コロナ禍で街に出ることが少なくなった。実際に行けないかわりに、想像のなかで文学散歩を楽しんでみたい。時空を超えて大阪の川柳ゆかりの地を訪ねてみる。
【心斎橋北詰・小島洋服陳列場】
心斎橋は長堀川にかかっていた橋だが、1960年代に川が埋め立てられて現在は明治の面影は残っていない。かつて心斎橋北詰に小島陳列場があり、小島六厘坊が住んでいた。六厘坊の父・小島善五郎は洋服商を営んでおり、小島銀行を設立するなど資産家であった。この小島銀行がその後どうなったのか調べてみたが、明治期には個人創業の銀行がしだいに吸収合併されていったようで、経緯がよく分からない。六厘坊の父の自宅は西横堀川の御池橋にあったが、六厘坊は小島洋服陳列場の方に住んでいたようだ。ちなみに御池橋も川の埋め立てにより現存しない。
六厘坊は明治期の関西における新川柳(近代川柳)の草分けで、小島陳列場に集まった若き川柳人たちの姿は梁山泊のようなイメージで私の心をとらえてはなさない。
小島洋服陳列場の位置を文献で調べてみたが、心斎橋北詰の駸々堂とうどん屋との間の二軒を合併したものだという。書店の駸々堂も現存しない。
陳列場というから洋服の陳列をしていて店員がいたが、六厘坊は店員とは別に大きなデスクを前にして正面を向いていた。川柳の友人が入ってゆくと、六厘坊が「ヤアー」と満面の笑みで迎える。店では川柳の話はせず、陳列場の奥にある倉を改造した部屋へ連れてゆく。職場の仕事と川柳は区別していたのだろう。薄暗い気味の悪い部屋で、六厘坊は一、二時間たてつづけに川柳談を語る。句も作らせるが、「まずい、まずい」と頭から決めつける。なかなか褒めないが、褒めるときはとこぎり褒めそやす。「とこぎり」とは徹底的にという意味の方言である。とこぎりけなすか、とこぎり褒めるかのどちらかだった。徹底した性格だったのである。雄弁だったから、彼が褒めて句の解釈をすると、聞くものは思わず引き込まれて感嘆させられたという。
六厘がほめりゃとこぎりほめる也 作者未詳
川上日車は六厘坊の友人で、そのころは七厘坊と名乗っていた。二人は川柳の主義主張で争うことが多く、すぐに絶交する。それでも二三日すると七厘坊は陳列場に姿を見せ、再びもめて絶交を繰り返した。
川柳の句会は新町の光禅寺でも行われて、西田当百がここではじめて六厘坊と会って、その若さに驚いた思い出を書いている。
六厘坊は小島洋服陳列場に21歳までいたが、十合呉服店の向かい側に別家して洋服商を営んだが、病を得て22歳で亡くなった。夭折の天才川柳人であった。
六厘坊については「週刊俳句」(2010年3月7日)に「小島六厘坊物語」というタイトルで小説風の文章を書いたことがある。
【四貫島】
喜多一二(きた・かつじ、鶴彬の本名)が高松から大阪にやってきたのは1926年秋のことだった。17歳のときである。その翌年、彼は「北国新聞」に「大阪放浪詩抄」を発表している。長編の詩だが、その最初だけ引用する。
はじめて見た大阪の表情は
石炭坑夫の顔のやうに
くろずんでゐた
軽いつっそくをおぼえる空気の中に
あ、秋はすばやくしのびこみ
精神病者のごとき街路樹は
赤くみどりを去勢されてゐる
大阪では四貫島(しかんじま)の従兄宅に寄宿して、町工場で働いた。彼はそれ以前に田中五呂八の「氷原」に参加し、新興川柳の洗礼を受けていたが、実際の労働者としての体験は彼をプロレタリア川柳へと鍛え上げたことだろう。
かねてから四貫島へ行ってみたいと思っているが、JR西九条駅から路線を乗り換えねばならず、訪れる機会がない。四貫島といっても鶴彬の住んでいた場所もわからないことである。
大阪城には鶴彬の句碑が建立されている。彼が治安維持法違反で収監されていた大阪衛戍監獄の跡地である。
暁を抱いて闇にゐる蕾 鶴彬
【青蓮寺・岸本水府墓】
2013年3月に大阪・上本町で「第32回連句協会総会・全国大会」が開催されたときに、連句人の有志数名で上本町周辺の俳諧史跡を散策したことがある。生玉神社から口縄坂に向かう途中の青蓮寺に「岸本水府墓」の表示があるのを門前で発見して立ち寄った。この寺には竹田出雲墓もある。大阪の俳諧史跡についてはこの時評(2013年3月30日)にも書いておいた。水府で私の一番好きな句は次の作品。
壁がさみしいから逆立ちをする男 岸本水府
『はじめまして現代川柳』を編集しているときに、川上日車に「慰めか知らず逆立ちする男」の句があることに気づいた。日車は前衛川柳、水府は伝統川柳(本格川柳)という二分法では片づけられないと思った。
さて、道頓堀に初代・中村鴈治郎を詠んだ水府の有名な句碑がある。場所は今井の横である。
ほおかむりの中に日本一の顔 岸本水府
【相合橋北詰】
水府の句の連想で食満南北のことに触れておきたい。
食満南北(けま・なんぼく)は堺市の出身。鴈治郎の座付作者であり、水府の「番傘」にも深くかかわっている。相合橋北詰に歌舞伎の店を開いており、その二階を句会場にしていた。洒脱な人で「今死ぬと言うのにしゃれも言えもせず」という辞世を残している。相合橋北詰にある句碑は次の句である。
