年末になった。コロナ禍で大変な一年だったが、現代川柳の動向について振り返っておきたい。以前も書いたことがあるが、戦後の現代川柳に関して私は次のような区分を考えている。
現代川柳第一世代 中村冨二・河野春三から墨作二郎・時実新子まで
現代川柳第二世代 石部明・石田柊馬から渡辺隆夫まで(1930年代~1940年代生まれ)
現代川柳第三世代 筒井祥文から清水かおりまで(1950年代~1960年代生まれ)
ポスト現代川柳世代 飯島章友・川合大祐から柳本々々・暮田真名まで(1970年以降)
今年は特に上記の第三世代の川柳人が収穫期に入り、句集や川柳本がまとめられた。
まず3月に樋口由紀子が『金曜日の川柳』(左右社)を上梓した。「拾われる自信はあった桃太郎」(田路久見子)から「独り寝のムードランプがアホらしい」(永田帆船)までの333句収録。これに樋口の鑑賞文が付く。「週刊俳句」ウラハイに毎週金曜日に連載されたものだが、現代川柳を紹介するのに果たした役割は大きい。連載は現在も続いている。
5月に広瀬ちえみの第三句集『雨曜日』(文学の森)が発行された。広瀬ちえみにはファンが多く、川柳のおもしろさを堪能させてくれる句集となっている。
うっかりと生まれてしまう雨曜日 広瀬ちえみ
10月には『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房)の刊行。35人の川柳人の作品が各76句ずつ掲載されているアンソロジーである。「サラリーマン川柳」「健康川柳」などとは別に「現代川柳」というものが書き継がれてきたことを発信する意味では、一般読者にとって「はじめまして」ということになるだろう。
第三世代の収穫期ということは、次のポスト現代川柳世代が現代川柳を牽引していくべき時期に入ったということでもある。今後さらに、川柳句集・アンソロジー・川柳評論・現代川柳史などの川柳書がまとめられていくことが望まれる。
川柳誌についても触れておこう。
「水脈」56号の巻頭で浪越靖政が「飯尾麻佐子と柳誌『魚』」を書いている。「魚」→「あんぐる」→「水脈」という川柳誌の系譜のなかで、「魚」の存在は繰り返し語られるに値する。手元にある「魚」の創刊号(1978年12月)で飯尾マサ子(この時点では「マサ子」と表記)は次のように書いている。
「現川柳界を改革しているのは女である。
これは最近の柳誌の巻頭で読んだ。これを重く受けとめたのは女性であった筈である。
戦後の川柳界へ著しい女性の進出がつづき、これについて川上三太郎師は『女性川柳という空地を開拓せよ!しかもこの開拓はわれわれ男性がいくらやろうと思ってもやれないことなのだ』
それから十余年が過ぎたのである。
男性が男のおもいをうたい、女性がおんなのおもいをうたうことは当然なことで、そのことを以て男性川柳・女性川柳と分類することには疑いがあるが、敢て女性作家が集った目的には、重大なタイトルがあるわけではないが、多少なりとも女のある意識が存在することは確かである。
現在女性川柳の大半が、男性の側によって、評価されている。」
現在の時点からみて、ここに書かれていることには様々な問題性があると思われるが、いま詳しく考えている余裕はない。ただ、飯尾には女性川柳人が置かれている状況と課題がよく見えていたのだと思う。浪越の文章に引用されている飯尾の言葉を読んでいくと、彼女がやろうとしていたことの先駆性が理解できる。
「川柳杜人」268号が届いた。1年前から予告されていたことではあるが、これが終刊号になる。73年の歴史に終止符がうたれるが、惜しまれつつ終刊するのは川柳誌のひとつのあり方だろう。
みんな捨ててしまった言葉は空へ 加藤久子
