪記」
特集では「浮雲」について多角的に論じられていて、成瀬巳喜男の映画のことも取り上げられている。成瀬の映画はあまりにも有名であり、私も何度も見ているので、芙美子の原作はもういいやと思って、これまで読んだことがなかった。けれども、この特集によって俄然興味を刺激され、小説を読んでみると、これがとても面白いのである。
さて、振り返って、川柳誌における「特集」の在り方について考えさせられた。無いものねだりかも知れないが、川柳誌において充実した特集は企画しにくいし、成功もしにくいのである。
総合誌・結社誌・同人誌の三種の紙媒体の中で、川柳人にとってなじみの深いのは結社誌と同人誌である。
結社誌は会費を払って自己の作品を掲載してもらうシステムである。したがって、雑誌が届くと自分の作品が掲載されているページを真っ先に開く。高橋古啓は「自分で作った作品を自分で読んでどうするのか。他の人の作品をこそ読むべきではないか」とよく言っていた。けれども、自作を掲載してもらうために会費を払うのであってみれば、まず自作の載っているページを開いて悦に入るのは当然の権利と言えば言えるのである。
同人誌の場合はそれほど極端ではないだろうが、自作の発表の場として作品欄は当然重視される。ただ、川柳誌の場合、経済的な問題もあってページ数がすくなく、同人作品が詰め込まれて掲載されることが多いのは残念なことだ。同人はライバルでもあるから、どんな作品を書いているかに対しては関心があるはずだ。
いずれにせよ、川柳誌の場合、不特定多数の読者が読むのではないから、誌面構成は限定される。商業ベースにも乗らないから、企画や編集の良し悪しもあまり問われない。
ここでもう一冊紹介したい雑誌がある。四ッ谷龍の個人誌「むしめがね」19号である。平成17年に18号が出ているから、6年ぶりの発行である。「むしめがね」は昭和62年に冬野虹と四ッ谷龍との二人文芸誌として創刊。平成14年に冬野虹が急逝したあともゆるやかなペースで発行が続けられている。
本号では「ぶらんこの上の虹」と「四ッ谷龍句集『大いなる項目』」の二つの特集を組んでいる。
特集1ではフランスの作家・俳人ティエリー・カザルスが「ぶらんこの上の虹」のタイトルで冬野虹論を書いている。『セレクション俳人・四ッ谷龍集』の年譜によると、平成12年11月に四ッ谷はパリでカザルスと会っている。
「日本には、俳句を他言語に置き換えることは不可能であり、俳句の翻訳には意味がないと思っている人がいる。そう思う方には、ティエリーの文章をぜひ読んでみていただきたい」と四ッ谷は書いている。
白梅や図書館に気絶してゐる 冬野虹
水に澄むふたつのからだ羊追ふ
メリケン粉海から母のきつねあめ
荒海やなわとびの中がらんどう
「冬野虹がとくに愛読したフランス人文学者の一人に、『夢想の詩学』の著者、ガストン・バシュラールがいた。彼女はこの本を日本語訳で読んでいた。もじゃもじゃの白髯を生やしたこの哲学者は、その著作の中で夢想に重要な位置を付与していた、二十世紀にはまれな思想家であった」
カザルスはこのように述べたあと、「幼年時代のはじめの印象がどのようにして大人になってからの内面生活の素因となりうるか」を説いたバシュラールの一節を引用している。「バシュラールと同様、冬野虹は大いなる夢想家であった。生涯を通して、彼女は自分の『最初の感覚』に深くつながり続けていた」