盛り場をむかしに戻すはしひとつ 食満南北
この句の橋は相合橋ではなくて、太左衛門橋のことである。道頓堀川に太左衛門橋が復活したとき詠まれた作品だという。
2021年3月19日金曜日
読書日記(コロナ禍の短歌と俳句)
3月×日
笹川諒の歌集『水の聖歌隊』(書肆侃侃房)を読む。2014年から2020年までの短歌を収録した第一歌集である。
椅子に深く、この世に浅く腰かける 何かこぼれる感じがあって 笹川諒
巻頭の一首で、読者をこの歌集の世界へといざなう作品になっている。椅子に深く腰かけることと浅く腰かけることは矛盾するようだが、あるデリケートな感覚を表現している。「椅子」は居場所のようなものだろうが、「深く」「浅く」が対比されているから、「この世」に対して次元の異なるもうひとつの世界があるのだろう。「あとがき」の言葉を使うと「言葉とこころ」「自己と他者」「現実と夢」ということになるが、夢や詩の世界には深く、現実の社会には浅く腰かける、というような単純なことでもないだろう。そこには「何かこぼれる感じ」があるので、それは比喩的には「水」のようなものかもしれないが、ズレや欠落感ではなくて、こぼれる感覚と言っている。それを言葉でとらえようとして、たとえば次のような歌がある。
この雪は僕らの原風景に降る雪と違ってたくましすぎる
触れるだけで涙をこぼす鳥たちを二人は色違いで飼っている
空想の街に一晩泊るのにあとすこしだけ語彙が足りない
笹川には「川柳スパイラル」8号にゲスト作品をお願いしたことがある。彼はこんな川柳を書いている。
世界痛がひどくて今日は休みます 笹川諒
3月×日
川野芽生の歌集『Lilith』(書肆侃侃房)を読む。ふだん読みなれている口語短歌ではなくて、文語・旧かなである。まず巻頭の「借景園」が魅力的だ。
羅の裾曳きてわが歩みつつ死者ならざればゆきどころなし 川野芽生
廃園にあらねど荒ぶれる庭よわれらを生きながら閉ぢ籠めて
夜の庭に茉莉花、とほき海に泡 ひとはひとりで溺れゆくもの
廃園の美かと思ったが、この庭は生きている。藤棚は折れ、取り壊されて、借景もすでに失われてはいるけれど、まだ生きているのだ。
初出は「鹿首」12号。この号には川柳から八上桐子が参加していたはずだ。
完成度の高い美意識の世界とは対照的に、第三章では世界の現実と切りむすぶ作品が収録されている。
さからはぬもののみ佳しと聞きゐたり季節は樹々を塗り籠めに来し
魔女を焼く火のくれなゐに樹々は立ちそのただなかにわれは往かなむ
あとがきには次のように書かれている。
「人は嘘を吐くことがある、とはじめて気付いたとき、深い衝撃を受けたのを覚えています。人間がつねに真実を語ると思っていたわけではなく、むしろその反対で、ただ言葉の臣たる人間がみずからの思惑に沿って言葉を捻じ曲げうるなどとは、思ってもみなかったのです」
「言葉はその臣たる人間に似すぎていて、あまりに卑俗で、醜悪で、愚かです。人間という軛を取り去ったとき、言葉が軽やかに高々と飛翔するのであればいいのに」
『Lilith』(リリス)というタイトルを選んだのだから、先鋭な作者にちがいない。もしこの人が川柳を書いたらどんな作品が生まれるのだろう。
3月×日
短歌誌「井泉」98号が届く。リレー小論のテーマは【日常の歌を考える―コロナ禍に何をみるか】で、棚木恒寿と加藤ユウ子が書いている。引用されている短歌作品がコロナ禍の日常詠として興味深いので、ここに挙げておく。
人生のどこにもコロナというように開花日の雪降らす東京 俵万智『未来のサイズ』
あちらでは突き飛ばされた人が今マスクひと箱かかげてをりぬ 池田はるみ『亀さんゐない』
団栗をもらふリスなり届きたるマスク二枚をてのひらに乗す 栗木京子「黄色い車体」
緊急事態宣言の夜にペヤングをクローゼットの隙間に詰める 笹公人「ごはんがたけたよ」
公園にブランコは濡れ藤も濡れだれもいなくてだれもいらない 遠藤由季「マツバウンラン」
もう充分に家籠りしを更にまた東京人われら家に籠れと 奥村晃作「冬から春へ」
疫病のふちどる暮らしいつ死ぬかわからないのはいつもでしたが 山階基「せーので」
俳句の場合はどうかというと、ちょうど「俳誌五七五」(編集発行人・高橋修宏)7号の編集後記・日々余滴に次のようなコロナ禍の俳句作品が挙げられている。
コロナ隠みヰルス籠りの春愁 高橋睦郎
コロナとは鸚鵡の独り言殖えて 柿本多映
ペスト黒死病コレラは虎列刺コロナは何と 宇多喜代子
ウイルスのはびこる星よ蚊柱よ 大木あまり
吸う息に合わせ餓死風(やませ)もウイルスも 高野ムツオ
松の内どこでマスクをはずすのか 池田澄子
地球ごとマスクで覆う春の暮 渡辺誠一郎
マスク三百使い捨てたる柚風呂かな 高山れおな
これらの作品例だけで、短歌と俳句の切り口の違いをどうこう言えるものではないが、眺めているといろいろ考える材料になるかもしれない。
3月×日
岡田一実の第四句集『光聴』(素粒社)を読む。まず第一句集から第三句集までを振り返っておくことにする。