模様替えしている時をあっ雪虫 広瀬ちえみ
ざわざわとひそひそひそと裁断す 佐藤みさ子
関西では高槻川柳会「卯の花」が終会となった。12月句会の会報153号によると、コロナ禍で今後の見通しが立たないなかで、句会の継続を断念したという。
交野市で開催されていた「川柳交差点」も来年1月の句会で幕を閉じるとそうだ。
川柳句会にはさまざまなタイプがあるが、「卯の花」や「交差点」は結社の句会よりも少し自由で誰でも参加できる句会として人気を集めた。呼び方が適切かどうかは分からないが、結社句会でもなく、実験的な句会でもない、中間的な句会として参加者を集めた。それが終わるというのは、やはり時代が変わってゆくのだろう。
榊原紘(歌人)・暮田真名(川柳人)・斉藤志歩(俳人)の三人で何か始めるというのをツイッターで読んだのが11月下旬。それが12月に入って、ネットプリント「砕氷船」が発行され、すでに第二号まで出ている。このスピード感は若い世代ならではのことだ。「砕氷船」第二号では暮田が俳句を、榊原が川柳を、斉藤が短歌をというように、ジャンルをチェンジして作品を詠んでいる。
冬麗それなら鰐を飼うといい 暮田真名
ネロの火を逃れてハチ公前で会う 榊原紘
レジでもらうチューインガムはレジで噛む明日の服は今日用意する 斉藤志歩
あとネットプリント「ウマとヒマワリ」11号から、平岡直子の川柳。
登山には宛名を書いて返してね 平岡直子
終ってゆくものもあれば始まってゆくものもある。これも流転する世界の姿だろう。2021年に向かって胎動はすでにはじまっている。
2020年12月23日水曜日
田中雅秀句集『再来年の約束』
私は田中雅子とは連句人として交流があるが、彼女は俳人としては田中雅秀(たなかまさほ)の名で金子兜太に師事し、「海程」に所属。現在は「海原」同人である。このたび第一句集『再来年の約束』(ふらんす堂)が上梓された。
再来年の約束だなんて雨蛙 田中雅秀
句集の中には文語の句もあるが、おおむね口語作品である。句集のタイトルになっている句だが、連句人の癖として私は勝手に次のような付合いに変換してしまいたくなる。
再来年の約束だなんて言わないで
葉の裏側で待つ雨蛙
句集を読んでいると、けっこう私性の強い句が多いという気がした。
ほうほたる弱い私を覚えてて
桐の花本音はいつまでも言えず
私ではない私の日常鉄線花
ブロッケン現象私の影に棘がある
クローバー私の秘密隠される
「物」そのものを詠むというよりは、「私」そのものがモチーフとなっている。もう一つのキーワードは「秘密」である。生活者の「私」が隠している「秘密」は表現者として言葉を発するモチベーションとなる。彼女がよく使う言葉でいえば「妄想」である。
わあ虹!と伝えたいのにひとりきり
タイミングが合わない回転ドアと夏
君と会う理由を探す春の果
麦の秋青いザリガニ胸に飼い
冬の虹くぐる・くぐれぬ・くぐりたし
軽やかさのなかにふっとかすめる孤独感。現実とのかすかな違和感。だれにでもあるそういう瞬間を雅秀は言いとめている。
猪は去り人は耕す花冷えに 金子兜太
猪の去りたちまち迷子なりわれは 田中雅秀
前者は田中が会津に移住したときに兜太が彼女に贈った句であり、後者は本書に収められている追悼句である。
田中は会津に移住したあと、猪苗代兼載の顕彰に取りくんだ。猪苗代兼載は連歌七賢のひとりで、猪苗代湖畔の小平潟(こびらがた)の生まれ。京都の北野天満宮の連歌所の宗匠をつとめた。『新撰菟玖波集』から兼載の付句を紹介する。
うづみ火きえてふくる夜の床
人はこでほたるばかりの影もうし (巻十 恋下)
