俳誌「オルガン」15号が届いた。
メンバー5人の作品のほか、小津夜景と北野太一の対談「翻訳と制約 〈漢詩〉の型とその可能性を旅する」、連句作品・オン座六句「原っぱ」の巻、浅沼璞の書簡、座談会〈続・「わからない」って何ですか〉など読みどころが満載である。
まず同人作品から。
虫の声とさうざうのブースカランド 宮﨑莉々香
鯖雲のかさぶたを剝ぎ狭くなる 宮本佳世乃
順番にさはってこれは檸檬の木 宮本佳世乃
囮すこやか契約にない景色 田島健一
ほどよく毛ほどよく蟋蟀の気配 田島健一
うつむくと滝の向うの音がする 鴇田智哉
電話にて言はる「木槿の目になれよ」 鴇田智哉
松虫の骸は紙を折るに似る 福田若之
宮﨑の作品は「想像のブースカランド」というタイトルの連作。ブースカランドはすでに閉園されているし、想像のというから実際に遊園地へ行った吟行作品とは違うのだろう。連作の場合は一句の屹立感が弱くなるから、独立した句としての印象が薄くなるのは否めない。
宮本の句、「鯖雲」という天象と「かさぶた」という身体がオーバーラップする。かさぶたを剝ぐと空の隙間が広くなるのではないかと意味を考えだすと理に落ちてしまう。
田島の句は言葉と言葉のつなげ方が一部の川柳人と通じるところがあって、「オルガン」のメンバーの中では一番私の感覚に合う作者である。
鴇田の句の「 」の使い方は連句の付句にもときどき見られるが、ここではどんな文脈での会話なのかが謎である。伏せられている部分、省略されている部分が読者の読みを刺激する。
福田の句は発句的というよりも平句的な感じのするものが多かったが、動詞で結んでいる句を選んでみた。
このところ、「オルガン」には毎号連句作品が掲載されているが、今号では福田若之句集『自生地』が第六回与謝蕪村賞新人賞を受賞したのを祝って連句興行が行われている。出版や受賞を記念して連句が巻かれることは、連句界ではよくあることだ。練衆には同人のほかに青本瑞季・青本柚紀・西原紫衣花・大塚凱が参加している。捌きは浅沼璞、指合見は北野抜け芝(北野太一)。
浅沼璞はレンキスト(連句人)として現代連句の牽引者のひとりだ。西鶴の研究者としても著名。私は浅沼の最初の著書『可能性としての連句』(ワイズ出版)以来の読者だが、浅沼の著書を通じて学んだキー・ワードは高柳重信の「連句への潜在的意欲」と攝津幸彦の「静かな談林」の二つである。
高柳重信は「俳句形式における前衛と正統」(『現代俳句の軌跡』所収)で、正岡子規が連句の脇句以下の付句と絶縁して独立した一句を目指したことについて、「それは、もはや連句の発句が独立したというよりも、まったく新しい詩型の誕生を告げわたっていた」と述べて、こんなふうに書いている。
「それにしても、連句にかかわる一切を断念するということは、新しい俳句形式に賭ける当然の決意であろうが、また一度、常に自在でありたい一個の詩人の立場からすれば、みずから手を縛ってしまうに等しい行為でもあった。だから、断念は断念として、やはり昔日の俳人たちに許されていたように、七七の短句や、発句ではない自由な五七五などを書いてみたいという潜在的な意欲が、そう簡単に眠ってしまうことはなかった。たとえば、自由律の俳人たちが盛んに試みた短律や、新興俳句運動の渦中での連作俳句や無季俳句の実践などは、おそらく、そういう潜在的な意欲が、おのずから噴出して来たものと思うことも出来よう」
もうひとつ、攝津幸彦の「静かな談林」は次のような発言である。
「以前は自分の生理に見合ったことばを強引に押し込めれば、別段、意味がとれなくてもいいんだという感じがあったけれど、この頃は最低限、意味はとれなくてはだめだと思うようになりました。そのためにはある程度、自分の型を決めることも必要でしょうね。高邁で濃厚なチャカシ、つまり静かな談林といったところを狙っているんです」(「狙っているのは現代の静かな談林」1994年12月「太陽」特集/百人一句、『俳句幻景』所収)
さて、浅沼璞は「オルガン」15号の柳本々々に宛てた書簡でチェーホフについて触れている。チェーホフと「軽み」について、浅沼はすでに『中層連句宣言』で論じているが、出発点となったのは佐々木基一の『私のチェーホフ』に収められている「軽みについて」という文章である。佐々木基一は連句人としては「大魚」の号で知られ、連句作品も残っている。