『境界‐border‐』(マルコポ.コム)より
焚火かの兎を入れて愛しめり
はくれんの中身知りたし知らんでも良し
快楽とは蜂ふるへたる花の中
『小鳥』(マルコポ.コム)より
木よ人よ漣すぎるものたちよ
ことは秘密裏に沈丁花沈丁花
小鳥遥かに星をたのしむ
『記憶における沼とその他の存在』(青磁社)より
コスモスの根を思ふとき晴れてくる
鷹は首をねぢりきつたるとき鳩に
幻聴も春の嵐も臥せて聴く
今度の第四句集は「俳句らしい俳句」だなと思った。「あとがき」には「現場の理想化前の僅かな驚きを書き留めること、些末を恐れず分明判断を超えてものを見ること、形而下の経験的認識が普遍性に近づくその瞬間を捉えること、イメージを具象的言語表現で伝えることなどは山険しけれども古い方法ではなく、現代の俳句を切り開く方法の一つになり得ると思うようになりました」とある。作者の俳句観の変化・深化があったのだろう。「私の見方」から「ものの見えたるひかり」の方へシフトしているようだ。
夜光虫波引くときの一猛り
流れくる浮輪に子ども挿してあり
先ほどの茄子とは違ふ空の色
腹黄なるを見て翡翠を見失ふ
笹川諒の歌集『水の聖歌隊』(書肆侃侃房)を読む。2014年から2020年までの短歌を収録した第一歌集である。
椅子に深く、この世に浅く腰かける 何かこぼれる感じがあって 笹川諒
巻頭の一首で、読者をこの歌集の世界へといざなう作品になっている。椅子に深く腰かけることと浅く腰かけることは矛盾するようだが、あるデリケートな感覚を表現している。「椅子」は居場所のようなものだろうが、「深く」「浅く」が対比されているから、「この世」に対して次元の異なるもうひとつの世界があるのだろう。「あとがき」の言葉を使うと「言葉とこころ」「自己と他者」「現実と夢」ということになるが、夢や詩の世界には深く、現実の社会には浅く腰かける、というような単純なことでもないだろう。そこには「何かこぼれる感じ」があるので、それは比喩的には「水」のようなものかもしれないが、ズレや欠落感ではなくて、こぼれる感覚と言っている。それを言葉でとらえようとして、たとえば次のような歌がある。
この雪は僕らの原風景に降る雪と違ってたくましすぎる
触れるだけで涙をこぼす鳥たちを二人は色違いで飼っている
空想の街に一晩泊るのにあとすこしだけ語彙が足りない
笹川には「川柳スパイラル」8号にゲスト作品をお願いしたことがある。彼はこんな川柳を書いている。
世界痛がひどくて今日は休みます 笹川諒
3月×日
川野芽生の歌集『Lilith』(書肆侃侃房)を読む。ふだん読みなれている口語短歌ではなくて、文語・旧かなである。まず巻頭の「借景園」が魅力的だ。
羅の裾曳きてわが歩みつつ死者ならざればゆきどころなし 川野芽生
廃園にあらねど荒ぶれる庭よわれらを生きながら閉ぢ籠めて
夜の庭に茉莉花、とほき海に泡 ひとはひとりで溺れゆくもの
廃園の美かと思ったが、この庭は生きている。藤棚は折れ、取り壊されて、借景もすでに失われてはいるけれど、まだ生きているのだ。
初出は「鹿首」12号。この号には川柳から八上桐子が参加していたはずだ。
完成度の高い美意識の世界とは対照的に、第三章では世界の現実と切りむすぶ作品が収録されている。
さからはぬもののみ佳しと聞きゐたり季節は樹々を塗り籠めに来し
魔女を焼く火のくれなゐに樹々は立ちそのただなかにわれは往かなむ
あとがきには次のように書かれている。
「人は嘘を吐くことがある、とはじめて気付いたとき、深い衝撃を受けたのを覚えています。人間がつねに真実を語ると思っていたわけではなく、むしろその反対で、ただ言葉の臣たる人間がみずからの思惑に沿って言葉を捻じ曲げうるなどとは、思ってもみなかったのです」
「言葉はその臣たる人間に似すぎていて、あまりに卑俗で、醜悪で、愚かです。人間という軛を取り去ったとき、言葉が軽やかに高々と飛翔するのであればいいのに」
『Lilith』(リリス)というタイトルを選んだのだから、先鋭な作者にちがいない。もしこの人が川柳を書いたらどんな作品が生まれるのだろう。
3月×日
短歌誌「井泉」98号が届く。リレー小論のテーマは【日常の歌を考える―コロナ禍に何をみるか】で、棚木恒寿と加藤ユウ子が書いている。引用されている短歌作品がコロナ禍の日常詠として興味深いので、ここに挙げておく。
人生のどこにもコロナというように開花日の雪降らす東京 俵万智『未来のサイズ』
あちらでは突き飛ばされた人が今マスクひと箱かかげてをりぬ 池田はるみ『亀さんゐない』
団栗をもらふリスなり届きたるマスク二枚をてのひらに乗す 栗木京子「黄色い車体」
緊急事態宣言の夜にペヤングをクローゼットの隙間に詰める 笹公人「ごはんがたけたよ」
公園にブランコは濡れ藤も濡れだれもいなくてだれもいらない 遠藤由季「マツバウンラン」
もう充分に家籠りしを更にまた東京人われら家に籠れと 奥村晃作「冬から春へ」
疫病のふちどる暮らしいつ死ぬかわからないのはいつもでしたが 山階基「せーので」