2009年は兼載五百年忌に当たり、小平潟天神社において記念祭が挙行された。その後も田中の呼びかけで「兼載忌」が開催された。
雪虫の話を仮設の少女とす
冬木立フクシマの月串刺しに
東日本大震災のあと、フクシマの浜通りから会津に移住してくる人もいた。田中は教員の仕事をしているので、そういう子どもたちと直接接していたのだろう。句集の第二章には現実と向き合った作品が収録されている。
会津には白鳥が飛来するようだし、これからは雪の季節になるだろう。田中雅秀の軽やかな妄想はこれからどんな言葉になって飛翔してゆくのだろうか。
冬の虹あしたは犀を見に行こう 田中雅秀
再来年の約束だなんて雨蛙 田中雅秀
句集の中には文語の句もあるが、おおむね口語作品である。句集のタイトルになっている句だが、連句人の癖として私は勝手に次のような付合いに変換してしまいたくなる。
再来年の約束だなんて言わないで
葉の裏側で待つ雨蛙
句集を読んでいると、けっこう私性の強い句が多いという気がした。
ほうほたる弱い私を覚えてて
桐の花本音はいつまでも言えず
私ではない私の日常鉄線花
ブロッケン現象私の影に棘がある
クローバー私の秘密隠される
「物」そのものを詠むというよりは、「私」そのものがモチーフとなっている。もう一つのキーワードは「秘密」である。生活者の「私」が隠している「秘密」は表現者として言葉を発するモチベーションとなる。彼女がよく使う言葉でいえば「妄想」である。
わあ虹!と伝えたいのにひとりきり
タイミングが合わない回転ドアと夏
君と会う理由を探す春の果
麦の秋青いザリガニ胸に飼い
冬の虹くぐる・くぐれぬ・くぐりたし
軽やかさのなかにふっとかすめる孤独感。現実とのかすかな違和感。だれにでもあるそういう瞬間を雅秀は言いとめている。
猪は去り人は耕す花冷えに 金子兜太
猪の去りたちまち迷子なりわれは 田中雅秀
前者は田中が会津に移住したときに兜太が彼女に贈った句であり、後者は本書に収められている追悼句である。
田中は会津に移住したあと、猪苗代兼載の顕彰に取りくんだ。猪苗代兼載は連歌七賢のひとりで、猪苗代湖畔の小平潟(こびらがた)の生まれ。京都の北野天満宮の連歌所の宗匠をつとめた。『新撰菟玖波集』から兼載の付句を紹介する。
うづみ火きえてふくる夜の床
人はこでほたるばかりの影もうし (巻十 恋下)
2009年は兼載五百年忌に当たり、小平潟天神社において記念祭が挙行された。その後も田中の呼びかけで「兼載忌」が開催された。
雪虫の話を仮設の少女とす
冬木立フクシマの月串刺しに
東日本大震災のあと、フクシマの浜通りから会津に移住してくる人もいた。田中は教員の仕事をしているので、そういう子どもたちと直接接していたのだろう。句集の第二章には現実と向き合った作品が収録されている。
会津には白鳥が飛来するようだし、これからは雪の季節になるだろう。田中雅秀の軽やかな妄想はこれからどんな言葉になって飛翔してゆくのだろうか。
冬の虹あしたは犀を見に行こう 田中雅秀
2020年12月11日金曜日
いわさき楊子『川柳人が楽しむエモい漱石俳句』
飯塚書店といえば、田口麦彦の川柳書を多く出している出版社である。
『川柳表現辞典』『現代川柳入門』『川柳技法入門』『時事川柳入門』などの辞典・入門書をはじめ、『穴埋め川柳練習帳』『地球を読む』などの読みやすい本、写真と川柳のコラボによる『フォト川柳への誘い』『アート川柳への誘い』、オリンピックを視野に入れた『スポーツ川柳』など、田口の本がカバーする川柳領域は広範囲に及んでいる。
いわさき楊子著『川柳人が楽しむエモい漱石俳句』がこのほど飯島書店から刊行された。いわさきは熊本在住の川柳人。前掲の『スポーツ川柳』の巻頭には
マラソンのソのあたりから離される いわさき楊子