ここで私が思い出すのは、浅沼璞が以前捌いた連句の付句で、それはこんなふうになっていた。
機関車の底まで月明か 馬盥 赤尾兜子
路地裏に金魚泳がせる秋 浅沼璞
ずしりと重い中身をはかる封筒 鈴木喜久
「垂直的なやり方ですな」 イワン・ペトローヴィチ
いずれも「脇起自由律オン座六句『馬盥』」(浅沼璞捌、「江古田文学」第38号)から。前者は発句と脇、後者は第二連の五句目と六句目である。脇句は赤尾兜子の発句に攝津幸彦の「路地裏を夜汽車と思ふ金魚かな」を引用しながら付けたもの。第二連六句目は、チェーホフの短編『イオーヌイチ』からの引用となっている。
連句を連句自体から説明することは重要だが、そこからは特別なにも新しいことは生まれない。連句以外のジャンルに連句的な要素を探り、現代文化全体に通底する用語を用いて語ることによって、連句の存在を顕在化させて浮かび上がらせることができる。浅沼が自らを連句人ではなくレンキストと名乗り、カットアップやリミックスといった音楽用語(椹木野衣の『シミュレーショニズム』に早い使用がある)を用いて連句を説明するのには戦略的な意味があるだろう。
「オルガン」15号に話を戻せば、小津夜景と北野太一の対談では漢詩の翻訳について語られているが、小津の『カモメの日の読書』には王安石の集句など、漢詩におけるカットアップやリミックスといった連句的手法にも言及があるのだ。
連句的なものは文芸の世界に潜在的に存在する。浅沼の批評は今回の書簡におけるチェーホフのように、それを顕在化させて私たちに気づかせるものとなっている。連句をすれば俳句が下手になるなどと見当違いなことを言っている場合ではないのだ。
2018年11月23日金曜日
2018年11月18日日曜日
高田寄生木の軌跡
「おかじょうき」の掲示板によると、11月3日、青森の川柳人・高田寄生木(たかだ・やどりぎ)が逝去した。1933年6月生まれだから享年85歳。またひとり現代川柳の中核を担った川柳人がいなくなった。
私は2003年から川柳誌「双眸」(発行・野沢省悟)に投句していた時期があって、「風塵抄」の欄で寄生木の選を受けていたので、直接会ったことはないが、敬意をもっていた。
寄生木については、野沢省悟が書いた「北辺の大樹」(「凜」52号、「触光」31号)が詳しい。
寄生木は青森県むつ市川内町に在住。川柳をはじめたのは1960年のこと、1965年に川内川柳会の句会報「かわうち」を創刊した。1971年から「かもしか」と改称し、社名も「かもしか川柳会」となる。
1983年、Z氏(杉野草兵)の援助でZ賞が創設される。選者に橘高薫風・時実新子・岸本吟一・寺尾俊平・尾藤三柳・泉淳夫・奥室数市・片柳哲郎・山村祐・杉野草兵を迎え、全国的な川柳賞となった。第一回受賞者は細川不凍、以後、酒谷愛郷、古谷恭一、西山茶花、海地大破、桑野晶子、金山英子、長町一吠、西条真紀、加藤久子が受賞した。第11回以降は杉野草兵が単独でZ賞を続けた。
「かもしか」では「かもしか川柳文庫」を発行していて、Z賞受賞者の句集も含まれる。いま私の手元にあるのは、海地大破句集『満月の夜』、古谷恭一句集『枕木』、加藤久子句集『矩形の沼』などである。今でこそ川柳句集の出版が盛んになったが、Z賞受賞者に「かもしか川柳文庫」から句集を出してくれるというのは貴重な機会だっただろう。
板の間を匐ってくるのは母の髪 古谷恭一
箸を作らんと一本の樹を削る 海地大破
ばらの首畳の上の等高線 加藤久子
さて、寄生木の句集には『父の旗』『砂時計』『しもきたのかぜ』『夜の駱駝』があるが、東奥文芸叢書の一冊として刊行された『北の炎(ほむら)』(2014年)がよく読まれていることと思う。『北の炎』は「父の旗」「夜の駱駝」「北の炎」の三章から成り、「父の旗」「夜の駱駝」は既刊の句集から再録されている。句集『夜の駱駝』(1990年、あおもり選書4)にもそれ以前の句集作品が収録されているので、紹介してゆこう。