俳句の場合はどうかというと、ちょうど「俳誌五七五」(編集発行人・高橋修宏)7号の編集後記・日々余滴に次のようなコロナ禍の俳句作品が挙げられている。
コロナ隠みヰルス籠りの春愁 高橋睦郎
コロナとは鸚鵡の独り言殖えて 柿本多映
ペスト黒死病コレラは虎列刺コロナは何と 宇多喜代子
ウイルスのはびこる星よ蚊柱よ 大木あまり
吸う息に合わせ餓死風(やませ)もウイルスも 高野ムツオ
松の内どこでマスクをはずすのか 池田澄子
地球ごとマスクで覆う春の暮 渡辺誠一郎
マスク三百使い捨てたる柚風呂かな 高山れおな
これらの作品例だけで、短歌と俳句の切り口の違いをどうこう言えるものではないが、眺めているといろいろ考える材料になるかもしれない。
3月×日
岡田一実の第四句集『光聴』(素粒社)を読む。まず第一句集から第三句集までを振り返っておくことにする。
『境界‐border‐』(マルコポ.コム)より
焚火かの兎を入れて愛しめり
はくれんの中身知りたし知らんでも良し
快楽とは蜂ふるへたる花の中
『小鳥』(マルコポ.コム)より
木よ人よ漣すぎるものたちよ
ことは秘密裏に沈丁花沈丁花
小鳥遥かに星をたのしむ
『記憶における沼とその他の存在』(青磁社)より
コスモスの根を思ふとき晴れてくる
鷹は首をねぢりきつたるとき鳩に
幻聴も春の嵐も臥せて聴く
今度の第四句集は「俳句らしい俳句」だなと思った。「あとがき」には「現場の理想化前の僅かな驚きを書き留めること、些末を恐れず分明判断を超えてものを見ること、形而下の経験的認識が普遍性に近づくその瞬間を捉えること、イメージを具象的言語表現で伝えることなどは山険しけれども古い方法ではなく、現代の俳句を切り開く方法の一つになり得ると思うようになりました」とある。作者の俳句観の変化・深化があったのだろう。「私の見方」から「ものの見えたるひかり」の方へシフトしているようだ。
夜光虫波引くときの一猛り
流れくる浮輪に子ども挿してあり
先ほどの茄子とは違ふ空の色
腹黄なるを見て翡翠を見失ふ
2021年3月12日金曜日
連歌三賢と七賢の間にて(梵燈庵主)
昨日3月11日は東日本大震災から10年の節目で、新聞やテレビでもさまざまに取り上げられた。この10年間に震災の川柳はいろいろ書かれたが、『はじめまして現代川柳』に掲載されている震災句を二句挙げておく。
きかんこんなんくいきのなかの「ん」 佐藤みさ子
春を待つ鬼を 瓦礫に探さねば 墨作二郎
前者は東日本大震災、後者は阪神淡路大震災である。いろいろ書こうと思って準備もしたのだが、震災の記憶に触れることは特に当事者の方にとっては痛みを新たにすることでもあり、ひかえることにした。だから、今回は関係のないことを書いてみる。
私は連句人なので連歌にはかかわらないようにしていたが、思うところがあって、今年は連歌集・連歌論をすこしずつ読んでいる。連歌集は『菟玖波集』『新撰菟玖波集』からはじめた。『菟玖波集』を編集した二条良基、あと救済・周阿を三賢と呼ぶ。『新撰菟玖波集』『竹林抄』などに掲載されている宗砌・平賢盛・心敬・行助・専順・智蘊・能阿が連歌七賢である。
三賢と七賢との間の時期には梵燈や今川了俊がいる。梵燈(梵燈庵主)は俗名、朝山小次郎。足利義満に仕え、連歌は二条良基・周阿に学んでいる。出家後、各地を漂泊、特に東国を旅したようだ。帰洛後の彼の連歌を「さがりたり」「下手なり」とする世評があった。それに対して、彼は「連歌は座になき時こそ連歌にて侍れ」と言ったと伝えられる(心敬『ささめごと』)。コロナ禍の現在、心に響く言葉ではないか。
さて、梵燈の連歌は京を離れて漂白しているあいだに駄目になったという評は、二条良基没後に一世を風靡した周阿の風に傾いた人たちの目から見たものとも言われる。ここで、救済・周阿・梵燈の連歌を簡単に見ておこう。
おもへばいまぞかぎりなりけり
雨に散る花の夕の山おろし 救済
まず救済だが、「限りの別れ」(最後の別れ)という前句に、雨に散る飛花を付けている。雨と嵐によって最後の花となる。
罪のむくいはさもあらばあれ
月残る狩場の雪の朝ぼらけ 救済
「罪の報いはどうであっても」という付けにくい前句に、西の山の端にかかる残月と雪の朝という風景を付けている。狩は鷹狩で、前句は鷹匠の心境ということになる。前句の心に対して付句は景であり、景を付けることによって前句の心をひきたてているともいえる。表現に技巧のあとがなく、前句の述懐を鮮明に情景化している。
では周阿の連歌とはどのようなものだったか。
法に入るこそ心なりけれ
弓とりは馬の口をも引きつべし 周阿
仏法に入ることこそ誠の心なのだという前句から、法(のり)→乗り→馬の連想から、武士は主人のために馬の口をとって導かなければならない、と付けたもの。
物ごとにこゝろにかなふ時なれや
月に雲なし花にかぜなし 周阿
物事が自分の意のままにかなう時だよという前句に対して、具体的に月に雲がない様子、花が風に散らない様子を付けたもの。