特集2は四ッ谷龍句集『大いなる項目』。亜樹直(あきただし)と関悦史が書いている。亜樹直(女性)は講談社の青年マンガ誌「モーニング」に連載されているワイン漫画「神の雫」の原作者。四ッ谷とは中学時代の同級生だという。関悦史は俳句界で大活躍中の俳人・批評家。4月の「バックストローク岡山大会」で選者をしていただいたので、川柳界でもおなじみの方も多いだろう。「己からずれ出る激しい振動としての祈り」と題する『大いなる項目』評は、四ッ谷があとがき(ルーペ帳)で書いているように、ティエリーの「俳句の技法は、ひたすら『鼓動』に一致し、同期するところにある」という認識と一致する。すぐれた批評は期せずして一致するのであろうか。
渡り鳥鏡を抜けて来しもあらむ 四ッ谷龍
涼しさのわたしは庭となりにけり
大空を鳩にあずけて薔薇づくり
フルートは雷の妃なり吹けり
山猫は行ったり来たり宗鑑忌
「江古田文学」は350ページに及ぶ大冊で、特集には17人が執筆している。「むしめがね」は70ページの中に作品と批評が充実している。
比較することなどできないが、連想は「これからの川柳誌はどのような方向を目指すべきなのか」という方向に向かってしまう。川柳誌には何ができて何ができないのか。川柳誌にも構想力が求められている。
2011年9月2日金曜日
『武玉川』における人間の研究
9月に入った。今週はこれといった動きもないので、閑文字を連ねることにする。
小島政二郎に『私の好きな川柳』(新装版・弥生書房・1996年)という著作がある。小島は『眼中の人』『円朝』などの著作で知られている作家で、長く芥川賞の選考委員をつとめた。本書の最初の方に室生犀星と芥川龍之介の比較が出てくる。
犀星は芭蕉以外の俳句は一切認めなかった。「元禄でなければ」というのが彼の口癖であった。芥川に言わせれば、それではあまりに視野が狭すぎる、天明の蕪村も几董も太祇も認めるに値する、ということになる。芥川がパースペクティヴに従って見ているのに対して、犀星は芭蕉一人あればその他はいらないという頑固さによっている。犀星の頑固さは芥川の柔軟さよりも犀星をより深く幸せにしたのではないか、と小島は言う。
「鑑賞家としては、芥川の態度が本当だ。しかし、小説家としてだけで、鑑賞家としてなんか問題にしていない室生は、室生の小説家としての勘で好き嫌いを云って一向差支えないのである」
小島のこの指摘を私は面白いと思う。もう一人、小島が挙げているのが久保田万太郎である。万太郎は芭蕉のような大物が嫌いで、マイナーな詩人だけが好きだった。万太郎は犀星とは逆に太祇が好きだったのだ。ちなみに小島は『俳句の天才―久保田万太郎』という本を書いている。
湯豆腐やいのちのはてのうすあかり 久保田万太郎
小島は川端康成についてのエピソードも紹介している。芥川賞・直木賞の選考委員会を開いているとき、川端は「私達はこうして私達の敵を選び出しているのですね」と言ったという。有望な後輩を生む努力をしているのだと思っていた小島はひどく驚いたのだ。
「小説家にとって、個性くらい興味のあるイキモノはない。中でも、強烈な個性に最も心を引かれる。そうして書く」「書くということは、その個性と親しく付き合うことだ。好きになれない個性もあれば、それ程でなくとも、どうにも親しくなれない個性もあり、反対に永く付き合いたくなるよき個性もあり、個性くらいその人間を語るものはあるまい」
小島は『柳多留』よりも『武玉川』の方が面白いという。以下に引用する句もほとんど『武玉川』からである。
俯けば言訳よりも美しき 『武玉川』十八篇
「普通川柳と思われている句よりも、遥かに人生に近い。少なくとも、若い女の姿態が彷彿として来る。少し贔屓して云えば、色彩を帯びて、もう少し誇張して云えば、まぶしいくらい美しい」
うつむいているのは若い女である。小言を言っているのは親か亭主だろう。いいわけをすればできるはずなのに、女はただうつむいているだけだというのである。それを美しいと見ているのは親か亭主だろうか、それとも第三者がその光景を美しいと見ているのだろうか。