第一句集『父の旗』(1960年代の作品)より。
山頂に風あり人を信じます
しもきたのからす だあれもしんじない
相反することが書かれている二句だが、矛盾しているわけではなく、どちらも真実である。川柳では同一のことを別の角度から詠んでみせる場合がしばしば見られる。
第二句集『砂時計』(1970年代の作品)より。
砂時計 一滴の血を売りました
充血の目玉をてのひらにのせる
雪のんのんかすかにゆれる千羽鶴
つかまえた鴉は白くなるばかり
蟹歩き疲れてマンホールに墜ちる
しもきたのさる にんげんのかおにくむ
しもきたのゆきに うもれるはかのむれ
しもきたのうみ げんせんのかげをのむ
「しもきたの」ではじまるひらかな表記の作品を寄生木は書いていて、未見だが『しもきたのかぜ』はひらかな作品ばかりを集めた豆本ということだ。
『夜の駱駝』(1980年代)より。
ペンにぎる背に百鬼の深い爪
ひそやかに蝶のいのちをつつみこむ
鱗一枚 冬が近づく窓に干す
一本の樹の上にある競輪場
ゆきにうもれて ゆびおることばかり
あやとりをしている もんしろちょうのかぜ
『北の炎』(2000年~2013年)より。
コーヒーカップ溺死をせんとしてる自我
悪筆の小史と握手して帰る
吹雪する街まぼろしの馬の鈴
感謝するこっころの失せた虫と会う
一角獣の電話を聞いている午睡
とおいひのはしのむこうのさくらそう
おりづるのいきたえだえのかぞえうた
野沢省悟は寄生木の顕彰につとめていて、川柳誌「触光」でも寄生木のことを何度も取り上げているだけでなく、「高田寄生木賞」を創設している。この賞は2011年の第1回から作品賞だったが、2017年の第7回からは「川柳に関する論文・エッセイ」を対象とするようになった。
高田寄生木の川柳活動には青森の風土や地方性を感じるが、同時に川柳の世界全体を展望する視野があった。川柳では「県内」「県外」という言い方がされることがあり、県内で自閉する方向性と県外へと広がってゆく方向性とがある。寄生木はその二つのベクトルを兼ね備えた川柳人だったのだろう。彼の軌跡をたどってみると、Z賞の創設や「かもしか川柳文庫」の発行など、寄生木には単に自分の作品を書くだけではなくて、川柳発信のために取り組む先駆性があった。できることは行っていかなければならないと改めて思う。
私は2003年から川柳誌「双眸」(発行・野沢省悟)に投句していた時期があって、「風塵抄」の欄で寄生木の選を受けていたので、直接会ったことはないが、敬意をもっていた。
寄生木については、野沢省悟が書いた「北辺の大樹」(「凜」52号、「触光」31号)が詳しい。
寄生木は青森県むつ市川内町に在住。川柳をはじめたのは1960年のこと、1965年に川内川柳会の句会報「かわうち」を創刊した。1971年から「かもしか」と改称し、社名も「かもしか川柳会」となる。
1983年、Z氏(杉野草兵)の援助でZ賞が創設される。選者に橘高薫風・時実新子・岸本吟一・寺尾俊平・尾藤三柳・泉淳夫・奥室数市・片柳哲郎・山村祐・杉野草兵を迎え、全国的な川柳賞となった。第一回受賞者は細川不凍、以後、酒谷愛郷、古谷恭一、西山茶花、海地大破、桑野晶子、金山英子、長町一吠、西条真紀、加藤久子が受賞した。第11回以降は杉野草兵が単独でZ賞を続けた。
「かもしか」では「かもしか川柳文庫」を発行していて、Z賞受賞者の句集も含まれる。いま私の手元にあるのは、海地大破句集『満月の夜』、古谷恭一句集『枕木』、加藤久子句集『矩形の沼』などである。今でこそ川柳句集の出版が盛んになったが、Z賞受賞者に「かもしか川柳文庫」から句集を出してくれるというのは貴重な機会だっただろう。
板の間を匐ってくるのは母の髪 古谷恭一
箸を作らんと一本の樹を削る 海地大破
ばらの首畳の上の等高線 加藤久子
さて、寄生木の句集には『父の旗』『砂時計』『しもきたのかぜ』『夜の駱駝』があるが、東奥文芸叢書の一冊として刊行された『北の炎(ほむら)』(2014年)がよく読まれていることと思う。『北の炎』は「父の旗」「夜の駱駝」「北の炎」の三章から成り、「父の旗」「夜の駱駝」は既刊の句集から再録されている。句集『夜の駱駝』(1990年、あおもり選書4)にもそれ以前の句集作品が収録されているので、紹介してゆこう。