このような付句が周阿の連歌で、救済以後、一世を風靡した。現代の目からは救済との違いが分かりにくいが、「意表をつく作意、趣向と機智をてらい、秀句縁語を尽した作風は救済とは対照的」(日本古典文学大系『連歌集』)などと評される。心が主か詞(言葉)が主かという議論で言えば、救済は心主詞従、周阿は詞主心従だろう。
さて、梵燈庵は周阿の句風を継ぐと言われ、けっこう批判も多い。
「燈庵主の句、前句の心をば忘れ、唯わが句のみ面白くかざりたて、前句の眼をば失へり。其比より諸人偏(ひとへ)に前の句の心をば尋ねず、ただ並べ置き侍ると見えたり」(心敬『所々返答』)
燈庵主とは梵燈庵主のこと。現代連句でも争点になることが連歌の時代から言われていることがわかる。前句に付くということと転じることのせめぎあい、連句であることと一句独立の欲求との二律背反は連俳史のなかでダイナミックに繰り返されてきた。
竹ある窓にちかき秋風
おき明す臥待月をひとり見て 梵燈
起きる・臥すの縁語を用い、一句の趣向が前面に出ている。ただ梵燈にしても、連歌の要諦は知悉していたはずで、そのことは彼の次のような言葉が示している。
「連歌の前の句は歌の題の如し。されば歌に題あり、連歌に前の句あり。歌を如何に読まんと思ふとも、題を悪しく心得つれば、僻事(ひがごと)多して歌にあらず。連歌も前の句を付べき様、不分別しては連歌にあらず」(梵燈庵主『長短抄』)
梵燈庵主は三賢と七賢の橋渡しをする存在として興味深く、次の宗祇の時代へとつながってゆく。
最後に神西清の小説『雪の宿り』の一節を紹介しておこう。主人公は連歌師で、松島アンズさんの「老虎亭通信・イキテク」27号でこの小説の存在を知ることができた。
「うっかり転害門を見過ごしそうになって、連歌師貞阿ははたと足をとめた。別にほかのことを考えていたのでもない。ただ、たそがれかけた空までも一面の雪に罩こめられているので、ちょっとこの門の見わけがつかなかったのである。入込んだ妻飾のあたりが黒々と残っているだけである。少しでも早い道をと歌姫越えをして、思わぬ深い雪に却って手間どった貞阿は、単調な長い佐保路をいそぎながら、この門をくぐろうか、くぐらずに右へ折れようかと、道々決し兼ねていたのである」
きかんこんなんくいきのなかの「ん」 佐藤みさ子
春を待つ鬼を 瓦礫に探さねば 墨作二郎
前者は東日本大震災、後者は阪神淡路大震災である。いろいろ書こうと思って準備もしたのだが、震災の記憶に触れることは特に当事者の方にとっては痛みを新たにすることでもあり、ひかえることにした。だから、今回は関係のないことを書いてみる。
私は連句人なので連歌にはかかわらないようにしていたが、思うところがあって、今年は連歌集・連歌論をすこしずつ読んでいる。連歌集は『菟玖波集』『新撰菟玖波集』からはじめた。『菟玖波集』を編集した二条良基、あと救済・周阿を三賢と呼ぶ。『新撰菟玖波集』『竹林抄』などに掲載されている宗砌・平賢盛・心敬・行助・専順・智蘊・能阿が連歌七賢である。
三賢と七賢との間の時期には梵燈や今川了俊がいる。梵燈(梵燈庵主)は俗名、朝山小次郎。足利義満に仕え、連歌は二条良基・周阿に学んでいる。出家後、各地を漂泊、特に東国を旅したようだ。帰洛後の彼の連歌を「さがりたり」「下手なり」とする世評があった。それに対して、彼は「連歌は座になき時こそ連歌にて侍れ」と言ったと伝えられる(心敬『ささめごと』)。コロナ禍の現在、心に響く言葉ではないか。
さて、梵燈の連歌は京を離れて漂白しているあいだに駄目になったという評は、二条良基没後に一世を風靡した周阿の風に傾いた人たちの目から見たものとも言われる。ここで、救済・周阿・梵燈の連歌を簡単に見ておこう。
おもへばいまぞかぎりなりけり
雨に散る花の夕の山おろし 救済
まず救済だが、「限りの別れ」(最後の別れ)という前句に、雨に散る飛花を付けている。雨と嵐によって最後の花となる。
罪のむくいはさもあらばあれ
月残る狩場の雪の朝ぼらけ 救済
「罪の報いはどうであっても」という付けにくい前句に、西の山の端にかかる残月と雪の朝という風景を付けている。狩は鷹狩で、前句は鷹匠の心境ということになる。前句の心に対して付句は景であり、景を付けることによって前句の心をひきたてているともいえる。表現に技巧のあとがなく、前句の述懐を鮮明に情景化している。
では周阿の連歌とはどのようなものだったか。
法に入るこそ心なりけれ
弓とりは馬の口をも引きつべし 周阿
仏法に入ることこそ誠の心なのだという前句から、法(のり)→乗り→馬の連想から、武士は主人のために馬の口をとって導かなければならない、と付けたもの。
物ごとにこゝろにかなふ時なれや
月に雲なし花にかぜなし 周阿
物事が自分の意のままにかなう時だよという前句に対して、具体的に月に雲がない様子、花が風に散らない様子を付けたもの。
このような付句が周阿の連歌で、救済以後、一世を風靡した。現代の目からは救済との違いが分かりにくいが、「意表をつく作意、趣向と機智をてらい、秀句縁語を尽した作風は救済とは対照的」(日本古典文学大系『連歌集』)などと評される。心が主か詞(言葉)が主かという議論で言えば、救済は心主詞従、周阿は詞主心従だろう。