が掲載されている。いわさき楊子がなんで漱石本を出したの?と最初は思ったが、本書のポイントはふたつ、「川柳人が楽しむ」と「熊本」である。
松山時代の漱石については私も比較的知識がある。毎年4月末の祝日に子規記念館で「俵口全国連句大会」が開催され、2017年から2019年まで3年続けて出席した。2017年は子規生誕150年に当たり、漱石と子規は同年の生まれだから、俵口連句大会では子規、漱石の句を発句とする脇起し歌仙の募集があった。漱石の句は発句に用いてもおもしろい句が多い。そのときの受賞作品の中から紹介する。
衣更へて京より嫁を貰ひけり 夏目漱石
古への香に焚ける蒼朮 木村ふう
町医者を目指し毎日励むらん 赤坂恒子
漱石の「京より嫁を」の句は熊本時代、鏡子を妻に迎えたときのもので、漱石ドラマではこのときのシーンがよく取り上げられる。いわさきの本ではこんなふうに解説されている。
「漱石は29歳の6月9日、熊本市光琳寺町の家で結婚しました」「衣更へと結婚は意外な取り合わせですが清々しさが腑に落ちます。結婚の喜びと将来への希望に満ちています」
本書によると、この光琳寺の家は現存せず、「今は繁華街の一角となったビルの壁に、『すゞしさや裏は鉦うつ光琳寺』の句と漱石の住まいがあったことが記されています」ということだ。
漱石の小説では『草枕』『二百十日』などが熊本時代の体験をもとにしている。まず『草枕』の小天温泉。
温泉や水滑かに去年の垢 漱石(小天温泉那古井館前庭)
『二百十日』の阿蘇山への旅。阿蘇谷への入り口にある戸下(とした)温泉。
温泉湧く谷の底より初嵐
『二百十日』で私が好きなのは、穴に落ちて上がれなくなった圭さんが上にいる碌さんに言う会話。
「それじゃ、君はこの穴の縁を伝って歩行(ある)くさ。僕は穴の下をあるくから、そうしたら、上下で話が出来るからいいだろう」
本書には私が今までよく知らなかった熊本時代の漱石のことが具体的に書かれていて興味深い。
次に本書のもうひとつの視点である「川柳」について。ところどころに「ミニ知識」の欄があって、川柳について触れている。
〈 川柳には俳句と違って、ことばの取り合わせの妙だけではなく、「どうだ」とまっすぐ迫る詠みかたがあります。季語らしきものが入っていてもあくまで生の人間が主体です。
カンナ燃ゆ生命保険解約す
O型の大男ジョッキまで飲む
朱の栿紗パシと捌いて鬼女となる 〉
句は筆者・いわさき楊子の川柳。
ついでに書き留めておくと、岩波書店の漱石全集第十七巻(新版の方・1996年)には俳句・詩歌が収録されていて、俳句の注解を坪内稔典が書いている。同書には「連句」「俳体詩」も収録されている。連句は虚子・四方太・漱石の三吟で、連句人のあいだではよく知られている。俳体詩「尼」は虚子・漱石の両吟で、虚子が一時期、俳体詩という新形式を試みていたのはおもしろいことだ。
いわさきの本に戻ると、「漱石は熊本の赤酒を飲んだか」「日奈久に行ったかどうかはわからない」などのトピックスも掲載されている。漱石俳句を読みながら川柳のことにも触れているので、楽しめる本となっている。
最後に筆者の作品を巻末の〈筆者川柳・俳句一覧〉から抜き出しておく。
姿見の前で丹頂鶴になる いわさき楊子
「う」から「あ」へぽつりぽつりと梅開く
プテラノドン自由をもってしまったね
背骨から煮くずれやすい回遊魚
六列にならぶ蟻ならば 怖い
『川柳表現辞典』『現代川柳入門』『川柳技法入門』『時事川柳入門』などの辞典・入門書をはじめ、『穴埋め川柳練習帳』『地球を読む』などの読みやすい本、写真と川柳のコラボによる『フォト川柳への誘い』『アート川柳への誘い』、オリンピックを視野に入れた『スポーツ川柳』など、田口の本がカバーする川柳領域は広範囲に及んでいる。