第一句集『父の旗』(1960年代の作品)より。
山頂に風あり人を信じます
しもきたのからす だあれもしんじない
相反することが書かれている二句だが、矛盾しているわけではなく、どちらも真実である。川柳では同一のことを別の角度から詠んでみせる場合がしばしば見られる。
第二句集『砂時計』(1970年代の作品)より。
砂時計 一滴の血を売りました
充血の目玉をてのひらにのせる
雪のんのんかすかにゆれる千羽鶴
つかまえた鴉は白くなるばかり
蟹歩き疲れてマンホールに墜ちる
しもきたのさる にんげんのかおにくむ
しもきたのゆきに うもれるはかのむれ
しもきたのうみ げんせんのかげをのむ
「しもきたの」ではじまるひらかな表記の作品を寄生木は書いていて、未見だが『しもきたのかぜ』はひらかな作品ばかりを集めた豆本ということだ。
『夜の駱駝』(1980年代)より。
ペンにぎる背に百鬼の深い爪
ひそやかに蝶のいのちをつつみこむ
鱗一枚 冬が近づく窓に干す
一本の樹の上にある競輪場
ゆきにうもれて ゆびおることばかり
あやとりをしている もんしろちょうのかぜ
『北の炎』(2000年~2013年)より。
コーヒーカップ溺死をせんとしてる自我
悪筆の小史と握手して帰る
吹雪する街まぼろしの馬の鈴
感謝するこっころの失せた虫と会う
一角獣の電話を聞いている午睡
とおいひのはしのむこうのさくらそう
おりづるのいきたえだえのかぞえうた
野沢省悟は寄生木の顕彰につとめていて、川柳誌「触光」でも寄生木のことを何度も取り上げているだけでなく、「高田寄生木賞」を創設している。この賞は2011年の第1回から作品賞だったが、2017年の第7回からは「川柳に関する論文・エッセイ」を対象とするようになった。
高田寄生木の川柳活動には青森の風土や地方性を感じるが、同時に川柳の世界全体を展望する視野があった。川柳では「県内」「県外」という言い方がされることがあり、県内で自閉する方向性と県外へと広がってゆく方向性とがある。寄生木はその二つのベクトルを兼ね備えた川柳人だったのだろう。彼の軌跡をたどってみると、Z賞の創設や「かもしか川柳文庫」の発行など、寄生木には単に自分の作品を書くだけではなくて、川柳発信のために取り組む先駆性があった。できることは行っていかなければならないと改めて思う。
2018年11月9日金曜日
京都川柳大会のことなど
11月3日、「2018きょうと川柳大会」に参加した。
この大会には一昨年から参加しているから、今度で三回目である。
事前投句の選者が竹内ゆみこ・平井美智子・小池正博・井上一筒の四人。
当日の選者は雨森喜昭・岩田多佳子・前中知栄・峯裕見子・新家完司。
私が事前投句の秀句にとったのは次の句。
きんつばの硬い四隅は方丈記 くんじろう
丸いきんつばもあるらしいが、硬い四隅というのだから四角いきんつばである。それが方丈記の四畳半の建物に変ってゆく。イメージの変容である。「AはB」という文体は川柳の基本構造である問答体。ふつう問答体では答えの部分に意味性があるが、この句では意味ではなくて四角のイメージから方丈記に飛躍している。川柳では食べ物が素材としてよく使われるが、方丈記といえば無常観。きんつばを食べながら無常観にまで至るというのは相当なものだと思った。
この大会は入選句を得点化して高得点の作者を表彰するというやり方をとっている。最高得点を獲得したのが森田律子で、来年の事前投句の選者に決定した。
ムギワラトンボ名誉顧問の背に止まる 森田律子
竜骨突起におたあさまの歯形
当日、峯裕見子と話す機会があった。彼女とは一時期、点鐘散歩会でいっしょになることがあったが、最近は会うこともまれになった。
峯裕見子の作品がまとまって掲載されているものとして、「川柳木馬」86号(平成12年秋)を取り出して読み直してみた。
牛乳と新聞止めてから逃げる 峯裕見子
私の脚を見ている男を見ている
猫の仇討ち金目銀目を従えて
そうさなあ手向けてもらうならあざみ
夕顔の種だと言って握らせる
そばかすが好きだと言ったではないか