さて、梵燈庵は周阿の句風を継ぐと言われ、けっこう批判も多い。
「燈庵主の句、前句の心をば忘れ、唯わが句のみ面白くかざりたて、前句の眼をば失へり。其比より諸人偏(ひとへ)に前の句の心をば尋ねず、ただ並べ置き侍ると見えたり」(心敬『所々返答』)
燈庵主とは梵燈庵主のこと。現代連句でも争点になることが連歌の時代から言われていることがわかる。前句に付くということと転じることのせめぎあい、連句であることと一句独立の欲求との二律背反は連俳史のなかでダイナミックに繰り返されてきた。
竹ある窓にちかき秋風
おき明す臥待月をひとり見て 梵燈
起きる・臥すの縁語を用い、一句の趣向が前面に出ている。ただ梵燈にしても、連歌の要諦は知悉していたはずで、そのことは彼の次のような言葉が示している。
「連歌の前の句は歌の題の如し。されば歌に題あり、連歌に前の句あり。歌を如何に読まんと思ふとも、題を悪しく心得つれば、僻事(ひがごと)多して歌にあらず。連歌も前の句を付べき様、不分別しては連歌にあらず」(梵燈庵主『長短抄』)
梵燈庵主は三賢と七賢の橋渡しをする存在として興味深く、次の宗祇の時代へとつながってゆく。
最後に神西清の小説『雪の宿り』の一節を紹介しておこう。主人公は連歌師で、松島アンズさんの「老虎亭通信・イキテク」27号でこの小説の存在を知ることができた。
「うっかり転害門を見過ごしそうになって、連歌師貞阿ははたと足をとめた。別にほかのことを考えていたのでもない。ただ、たそがれかけた空までも一面の雪に罩こめられているので、ちょっとこの門の見わけがつかなかったのである。入込んだ妻飾のあたりが黒々と残っているだけである。少しでも早い道をと歌姫越えをして、思わぬ深い雪に却って手間どった貞阿は、単調な長い佐保路をいそぎながら、この門をくぐろうか、くぐらずに右へ折れようかと、道々決し兼ねていたのである」
2021年3月5日金曜日
女性の川柳作品について(続)
瀬戸夏子の『白手紙紀行』(泥文庫)が発行された。「現代短歌」に連載されていたものが文庫サイズにまとめられていて読むのに便利である。読書日記ということだが、時評でもありアクチュアルで刺激的だ。読みながらこの数年の短詩型文学の動きを改めて思い出した。「井泉」創刊80号は2018年3月だったし、『天の川銀河発電所』発刊記念イベントで正岡豊と佐藤文香のトークを梅田蔦屋書店で聞いたのは2017年10月のことだった。印象に残る箇所はいろいろあるが、「男性は女の抒情がわからないのに、わかったふりをしていましたね」という馬場あき子の言葉がでてきて、ドキリとさせられる。
前回に続いて「女性の川柳作品」について。
時実新子が一時期、「川柳研究」の川上三太郎に投句を続けたことはよく知られている。たとえば『小説新子』では次のように書かれている。
「それから数年、新子は三太郎の胸板めがけて、句を投げつづけた。それはマスコミ川柳界に君臨する男への挑戦にちがいもなかった。
男の凡を嗤って朝の風凍る
一点をみつめておれば死ねそうな
三太郎からは一枚のハガキも来なかった。ただ○と×を入れた句稿が矢のように戻って来るだけである。新子は三太郎が入れた○と×の句を深く心に刻んだ。」
引用のうち句は二句だけで他は省略した。小説の一節だが、この部分に嘘はないだろう。ここで三太郎が育てたもうひとりの女性川柳人、福島真澄について書いておこう。
福島真澄は東北大学附属病院で闘病中、今野空白と出会い「杜人」に投句していたが、「川柳研究」「鷹」「川柳ジャーナル」などに所属して、病気の境涯をベースとしながら抽象的な傾向が強い作品を書いた。句集『指人形』から。
下着を換へ 繋がれた指紋に歩かされる 福島真澄
教科書に咲いた桜は散り給へ
見失つた蝶の抜け殻の掌を探す
人臭い雲が漂ひ飾り窓
夜空に穴あけてほら覗く誰か
窓の長さは一秒間だ 鳥の影
『指人形』の序で三太郎は次のように書いている。
「福島真澄の句ほどあたしを悩ませるものは少ない」
「彼女の十数年に亘る闘病生活は、それこそむごいものであった。それこそ身動き一つできない十数年であったからである。従って彼女は〈心〉だけで生きていくよりほかはなかった。だからそうして生きた。眼は病室の天井を見つめているだけである。だからそういう環境から出てくる句は水、魚、人間、草木―そういうものはどれもみな抽象化されている。それよりほかには見えないからである。従って水それは彼女の場合は〈水〉だけであって、川でも泉でも海でも水道でもない」
苦しい現実を直視する作品もあるが、現実が悲惨であればあるほど芸術が抽象的になることもある。真澄は窓から世界を見ていたのだろう。一秒間だけ鳥が横切ってゆく。
ここで前回も触れた三太郎の女性川柳観を振り返っておこう。
「作者は女性であるが、句は〝おんな〟ではないということである」
「句がみんな〝男〟になっているのである。そこで私はいった。『女性の句とは作者が女であるということだけではない。句が〝おんな〟でなければならぬ』と。」