いわさき楊子著『川柳人が楽しむエモい漱石俳句』がこのほど飯島書店から刊行された。いわさきは熊本在住の川柳人。前掲の『スポーツ川柳』の巻頭には
マラソンのソのあたりから離される いわさき楊子
が掲載されている。いわさき楊子がなんで漱石本を出したの?と最初は思ったが、本書のポイントはふたつ、「川柳人が楽しむ」と「熊本」である。
松山時代の漱石については私も比較的知識がある。毎年4月末の祝日に子規記念館で「俵口全国連句大会」が開催され、2017年から2019年まで3年続けて出席した。2017年は子規生誕150年に当たり、漱石と子規は同年の生まれだから、俵口連句大会では子規、漱石の句を発句とする脇起し歌仙の募集があった。漱石の句は発句に用いてもおもしろい句が多い。そのときの受賞作品の中から紹介する。
衣更へて京より嫁を貰ひけり 夏目漱石
古への香に焚ける蒼朮 木村ふう
町医者を目指し毎日励むらん 赤坂恒子
漱石の「京より嫁を」の句は熊本時代、鏡子を妻に迎えたときのもので、漱石ドラマではこのときのシーンがよく取り上げられる。いわさきの本ではこんなふうに解説されている。
「漱石は29歳の6月9日、熊本市光琳寺町の家で結婚しました」「衣更へと結婚は意外な取り合わせですが清々しさが腑に落ちます。結婚の喜びと将来への希望に満ちています」
本書によると、この光琳寺の家は現存せず、「今は繁華街の一角となったビルの壁に、『すゞしさや裏は鉦うつ光琳寺』の句と漱石の住まいがあったことが記されています」ということだ。
漱石の小説では『草枕』『二百十日』などが熊本時代の体験をもとにしている。まず『草枕』の小天温泉。
温泉や水滑かに去年の垢 漱石(小天温泉那古井館前庭)
『二百十日』の阿蘇山への旅。阿蘇谷への入り口にある戸下(とした)温泉。
温泉湧く谷の底より初嵐
『二百十日』で私が好きなのは、穴に落ちて上がれなくなった圭さんが上にいる碌さんに言う会話。
「それじゃ、君はこの穴の縁を伝って歩行(ある)くさ。僕は穴の下をあるくから、そうしたら、上下で話が出来るからいいだろう」
本書には私が今までよく知らなかった熊本時代の漱石のことが具体的に書かれていて興味深い。
次に本書のもうひとつの視点である「川柳」について。ところどころに「ミニ知識」の欄があって、川柳について触れている。
〈 川柳には俳句と違って、ことばの取り合わせの妙だけではなく、「どうだ」とまっすぐ迫る詠みかたがあります。季語らしきものが入っていてもあくまで生の人間が主体です。
カンナ燃ゆ生命保険解約す
O型の大男ジョッキまで飲む
朱の栿紗パシと捌いて鬼女となる 〉
句は筆者・いわさき楊子の川柳。
ついでに書き留めておくと、岩波書店の漱石全集第十七巻(新版の方・1996年)には俳句・詩歌が収録されていて、俳句の注解を坪内稔典が書いている。同書には「連句」「俳体詩」も収録されている。連句は虚子・四方太・漱石の三吟で、連句人のあいだではよく知られている。俳体詩「尼」は虚子・漱石の両吟で、虚子が一時期、俳体詩という新形式を試みていたのはおもしろいことだ。
いわさきの本に戻ると、「漱石は熊本の赤酒を飲んだか」「日奈久に行ったかどうかはわからない」などのトピックスも掲載されている。漱石俳句を読みながら川柳のことにも触れているので、楽しめる本となっている。
最後に筆者の作品を巻末の〈筆者川柳・俳句一覧〉から抜き出しておく。
姿見の前で丹頂鶴になる いわさき楊子
「う」から「あ」へぽつりぽつりと梅開く
プテラノドン自由をもってしまったね
背骨から煮くずれやすい回遊魚