わかれきて晩三吉が膝の上
菊菊菊桐桐桐とうすわらい
作家論を石部明と矢島玖美子が書いている。
さて、現在に戻って、「川柳木馬」(2018年秋号)を開いてみる。
巻頭言を清水かおりが書いている。清水は社会詠・時事句の高い山として渡部可奈子の「水俣図」と渡辺隆夫の作品を挙げている。あと、会員作品から紹介する。
花粉症王のくしゃみはピンク色 西川富恵
ありていに言えば二人は他人です
麦秋黙して君は中二病 畑山弘
桃缶とスタッカートで生きてゆく 岡林裕子
頬杖のままで千年 桜守 古谷恭一
まどろめば魚の貌につい還る 萩原良子
動線を隠して皇帝ひまわり 清水かおり
せいしょくきまっすぐな青の干物です 大野美恵
SPってスペシャルポテトなのかな? 山下和代
ルーターで私語する夜だ油断するな 小野善江
丸山進が書いている「木馬座句評」はさすがに的確に作品をとらえたものになっている。
「きょうと川柳大会」の際に、嶋澤喜八郎氏から句集をいただいた。「川柳作家ベストコレクション」(新葉館)の一冊である。
春の星を指揮する 嶋澤喜八郎
通り過ぎたら椿が落ちた
蛍かご大の闇提げていく
救急車蝶が先導してくれた
吐く息の白さで勝負しませんか
鳥になるチャンスだ誰も見ていない
一本の線が薄目を開けている
心臓をあげたら肝臓くれました
時を経て崩れるものは美しい
残照を浴びる単なる物として
嶋澤に自由律作品があることを知った。
嶋澤が毎月発行している「川柳交差点」11月号から。
露草の青ほど冷静になれぬ 山本早苗
八窓の茶室物静かに月が 小林満寿夫
雷はあれでけっこう淋しがり 嶋澤喜八郎
インチで考える落人伝説 森田律子
千切られた釦 証言台に立つ 笠嶋恵美子
私は句会否定論者ではないが、今の川柳句会がそのまま良いとも思っていない。句会・大会のなかで消費され消えていく大量の句のなかから、文芸として読むことのできる作品をどう掬い出していくのか、その方途が探られなければならない。
この大会には一昨年から参加しているから、今度で三回目である。
事前投句の選者が竹内ゆみこ・平井美智子・小池正博・井上一筒の四人。
当日の選者は雨森喜昭・岩田多佳子・前中知栄・峯裕見子・新家完司。
私が事前投句の秀句にとったのは次の句。
きんつばの硬い四隅は方丈記 くんじろう
丸いきんつばもあるらしいが、硬い四隅というのだから四角いきんつばである。それが方丈記の四畳半の建物に変ってゆく。イメージの変容である。「AはB」という文体は川柳の基本構造である問答体。ふつう問答体では答えの部分に意味性があるが、この句では意味ではなくて四角のイメージから方丈記に飛躍している。川柳では食べ物が素材としてよく使われるが、方丈記といえば無常観。きんつばを食べながら無常観にまで至るというのは相当なものだと思った。
この大会は入選句を得点化して高得点の作者を表彰するというやり方をとっている。最高得点を獲得したのが森田律子で、来年の事前投句の選者に決定した。
ムギワラトンボ名誉顧問の背に止まる 森田律子
竜骨突起におたあさまの歯形
当日、峯裕見子と話す機会があった。彼女とは一時期、点鐘散歩会でいっしょになることがあったが、最近は会うこともまれになった。
峯裕見子の作品がまとまって掲載されているものとして、「川柳木馬」86号(平成12年秋)を取り出して読み直してみた。
牛乳と新聞止めてから逃げる 峯裕見子
私の脚を見ている男を見ている
猫の仇討ち金目銀目を従えて
そうさなあ手向けてもらうならあざみ
夕顔の種だと言って握らせる
そばかすが好きだと言ったではないか
わかれきて晩三吉が膝の上
菊菊菊桐桐桐とうすわらい
作家論を石部明と矢島玖美子が書いている。
さて、現在に戻って、「川柳木馬」(2018年秋号)を開いてみる。
巻頭言を清水かおりが書いている。清水は社会詠・時事句の高い山として渡部可奈子の「水俣図」と渡辺隆夫の作品を挙げている。あと、会員作品から紹介する。
花粉症王のくしゃみはピンク色 西川富恵
ありていに言えば二人は他人です
麦秋黙して君は中二病 畑山弘
桃缶とスタッカートで生きてゆく 岡林裕子
頬杖のままで千年 桜守 古谷恭一