そもそも三太郎の女性川柳観は新しいのか古いのか分からない。
時代は逆になるが、むしろ新興川柳期の田中五呂八のほうが進んだ見方をしていたように思う。五呂八が「ふたりの女流作家論」(昭和4年5月「氷原」40号)で井上信子と三笠しづ子を並べて論じていることも前回触れたが、新興川柳期の女性川柳に対する見方を詳しく見ておきたい。
五呂八は新興川柳(「氷原」掲載作品)の作風を大まかに「理智詩」「生命主義」ととらえたうえで、それとは異なった作風や思想と感情の流れもあるという。
「例えば本号で批評の的になった女流作家の如き、他の人達とはよほど変った情味を持ち、その詩想はいずれも、歌などの本質とは異る理智的統覚を帯びている点で、新抒情派の作家とでも呼ばれていいだろう。」
まず井上信子について作品を引用しながら作品の深化を論じている。ここでは便宜上原文にはないA~Eの記号を付けておく。
A 憂鬱をさへぎる夜も昼もなく
A 殻一重ぬぎ捨てがたき重さにて
B 星空を包んだ雪の夜の重さ
C 相遇ふたうしろ姿へかゝる霧
D またゝきの隙の瞳の深さかな
E 滝つ瀬の白さへ向いてのぼる石段
E 眼覚めける白紙へ今日のプログラム
五呂八のコメントを要約して紹介すると以下のようになる。Aでは「憂鬱」とか「重さ」など感情そのものを概念から説明してしまっているのに対して、Bは同じ「重さ」という感情説明語を用いても客観化されている。Cではすべてが具体化され対象を通じて自己の思想・感情が詩化されている。Dは感情・感覚の世界から思索の世界へ踏み込んでいて、川上日車の「深みとは何水甕に水のなき」を連想させる。Eは「永い間の苦悩と懐疑から必然に辿りついた生命の白道」であるという。
次に三笠しづ子について、井上信子とは「別天地」の存在だとしている。
A 誘惑をされ度い様な髪の出来
B ぐるりっと変な猫の眼男の眼
B 素晴らしい冗談一つ持て余し
C うす紅い丸さの中に在る二人
D 神経にぴったり触れた舌の尖き
D そっと撫でられて何にも見えない眼
Aは「人間的な媚態的な心持」の露骨な表現。Bについて作者は「男性に対する徹底的な懐疑主義者」であり、「辛辣な心理描写となって男性を愚弄する」。反対にCでは「恋愛詩人とでも言いたいほどの官能」を見せる。Dも恋の感覚に酔う恋愛詩。三笠しづ子においては恋愛対象への感情が冷え切ったときにまったく別人のような冷酷さに一変するのであり、「鋭い男性批判」「悪魔主義的なメス」と「恋愛至上的な感情の流れ」とが見られる。以上のように述べたあと、五呂八は次のようにまとめている。
「想うに、恋歌は徹底抒情主義であり、むしろ感情に溺れるのが本望であろうが、新興川柳に現れた恋愛詩は、同じ抒情詩に掉しても、よほど理智的であり、感覚的であり、時には批判的でさえある。その点から三笠氏など日本短詩壇的にも一つの椅子を持つ存在ではないかと思う」
さて、ここまで見てきた「女性川柳」について整理しておきたい。
1 女性川柳人でありながら男性の視点で作品を書く場合が以前は多かったこと。
2 そこで男性の指導者が「女の川柳」を求めたこと。
3 女性の作品を評価するのは主として男性川柳人であったこと。
4 女性の川柳作品に対する評価が「抒情」あるいは「新抒情主義」と呼ばれたこと。
荒っぽくまとめると以上のようなことになるだろう。
明治・大正・昭和前期まで「女性川柳」は男性視点で論じられてきたし、その際に男性川柳人が求めるものは「女の川柳」「恋愛」「抒情」「情念」などであった。人間の知情意のうち主として「情」に関わる部分であり、理知的な部分は副次的となる。当然そこから抜け落ちるものがあり、女性が自らの視点で女性川柳を考えるための場が要請されるのは必然だろう。
こうして登場した川柳誌が飯尾マサ子の「魚」(1978年12月創刊)である。
前回に続いて「女性の川柳作品」について。
時実新子が一時期、「川柳研究」の川上三太郎に投句を続けたことはよく知られている。たとえば『小説新子』では次のように書かれている。
「それから数年、新子は三太郎の胸板めがけて、句を投げつづけた。それはマスコミ川柳界に君臨する男への挑戦にちがいもなかった。
男の凡を嗤って朝の風凍る
一点をみつめておれば死ねそうな
三太郎からは一枚のハガキも来なかった。ただ○と×を入れた句稿が矢のように戻って来るだけである。新子は三太郎が入れた○と×の句を深く心に刻んだ。」
引用のうち句は二句だけで他は省略した。小説の一節だが、この部分に嘘はないだろう。ここで三太郎が育てたもうひとりの女性川柳人、福島真澄について書いておこう。
福島真澄は東北大学附属病院で闘病中、今野空白と出会い「杜人」に投句していたが、「川柳研究」「鷹」「川柳ジャーナル」などに所属して、病気の境涯をベースとしながら抽象的な傾向が強い作品を書いた。句集『指人形』から。
下着を換へ 繋がれた指紋に歩かされる 福島真澄
教科書に咲いた桜は散り給へ
見失つた蝶の抜け殻の掌を探す
人臭い雲が漂ひ飾り窓