牡丹をつかむやうな胸ぐら 『武玉川』六篇
「うまいなあ。若い相手の胸ぐらを掴んだ感じ。
十四字でよくこれだけの内容を歌えたものだと思う。歌えただけなら一応の感心で済むが、うまいのだから感服するより外ない。
夫婦喧嘩の真ッ最中、口は女の方が達者だから、相当きついことも云ったのだろうと思う。男もそれ相当興奮して、女の胸ぐらをつかんだのだ。が、女は口程にもなく、牡丹をつかむような胸ぐらだったと云うのだ。それ程絢爛と美しかったのである」
小説家だから、場面を生き生きと想像するのがうまい。夫婦喧嘩の場でなくてもいいかも知れない。
面白い恋がいつしか凄くなり 『武玉川』四篇
「恋の本質を道破したものだろう。凄くならないような恋は恋じゃない」
一ト逃げ逃げて口を吸はせる 『武玉川』二篇
「江戸の娘さんの媚態を生き生きと描いている。江戸生まれの娘さん以外の娘では絶対にあり得ない。そこが値打ちである。
生まれて初めてのことだし、江戸生まれの潔癖さから云っても、一も二もなく応じる気遣いはない。しかし、全く受け入れない程無情でもない。〈一ト逃げ〉するところが、江戸の娘さんの、私の好きな一点である」
ちなみに、神田忙人著「『武玉川』を楽しむ」(朝日選書)では「下町の娘の恥じらい、潔癖さと本能的な一種の媚態か、こういうことに慣れた商売女のテクニックか、どちらとも決めかねる句だ」とあって、小島の解釈と少しニュアンスが異なる。主語が省略されているので、どういう人物を描いているかで解釈が分かれるのである。
さて、小島が最後に「私が一番好きな句」として挙げているのが次の句である。
やはやはと重みのかかる芥川 『柳多留』初篇
『伊勢物語』で在原業平が二条の后を盗んで逃げる場面を詠んでいる。俵屋宗達の絵画でも有名である。
「私はこの句を読んで、二条の后の蒸すような肉体を想像する。次に、業平が二条の后を負ぶった時の、背中と胸との親しみのないギコチない感触を想像する。さて、そのまま川を渡っている間に、胸と背中との間に親しい官能の相通うものがあったに違いない」
そういえば、河野春三に「高槻異情」という詩がある。
やわやわと重みのかかる芥川
と古川柳に詠まれた芥川は
高槻市のほぼ中央を南に流れて淀川に注ぐ
夏草の生い繁るころこの川の畔に立つと
変哲もない小川を新幹線の矢が横切る
上流はやや川幅も広く桜の古木が花を競い
花の頃は雪洞が風情を作ったりするが…… (『河野春三詩集』風発行所)
本書の最後で小島はこんなふうに述べている。
「川柳の何よりの強みは、社会的体験が根底をなしていることだった。当時の一般の小説(但し、西鶴を除く)、一般の俳句(但し、芭蕉を除く)に比べると、川柳の強みは社会的体験を豊富に扱っていたことだと思う。それが、川柳に客観性と描写力を持たせた」
田辺聖子『武玉川・とくとく清水』(岩波新書)を読むと、「小島政二郎『私の好きな川柳』は誤訳・珍解が多いことで有名で、その野孤禅流の見当はずれの解釈を指摘する人は多い」ということであるが、私には小島の本は面白かったのである。
本書と同じ弥生書房から『武玉川選釈』(森銑三著)が出ている。森は作家ではないから、評釈も小島ほど面白くはなく、取り上げている句も異なっているが、「武玉川・柳樽に出ている食べ物」の章は、恋句とはまた別の川柳の一面をとらえているので、紹介する。
蕗味噌を子に嘗めさせて叱られる 『柳多留』十篇
「蕗味噌は蕗のとうの味噌あえか、とにかく苦味のある味噌なのを、亭主が面白がって箸に付けて、赤ン坊に嘗めさせる。赤ン坊がしかめッ面をする。御亭主は忽ちかみさんから叱られる」
油揚二度目の使大人なり 『柳多留』二十篇