六列にならぶ蟻ならば 怖い
2020年12月6日日曜日
素粒社の二冊の本(鴇田智哉・小津夜景)
湯川秀樹のエッセイに「知魚楽」というのがある。一時期、高校の教科書にも掲載されていたので、よく知られていることと思う。
荘子と恵子が川のほとりを散歩していた。
荘子「魚がのびのびと泳いでいる。これこそ魚の楽しみだ」
恵子「君は魚ではない。どうして魚の楽しみが分かるのか」
荘子「君は僕ではない。どうして僕が魚の楽しみを分かっていないと分かるのか」
恵子「僕は君ではない。だから君のことは分からない。君は魚ではない。だから君には魚のことが分からない」
荘子「僕は川のほとりで魚の楽しみが分かったのだ」
この話を紹介したあと、湯川は素粒子の話につなげている。
さて、素粒子にちなむのかどうかわからないが、今年の7月に「素粒社」という出版社が立ち上げられた。
「オルガン」23号に素粒社設立に祝意を表して巻かれたオン座六句が掲載されている。出版などを記念しての連句興行は連句の世界ではよくあることだ。
すゝきからすこし出てゐるからだかな 北野抜け芝
雲払はれし素顔たる月 福田若之
大皿にうつるラベルのなめらかに 宮本佳世乃
テープ起しの声のさゝめく 鴇田智哉
空気より冷たい鳥の樹を祝ふ 田島健一
発句の北野抜け芝が素粒社を設立した北野太一で、彼は浅沼璞に学んだ連句人としても知られている。引用部分は全体に祝意に満ちたもので、発句と脇は編集者として先へ進もうとすることへの挨拶のやり取りとも読める。
素粒社からは新刊が立て続けに出ているが、鴇田智哉の句集『エレメンツ』から読んでみたい。『こゑふたつ』『凧と円柱』に続く第三句集である。たとえばこんな句がある。
手の書きし言葉に封をする手かな 鴇田智哉
太陽が蠅の生れてからもある
なぜこういう句を書くのだろう。
手が書いた手紙を手で封をする。蠅が生まれたあとも太陽は存在している。考えてみれば当たり前のことだが、それをあえて言葉にすることによって立ち上がってくるものがある。「手」というものの存在、太陽と蠅の無関係的な関係。
かなかなといふ菱形のつらなれり
風船を結びつけて木の衰ふる
すみれ目のひとたちが自転車で来る
秋の蚊つかめば前を見てをりぬ
蓑虫を自分の鼻のやうに見る
かなかなは蜩だが、この蝉が菱形だと言っている。菱形と言えばいえるかも知れないが、この句をじっと見ていると、俳句の切れ字のことのようにも思えてくる。
木が衰えたのは風船を結びつけたからなのか。別の原因があったのではないか。
「すみれ目のひと」ってどんな人だろう。しかも、自転車に乗っている。
秋の蚊が前を見ているなんて虚構にちがいない。
蓑虫に対しては自分の身体の一部のような視線で見ている。
写生というより言葉によって世界を構築している句だろう。
作者はいつからこのような句を書くようになったのだろう。気になったので、今までの句集を取りだしてみた。
こゑふたつ同じこゑなる竹の秋 (『こゑふたつ』)
人参を並べておけば分かるなり (『凧と円柱』)
ふたつの声が同じだという。それに「竹の秋」という春の季語を取り合わせている。
人参の句は何が分かるのかが省略されているが、それは読者の読みに任せる書き方である。
一句目は季語の力が強すぎるし、二句目は川柳でもよくやる省略の効いた書き方。川柳人の私にはあまり関係がないと思っていたが、今度の第三句集は分かりにくい部分も含めて興味深かった。川柳は世界を批評的な目で眺めるが、物に即しつつ言葉によって世界を構築するやり方がおもしろいと思った。
もう一冊、小津夜景『いつかたこぶねになる日』は前著『かもめの日の読書』に続いて漢詩について書いている。
たこぶねとは?