まどろめば魚の貌につい還る 萩原良子
動線を隠して皇帝ひまわり 清水かおり
せいしょくきまっすぐな青の干物です 大野美恵
SPってスペシャルポテトなのかな? 山下和代
ルーターで私語する夜だ油断するな 小野善江
丸山進が書いている「木馬座句評」はさすがに的確に作品をとらえたものになっている。
「きょうと川柳大会」の際に、嶋澤喜八郎氏から句集をいただいた。「川柳作家ベストコレクション」(新葉館)の一冊である。
春の星を指揮する 嶋澤喜八郎
通り過ぎたら椿が落ちた
蛍かご大の闇提げていく
救急車蝶が先導してくれた
吐く息の白さで勝負しませんか
鳥になるチャンスだ誰も見ていない
一本の線が薄目を開けている
心臓をあげたら肝臓くれました
時を経て崩れるものは美しい
残照を浴びる単なる物として
嶋澤に自由律作品があることを知った。
嶋澤が毎月発行している「川柳交差点」11月号から。
露草の青ほど冷静になれぬ 山本早苗
八窓の茶室物静かに月が 小林満寿夫
雷はあれでけっこう淋しがり 嶋澤喜八郎
インチで考える落人伝説 森田律子
千切られた釦 証言台に立つ 笠嶋恵美子
私は句会否定論者ではないが、今の川柳句会がそのまま良いとも思っていない。句会・大会のなかで消費され消えていく大量の句のなかから、文芸として読むことのできる作品をどう掬い出していくのか、その方途が探られなければならない。
2018年11月2日金曜日
石部明を語り継ぐ
石部明が亡くなったのは2012年10月27日のことだから、すでに没後6年になる。
石部に直接会ったことのない川柳人が増えてきた現在、石部明を読み継ぎ、語り継ぐことがますます重要になっている。
「川柳カード」2号(2013年3月)は石部明の追悼号だった。そこには石部の経歴が次のように書かれている。
1939年(昭和14)、岡山県和気郡生まれ。1974年、川柳を始める。1979年、「川柳展望」会員。1987年「火の木賞」受賞、「川柳塾」会員。1989年「おかやまの風6」に参加。1992年、川柳Z賞大賞受賞。1996年「ふあうすと賞」。1998年「MANO」創刊同人。2003年「バックストローク」創刊、発行人としてシンポジウムを伴う大会を各地で開催する。2011年「バックストローク」終刊後は「BSfield」誌を発行。その作品において、日常の裏側にある異界はエロスと死を契機として顕在化され、心理の現実が華やぎのある陰翳感でとらえられる。川柳の伝統の批判的継承者として現代川柳の一翼を担う。句集に『賑やかな箱』『遊魔系』『セレクション柳人・石部明集』。共著『現代川柳の精鋭たち』。
このプロフィールの文責は私にあるが、「川柳の伝統の批判的継承者」という位置づけは間違いないものと思っている。
石部の没後、八上桐子の提案で2015年から石部明についてのフリーペーパー「THANATOS」を出すことになった。年一回9月発行で、1/4(1号)が2015年、2/4(2号)が2016年、3/4(3号)が2017年、そして最終の4/4(4号)が2018年9月に発行された。発行はknot(小池正博・八上桐子)、デザインは宮沢青。
毎回50句掲載で、資料収集は八上と私で分担した。たとえば1号では「ますかっと」掲載作品を私が調べ、「川柳展望」掲載作品を八上が調べたうえで、50句を抽出している。雑誌の初出を調べてゆくと、繰り返し使われる石部のキイ・イメージが分かったり、雑誌掲載作品と句集掲載作品との違いに気づいたりして、いろいろな発見があった。あと、私が担当したのは800字の石部論が毎回二本で、石部作品の分析と石部を中心とした川柳環境をたどることにつとめた。その中からいくつか抜粋してみよう。
〈石部明とはどのような人物だろうか。私のイメージをひとことで言うと「帰ってきた男」である。どこかへ行って帰ってくる。彼はどこで何を見てきたかを直接は語らないが、今いる世界が唯一の現実ではないことを知っている〉(1/4)
〈石部明はどのようにして石部明になったのか。
どれほど才能のある人でも、資質だけでは作品を書けないから、環境からの刺激を受けることが創作の契機となる。そういう意味で、石部明の初期の作品を読むときに私が以前から気になっていたのは「こめの木グループ」のことである〉(1/4)