「油揚を丁稚の長松に買いに出したら、鳶にさらわれて帰って来た。仕方のない奴だな、と二度目には下男の権助が改めてそれを買いに行く」
海鼠売つまんで見せて嫌がらせ 『武玉川』十三篇
「どうだい、旨いが買わないか。まだ生きているんだぜ、などど、わざとぬらくらしている海鼠をつまんで、女達の鼻の先へ突きつける。女どもはきやァという」
蛇足だが、『武玉川』は俳諧の高点付句集であって川柳ではないと言う人がいるが、川柳界では七七句を「武玉川調」と呼んで根強い人気があるので、アカデミックに考えるのでなければ、川柳と呼んで差し支えないと思う。
小島政二郎に『私の好きな川柳』(新装版・弥生書房・1996年)という著作がある。小島は『眼中の人』『円朝』などの著作で知られている作家で、長く芥川賞の選考委員をつとめた。本書の最初の方に室生犀星と芥川龍之介の比較が出てくる。
犀星は芭蕉以外の俳句は一切認めなかった。「元禄でなければ」というのが彼の口癖であった。芥川に言わせれば、それではあまりに視野が狭すぎる、天明の蕪村も几董も太祇も認めるに値する、ということになる。芥川がパースペクティヴに従って見ているのに対して、犀星は芭蕉一人あればその他はいらないという頑固さによっている。犀星の頑固さは芥川の柔軟さよりも犀星をより深く幸せにしたのではないか、と小島は言う。
「鑑賞家としては、芥川の態度が本当だ。しかし、小説家としてだけで、鑑賞家としてなんか問題にしていない室生は、室生の小説家としての勘で好き嫌いを云って一向差支えないのである」
小島のこの指摘を私は面白いと思う。もう一人、小島が挙げているのが久保田万太郎である。万太郎は芭蕉のような大物が嫌いで、マイナーな詩人だけが好きだった。万太郎は犀星とは逆に太祇が好きだったのだ。ちなみに小島は『俳句の天才―久保田万太郎』という本を書いている。
湯豆腐やいのちのはてのうすあかり 久保田万太郎
小島は川端康成についてのエピソードも紹介している。芥川賞・直木賞の選考委員会を開いているとき、川端は「私達はこうして私達の敵を選び出しているのですね」と言ったという。有望な後輩を生む努力をしているのだと思っていた小島はひどく驚いたのだ。
「小説家にとって、個性くらい興味のあるイキモノはない。中でも、強烈な個性に最も心を引かれる。そうして書く」「書くということは、その個性と親しく付き合うことだ。好きになれない個性もあれば、それ程でなくとも、どうにも親しくなれない個性もあり、反対に永く付き合いたくなるよき個性もあり、個性くらいその人間を語るものはあるまい」
小島は『柳多留』よりも『武玉川』の方が面白いという。以下に引用する句もほとんど『武玉川』からである。
俯けば言訳よりも美しき 『武玉川』十八篇
「普通川柳と思われている句よりも、遥かに人生に近い。少なくとも、若い女の姿態が彷彿として来る。少し贔屓して云えば、色彩を帯びて、もう少し誇張して云えば、まぶしいくらい美しい」
うつむいているのは若い女である。小言を言っているのは親か亭主だろう。いいわけをすればできるはずなのに、女はただうつむいているだけだというのである。それを美しいと見ているのは親か亭主だろうか、それとも第三者がその光景を美しいと見ているのだろうか。
牡丹をつかむやうな胸ぐら 『武玉川』六篇
「うまいなあ。若い相手の胸ぐらを掴んだ感じ。
十四字でよくこれだけの内容を歌えたものだと思う。歌えただけなら一応の感心で済むが、うまいのだから感服するより外ない。
夫婦喧嘩の真ッ最中、口は女の方が達者だから、相当きついことも云ったのだろうと思う。男もそれ相当興奮して、女の胸ぐらをつかんだのだ。が、女は口程にもなく、牡丹をつかむような胸ぐらだったと云うのだ。それ程絢爛と美しかったのである」