蛸のなかで分泌物を出して貝殻のようなものを作る種があるらしい。
リンドバーグ夫人の『海からの贈り物』にも出てきて、本書にも引用されている。確か須賀敦子がリンドバーグ夫人のこの本を絶賛していたと記憶している。
たこぶねのことから江戸時代の女流詩人・原采蘋の話になって、彼女が故郷の筑前から江戸へ旅立つときの漢詩が紹介されている。采蘋二十七歳。ここでは現代語訳の方で引用。
夜あけに起き 父母に礼をして
新年 郷里を出発する
門の前では手ずから植えた柳が
ひときわ別れを惜しんでゆれる
中村真一郎の『頼山陽とその時代』では「女弟子たち」の章で平田玉蘊、江馬細香の次に三番目に簡単に紹介されている采蘋だが、ここでは彼女の姿が生き生きと立ち上がってくる。
次の章では李賀の「苦昼短」(昼が短すぎる)が登場。「飛光よ、飛光よ、汝に一杯の酒を勧めん」ではじまる詩である。詩人で連句人でもある鈴木漠も李賀のファンだが、彼の連句集のなかに『飛光抄』(編集工房ノア)がある。横道にそれるが、中国・蘇州での発句で巻かれた歌仙「黄砂」の冒頭部分を紹介しておこう。
天と地の交合(まぐは)ひて降る黄砂かな 永田圭介
鯤といふ名の魚の日永さ 鈴木漠
山葵擂り蕩児孤独に手酌して 梅村光明
『たこぶね』に話を戻すと、杜甫の「槐の葉のひやむぎ」の説明に青木正児の『華国風味』を引用したり、アイザック・ウォルトンの『釣魚大全』が出てきたり、散りばめられている書物が本好きの人間にとってはたまらなく魅力的だ。文学の楽しみ、読書の楽しみを満喫させてくれて嬉しい。
冒頭の「知魚楽」のエピソード。荘子の言葉をもう少し詳しく書いておく。
荘子「君は『君にどうして魚の楽しみが分かるのか』と言ったが、それはすでに僕が魚の楽しみを知っていることを知って私に訊いたのだ。僕は川のほとりで魚の楽しみが分かったのだ」
恵子が形式論理学者なのに対して荘子は斉物論者である。
荘子と恵子が川のほとりを散歩していた。
荘子「魚がのびのびと泳いでいる。これこそ魚の楽しみだ」
恵子「君は魚ではない。どうして魚の楽しみが分かるのか」
荘子「君は僕ではない。どうして僕が魚の楽しみを分かっていないと分かるのか」
恵子「僕は君ではない。だから君のことは分からない。君は魚ではない。だから君には魚のことが分からない」
荘子「僕は川のほとりで魚の楽しみが分かったのだ」
この話を紹介したあと、湯川は素粒子の話につなげている。
さて、素粒子にちなむのかどうかわからないが、今年の7月に「素粒社」という出版社が立ち上げられた。
「オルガン」23号に素粒社設立に祝意を表して巻かれたオン座六句が掲載されている。出版などを記念しての連句興行は連句の世界ではよくあることだ。
すゝきからすこし出てゐるからだかな 北野抜け芝
雲払はれし素顔たる月 福田若之
大皿にうつるラベルのなめらかに 宮本佳世乃
テープ起しの声のさゝめく 鴇田智哉
空気より冷たい鳥の樹を祝ふ 田島健一
発句の北野抜け芝が素粒社を設立した北野太一で、彼は浅沼璞に学んだ連句人としても知られている。引用部分は全体に祝意に満ちたもので、発句と脇は編集者として先へ進もうとすることへの挨拶のやり取りとも読める。
素粒社からは新刊が立て続けに出ているが、鴇田智哉の句集『エレメンツ』から読んでみたい。『こゑふたつ』『凧と円柱』に続く第三句集である。たとえばこんな句がある。
手の書きし言葉に封をする手かな 鴇田智哉
太陽が蠅の生れてからもある
なぜこういう句を書くのだろう。
手が書いた手紙を手で封をする。蠅が生まれたあとも太陽は存在している。考えてみれば当たり前のことだが、それをあえて言葉にすることによって立ち上がってくるものがある。「手」というものの存在、太陽と蠅の無関係的な関係。