夜空に穴あけてほら覗く誰か
窓の長さは一秒間だ 鳥の影
『指人形』の序で三太郎は次のように書いている。
「福島真澄の句ほどあたしを悩ませるものは少ない」
「彼女の十数年に亘る闘病生活は、それこそむごいものであった。それこそ身動き一つできない十数年であったからである。従って彼女は〈心〉だけで生きていくよりほかはなかった。だからそうして生きた。眼は病室の天井を見つめているだけである。だからそういう環境から出てくる句は水、魚、人間、草木―そういうものはどれもみな抽象化されている。それよりほかには見えないからである。従って水それは彼女の場合は〈水〉だけであって、川でも泉でも海でも水道でもない」
苦しい現実を直視する作品もあるが、現実が悲惨であればあるほど芸術が抽象的になることもある。真澄は窓から世界を見ていたのだろう。一秒間だけ鳥が横切ってゆく。
ここで前回も触れた三太郎の女性川柳観を振り返っておこう。
「作者は女性であるが、句は〝おんな〟ではないということである」
「句がみんな〝男〟になっているのである。そこで私はいった。『女性の句とは作者が女であるということだけではない。句が〝おんな〟でなければならぬ』と。」
そもそも三太郎の女性川柳観は新しいのか古いのか分からない。
時代は逆になるが、むしろ新興川柳期の田中五呂八のほうが進んだ見方をしていたように思う。五呂八が「ふたりの女流作家論」(昭和4年5月「氷原」40号)で井上信子と三笠しづ子を並べて論じていることも前回触れたが、新興川柳期の女性川柳に対する見方を詳しく見ておきたい。
五呂八は新興川柳(「氷原」掲載作品)の作風を大まかに「理智詩」「生命主義」ととらえたうえで、それとは異なった作風や思想と感情の流れもあるという。
「例えば本号で批評の的になった女流作家の如き、他の人達とはよほど変った情味を持ち、その詩想はいずれも、歌などの本質とは異る理智的統覚を帯びている点で、新抒情派の作家とでも呼ばれていいだろう。」
まず井上信子について作品を引用しながら作品の深化を論じている。ここでは便宜上原文にはないA~Eの記号を付けておく。
A 憂鬱をさへぎる夜も昼もなく
A 殻一重ぬぎ捨てがたき重さにて
B 星空を包んだ雪の夜の重さ
C 相遇ふたうしろ姿へかゝる霧
D またゝきの隙の瞳の深さかな
E 滝つ瀬の白さへ向いてのぼる石段
E 眼覚めける白紙へ今日のプログラム
五呂八のコメントを要約して紹介すると以下のようになる。Aでは「憂鬱」とか「重さ」など感情そのものを概念から説明してしまっているのに対して、Bは同じ「重さ」という感情説明語を用いても客観化されている。Cではすべてが具体化され対象を通じて自己の思想・感情が詩化されている。Dは感情・感覚の世界から思索の世界へ踏み込んでいて、川上日車の「深みとは何水甕に水のなき」を連想させる。Eは「永い間の苦悩と懐疑から必然に辿りついた生命の白道」であるという。
次に三笠しづ子について、井上信子とは「別天地」の存在だとしている。
A 誘惑をされ度い様な髪の出来
B ぐるりっと変な猫の眼男の眼
B 素晴らしい冗談一つ持て余し
C うす紅い丸さの中に在る二人
D 神経にぴったり触れた舌の尖き
D そっと撫でられて何にも見えない眼
Aは「人間的な媚態的な心持」の露骨な表現。Bについて作者は「男性に対する徹底的な懐疑主義者」であり、「辛辣な心理描写となって男性を愚弄する」。反対にCでは「恋愛詩人とでも言いたいほどの官能」を見せる。Dも恋の感覚に酔う恋愛詩。三笠しづ子においては恋愛対象への感情が冷え切ったときにまったく別人のような冷酷さに一変するのであり、「鋭い男性批判」「悪魔主義的なメス」と「恋愛至上的な感情の流れ」とが見られる。以上のように述べたあと、五呂八は次のようにまとめている。
「想うに、恋歌は徹底抒情主義であり、むしろ感情に溺れるのが本望であろうが、新興川柳に現れた恋愛詩は、同じ抒情詩に掉しても、よほど理智的であり、感覚的であり、時には批判的でさえある。その点から三笠氏など日本短詩壇的にも一つの椅子を持つ存在ではないかと思う」
さて、ここまで見てきた「女性川柳」について整理しておきたい。
1 女性川柳人でありながら男性の視点で作品を書く場合が以前は多かったこと。
2 そこで男性の指導者が「女の川柳」を求めたこと。
3 女性の作品を評価するのは主として男性川柳人であったこと。
4 女性の川柳作品に対する評価が「抒情」あるいは「新抒情主義」と呼ばれたこと。
荒っぽくまとめると以上のようなことになるだろう。
明治・大正・昭和前期まで「女性川柳」は男性視点で論じられてきたし、その際に男性川柳人が求めるものは「女の川柳」「恋愛」「抒情」「情念」などであった。人間の知情意のうち主として「情」に関わる部分であり、理知的な部分は副次的となる。当然そこから抜け落ちるものがあり、女性が自らの視点で女性川柳を考えるための場が要請されるのは必然だろう。
こうして登場した川柳誌が飯尾マサ子の「魚」(1978年12月創刊)である。