〈「おかやまの風・6」は1988年10月30日、長町一吠『岨道』・西条真紀『赤い錠剤』・前原勝郎『未明の音』・徳永操『或る終章』・石部明『賑やかな箱』・前田一石『てのひらの刻』という六句集の刊行を記念して岡山メルパで開催された。このとき石部は「川柳に大嘘を書いてみたい」と発言している〉(2/4)
〈病涯句というものがある。人は病をえたときに死を凝視したり、知友の死によって痛切に死を意識したりするが、石部の句はそういうものではない。川柳ジャンルのなかに「死」の視点を持ち込み、死という別世界から生を照射することによって句を書くのは石部の発明だった。だから石部の作品においては、個人の死の具体的な姿ではなくて、「死」そのものが主題となるのである〉(2/4)
〈川柳人はどのようにして自ら納得できる一句にたどりつくのだろうか。
『遊魔系』は完成された句集である。個々の句が完成されているだけでなく、エロスとタナトスと詩が三位一体となった世界を一冊の句集として提示している。ここには石部の愛用するキイ・イメージが繰り返し用いられているが、一句の背後には捨てられたおびただしい句案が存在する。石部は自らの表象を執拗に追い求めるタイプの表現者なのだ〉(3/4)
〈現代川柳がひとつのムーブメントになるためには、個々の川柳人の活動だけではなくて、塊として川柳が認知される必要がある。倉本朝世『硝子を運ぶ』(1997年)、樋口由紀子『容顔』(1999年)なかはられいこ『脱衣場のアリス』(2001年)などに続いて発行された『遊魔系』(2002年2月)はそれ自体が現代川柳の大きなうねりを作りだすことになった〉(3/4)
〈「バックストローク」は2003年1月創刊。創刊同人34名。石部は巻頭言「形式の自由を求めて」で田中五呂八の『新興川柳論』に触れ、川柳革新に挺身した先人たちに思いをはせている。「私たちは川柳を刷新する」「川柳という形式を揺さぶるのが私たちの命題」という〉(4/4)
〈『セレクション柳人3・石部明集』の巻頭に「馬の胴体」14句が掲載されている。『遊魔系』以後の境地を示す力のこもった作品群である。作品は不特定多数の読者に届けられるものだが、このとき彼はひとりの読者を想定していた。石田柊馬である〉(4/4)
この4冊で私としては石部明を論じ尽くしたつもりだったが、読み直してみると不充分なところも多い。石部明については更にさまざまな視点から読み解くことが必要だろう。
私たちはすでに石部明以後の川柳を歩みはじめているが、石部作品を読み継ぎ、語り継ぐことによって現代川柳史は豊かなものになるはずだ。
「TANATOS」3号・4号はまだ残部があるので、ご希望の方は大会・句会などの機会に声をおかけいただきたい。
石部に直接会ったことのない川柳人が増えてきた現在、石部明を読み継ぎ、語り継ぐことがますます重要になっている。
「川柳カード」2号(2013年3月)は石部明の追悼号だった。そこには石部の経歴が次のように書かれている。
1939年(昭和14)、岡山県和気郡生まれ。1974年、川柳を始める。1979年、「川柳展望」会員。1987年「火の木賞」受賞、「川柳塾」会員。1989年「おかやまの風6」に参加。1992年、川柳Z賞大賞受賞。1996年「ふあうすと賞」。1998年「MANO」創刊同人。2003年「バックストローク」創刊、発行人としてシンポジウムを伴う大会を各地で開催する。2011年「バックストローク」終刊後は「BSfield」誌を発行。その作品において、日常の裏側にある異界はエロスと死を契機として顕在化され、心理の現実が華やぎのある陰翳感でとらえられる。川柳の伝統の批判的継承者として現代川柳の一翼を担う。句集に『賑やかな箱』『遊魔系』『セレクション柳人・石部明集』。共著『現代川柳の精鋭たち』。
このプロフィールの文責は私にあるが、「川柳の伝統の批判的継承者」という位置づけは間違いないものと思っている。