かなかなといふ菱形のつらなれり
風船を結びつけて木の衰ふる
すみれ目のひとたちが自転車で来る
秋の蚊つかめば前を見てをりぬ
蓑虫を自分の鼻のやうに見る
かなかなは蜩だが、この蝉が菱形だと言っている。菱形と言えばいえるかも知れないが、この句をじっと見ていると、俳句の切れ字のことのようにも思えてくる。
木が衰えたのは風船を結びつけたからなのか。別の原因があったのではないか。
「すみれ目のひと」ってどんな人だろう。しかも、自転車に乗っている。
秋の蚊が前を見ているなんて虚構にちがいない。
蓑虫に対しては自分の身体の一部のような視線で見ている。
写生というより言葉によって世界を構築している句だろう。
作者はいつからこのような句を書くようになったのだろう。気になったので、今までの句集を取りだしてみた。
こゑふたつ同じこゑなる竹の秋 (『こゑふたつ』)
人参を並べておけば分かるなり (『凧と円柱』)
ふたつの声が同じだという。それに「竹の秋」という春の季語を取り合わせている。
人参の句は何が分かるのかが省略されているが、それは読者の読みに任せる書き方である。
一句目は季語の力が強すぎるし、二句目は川柳でもよくやる省略の効いた書き方。川柳人の私にはあまり関係がないと思っていたが、今度の第三句集は分かりにくい部分も含めて興味深かった。川柳は世界を批評的な目で眺めるが、物に即しつつ言葉によって世界を構築するやり方がおもしろいと思った。
もう一冊、小津夜景『いつかたこぶねになる日』は前著『かもめの日の読書』に続いて漢詩について書いている。
たこぶねとは?
蛸のなかで分泌物を出して貝殻のようなものを作る種があるらしい。
リンドバーグ夫人の『海からの贈り物』にも出てきて、本書にも引用されている。確か須賀敦子がリンドバーグ夫人のこの本を絶賛していたと記憶している。
たこぶねのことから江戸時代の女流詩人・原采蘋の話になって、彼女が故郷の筑前から江戸へ旅立つときの漢詩が紹介されている。采蘋二十七歳。ここでは現代語訳の方で引用。
夜あけに起き 父母に礼をして
新年 郷里を出発する
門の前では手ずから植えた柳が
ひときわ別れを惜しんでゆれる
中村真一郎の『頼山陽とその時代』では「女弟子たち」の章で平田玉蘊、江馬細香の次に三番目に簡単に紹介されている采蘋だが、ここでは彼女の姿が生き生きと立ち上がってくる。
次の章では李賀の「苦昼短」(昼が短すぎる)が登場。「飛光よ、飛光よ、汝に一杯の酒を勧めん」ではじまる詩である。詩人で連句人でもある鈴木漠も李賀のファンだが、彼の連句集のなかに『飛光抄』(編集工房ノア)がある。横道にそれるが、中国・蘇州での発句で巻かれた歌仙「黄砂」の冒頭部分を紹介しておこう。
天と地の交合(まぐは)ひて降る黄砂かな 永田圭介
鯤といふ名の魚の日永さ 鈴木漠
山葵擂り蕩児孤独に手酌して 梅村光明
『たこぶね』に話を戻すと、杜甫の「槐の葉のひやむぎ」の説明に青木正児の『華国風味』を引用したり、アイザック・ウォルトンの『釣魚大全』が出てきたり、散りばめられている書物が本好きの人間にとってはたまらなく魅力的だ。文学の楽しみ、読書の楽しみを満喫させてくれて嬉しい。
冒頭の「知魚楽」のエピソード。荘子の言葉をもう少し詳しく書いておく。
荘子「君は『君にどうして魚の楽しみが分かるのか』と言ったが、それはすでに僕が魚の楽しみを知っていることを知って私に訊いたのだ。僕は川のほとりで魚の楽しみが分かったのだ」
恵子が形式論理学者なのに対して荘子は斉物論者である。