小説家だから、場面を生き生きと想像するのがうまい。夫婦喧嘩の場でなくてもいいかも知れない。
面白い恋がいつしか凄くなり 『武玉川』四篇
「恋の本質を道破したものだろう。凄くならないような恋は恋じゃない」
一ト逃げ逃げて口を吸はせる 『武玉川』二篇
「江戸の娘さんの媚態を生き生きと描いている。江戸生まれの娘さん以外の娘では絶対にあり得ない。そこが値打ちである。
生まれて初めてのことだし、江戸生まれの潔癖さから云っても、一も二もなく応じる気遣いはない。しかし、全く受け入れない程無情でもない。〈一ト逃げ〉するところが、江戸の娘さんの、私の好きな一点である」
ちなみに、神田忙人著「『武玉川』を楽しむ」(朝日選書)では「下町の娘の恥じらい、潔癖さと本能的な一種の媚態か、こういうことに慣れた商売女のテクニックか、どちらとも決めかねる句だ」とあって、小島の解釈と少しニュアンスが異なる。主語が省略されているので、どういう人物を描いているかで解釈が分かれるのである。
さて、小島が最後に「私が一番好きな句」として挙げているのが次の句である。
やはやはと重みのかかる芥川 『柳多留』初篇
『伊勢物語』で在原業平が二条の后を盗んで逃げる場面を詠んでいる。俵屋宗達の絵画でも有名である。
「私はこの句を読んで、二条の后の蒸すような肉体を想像する。次に、業平が二条の后を負ぶった時の、背中と胸との親しみのないギコチない感触を想像する。さて、そのまま川を渡っている間に、胸と背中との間に親しい官能の相通うものがあったに違いない」
そういえば、河野春三に「高槻異情」という詩がある。
やわやわと重みのかかる芥川
と古川柳に詠まれた芥川は
高槻市のほぼ中央を南に流れて淀川に注ぐ
夏草の生い繁るころこの川の畔に立つと
変哲もない小川を新幹線の矢が横切る
上流はやや川幅も広く桜の古木が花を競い
花の頃は雪洞が風情を作ったりするが…… (『河野春三詩集』風発行所)
本書の最後で小島はこんなふうに述べている。
「川柳の何よりの強みは、社会的体験が根底をなしていることだった。当時の一般の小説(但し、西鶴を除く)、一般の俳句(但し、芭蕉を除く)に比べると、川柳の強みは社会的体験を豊富に扱っていたことだと思う。それが、川柳に客観性と描写力を持たせた」
田辺聖子『武玉川・とくとく清水』(岩波新書)を読むと、「小島政二郎『私の好きな川柳』は誤訳・珍解が多いことで有名で、その野孤禅流の見当はずれの解釈を指摘する人は多い」ということであるが、私には小島の本は面白かったのである。
本書と同じ弥生書房から『武玉川選釈』(森銑三著)が出ている。森は作家ではないから、評釈も小島ほど面白くはなく、取り上げている句も異なっているが、「武玉川・柳樽に出ている食べ物」の章は、恋句とはまた別の川柳の一面をとらえているので、紹介する。
蕗味噌を子に嘗めさせて叱られる 『柳多留』十篇
「蕗味噌は蕗のとうの味噌あえか、とにかく苦味のある味噌なのを、亭主が面白がって箸に付けて、赤ン坊に嘗めさせる。赤ン坊がしかめッ面をする。御亭主は忽ちかみさんから叱られる」
油揚二度目の使大人なり 『柳多留』二十篇
「油揚を丁稚の長松に買いに出したら、鳶にさらわれて帰って来た。仕方のない奴だな、と二度目には下男の権助が改めてそれを買いに行く」
海鼠売つまんで見せて嫌がらせ 『武玉川』十三篇
「どうだい、旨いが買わないか。まだ生きているんだぜ、などど、わざとぬらくらしている海鼠をつまんで、女達の鼻の先へ突きつける。女どもはきやァという」
蛇足だが、『武玉川』は俳諧の高点付句集であって川柳ではないと言う人がいるが、川柳界では七七句を「武玉川調」と呼んで根強い人気があるので、アカデミックに考えるのでなければ、川柳と呼んで差し支えないと思う。