石部の没後、八上桐子の提案で2015年から石部明についてのフリーペーパー「THANATOS」を出すことになった。年一回9月発行で、1/4(1号)が2015年、2/4(2号)が2016年、3/4(3号)が2017年、そして最終の4/4(4号)が2018年9月に発行された。発行はknot(小池正博・八上桐子)、デザインは宮沢青。
毎回50句掲載で、資料収集は八上と私で分担した。たとえば1号では「ますかっと」掲載作品を私が調べ、「川柳展望」掲載作品を八上が調べたうえで、50句を抽出している。雑誌の初出を調べてゆくと、繰り返し使われる石部のキイ・イメージが分かったり、雑誌掲載作品と句集掲載作品との違いに気づいたりして、いろいろな発見があった。あと、私が担当したのは800字の石部論が毎回二本で、石部作品の分析と石部を中心とした川柳環境をたどることにつとめた。その中からいくつか抜粋してみよう。
〈石部明とはどのような人物だろうか。私のイメージをひとことで言うと「帰ってきた男」である。どこかへ行って帰ってくる。彼はどこで何を見てきたかを直接は語らないが、今いる世界が唯一の現実ではないことを知っている〉(1/4)
〈石部明はどのようにして石部明になったのか。
どれほど才能のある人でも、資質だけでは作品を書けないから、環境からの刺激を受けることが創作の契機となる。そういう意味で、石部明の初期の作品を読むときに私が以前から気になっていたのは「こめの木グループ」のことである〉(1/4)
〈「おかやまの風・6」は1988年10月30日、長町一吠『岨道』・西条真紀『赤い錠剤』・前原勝郎『未明の音』・徳永操『或る終章』・石部明『賑やかな箱』・前田一石『てのひらの刻』という六句集の刊行を記念して岡山メルパで開催された。このとき石部は「川柳に大嘘を書いてみたい」と発言している〉(2/4)
〈病涯句というものがある。人は病をえたときに死を凝視したり、知友の死によって痛切に死を意識したりするが、石部の句はそういうものではない。川柳ジャンルのなかに「死」の視点を持ち込み、死という別世界から生を照射することによって句を書くのは石部の発明だった。だから石部の作品においては、個人の死の具体的な姿ではなくて、「死」そのものが主題となるのである〉(2/4)
〈川柳人はどのようにして自ら納得できる一句にたどりつくのだろうか。
『遊魔系』は完成された句集である。個々の句が完成されているだけでなく、エロスとタナトスと詩が三位一体となった世界を一冊の句集として提示している。ここには石部の愛用するキイ・イメージが繰り返し用いられているが、一句の背後には捨てられたおびただしい句案が存在する。石部は自らの表象を執拗に追い求めるタイプの表現者なのだ〉(3/4)
〈現代川柳がひとつのムーブメントになるためには、個々の川柳人の活動だけではなくて、塊として川柳が認知される必要がある。倉本朝世『硝子を運ぶ』(1997年)、樋口由紀子『容顔』(1999年)なかはられいこ『脱衣場のアリス』(2001年)などに続いて発行された『遊魔系』(2002年2月)はそれ自体が現代川柳の大きなうねりを作りだすことになった〉(3/4)
〈「バックストローク」は2003年1月創刊。創刊同人34名。石部は巻頭言「形式の自由を求めて」で田中五呂八の『新興川柳論』に触れ、川柳革新に挺身した先人たちに思いをはせている。「私たちは川柳を刷新する」「川柳という形式を揺さぶるのが私たちの命題」という〉(4/4)
〈『セレクション柳人3・石部明集』の巻頭に「馬の胴体」14句が掲載されている。『遊魔系』以後の境地を示す力のこもった作品群である。作品は不特定多数の読者に届けられるものだが、このとき彼はひとりの読者を想定していた。石田柊馬である〉(4/4)
この4冊で私としては石部明を論じ尽くしたつもりだったが、読み直してみると不充分なところも多い。石部明については更にさまざまな視点から読み解くことが必要だろう。
私たちはすでに石部明以後の川柳を歩みはじめているが、石部作品を読み継ぎ、語り継ぐことによって現代川柳史は豊かなものになるはずだ。
「TANATOS」3号・4号はまだ残部があるので、ご希望の方は大会・句会などの機会に声をおかけいただきたい。